踏み込み、振るう。ただそれだけの動作。たったの二動作。しかし、無限のパターンを持つ。
 腕を錆び付かせないためにも、毎日の素振りは怠れない。
 冷たく暖かい朝日の底で、ひゅんと唸る刃風が、幽霊のような霞を追い散らした。ほのかに白い吐息が、橙の空気に溶け出してゆく。
 木刀を振り抜いた姿勢から、顔の横へなめらかに柄を引き寄せる。直後に刺突が真空の穴を穿った。前に伸びた剣身を追いこすように大きく踏み込むと、背後で翻った木刀が大上段から撃ち下ろされた。地面に激突する寸前で止め、足を置き換えると高速で旋回しながら右へ一閃を加える。勢いを緩めぬままもう一回転して斜上に斬り上げる。さらに回転、木刀を逆手に持ち替えた。そして脇の下から背後へ、すべての膂力と作用力を収斂させた爆発のような突きを撃ち放った。
 異音と共に大気の壁がへこみ、軋み、凪状態へ戻ろうとする力が局地的な突風を呼び覚ます。宙に停滞する朝靄は、それに形を与えた。
 白の乱舞。
 さなか、壁に立て掛けてあったもう一本の木刀を手に取る。意識がより明敏になる。次の瞬間、両腕から迸り出た剣閃が渦巻く水蒸気を吹き飛ばした。間髪入れずに両刀が風車のように旋回して両腕を交叉させる。身を小さく縮こまらせる。
 一拍の“静”。
 撓めていた膂力を一散に起爆させる。俺の周囲で二筋の斬気が舞い狂い、幾重もの軌跡が大気を細切れに裁断しながら拡散していった。空気が渦を巻く。足下の雑草達がけたたましくざわめき、なびいた。腰を落とし、流れの余韻に添ってそれぞれの双刀を背と腹に引き付けた姿勢で、俺はひたりと動きを止める。
 数瞬後、渦が徐々に形を失い、大気の流れも自然の様相を取り戻しはじめた。
 ゆっくりと息を吐き、構えを解いた。身体を突き動かしていた熱を、早朝の空気が優しく冷やしてゆく。
 背後で涼しげな声がした。
「おはよ。早いな」
 俺は慌てもせずに振り返ると、すぐにアヤカの姿を認めた。
 ……もう馴れっこだしな。
「あぁ、おはよう」
「もうすぐ朝ご飯できるから、終わったら早めに来てね」
「いや手伝うよ」
 朝日が、家屋の地平から完全に姿を現していた。

 朝七時前。未だ損なわれていない一日の空気。外の木造家屋の連なりを含んだ景色は、清涼感と、なぜか郷愁を沸き上がらせる淡い色彩で飾られている。
「……水……」
 だが、その爽やかな雰囲気は、ネオンと嬌声渦巻く深夜からの侵略者により、あっけなくも崩壊の危機に直面していた。
「はいはい」
 諦めとも呆れともつかぬ顔のアヤカが、水の入ったコップを差し出す。
 玄関先でへばっていたテツヤ師は、墓場から出てきた腐乱死体みたいなぎこちない動きで、それに手を伸ばした。
「先生……お酒もほどほどにしないと、体にさわりますよ? ついでに言うと競馬もほどほどにしてください。あと朝帰りもほどほどにしてください」
 アヤカがぴしゃりと言う。なんというか、年端もいかない女の子の台詞じゃないと思う。しっかりしてるなぁ。しっかりせざるを得なかったのか。
 剣豪殿は、うどんに入ってるふにゃふにゃの天ぷらみたいな感じに酔いつぶれている。
「……うー……」
 昨日立ち会いをした時との落差に、一瞬別人かと思った。
「そうそう、先生ちょっと」
 アヤカは師のそんな様子には取り合わず、俺の手を引っ張って玄関先に戻る。
 酔いどれ遊び人は、俺が目の前にきても虚ろな視線をあらぬ方向に彷徨わせるだけだった。
「覚えてますか〜? ほら、昨日打ち合った人ですよ〜?」
 酒精で赤くなった顔を、小さな両手で俺の方に向けさせ、赤ん坊に対するような口ぶりで話すアヤカ。なんか腰を下ろして目線の高さ合わせてるし。
「……ぁー……」
 埒が開かないので話しかけてみる。
「あの、俺です。ディアスです」
「んんー……あぁ……」
 お、反応が。
「……そりゃねぇよ……エアワインダー……最終カーブで転倒だぁ……? ……何万お前に突っ込んだと思ってんだ……ありえねぇ……」
 ……ありえないのはアンタです。
 横でアヤカは溜息吐息。
「言っても多分わかんないと思いますけど、ディアスは今日からウチに泊まるんですからねっ。止めたって聞かないんですからねっ」
 うわ、意識がこんがらがってる間に合意を取り付けた事にしてしまう高等技術だよ。
「……って、いいのかな、それ」
「いいんじゃないかな?」
 小さな策士は肩をすくめる。
「……ありえねぇ……またスッたよ……ありえねぇ……またアヤカにどやされる……ありえねぇ……スゲェありえねぇ……」
 ……まぁ、いい、か。

 つい、目的を忘れがちになる。
 俺がえらく平和なこの国を訪れたのは、世界的にも独特な武術を、その表層だけでも学べないかと考えたからだ。しかし金銭的にあんまり長く滞在するわけにはいかないので、優れた剣士達が多く住むと聞くこの街にやってきた。
 当初から訪ねてみようと思っていた武術家は、テツヤ師の他にあと二人。
 レッキ・トウドウ。
 ユウト・シジマ。
 彼等の邸宅は、どちらも路面電車を使えば日帰りで行き帰りできる距離にある。本来なら今日にでも訪ねてみようと思っていた。
 が。
 朝八時、二人で半死人な剣豪殿を二階の寝室へ引っ張ってった後、小学校に行こうと身支度しながらアヤカは無邪気にこう言った。
「ディアス。お留守番お願いできる?」
「りょーかい。いってらっしゃい」
 ……一度引き受けてしまった手前、勝手に外出するのもどうかと思うし、次の日に行けばいいや、と考えておとなしく留守番をしておく。
 そんなわけで俺は今、台所で勝手に煎れたお茶を啜りながらぽ〜っとしていた。
 ……やることが、ない。
 どうしよう。
 あー、うー。
 掃除でも、しようかな。

 来客があったのは、もう少しで太陽が真上に上りきろうかと言う時刻の事だった。
 玄関の埃を外に掃き出していた俺は、屋敷の門を悠然とくぐり歩いてくる人物の存在に気づく。
 奇妙な男だった。
 と言っても背格好が奇妙なわけではない。ただ、ひどく、印象が薄い。人間と相対した時に感じてしかるべき、匂いのような気配めいた個性が感じられないのだ。
「ちょっと、よろしい、ですか?」
 俺の視線に会釈しながら、彼は若干たどたどしいユミシマ語を紡いだ。間近で見ると、底なしの寒海のような碧眼に、彫りの深い顔立ちが見て取れる。男がユミシマ人でない事に、この時になって気づく。それほどまでに、頭の中に残らない顔なのだ。年の頃は俺より数年上、といった所。
「あ、はい、なんでしょう」
「こちらに、ジン・テツヤさん、いらしゃいますか?」
 いることはいるけど二日酔いで死んでますよ。
「あー、今はちょっと」
 そう答えかけた瞬間、男の顔が、どこか変化した。具体的にどことも言えないのだが、何かの感情が、仄かに見えたような気がしたのだ。
「そうですか。では、でなおして、きます」
「あ、ちょっと……」
 俺の制止も聞かず、男は屋敷の敷居から足早に出て行った。
 なぜか異様に歩きが速く、あっというまに門から外へと去っていってしまった。
 思わず首が傾ぐ。
 男が見せた感情。あれは、少なくとも落胆などではなかった。
 思えば、彼はわざと気配や表情を絶っていたようにも見える。
 テツヤ師に何の用だったんだろう? 俺と同目的だったり?
 ……いや、どうも武術家という感じはしなかったな。
 ううん……
 まぁいいや。


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