9、怒りではなく、狂気でもなく

 白い硬質の高層建築の屋上で、一人の少年が下界を見下ろしていた。
 白い頭髪が微風に揺れ、紅い瞳は揺らぐ事なく下方を見据えている。
「戦況は、絶望的」
 誰に言うとも無く――強いて言うなら自分に向けて――呟く。
 あどけなく幼く、妙に老獪な声色。
 告死天使サマエル。
 それが彼の識別コード。製造される数年前から決まっていた、彼の名前だ。
 先天性白皮症の少年を素体として製造された彼は、生まれながらにして魔性と闘う宿命を背負った神の御使いである。
 眼前に広がるのは白く霞む天上世界の外壁。それを背景に並び立つのは墓標のような白い摩天楼。
 下方では、黄道十二宮天使ハマエルがツジマサ レイナと呼ばれる中位魔性の個体と戦闘を繰り広げていた。
 直前まで、ハマエル有利に闘いは進んでいた。懸念されていた最上位魔性クレノ ユズハも、守護天使との戦闘で行動不能だ。
 が、その場に近付きつつあるもう一つの魔性の瘴気を知覚した時、サマエルは今任務の失敗を確信した。
 なぜなら、その魔性は
「ねえねえ、なにしてんの?」
 思考の途中で唐突に、好奇心丸出しの声がした。
 サマエルの外見年齢とさほど変わらない、子供の声だ。
 告死天使は動揺しない。振り返りもしない。
 魔性特有の、汚水のような瘴気が感じられなかったのだ。ならば動く理由も無い。
 子供が近付いてくる足音がする。
「ねえってば」
 背後から肩を掴まれた。
 サマエルは僅かに眉間に皺を寄せ、振り向く。
 眼に入ったのは、茶色の癖毛とクリクリとした黒瞳が印象的な子供だった。
「君には関係の無い事柄」
 サマエルは、困惑を押し隠すように冷ややかな口調で言った。
「ええ〜」少年は頬を膨らます。
 そして勝手にサマエルの横に並ぶと、真似るように下を見下ろした。
「じゃあ聞くけど、なんでミカド兄ぃの方を見てたの?」
 半眼で聞いてくる。
 サマエルは『ミカド兄ぃ』の部分に反応し、少々目を厳しくした。
 スメラギ ミカド。
 教会きっての殺戮兵器・アズラエルの襲撃を唯一退け、無数の下級天使を殺戮した、最も凶悪な魔性の名だ。
 そして現在、レイナとハマエルの戦闘の場に踏み入りつつある者の名でもある。
「君は、スメラギ ミカドの弟……?」
 それにしては似ていないが。
「ううん、ぼくはねぇ、ミカド兄ぃの腰ぎんちゃくさ」
 少年の口調ははっきりとしていた。清々しい程に。
「……は……?」
「知らないの? 腰ぎんちゃくって『相棒』って意味なんだよ。ミカド兄ぃから教えてもらったんだ〜」
 胸を張って、得意そうに。
 サマエルはなんとも言えない顔をし、
「……そう」
 少しだけ少年に同情した。
 

 黄道十二宮天使ハマエルは、黒衣の男を睥睨する。
 魔性の瘴気。端整だが凶悪な面。暗い愉悦に歪む口元。
 そして圧力を伴うに至った剥き出しの殺意。
 まさに悪魔と呼ぶに相応しい、壮絶な鬼気。
 ハマエルは、気押されかけた己を鼓舞するように声を上げる。
「汝も、救いを受けよ! その穢れた肉体を捨て、一におわす神の慈悲にすがれ!」
 言い終わる前に爆発を叩き込んでいた。
「いかに速く動こうとも、躱す事は叶わぬよ!」
 聖女の加護によりハマエルの裡に蓄積された衝撃と烈風は、彼の意志に呼応して現象化する。そして爆発の発現座標は、対象との距離に関係なく決定されるのだ。
 対象はどれほど間合いを取ろうとも至近距離爆発を喰らう羽目になる。
 爆圧が弾け、風が渦を巻いた。
 狙いは正確。だが、魔性の断末魔の悲鳴は聞こえなかった。
「手に取るように分かってンだよ、テメェの考える事なんざ」
 悪意と嘲りに満ちた声は、側面から。
 ――馬鹿な!
 何故、と言う疑念が出てくる前に、断続的に銃声が轟く。
 旋回する複数の弾丸が天使の肉体を喰い千切った。
「がぁ……っ!」
 ハマエルは血風を纏って吹き飛び、仰向けに倒れかける。魔性の黒影がそれを追い、疾駆した。
 間合いは一瞬で消失。
「ハァッ!」
 凶暴に唸りを上げる爪先が天使の脊髄を下から叩きのめした。
 ハマエルは再び宙に放り出される。魔性はロングコートを翻して足を振り戻す。同時に片腕を掲げ、その先に巨銃が納まる。
「踊りなァ!」
 巨砲が立続けに咆哮と炎を吐いた。
 銃声に連動し、空中のハマエルの体がビクビクと痙攣する。
 肉が爆ぜ、骨格が軋み、鮮血が噴出。
 それでも、黄道十二宮天使を黙らせるには至らない。
「猊下、我に、ご加護を……!」
 ハマエルは体を捻り、上空で拳を撃ち下ろす。
 衝撃波は白い床を激しく打ったが、すでに爆破範囲に黒影はなかった。
 ……上空に跳び、ハマエルに肉迫していた。
 落下する天使。
 上昇する魔性。
 二つの影が交錯した瞬間、動けたのは魔性だった。魔性だけだった。
 全身を弓のように撓らせ、握りしめた銃把を振り上げる。
「“せーじょげーか”に守ってもらいなァ!」
 破砕音と共に叩き落とした。
 ハマエルの苦鳴と悲鳴。
 半壊した肉体が床に激突。何かの残骸のように転がる。
 一瞬後、空中で散らばっていた血肉がバシャバシャと床に降り掛かり、周囲を斑点模様に変えた。
 それでもハマエルは意識を失わない。聖女に対する絶大な敬愛が、彼に楽な道を選ばせない。
 ――猊下、どうぞ御照覧あれ。ハマエルは一体でも多くの魔性を御前へ献上いたします……!
 それが、今はハマエルと呼ばれる人間の性分。
 震える身を起こし、上を見上げた。
 相手はようやく跳躍時の慣性が消え、落下し始めている所であった。
 ハマエルは重たくなった腕を叱咤し、冷静に次撃を放つ好機を計る。
 相手は空中。例え人外の者でも、空中を自在に飛翔する事はできない。
 ――もう、逃げられんぞ。
 弱々しく、しかし全力を込めて拳を握りしめる。
 だが、同時にハマエルの眼はなんとも嫌な対象を捉えた。
 全身が総毛立つのを感じた。
 落下しながら、黒衣の男は嗤っていた。
 嗤いながら口が動き、バァカが、と言っているように見えた。
 瞬間――。
 ハマエルは己の体内に、強い異物感を感じた。
 異物感は痛みとなり、痛みは激痛と化した。
「ぐ……あ……!」
 思わず身を捩り、胸を掻きむしる。
 激痛が頂点に達した時、自分の胸板を突き破り、何かが飛び出した。
 赤かったので血液かと思った。
 ……だが、違った。 


  高層建築の屋上。
小さな影が二つ。下の惨状を眺めていた。
「うわ……赤いよ……」
 傍らの少年――コウと名乗っていた――が、鈍色の手摺から身を乗り出して言った。
「……そう」
 サマエルは適当に相鎚を打つ。
 コウの視線の先から、青年のくぐもった悲鳴と、肉が裂け弾ける音が、微かに聞こえて来た。
 コウはそれを、表情も変えずに見ていた。
 ――奇妙な、子供。
 それが、コウと言う少年に対するサマエルの印象だった。
 サマエル自身、普通の人間と話した経験などほとんどないにしても、だ。
 この惨状を見て『赤いよ』ぐらいにしか感じないのだろうか。
 告死天使たる彼ですら、眉をひそめたくなる光景だと言うのに。
「なんとも思わないのかって顔だね」
 振り向きざまに、コウが言った。
 サマエルは口を噤む。
 何と答えたら良いのかわからなかった。
「あのお兄ちゃん、天使なんでしょ?」
 言いながら、コウは視線を下に戻す。
「天使は、キライだよ……」
 先程までの快活な様子とは打って変わって、消え入りそうな声だった。
 サマエルは、ショックを受けた。
 それが何故なのか、皆目検討もつかなかった。
 少なくとも、この時は。


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