それは、あまりにも荒唐無稽な話であった。専門的な医療の教えを受けたことのないディザルが、いかなる術理をもってナシーヴの肉体を治癒せしめるのか。絶対の信頼を寄せるキオルの口を通じてすら、にわかには信じがたかった。おおよそ見たことも聞いたこともない、異形の原理がそこにはあった。
「疑ってしまうのも無理はなかろうが……私は一度それでこの男に命を救われている。……ふむ、そうだな……丁度いま、物的証拠というものがある」
 キオルの視線を受け、ディザルはゆったりとした袖をまくり、腕を見せてきた。
  極限まで鍛え上げられた、鋼のごときかいなが現れる。
「ッ」
 ナシーヴはそれを見て、驚愕に身を強張らせる。
  昨日、その腕はゼノートの〈斬爆〉を受け止めたことにより肉が弾け、しぶき、鬱血していたはず。
  だというのに、いま眼の前にある腕はまったくの無傷であった。
「馬鹿な……」
 うめく。
  そんなことがありうるのか。
  しかし、はっきりとした証拠をまざまざと見せ付けられては、ひとまず納得するしかない。
 キオルは言った。
「どうだ、試してみつもりはないかね」

 

 それは、大陸に伝わる、いかなる医術ともかけはなれたものであった。まさしくディザルひとりにしか成しえない術理である。
  絶剣≠フ虚剣士は刃を振るいつづける。ナシーヴの肉が、構造が、切り開かれてゆく。
  本来自然回復を待つしかないような内臓の不具合や疫病などですら、患者の肉体に刃を入れる外科的手法によって病巣を斬滅し、強制的に健康体と化さしめることができる。
  解剖学でも病理学でも生理学でも説明のつかない、ありえざる神技。
  異様な発達を遂げた認識をもって、はじめて可能となる怪異。
  ――己の肉体が、再構築されている。
 ナシーヴにはそれがわかる。
  ひずみ、ゆがんで、力や命令の伝達が滞り、本来の機能を発揮できない状態にあった筋と骨と神経。それらが一度分解され、適切な組成に繋ぎ直されていった。肉の一片、血の一滴すら無駄にはならない。
  身体感覚が、妙に鋭くなっていた。
 
  ●

 

「どうだ。もう動いてもいいぞ。身体の感覚は戻ったかね」
「はっ」
 ナシーヴは立ち上がり、指を軽く屈伸させる。動く。過不足なく、なめらかに動く。
  ディザルが、ナシーヴの剣を投げ放った。振り向きもせずにそれを掴み――空中に冷たい閃光が疾る。ひょう、と、澄み渡る風の唱が追従する。
  鍔元より垂直に伸びる握りを緩く保持しながらの、抜き打ち。
  振り抜かれた腕の先で刀身が回転し、慣性を逃がしている。
「ほう……素晴らしいな」
 キオルがしきりに感心している。
 完全回復どころの話ではない。
  明らかに、かつて自分が突き当たっていた限界を突破していた。
  今度は柄頭から生える握りを逆の手で捕まえ、巻き込むように刀身を脇の下に装填≠キる。
  腰を落とし、肘を前に突き出した体勢。
  刹那、圧倒的なまでに長大な闇色の弧が空間を二分した。
  速度、間合い、ともにゼノートの〈斬爆〉をも凌駕する斬撃だ。もはやいささかも空気の流れを乱さず、ただ斬る≠ニいう意志だけが迸り抜けていったかのような、光の線。何より異様なのが、その黒い軌跡。
  〈曳夜〉。
  光をも断ち斬る、秘奥の中の秘奥。
  全身が軽い。身体感覚が明瞭だ。  今なら筋肉の一筋一筋の動きすら制御できそうだった。
「しかし、何故だろうな?」
 わからない。
  わからないが、少なくともあの黒衣の鎖使いと再び相まみえたとき、先方を失望させるような結果だけはまぬがれそうであった。
「ここにいらっしゃいましたか、キオルさん」
 ゆっくりと開かれた扉からゼノートの声がしたのは、そのときのことだった。
 もちろん、かなり前から近づいてくる気配にナシーヴは気づいていた。自分ですらわかっていたのだから、キオルとディザルがわからなかったはずもない。
「うむ、どうした」
 ゼノートはちらとこちらに視線をやり、一瞬不快げに眉を歪ませたが、すぐにもとの嘘臭い微笑を頬に張り付かせる。
「ラーニ・ザリトゥの潜伏先が割れました。少々面白い場所に匿われているようですよ」
 苦笑、と見せかけた嘲笑。
「ほう、どこだ」
「独立剣廷吏スサリエ・リフィナプスの私邸です」
「はっ、それはまた……」
 キオルも軽く失笑する。
「……因果、という奴かな」
「まったく困ったものですよ」
 共犯者のように笑みを交わす二人。
 そのさまを見ていると、ナシーヴとしてはどうにも釈然としない。
 ――なぜ、その男と親しげに笑っているのです。
 そう、キオルに問い詰めたくなる。
 確かに、ゼノートは恐ろしく有能な男だ。単純な虚剣士としての技量も超絶の域に達しているが、それだけではない。諜報、恐喝、暗殺、証拠隠滅などなど、虚剣士たちの活躍を闇から支える専門の技能者部隊を率いている。
 剣腕のみを頼みとする荒くれどもの集団という性格が強かった〈ギセ・ムの右眼〉を、一躍裏社会の権化たる組織にまでのし上げたのは、権謀術数に長けた彼の功績とも言える。
 さまざまな犯罪組織、秘密結社、やくざ、政治犯集団、傭兵団などの弱みを握り、恩を売り、なんらかのもめごとが発生した際には虚剣士を加勢に向かわせてやる代わりに莫大な税≠巻き上げる。そういう体制を整え、組織の収入を桁違いに多くしたのもまた、ゼノートだ。
 だが、ゼノートのそんな活躍を考慮しても、彼がルキスにもキオルにも忠義を捧げていなかったことを、ナシーヴは肌で感じ取っていた。
 一目見ただけでわかった。
 ――奴は、〈ギセ・ムの右眼〉を滅ぼす男だ。
 根拠などない。証拠などない。
 しかしナシーヴはほとんど確信していた。
 そして、はがゆく思う。
 なぜキオルは、この男に自分に次ぐ地位を与えるのか。
 〈ギセ・ムの右眼〉の序列は、原則として実力順に列せられる。序列第一位に立つ者が、建前としては最強ということになっている。かつて、単なる剣客集団であったころからの伝統である。
 であるならば。
 厳密に言うならば。
 ナシーヴは、黙然と立つディザルに眼をやる。
 序列第一位、すなわち〈ギセ・ムの右眼〉頭領の座は、この寡黙な武神のものでなくてはならないことになる。
 が、これについては仕方がない、というよりある意味当然の配置といえよう。まずディザル本人が望みはしまいし、剣士としてはともかく支配者としての器はキオルの方が遥かに上だ。さまざまな傑物たちを知らず知らずに従わせる先天的な資質、異様に肥大化してしまった現組織を取りまとめる手腕、奇をてらわず正王道を征く超越的剣技、堂々たる風貌と立ち振る舞い、そして開祖ルキスの双子の弟である事実。
 あらゆる意味で、支配者の座にふさわしい。
 無理にディザルを頭領に据えても、指揮系統に混乱が生じるだけであろう。
 それゆえ、第一位はキオルに譲るのも納得できる。すんなりと納得できる。
 だが。
 ――なぜ、ゼノートよりも下なのだ。
 どうしても得心がいかない。
 明らかにおかしい。
 ゼノートよりもディザルが上に立ってくれさえすれば、独断的な内部粛清をかなりの程度、抑えられたのではあるまいか。
 咆剣のゼノート=A徨剣のスラファ=A妄剣のクロンル=B彼らに殺されていった戦友たちの姿が、もはや記憶の彼方に霞んで見える。
「では、とうとう、か」
 キオルが言った。
「裁量はゼノート、君に任せよう。剣名持ち≠スちは好きに動かしたまえ」
「拝命いたします」
 ナシーヴの苦悩は、際限なく深まってゆく。
 だが、それでもキオルに対して不審をぶつけることは考えもしなかった。
 付き合いは長い。キオルのことは理解しているし、信頼もしている。
 ルキスが、その地位を狙ったラーニによって卑劣な闇討ちを受け、弑されたなどという信じがたい話を聞かされたときですら、それを語ったのがキオルであったがために、ちらとも疑いを抱かなかった。
 それは、ルキスに抱いていたものと同質の、崇拝、であった。
 ――この御仁に、俺は自らの剣と命と誇りを預ける。
 そう、誓った。
 ゼノートの専横を許すのも、何か理由があるに違いない。

 

 ●

 

  ラーニは連続で拳を放つ。単なる直突きではなく、腕全体の諸間接を連動させ、しなりの効いた一撃になっている。空を不規則に斬り裂く軌跡が閃く。
  相変わらず、シトの黒影は捉えきれない。それほど速く動いているようにも見えないのに、気づいたら後ろに回り込まれていることもしばしばだった。
  身をよじり、のけぞり、かがみ込み、舞踏のような脚裁きで周囲を飛び回る。速度の緩急が激しすぎて、彼を視界に納めること自体難しかった。
  ラーニは、思い出そうとしていた。
  以前ナシーヴたちから襲撃を受けた際に、どうにも切羽詰った瞬間、不意に体感時間が無限に引き延ばされ、世界が狭くなったかのような感覚に襲われたことがある。
  あのとき自分の知覚は拡張され、自分や相手や世界を流れる力のありようを、一瞬だけはっきりと認識できたような気がした。あの感覚を取り戻せば、あるいはシトの立ち居振る舞いも読めるのではないか。
  呼気を落ち着け、悠然とたたずむ青年を見据える。
「いくよっ」
  地面を蹴っ
「ちょっとちょっと〜っ! 二人とも、こっちきてくれる〜っ?」
 いきなり響いたスサエリの呼び声に意表を突かれたラーニは、蹴り脚を滑らせた。
「わぶっ」
 前のめりに倒れかかるところを、シトに受け止められる。
 細い両肩を掴まれた。ずり落ちて地面に顔をぶつけないよう、支えてくれたのだ。結果として抱きとめられたような格好になる。
 条件反射のように胸が安らいで眠くなる。
 ……そんな自分がちょっとイヤだ。
 このまましがみついて意識を失ってしまいたくなる心根から身体を引き剥がし、自分の足で立つ。
「い、いこっ」
 シトは穏やかにうなずいた。
 それからスサリエが言ったことは、ラーニの胸に重い衝撃を刻むことになる。

 

 ●

 

 序列第三位、絶剣のディザル≠ヘ、かつて自分が救いがたい戦闘嗜好者であると誤解していたことがある。
 部屋の片隅で酒を啜るとき、路地裏で標的を待つとき、敵と刃を撃ち交わすとき――いつも、考える。次に殺し合う相手は素晴らしい使い手で、想像もつかぬ技を振るい、自分を打倒するのではないか――と。いつも、期待してしまう。
 だが、その期待は常に裏切られ続けていた。
 たった一度をのぞいては。
 ――その女と刃を交えた時の衝撃は、今でも鮮明に覚えている。
 それまでもさまざまな使い手たちを殺してきたが、よもや突然消えることができる技があろうとは、想像だにしていなかった。
 喉に突きつけられた刃。
「わたしの、勝ち」
 硬質の、澄んだ声。冷たい琥珀を思わせる鳶色の瞳。
 はじめての敗北。その衝撃。
「おもしろい男ね。これほど奇妙な理で動く剣ははじめて受けたわ」
 そして――感動。
 やや遅れて、理解。
 そうか。
 俺はこれを望んでいたのか。
 ディザルにとって闘争とは、単なる目的達成の手段ではなかった。ではなんなのか、と自問して何か意味のある答えが引き出せたためしがないのだが、しかし世間一般の人間が考える闘争観≠ニ、自分のそれには、決定的な隔たりがあることだけはわかった。
 それまで自分は、世界との断絶に苦しんでいたのだ。
 真の意味で自分とわかりあえる人間と出会った経験が、自分にはない。それだけならば、単に不器用な性格で、人との交流をもてないだけなのかとも思えた。
 だが、事態はそんな次元ではなかった。
 そもそもディザルは、今でこそ寡黙な殺人者を装ってはいるが、口下手さや内気さとは無縁の人間である。今の彼しか知らぬ者には想像もできないが、やろうと思えば適度に稚気の効いた話術で他人と巧妙に打ち解け、友誼を結ぶことができるし、少年時代には何度も実際にそうしていた。
 だが、それは相互理解ではなかった。
 理解し、共感したことは何度もある。無数にある。
 だが、理解され、共感されたことは一度たりともない。
 ディザルという人物を理解した者はいない。
 しようとしなかったのではなく、できなかったのだ。
 言葉は通じるものの、細かな機微を解さない幼子と接しているかのようなもどかしさを、ディザルは常に感じていた。どれほど言葉を連ねても、自らの胸の裡が欠片たりとも伝わったことはない。
 それほどまでに、彼の認識の相は異質だった。あるいは、進化しすぎていた。
 なぜこのような心になってしまったのか、当時の彼にはまだわからなかった。指が六本あるという以外に、自分と常人は何が違うのか。まるでわからなかった。
 そして、普通の人間が用いる発声言語は、あまりに独特すぎる彼の精神を表現できるほど洗練されていなかった。あまりにも単純で、無駄が多かった。
 いつしかディザルは無意識のうちに、異質極まる己自身を表現する方法を、必死になって探していた。
 そして――ふたつの可能性にたどりついた。
 ひとつは闘争。それも、敵と直接刃を交わす類の。
 ひとつは舞踏。楽曲に頼らぬ、原初的なそれ。


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