ラーニ・ザリトゥは、スサリエ・リフィナプスの豪邸の中で、とりあえずは平穏な毎日を過ごしていた。
 朝六時。
  使用人服に着替え、あわただしく朝食。すぐに食器磨きと食堂の掃除を女中たちに混じって手伝い、それから箒と雑巾をたずさえて広大な邸内を駆け回る。
  スサリエは止めたのだけれども、ただ養われているだけではシトに拾われたころと何も変わらないと思い、一念発起。何よりシトも賛成してくれたのが心強かった。
  基本的に屋敷の持ち主はスサリエ一人なのだけれど、それにしては不相応なほどに敷地は広い。
  彼女は皇政時代からつづく大貴族の末裔らしい。爵位を剥奪され、法的な特権を失った貴族も、その財産だけは子孫に遺すことを許されていたのだ。
  おかげで掃除が大変なのだけど、庭が広大なのはうれしい。花や樹の世話がこんなに楽しいとは思わなかった。
  とにかく種類が多く、色彩の均衡と季節による開花時期の差を緻密に計算された配置なのだ。
「あなた、いいときに来たわね。ちょうど手間のかかる季節だし」
「は、はいっ」
  そうした日々の雑事が終わるのが昼の二時から三時ごろ。以降はほぼ自由時間だ。普通では考えられないほど労働条件が良いのは、基本的に使用人の数が多く、人手が足りているどころか余り気味なためだ。
「んー、まー、不景気だしね。わたしみたいなお金持ちはなるべくたくさん雇うのも務めかなー、とか」
 串に刺さった梨の砂糖煮を口に入れながら、スサエリはそう答える。ゆったりと椅子に身を埋めながら気だるげに菓子を含む姿がこんなに似合う人もなかなかいないのではないか。
「ところで、調子はどう? 誰かにいじめられたりとかしてなぁい?」
「は……はい、大丈夫、です。いいひとばっかりです」
 濡れたように艶やかな指先が、ラーニの頬に添えられ、引き寄せられる。
「つらくなったら、いつでもわたしの部屋に来て、ね?」
 熱っぽく潤んだ眼が横に流れ、湿った吐息を耳や頬に感じる。
「慰めを求めるのは、いけないことだけど、恥ずかしいことじゃないのよ?」
「は、わ……?」
 スサリエの気配がさらに近づく。甘い香に混じって彼女自身の匂いがほのかに漂う。
 ラーニは理由のわからない危機感に戦慄する。このまま動かなかったらとてもとてもまずいことが起こりそうな気がする。でも、不用意に動いたらそれはそれでスサリエの心の堤防を決壊させそうな気もする。
  ……堤防?
  自分で何を考えているのかよくわからなくなる。
  いつしか、すべての神経を顔の側面に集中させていた。いまや彼女の体温が空気を伝わって感じ取れるほどに距離が縮まっている。
  かすかに湿った音がした。スサリエが唇を開いたのだろうか。ラーニははっきりと自分の胸が高鳴っているのを感じる。じっとりと汗をかいていた。不安があった。恐怖があった。見えない、ということがさらにそれらを助長した。まともな思考ができない。顔が熱い。おかしい。どうしてこんな……
  つ、と。
「ひ……っ?」
 耳たぶに、濡れたものが触れ――
 ひくりと肩が震え――
「うぎッ!?」
 脈絡もなく、スサリエは頓狂な声を上げた。
「あだだ、あだ、いた、いたい、いたいよ!」
 見えない縛鎖から解き放たれたラーニが振り返った時には、いつのまにかスサエリの後ろに回り込んでいたシトが、彼女の頭に掌を当てていた。金髪の中に指が潜り込んでいる。
  白皙の青年は、冷酷な眼でスサリエを見下ろしていた。
「いた、いたい! 爪! 爪立ってる爪! いた、いたたたた! うわぁん、ごめんなさいぃ」
「あ、あの、わたし、まだ仕事がありますので……」
「あぁん、ラーニちゃぁん……」
 転がるように退室。

  そして、仕事が終わった後。
  動きやすい私服に着替え、シトの手を引いて庭園の一角――付近に花壇も樹木もなく芝生だけが広がっている所――へ毎日赴いた。

 穏やかな潮風に芝生がざわめく日だった。
 軽く握られた拳が空気を何度も切り裂く。
  ラーニはがむしゃらに左手を出し続けた。右手は腰に引きつけられている。
  破裂したような音が連続し、打撃がすべて掌で受け止められたことを知らせる。
 ラーニは踏み込みざまに体をねじると、鋭い呼気とともに右を打ち込んだ。
  ひときわ大きな音が爆ぜる。
 渾身の拳を、白い指が握り締めていた。
  その向こうで、眠そうな眼がこっちを見ている。
 部屋で熟睡していたシトを引っ張り出して、修練に付き合ってもらっている。ちょっと悪いなとも思ったけれど……いや、というか夕方まで寝ているほうがおかしいし。
 飛び退って間合をとると、より低い姿勢で突進する。床に掌を打ちつけ、下半身を跳ね上げる。
 低い弾道の回し蹴り。
  激突。予想以上に硬い衝撃。
「ふぁっ?」
 均衡を崩して尻餅をつく。
 気遣わしげな眼でシトが見ている。
 跳ね起きる。そのまま拳を放つ。破裂音。止められたが気にせず連打。
  シトの防御が顔面付近に上がったところで左前方へ一歩踏み込み、腹に右を叩き込む。
  難なく裁かれるが、そのまま更に踏み込みながら右拳を振り切り、振り返りざまに左裏拳を薙ぎ込む。
  ……薙ぎ込もうとしたところで伸びきった肘を掴まれ、軽く捻られた。
「ひゃっ」
 視界が回転。一瞬後、床に背中から叩きつけられた。
  ラーニはか細く咳き込む。
「……今日は終わりにしよう。これ以上やる意味はない」
 男のかすれたつぶやきに、はっとする。
  そこにはディザルがいた。あたりは、ただっ広い板張りの部屋だ。
  特に疑問は抱かなかった。
  胃がきゅっと締まる。
  失望させてしまった。
「で、でも、あの……」
「常に相手の意表を突こうとする動きは悪くなかった。錬度の問題だ」
 ラーニはきょとんと師を見上げた。
  眼をしばたいて、ディザルの顔を見た。何か、変化を示すような兆候はないか、と。
「もう寝なさい。明日に障る」
 かつてないほど穏やかに、彼はそう言った。法衣をひるがえして立ち去っていった。
  ラーニはしばらく、起き上がることも忘れていた。
 ……ひょっとして、気遣ってくれていた?
  いつのまにか、あたりは深夜になっていた。

 肩を揺さぶられる感覚で、我に返る。
「ふえ……?」
 眼の前に、うろたえにうろたえてうろたえまくったシトの姿がある。冷や汗をかきながら周りを意味もなくうろうろし、たまに思い出したかのようにラーニの肩を揺する。かと思えば人を呼んだほうが良いという考えと離れないほうが良いという考えがせめぎあっているのか、落ち着かなげに視線が屋敷とラーニを行き来する。
 自分はといえば、芝生の上にぺたりとへたり込んでいた。膝やおしりがちくちくする。
 ……どうも、シトとの組み手の最中に意識が朦朧としだしたみたい。
「あ……シト、ごめん、大丈夫」
 頭を抱えて天を仰いでいた青年は、一瞬硬直したのち姿勢を正し、かすかに咳払い。
 眼で問うてくる。
  ラーニはもうかなりの精度で彼の無言の言葉を理解できるようになっている。
「うん、ほんとに大丈夫」
 そして、内心苦笑する。どうも、鍛錬を積んでいるうちに、かつてディザルに教えを受けていたときの情景を思い出していたみたいだった。
  ふと、想起する。
  あのころ、ディザルはまだ恐怖の体現というわけじゃなかった。
  むしろ――

 ●
 
  序列第五位、玄剣のナシーヴ≠ヘ、己の全身に熱せられた刃が走るのを明瞭に知覚していた。
  冴え冴えと。
 縦横無尽に。
 肉を斬り裂いてゆく。
  幾度も、幾度も。
  ナシーヴはその様子を、身をもって感じ取っていた。
  おかしなほどに痛みがない。不可思議なほどに出血がない。
  ただ、刻み込まれてゆく。
  超認識の成果を。帰結を。精髄を。
 ナシーヴははっきりと意識を保ちながら、自分に酷烈なる斬撃を刻み込んでいる男の姿を見る。
 煤けた法衣の。
 ただ、その茫漠たる瞳が、こちらを見ていた。ナシーヴ個人ではなく、周囲の光景をも含めた統合的全体像を識り、その関係性からナシーヴの肉の構造を見ているのだろう。
 高揚と沈鬱がないまぜになった心持ちで、何故こういう事態になったのか、その答えを混沌とした記憶の海からすくい上げようと、青年は眼を閉じる。

 多少、時はさかのぼる。

「くっ……」
 そのときナシーヴは、ひっきりなしに痙攣をつづける己の剣先を睨みつけていた。
  身体が意志に従わない。筋肉が震えることをやめない。握力が戻らない。
  いつまで経っても、回復しない。
「なぜ……」
 黒衣の鎖使いに撃ちのめされた傷は、すでに塞がっているはずだというのに。
  再び、剣を持ち上げる。難儀しつつようやく頭上に至ったかと思えば、もはやそこで力尽き、手を滑らせた。
  硬く、空虚な音を立てて、剣が床に転がった。
「ぐ……」
 くずおれるように膝を突く。
  なんだ、これは。
  ゼノートに処刑されかかったときですら抱かなかった、衝撃と焦り。
  なんだというのだ!
「がぁッ」
 床を拳で打つ。弱弱しい音しか出ない。
  俺には、これしかないのだ。
  剣に生きる以外にないのだ。
  だというのに。
「筋肉はすでに癒えている。損傷があるのは、もっと根本的なところだ」
 張りのある、精力的な声。
  視界に、革靴が入ってくる。顔を上げると、そこには二人の男。
「これは……お二方……」
 序列第一位、界剣のキオル=B
  序列第三位、絶剣のディザル=B
  ナシーヴが最大の敬意を捧げる、二人の武人がそこにいた。
  しかし、今は丁重な言葉を交わす余裕がない。
「なにか、用ですか」
 喉を絞って、それだけを言う。
  キオルが口を開いた。自信のみなぎる、朗々とした声だった。
「君の肉体は、表層的な傷はすでに癒えているものの、より重要な箇所が壊れかかっている。頭脳より発せられる命令を各筋肉へ伝える線が、ところどころ接触不良を起こしているのだ。このままでも訓練を積み重ねれば日常生活は支障なく送れるようにはなるだろうが、そこまでだ。武人としての君は、もはや死んだと言っていい」
 淡々と、事実のみの述べる口調。
「まこと……でしょうか……」
「偽りを言う理由はないな」
 腹の底から生じた絶望が、全身へ染み込んでゆく。
  ――いやだ。
  空白となった心に、声が木霊する。
  ――いやだ!
 剣腕にて一旗揚げる夢を見て、故郷の寒村を抜け出した。
  ――なぜ俺なのだ!
  ルキスと出会い、世界観が根底から変わった。
  ――まだ、何も掴んでいない!
  絶対的な強さというものが存在することを知った。
  ――何一つ
「そこで、だ。このディザルがお前の身体を治療する」
「は……」
 唐突な言葉に、しばらく沈黙以外の反応を返せなかった。ただ、ぽかんと見上げるばかり。
 数瞬の静寂。
  ディザルが進み出た。
「お前の身体を治療する」
「……聞こえています」
 そして、疑問と不審。
「医療の経験がおありで」
「否。俺は医者ではないし、教えを受けたこともない」
 ナシーヴの眉が更に寄る。
「では、いかにして」
 問うと、ディザルは眼を細めた。遠くを見ているようだった。あるいは、遠い昔を。
「それについては私から話そう」
  キオルが口を開いた。


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