木卓に亜麻布が掛けられ、汁物と麺麭が供されている。麺麭は皿の用途も兼ねていて、肉や野菜が上に乗せられていた。
食事の席は、いつも静かだ。シトは喋れないし、ラーニも口数の多い方ではない。だから、食器の擦れ合う微かな音以外はまったくの無音であった。沈黙というよりは、静寂に近い。言葉なくそばに寄り添うことを許す、安穏とした空気。
しかし今日は、前々から気になっていたことを聞いてみる。
「ねえ、シトは、どうやって暮らしを立ててるの?」
そうなのだ。この青年、昼間まで寝て、あとは日がな一日寝っころがって本を読んでいるという生活をずっと続けている。
どうやって糊口を凌いでいるのか、まったくわからない。
シトは数瞬、顎に手を当てて思案し、羊皮紙に文字をしたためる。
『俺は犯罪者を捕らえて市参事会に引き渡し、その賞金で生活している』
「賞金稼ぎ……?」
彼はうなずく。
正直、意外だった。この柔和で典雅なアレンシエ人が、法など意に介さない凶悪な人間たちを追いつめて踏ん縛っている情景が、どうしても想像できない。
それがちょっとおかしくて、ラーニはいつもより少し饒舌になる。
「どうして、賞金稼ぎに?」
『何、よくある話だ。両親をある犯罪者集団に殺された少年は、その痛みをバネに修練を積み、賞金稼ぎになりましたとさ』
「……ごめん」
彼は気にするなという風に首を振った。
瞬間。
扉の叩かれる音が、静かな空気を打ち砕いた。
二人は驚いて眼を見合わせる。ラーニが拾われて以来、はじめての客だった。
「わたし、出るね」
しゃべれないシトを押さえて、ラーニは立ち上がった。
古い木戸と漆喰壁の隙間から外の光が漏れてきている。その光の線が所々欠けており、扉の向こうにいる人物が複数であることを告げていた。
開ける。
一瞬、太陽が逆光になり、多数の人影があることしか認知できなかった。眼を細めて凝視すると――
――抜き身の剣をたずさえた十数人の剣士たちが、そこに、いた。
自分の喉から短い悲鳴が飛び出した。
間髪入れず先頭の男が踏み込み、斬撃を放ってきた。
ぞっとするほどすぐそばを剣光が迅り抜けてゆく。少し斬り落とされた前髪が舞い散った。
身体の均衡を崩し、後ろに倒れたラーニは、直後に降ってきた刺突を後転で回避し、流れるように起き上がる。
――どうして!
そう叫びかけて、こらえる。どうもこうもない。〈ギセ・ムの右眼〉という組織が持つ捜査能力や情報網、執念深さを甘く見ていただけのことだ。
虚剣士たちの鬨の声が轟き渡る。
シトの家に、なだれ込んでくる。
「潮時だな、母親殺し」
その中の一人が毒気したたる声をあげる。
「なに……が……」
後じさりながら、それだけを喉から絞り出す。冷たい言葉を浴びせられることには、いまだに慣れることができない。
「お前がルキス様を弑したことは明白だ。逃げ遂せると思ったか忌み娘よ。大人しく誅剣を受けよ!」
「ちがう……わたし、そんなことしてない……」
「しらばっくれるな! お前の得物は二振りの手甲剣! そしてルキス様のご遺体は、はっきりと手甲剣によって害されている! そもそも、後ろ暗い所がないのならなぜ逃げたのだ!」
言葉をなくすラーニ。そうか、簒奪者キオルはそんな虚言で〈ギセ・ムの右眼〉全体をだまくらかしているのか。
男たちの剣が迫る。
ラーニの手甲剣は、二階の寝台の横にある。
打つ手が、ない。
呆然とするラーニの横を、黒い風が通り過ぎていったのは、その時だった。
それは多重に繰り出される刃群をするりするりとくぐり抜けると、床に小さくかがみ込む。
直後、無数の銀光が黒影を中心に全方位へほとばしった。鞭状のものが風を切る音が幾重にも乱舞する。
数人が一息で打ち飛ばされ、赤い霧が散った。
地面でのたうち、苦鳴を上げる虚剣士たちのただ中で、黒い影がゆらりと立ち上がる。
シトだ。
差し上げられた左腕から長い長い鉄鎖が伸びている。所々に血肉がこびりついている。手首に装着された機械が唸りを上げると、銀蛇がのたうち回りながら巻き取られてゆく。赤い飛沫が散る。
青年の瞳から、何かが去っていた。
「邪魔をするな! 我らが〈ギセ・ムの右眼〉と知ってのことか!」
鎖の射程外にいた虚剣士の一人が声を張り上げる。
シトが、一瞬だけ両眼を渇、と見開いた。目蓋の端が破れそうなほどに。
それはそうだろう。〈ギセ・ムの右眼〉と言えば人外の魔技を駆る超常の剣士集団。その圧倒的な武力を背景に、裏世界の職業的犯罪者たちに対して絶大な影響力を握る闇の司法だ。賞金稼ぎなら知らないほうがおかしい。ゆえに、シトの反応はおかしなものではない。
不可解なのはその後の挙動だ。
彼はうつむき気味に肩をそびえさせながら、拳を震えるほど握りしめた。
そして、底冷えする光を湛えた横目で襲撃者たちを貫いた。ラーニが後じさるほどの凄惨な鬼気に満ちている。
直後、シトの黒影がかき消えた。
部屋全体を震動させる鳴動だけが、彼の強烈な踏み込みに対応できていた。
シトは猛狼のごとき低姿勢からしなる腕を打ち振るい、同時に鉄鎖を射出する。
銀の曲線は肉体の延長であるかのように薙ぎ払われ、三人を一気に撃ちのめした。
すべてが一瞬の出来事である。
「貴様ぁ!」
残る四人の虚剣士たちは、鉄鎖が黒い厄災の手元に巻き戻されないうちに攻勢へ転じる。四条の剣閃がさまざまな軌道で襲いかかる。
だが、それは誘いだ。
再び鎖の一撃が唸りを上げた瞬間、すでに虚剣士たちは物質界から姿を消していた。優美な曲線は、標的を失って空しく机を粉砕する。上に置かれていた本の山が飛散した。
終わった、とラーニは思った。
虚剣士たちがこれまで無敵だったのは、二つの世界を行き来する技そのものの脅威もさることながら、技の本質が広く知られていないという点によるところも大きい。なにしろ敵対者は必ず敗死しているのだから。
目の前にいたはずの四人がいきなり消えてしまうという異常事態に対し、瞬時に冷静な対処ができる人間などいない。
四つの剣に貫かれるシトの姿が脳裏に浮かんだ。
浮かんだだけだった。
虚剣士たちはシトの周りを囲む形で実体化すると同時に四方から斬りつける。虚剣士の得手を生かした戦法だった。
だが、そこに長身痩躯の青年はいない。
天井の梁に鎖を巻き付け、上に逃れていたのだ。空中で屈せられていた長い両脚が舞踏のような鮮やかさで叩き込まれ、四つの鈍い打撃音がほぼ一度に鳴る。
こめかみを打ち抜かれた虚剣士たちがくずおれる中、シトは黒衣をなびかせて優雅に着地した。
「信じられん……尋常なる人間が、十人の虚剣士をいともあっさりと……」
硬質の声が漂ってきた。驚いてはいるが、狼狽してはいない。
扉の向こうの日向から人影が浮かび上がる。きびきびと迷いのない歩調で部屋に入ってきた。青年だ。赤銅色の髪が無機的な光沢を放ち、触覚のように垂れ下がっている。その下にある顔容は端正だが、ゼノートのような絢爛たる美貌とはまるで異なり、無個性という名の個性を宿している。体格は小柄で、引き締まった逆三角形の上半身が彼の鍛錬のほどを表していた。
「ナシーヴ……」
その名が口を突いて出てきた。
玄剣のナシーヴ=B
百人以上の規模を持つ〈ギセ・ムの右眼〉において、彼の序列は第五位。組織に七人しかいない剣名持ち≠フ一角にして、一騎当千を体現する高位虚剣士だ。
ラーニの声に気付いたのか、ナシーヴは石のような眼差しを向けてきた。もしくは石ころでも見るような眼差しを。
暖かみなど、欠片もなかった。
そして何も言わぬまま、シトへ顔を戻す。
「お互い無粋な問答はやめにしておこうか、黒犬よ」
肘を引き、下げられた得物を抜き放った。
奇怪な剣だった。
刃の寸尺は一般的な片手長剣と同程度、直線的な形も特に変わったところはない。
異様なのは革の巻かれた柄のほうだ。
長さは全長の三分の一以上。さらに柄頭と柄尻のそれぞれ反対側、剣身を外せば対称となる位置から、二本の棒が直角に伸びている。斜に傾ければ稲妻の象形文字にも見えた。
「参る」
ナシーヴは激烈に踏み込んだ。足元に散乱していた本たちが弾けとぶ。
二本の棒に添えられた手は巻き込むように回され、剣光が複雑な軌跡を描く。玄妙無辺に円舞する刃は、強烈な踏み込み音とともに上から襲撃をかけた。
シトはそれに反応する。二重に束ねた鉄鎖を掲げる。
だが、防がれるかと思われた斬撃は、突如として刺突に変わった。
脳天へ伸びる致死の直線。
咄嗟に頭を傾げて避けたシトも尋常な反射神経ではないが、ナシーヴの剣技はそこからさらに展開する。
かわされた突きを短い振り下ろしにつなげ、巻き込むように剣を引き戻すと同時に右拳を叩き込み、シトがひるんだ隙に左手の剣を猛回転させながら繰り出した。
その動作は奇怪でありながら無駄がまったくない。二つの支点を操ることで、剣に作用する慣性を自在に制御しているのだ。従来の剣術では考えられない多彩な連続技を紡いでゆく。
シトは、反撃する機をつかみそこねたようだった。
あるいはかわし、あるいは鎖で受け、または得物を巻き付けた拳で攻撃の出かかりを潰す程度はできる。しかしそれだけだ。反撃などおぼつかない。
撃剣の打楽が続く。一方的な楽調の。
ラーニは、シトの動きに違和感を覚える。
彼の防戦は、技術ではなく反射と勘によって成り立つ素人臭いものだ。
まるで、最初から至近での斬り合いを想定していないかのような――
――そこまで思い至って、ラーニは慄然とする。
シトに初めて会ったとき。海岸で拾われたとき。
彼は、剣を佩いていなかったか。
そもそも鉄鎖を鞭のように振るって敵を打ち倒す闘術は、このような至近ではほとんど無力である。シトは、それを補うために剣を持っていたのではなかったか。
「剣……剣は……」
辺りを見渡す。
決して広いとは言えない台所は、繰り広げられる激闘によって惨々たるありさまだった。
その片隅で、鞘に納まった剣が立てかけられている。間違いなく、シトが帯びていた剣だ。
急がなければ。
ラーニは駆け出した。だが、視界に人影が飛び込んでくる。
ひとときの昏睡から立ち直った虚剣士がいた。こっちを睨んでいた。
目の前が暗くなる。剣にたどりつくには、位置的にこの虚剣士をなんとかしなければならない。しかし、とても自信はない。
虚剣術の創始者たるルキスと互角に渡り合ったキオルや、完全に討ち負かしたディザル、そして自分をあっさりと叩きのめしたゼノート。彼ら三人の並々ならぬ実力を前にして、ラーニは諦めと共に悟っていた。自分は到底あの域には達していないということを。
「誅殺――!」
虚剣士が、剣先をこちらに向けながら間合いを詰めてきた。咄嗟に傾けた顔をかすめて刃が通過してゆく。こめかみに赤い直線が刻まれ、頭髪が何本か舞う。
刺突は間髪入れず横薙ぎに変じるが、そのときラーニはすでに床に張り付くような姿勢で屈んでいた。しなやかな四肢の筋肉がもつ撓みを、低く押さえ込む。
そして、見た。
すぐそばの床に、手甲剣の片割れが突き立っている。
瞬間、奇妙な感覚に捕らわれる。耳鳴りが強くなってゆく。すぐそこで撃ち合っているシトとナシーヴの剣撃音が薄れてゆき、まっさらな無音へと近づいてゆく。耳鳴りが強くなってゆく。成すべきことを成すために不要な感覚が淘汰されてゆく。耳鳴りが強くなってゆく。敵がひどくゆっくりと剣を振り下ろしてくる。
――シトは、こんなわたしを、たすけてくれた。
この島の海岸に流れついて、そのまま朽ちていてもおかしくなかったわたしを。
介抱してくれた。傷の手当てをしてくれた。寝台を貸してくれた。家に置いてくれた。ごはんを作ってくれた。本を読ませてくれた。いつも笑顔をくれた。
だから。
命を張るくらいしかできないから。
だから!
――ふいに、体が軽くなった。
遠い昔に忘れていた何かを、思い出したかのような、なぜかなつかしい身体感覚。
そのまま、す、と体が自然に前へのめる。なめらかな前転。降りてくる敵刃が、丸めた背中をかすめて床を砕く。木破を撒き散らす。
ラーニは転がりざまに手甲剣を床から引き抜き、振るう。
回転の勢いを乗じさせた一閃。
「おのれっ!」
踵の腱を斬られた男が、くずおれながらも追撃の刃を撃ち込んできた時には、ラーニはその横を猫のように転がり抜けていた。
継ぎ目のない動きで前転から起き上がり、全力で疾走を始める。瞬間、世界に音が戻ってきた。うしろで敵が倒れるどさりという音がした。構わず一直線に駆けた。
壁に立てかけられていた黒塗りの剣を引っ掴み、
「シトっ!」
振り向きざま、力の限り投じた。一瞬、状況を見もせずに投げつけてよかったのか、という心配がよぎったが、杞憂だった。
巧みにナシーヴの猛攻をしのいでいたシトは、不意に黒外套の裾を閃かせて相手を霍乱したかと思えた瞬間、黒い帳を突き破るかのような蹴りを見舞い、旋回。後ろから飛んできた剣の柄を掌握すると、間髪入れずに打ち振るって鞘を外し、その動きをナシーヴへの袈裟斬りに変える。
だが、不発。
玄剣≠フ虚剣士は刀身の平を斜めに当てていなしたのだ。
――直後、剣に追従する弾道で猛進していた拳が、ナシーヴの顔面に炸裂する。
ミチィ、と異様な音とともに、赤い華が散った。後ろに倒れ掛かる暇すらなく、シトの拳に巻きついていた鉄鎖が解放され、毒蛇のごとく跳ね暴れ回る。血肉が飛沫く凄惨な音に乗って、襲撃者の全身を存分に撃ちのめす。
空中に、大輪の紅い華が咲く。
虚剣士の小柄な体が、ようやく床に落下する。
単なる鋼の連なりが、まるで意志を持っているように見える、凄まじいまでの神技であった。
ナシーヴの喉から喘声が漏れる。
「くっ……かっ……」
彼は後転して間合いを取ると、痙攣しながらも立ち上がった。
無残な姿だった。衣服は引き裂かれて襤褸と化している。全身の皮膚はささくれ破れ、赤く染まっていた。
だが、その無機質な眼の奥に底知れぬ光を湛えているのが、ラーニには恐ろしかった。
「……敗けた」
硬い声。
「お前のことは、覚えておく。……いずれ、再戦を所望する」
ナシーヴはそれだけを言うと、床を蹴って飛び退る。その姿は水面に没するかのように消失した。虚相界へ逃げ込んだのだろう。
あとには、意識を失っている十数人の男が倒れるばかり。
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