8、血塗れの邂逅

 少年は頬を膨らませて不機嫌さを示していた。
 教会の聖堂と言う厳粛な場には不似合いな表情だったが、彼の眼前にはそれ以上に場にそぐわない惨状が広がっている。
 折り重なる無数の惨殺死体。
 無作為に散らばる血や肉や臓物や髄液がそれの周囲に鮮烈なアクセントを添えている。
 全ての死体には、大口径の銃器による風穴が穿たれていたが、脳や心臓などの急所には損傷が全くなかった。
 少年には、それが誰の手によるものなのか、すでに分かっていた。
 そして犯人がわざと急所を外した事も。
「天使じゃない人は殺さないって言ったじゃないか〜!」
 少年は地獄絵図から眼を反らし、振り返る。
 そこには、腕をべっとりと返り血で濡らした長身の男がいた。黒スーツに黒コート、果 ては黒革手袋まではめている。
 男は灰色の髪を掻きながら、目尻を微かに下げた。
「……コウ、お前、何で付いて来てんだよ。オトナの時間だって言ったろ?」
 睨む少年と大して程度の変わらない事を言いながら、男はわざとらしく息を吐き出す。
 コウと呼ばれた少年は、更に頬を膨らませて腕を組んだ。
「ミカド兄ぃ、ほっといたらすぐに皆殺しにしちゃうんだもん。ボクやだよ、普通の人が死んじゃうのって」
 一見まともな事を言っているが、大量の惨殺死体を前にした六歳の子供の言葉としては、どこか妙である。
 黒衣の男は、投げやりな動作で死体の山を示しながら、言った。
「こいつら俺が《ビジター》だってわかると速攻で銃をブッ放してくるんだぜ? 正当防衛だっての」
「それくらいガマンしてよ、オトナなんだから」
 思わず肩を落としそうになった。
「……お前知ってるか? 撃たれたら凄ぇ痛ぇんだぞ?」
 コウは、バカにするなと言わんばかりにふんぞりかえる。
「知ってるよ、そんな事。痛いのをガマンしてよって言ってるの。ミカド兄ぃはちょっと撃たれたくらいですぐに怒って皆殺しにしちゃってさ。ボク、そういうのよくないと思うんだ」
 ミカド兄ぃと呼ばれた男は、少年の微妙に狂った倫理観に頭を抱えたくなったが、口に出しては何も言わなかった。
 黒衣の男は血に塗れていない方の手を伸ばし、コウの癖っ気のある髪をグシグシと掻き回す。
「ま……なんでもいいけどよ、こんな夜更けに外をほっつき歩くのはやめれ。て言うかガキはもう寝る時間だ」
 先刻殺害した老人に対してよりは、柔らかな口調。
 しかしすぐにロングコートを翻して歩き去って行った。
 ……散乱する人体であった物を蹴散らしながら。
 『ミカド兄ぃ』の挙動に、コウは「むぅ〜」と腹を立てる。
 だが、黒ずくめの長身が見えなくなると、
「…………」
 慌てて後を追い始めた。
 

「何故だ?」
 法衣の青年が、慌てた様子も無く尋ねてきた。
 拳の爆発に巻き込まれた自分が、未だに二足で立って睨み付けていられる事が不思議なのだろう。
 腹が立つほど冷静なのは相変わらずだ。
「そんな事、わざわざ答えなきゃいけないわけ?」
 腹いせに嘲笑を返してやるレイナ。
 肋骨が砕けて、泣きたいくらい痛いけれど、今はこれが精一杯の虚勢だ。それに、わざわざ手の内を明かす事もないだろう。
 ハマエルは腰を落とした。構えを取り、異音を奏でる。
「違いないな。これから救いを受ける汝には、如何なる義務も存在しない」
 その言葉に、レイナはますます剣呑な雰囲気を滲ませる。
「それは、とっても嬉しいわねっ――!」
 声は後ろに流れた。
 全身の筋肉が爆発的に収縮し、一瞬にして間合いが消失。天使の顎に掌底が打ち込まれた。
 骨格が砕ける、鈍い感触。
 仰け反った顔の奥で、青年の瞳が細められた。
 急速に増大する嫌悪感。
 レイナは視線だけを横へ向ける。
 ――既に、ハマエルの拳は振り上げられていた。
 必死に脳内で心象を結ぶ。
 直後に、ハマエルの拳が爆ぜる衝撃を生み出した。
 体が声にならない悲鳴を上げる。
 体が勝手に、吹き飛んでいく。
 全身にかかる爆圧が加速度的に強まり、全身の骨格が圧搾され――しかし、一瞬後に衝撃は嘘のように霧散した。
 よろめきそうになる体をやっと両足で支える。はずみで、忘れていた脚の銃痕が熱く疼いた。
 荒く息をつく。
 目の前には、ダスターコートを羽織った十代後半の少年が佇んでいた。
 正確には、少年の形をしたレイナの心象投影が。
「それは?」
 何気ない口調でハマエルは聞いた。
「《衝撃反響構造体》。あなたも知っているんでしょう?」
 少年は輪郭を不安定に揺らめかせながら、レイナを背後に庇うように立ちはだかる。
「《ビジター》の力は、心の動きが現象として変換された物。能力者の胸中に強くこびりついた記憶が、術の形態として現れたとしても不思議はないと思わない?」
 黄道十二宮天使は、どこか勝ち気な雰囲気を纏う少年を穏やかな眼で眺めると、口を開いた。
「この少年は汝にとって、大切な思い出の一部……なのか」
 赤髪の女は薄く微笑み、眼を閉じた。
 瞼に浮かぶ心象は、少年の顔。
 笑った泣いた怒った照れた……顔。
「……無鉄砲な、奴だった」
 涙は流さない。彼の為の涙は、既に枯れ果てている。
 止められなかったのは、戦慄く口元だけだ。
 ハマエルは、それについて深く聞くような事はしなかった。
 代わりに、さき程までと比べても穏やかな口調で言う。
「苦しむ事はない。悲しむ事もない。ただ、救済を受け入れればよい」
 その態度には、ビジネススーツの男にない、気遣いのようなものが感じられた。
「やさしいのね……」
 その時、レイナに漂う雰囲気ががらりと変わった。
「……って言いたい所だけど――!」
 悲哀を噛み殺し、強い意志が滲み出る。
「まだ、そんな気にはなれない!」
 戦意を含有する言葉。
 少年の姿をした幻が、ぼやける腕を突き出した。
「撃って!」
 レイナの簡潔な命令。
 呼応するように、幻影の全身が輝き始めた。高い熱量を思わせる白熱光だ。
 《衝撃反響構造体》は、青年が撃ち放った爆発の熱エネルギーや運動エネルギーを吸収・保存し、たった今放出しようとしている。
 幻影を覆い尽くす光条は突き出された腕へ集まった。甲高い収束音が耳朶を打つ。
 直後、轟音。
 衝撃と熱が盛大に発散された。
 圧迫された空気が周囲を吹き付け、両者の髪や衣服を翻弄する。
 眩く巨大な光球の形をとりながら、白熱波は突貫を開始した。
「やはり、そちらの道を選ぶか……!」
 叫ぶと、ハマエルは腰を落とし、構える。
 爆音。
 一撃目で光球の速度が緩まり、
 爆音。
 二撃目で輝きが弱まり、
 爆音。
 三撃目で球体は完全に爆散した。
「……無駄だ」
 しかし、ハマエルの注意が光球に向かっている間に、レイナは天高く跳躍していた。体を丸めて縦旋回を始める。
「どうだか!」
 天使が弾かれたように顔を上げたが、何らかのアクションを起こせる時間的余裕はなかった。
 そこへ、亜音速の踵落としが襲い掛かる。
 鎖骨が叩き折れる感触。
 ハマエルは苦痛を咆哮で吹き飛ばし、肩口に食い込んだ魔性の脚部を右腕で強引に固定した。もう片方の腕は、耳障りな異音を発しながら彼の後方に引き付けられている。
 耳障りな、異音。
 レイナの躯を冷たい恐怖が駆け抜けた。
「くっ……!」
 レイナは拳を天使の顔面に突き出すが、不安定な体勢からの一撃は明らかに威力が足りない。
 青年は一瞬、眼を細めた。
 そして、強大な破壊力がレイナを粉砕する刹那――
「よう、面白そうなコトやってんじゃねェか!」
 楽しげに弾む声が両者の動きを一瞬押しとどめる。
 すぐ後に巨大な銃声。
「な……っ!!」
 銃弾は、狙いすましたように――事実狙いすましたのだろうが――ハマエルの手首を貫通 し、あさっての方向へ弾き飛ばす。
 法衣姿がグラリと揺れた。
 レイナはこの隙に脚の拘束を引き剥がし、着地。すぐに弾丸が飛んで来た方を見る。
「ク、ク、ハ! 昨日のジジィよりは楽しませてくれそうだなァ!?」
 そこにいたのは、妙な哄笑を上げる黒衣の青年だった。
 異様に銃底の分厚い拳銃を片手で構えていた。
 その喜悦に歪む口元から、シェァ……、と呼気が漏れた。


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