ラーニはもちろん、〈ギセ・ムの右眼〉の人間だ。組織の中で生まれ育ち、何の疑いもなくそこで虚剣術を学んでいた。
 信頼していた三人の男によって母を殺されてしまった以上、もはや何の未練もないが、それでも〈ギセ・ムの右眼〉の人間であったという事実は決して消えることはない。
 気遣わしげな顔でシトが歩み寄ってくるのを見ながら、ラーニは思う。

 ――何、よくある話だ。両親をある犯罪者集団に殺された少年は、その痛みをバネに修練を積み、賞金稼ぎになりましたとさ。

 このひとの両親は、誰に殺されたのだろう?
 いや。
 考え込むふりをして嫌なことから眼をそらすのはやめよう。
 このひとの両親は、〈ギセ・ムの右眼〉に殺された。
 これはもう確定だ。襲撃者たちが組織の名を出して示威した時、シトは普段の穏やかさからは想像もつかないほどの怒りを迸らせた。それは明らかに浅からぬ因縁を感じさせるものだった。
 であるならば――
 肺を冷たい手で握られる感覚。
 今は良い。自分が〈ギセ・ムの右眼〉頭領の娘である事実を、知られていないうちは良い。だが、一旦知られてしまった場合、自分もシトの憎悪の対象になるのではないか。
「……っ……」
 それは今のラーニにとって、最大の恐怖であった。
 隠すべきではない。今隠しても、いずれ必ず知られてしまう。そうなってしまっては、もう言い訳は立たない。『今まで俺を騙し、利用してきたのか』――そう取られてしまっても、弁明の余地はない。
 ここは自分の素性を包み隠さず話して、許しを請うべきだ。
 請うべきなのだ。
 冷静な自分はそう言う。理屈ではわかっている。
 シトが歩み寄ってくる。
 その背景には、あの恐るべき銀蛇によって血塗れになるまで撃ちのめされた男たちが横たわっている。
 冷たく黒い恐怖が、肺腑をゆっくりと満たしてゆく。呼吸が安定しない。
 あとずさる。
 シトはそれを見て、少し困ったような顔をし、頭をかいた。
 かすかな駆動音とともに、鎖が腕へと巻き取られてゆく。
 それに目を取られていると、不意に柔らかい感触がラーニを包み込んでいた。
 シトに抱きしめられていた。
 ――大丈夫、大丈夫だ。何者も死してはいない。
 耳元で言われて初めてわかる、かすかな無声音。彼の精一杯の大声。
 強張っていた全身が、ふっと緩む。気持ちが落ち着いてくる。
 目蓋が重くなってゆく。
 背信と恐怖で固く小さくなっていた自分を、あったかいモヤモヤが包み込んでいるような気がした。
 彼にしがみついた。みぞおちに顔を押し付けた。ぎゅっと閉じた眼の端から、雫がこぼれる。
  だが、罪悪感はいつまでも胸の底で燻っていた。
 同時に、喪失感も。
 ラーニは知らず知らずのうちに、もうひとつの可能性を考えていた。
 拾われて、幾日か過ごして、いつのまにか在ると思い込んでいた、無償の関係。シトの庇護も扶助も笑顔も、自分を狙う刺客と命がけで戦う行為も、すべて打算的な理由のない、ただ彼の良心と正義と慈悲にのみ起因する無限の恩寵だと、心のどこかで思っていた。
 だが、本当にそうなのか。
  そんなことがありうるのか。
 初対面の人間を命がけで庇う動機としては、弱すぎはしないか。
  シトが抱いている目的は、つまるところ〈ギセ・ムの右眼〉への復讐だけなのではなかったか。
  つまり自分を庇護する理由とは、囮としての利用価値を認めたためではないのか。自分のそばにいる限り、憎き虚剣士たちはいくらでもやってくる。
  復讐を望むシトにとって、それは望ましいことなのだ。
  涙が染み出てくる。
 とまらない。
  それとわかってはじめて、自分が心の底で望んでいたことを知る。
  わたしは、いま自分を抱きしめているこのひとに、無償の愛で包んでくれる理想の母親像を、重ねていたんだ。
  あまりにも遠い、ルキスの背中。目標には違いなかった。尊敬もしていた。しかし、ただひとりの肉親として身近な存在だったかと言えば、まったくそんなことはなかった。
  ほとんど、話した記憶がない。
  かあさまのこと、何も知らない。
  稽古をつけてもらおうと思ってルキスを探しても、「お仕事の邪魔をしてはいけませんよ」と、いつもゼノートにたしなめられて果たせなかった。
  いつしか、ルキスの姿を追うことにも疲れ始めていたのだ。
  だから、シトとはじめて逢ったとき。
  眼で微笑まれたとき。
  ずっとほしかったものを、もらえた気がした。
  笑ってしまうほど、幼稚で自分勝手な願望。
 そうわかっていても、ダメだった。『かあさま』ではなく『おかあさん』の代わりとして、シトに依存した。
 シトも、無言でそれを許してくれた。
  だけど。
  家族ごっこをしているつもりだったのは、わたしだけ。
  いや、それでいいのだ。
  持ちつ持たれつは健全な関係だ。むしろ安心できる。
  少なくとも、わたしとシトの利害は矛盾しない。なら、協調関係を保とう。
 それで、いい。
  ――これで、最後。
  より強く、シトの胸にしがみつく。
  ――最後。
  さよなら、『おかあさん』。

 

 ●

 

 〈ギセ・ムの右眼〉序列第五位、玄剣のナシーヴ≠ヘ、力の入らない脚で懸命に立ちながら、周囲から突き刺さる視線に耐えていた。
「以上、だ」
 重い息を吐き、報告を終える。
  命令どおり、ラーニが潜伏している一軒家に赴き、襲撃を掛けたこと。
  しかし彼女を庇護していたと思しき男の妨害により、部下ともども撃退されたこと。
  ナシーヴにとっては忸怩たる内容であった。
「それで? なんですか? あれですか? 虚剣術をさんざん見せておきながら殺し損ねたと? ひょっとしてそう言いたいのですか?」
 正面の机で両手を組み合わせて口元を隠しているゼノートが、粘着質な口調で聞いてきた。その眼は薄ら笑いの形に細まっている。
  一瞬でも虚剣術を見せた相手は必ず殺すべし、というのが〈ギセ・ムの右眼〉全体に厳しく課せられる規律である。
「まったくなんともはや、それでよく戻ってくる気になれたものですね。その厚顔無恥さはある種の才能と言えなくもありません」
 不快に思わないわけではなかったが、ナシーヴはあまり弁の立つほうではない。むすりと口を引き結んで嫌味を黙殺する。
「ゼノート殿。この件、本当にナシーヴひとりの責任か」
 横から声が上がる。
  見ると、ナシーヴの隣で壁に背をあずけていた男が、ゼノートへ険しい眼を向けていた。いまこの部屋にいる者たちの中では最も高い上背を持っているものの、巨躯の豪傑という形容がこれほど似合わない男もいまい。
  生まれてから一度も日の光を浴びたことがないのではないかと思わせる、生白い肌。腰まで伸びる漆黒の長髪。終始何かに思いつめているかのように硬く結ばれた口元。喜と楽の感情がひとかけらも宿っていない、暗く沈んだ碧眼。
  序列第四位、葬剣のザムロ=B
  不健康な風体だが、虚剣士としては一流の中の一流である。元々剣豪として名を馳せていたところでルキスに虚剣士としての才覚を見出され、最初から剣名持ち≠ニして召抱えられた強者だ。
  ゼノートが頭をめぐらし、ザムロをねめつけた。退屈そうな眼だった。
  構わず、ザムロはつづける。
「そも、ナシーヴ自身は当初からこの命令には懐疑を呈していたはず。『仮にもルキスさまの血を受け継いだ娘、確実に討てと言うなら、自分以外の剣名持ち≠熹C務に参加させ、必勝の体勢でおもむくべきではないのか』と。だがその諫言を退け、無理矢理ナシーヴひとりに行かせたのは、あなただ」
 ゼノートは、完璧なまでに秀麗な顔容(かんばせ)を不快げに歪ませた。
「ははぁ、なんですか? 私のせいだと? 言っておきますがナシーヴの腕を信頼し、討伐を命じたのはキオルさんですよ? 私は彼の意向を伝えただけです。それともなんですか? あなたはキオルさんの判断が間違っていたとでも?」
 嘲笑を頬に刻む。
  キオルの名を出され、ザムロは不満げに唸りながらも口を閉じた。
  ルキスが弑逆された今、弟であると同時に彼女の剣技を完璧に受け継いだキオルこそが命を預けるべき主君と考えている節が、この男にはある。
  程度の差こそあれ、それはナシーヴも同じであった。たとえ死ねと命じられようと、キオルのためであれば従う覚悟があった。そう思わせるだけの才覚と人格が、キオル・ザリトゥには備わっていた。
  それだけに、キオルの名を傘にするゼノートにはかえって不快感がつのる。
「まったくだァな。だいたい、あんの半端な小娘を討ちもらしただけでなく、虚剣士ですらない雑魚ひとりに負けておめおめと逃げ帰ってくるなんざ、ははっ、誰にも予想できねーよ」
 さらに、横から嘲弄が突き刺さってくる。耳に障るほど甲高い声だった。
  見ると、まだ十代前半にしか見えない少年が、腕を組んでいた。もとは整った顔立ちであったのだろうが、嘲りの表情しか浮かべてこなかったためか、口元は醜怪な皺が刻まれている。
  黒い三白眼が、ひどく野卑な光を放っていた。野放図に伸び跳ねている黒髪は、まるで針の山である。体格は貧弱で、到底生き死にの境を渡る虚剣士には見えないが、そう考えて彼を侮った者たちは皆凄惨な最期を遂げていることを、ナシーヴは知っている。
  序列第六位、徨剣のスラファ=B
  スラファ・アブソカル。
「けははは、は。ナシーヴ、弱ぇ弱ぇ、ナシーヴ。けはは」
 その横では、縦と横の比率がほぼ等しい異様な体格を持つ小男が、知性の感じられない笑い声を上げている。禿頭をふらふらとゆすっている。
 左眼は落ち窪んでいる。
 右眼はぎょろりと真円に開かれている。
 視線がひとときも定まらない。
 弛緩した笑みの浮かぶ口の中から、黄色い歯がまばらにのぞく。
  ナシーヴは思わず眉をひそめた。
  序列第七位、妄剣のクロンル=B
  クロンル・アブソカル。
  彼ら二人は兄弟ということになっているが、壊滅的に似ていなかった。
  もともとゼノートの推挙で組織に入り、剣名持ち≠ニなった彼らであったが、ナシーヴを含む一部の虚剣士からは白眼視されている。
  〈ギセ・ムの右眼〉の一員というよりは、ゼノート個人の私兵として動いていた感があるのだ。
  そもそも――
  ナシーヴは、表面上おだやかな眼差しを向けてくる美貌の青年を睨み返した。彼は何事かをしゃべっていたが、どうせ聞く価値もない嫌味を言っているのだろう。
  序列第二位、咆剣のゼノート=B
  ――この男がきてから、組織はおかしくなってしまったのではないのか。
  ナシーヴは、どうしてもその思いが捨てられない。
  かつて、〈ギセ・ムの右眼〉は開祖ルキスのみを上に頂く、ゆるやかな共同体であった。
 『私は強い。あんたたちも強い。剣腕だけを頼りに、ひとつ国でも獲ってみようか』。
 冗談めかして言う彼女の笑顔を、ナシーヴはいまでも覚えている。もちろん子供じみた、甘い夢想ではあったかもしれないが、それでもよかった。少年期のナシーヴは熱烈に賛同の言葉をまくしたて、周囲の虚剣士たちもそれに乗って宮仕えの豪勢な生活をあれやこれやと想像し合い、キオルが苦笑しながら乗っ取れそうな国々を挙げたかと思えば、ザムロは『かの国の貴人には恩義があるゆえ、できればそこを乗っ取るのはご容赦いただきたい』と生真面目に頭を下げ、それがまた周囲の笑いを誘う。ディザルはすこし離れたところで杯をゆらしながら、そのさまを眩しそうに見ていた。
  ――あのころ、たしかに、皆の心はひとつだった。
  序列という名の明確な上下関係はなく、ルキスの弟子たちはみな仲間であり、友だった。
「あ? 聞いてんのか? てめー、シカトこいてんじゃねーよ、おい」
 胸ぐらをつかんで粗野な言葉を吐きつけてくるスラファの存在に気づいたのは、そのときのことだ。クロンルのけたたましい笑い声を背景に、矮躯の少年は目を剥きながら唇をゆがめていた。
「ゼノートさんが話してるときに上の空たぁ、いい度胸じゃねーか、おい」
「けはは、いい度胸、いい度胸」
 そうだ、こいつらだ。
「いいんですよ二人とも。一度言ったことをまた言うくらい、たいした労苦じゃありませんから。えぇ、ちっとも」
 こいつらは、敵よりも味方を多く斬る。
「ナシーヴ、あなたは本当に使えない人ですね。スラファの言うとおりですよ。まさか虚剣術を修めていない普通の人間に負けるなどということがありうるとは。栄えある〈ギセ・ムの右眼〉の汚点です」
 裏切り者、組織を抜けようとした者、戦闘中に臆病風に吹かれた者……そして、任務に失敗した者。
「お待ちあれゼノート殿! ナシーヴは……」
「汚点は、綺麗にしなければなりません。他の方々への示しがつきませんしね」
 もっともらしい理由をつけて、ゼノートは容赦なく粛清していった。まもなくスラファとクロンルがそれを肩代わりし、ゼノート自身は組織の上層部へと食い込んでいった。
  ゼノートたちの言い分には一応の正当性があり、処刑された者たちの過失を示す証拠もあることから、ルキスやキオルは特に何も言わなかった。
 こうして、
「あなたを処刑します。〈ギセ・ムの右眼〉に弱者は要りません」
 彼らは陥れられた。
  自分も、また。
  ゼノートは背中に手を回すと、一気に巨剣を抜き下ろした。眼の前の机が粉々に爆裂した。上に重ねられていた羊皮紙が周囲を乱舞し、木材の破片が弾体となって飛散する。
  ――どこから抜いたのだ(・・・・・・・・・)
  当たり前のことだが、これほどの巨大な武具を普段から持ち歩いているわけがない。現にゼノートは、ついさっきまで何一つ武装していなかったはずだ。
  スラファとクロンルが背後に回りこみ、さりげなく退路を断っていた。にたにたと笑みをへばりつかせている。
「ではさようなら」
 腰を落とし、抜き身の剣先を後ろに流したまま、ゼノートは床を蹴り砕いた。
  ナシーヴは動かなかった。どの道全身の負傷が治りきらないこの体では抵抗しても意味があるようには思えなかったし、たとえ万全の状態であったとしても彼の実力はナシーヴの遥か上をいく。
  咆剣≠フ虚剣士は一瞬にして一足一刀を侵略すると、床に撃ち下ろした軸足をねじった。脚から発生したひねりが彼の体を伝播し、全身の筋肉の伸縮力を威力に変換しつつ剣身へと到達。爆発的に加速された重撃が、周囲の大気を引き裂いて絶叫を上げる。
  〈斬爆〉。
  かつてゼノートは、この滅技をもって三階建て木造建築を一撃のもとに跡形もなく吹き飛ばしたことがある。
  激突。
  部屋が、震えた。
  壁の本棚から分厚い書籍が崩れ落ちてきた。埃と木屑が上下左右から吹き出す。荒れ狂う剣風によってすべてがかき混ぜられた。
  ナシーヴは体の均衡を崩しかけた。
  余波だけで、この規模、この威力。
  命中したなら人ひとりの肉体など爆裂に飛散していたことだろう。
  ――命中したなら――?
  俺は、なぜまだ生きている?
  後ろの二方から、小さく舌打ちが聞こえた。
  前を、見る。
  ――翼のように。
  長い外套が広がっていた。
 誰かが、そこにいた。
 両脚が凄まじく踏みしめられ、木の床にほとんど埋まっていた。
「やれやれ、あなたですか」
 ため息と、苦笑。
 内心渦巻いているであろう苛立ちなどおくびにも出さず、ゼノートは剣を止めた。
 ゼノートとナシーヴの間に、煤けた法衣の男が出現していた。
 序列第三位、絶剣のディザル=B
 さし伸ばされた腕の先で六本指が万力のように巨剣を締め付け、極限の一撃を受け止めていた。太い血管と筋肉の束が、ディザルの腕に浮かび上がっている。あまりの剣勢に肉が弾け、鬱血している。
 ほとんど天災のような衝撃力を持つ〈斬爆〉を片手で止めたのだ。信じがたい腕力である。
 そもそもあの一瞬で両者の間に割って入り、回転半径の小さい柄元を捉え、鋭利な刃に触れないように六指だけで分厚い剣身を押さえ込んだその眼力と反射神経は、ナシーヴの想像を絶する域にあった。
 ルキスが死んだ今、おそらくはこの男こそが。
「これは、キオルの意思か」
 かすれた声で、ディザルは低く問う。
「と、いいますと?」
 心胆寒からしめる威圧感を正面から浴びせられながら、飄々とゼノートは答える。
「ナシーヴの処断は、キオルが命じたことなのかと聞いている」
 闇の底からささやいてくるかのような口調。
 数瞬、硬質の眼光と軽薄な視線が絡み合う。
 ディザルもまた、キオルに永遠の忠誠を抱く者のひとりであった。キオルの命令ならば、ナシーヴを処刑するのも致し方なしと考える。しかし、もしゼノートの独断であるのならば。
 ――そのときは。
 ディザルのそういう思考を肌で感じ、ナシーヴは周囲の気温が下がったような気がしていた。
 根負けしたようにゼノートは肩をすくめる。
「わっかりました、わかりましたよ。あなたと事を構える勇気はありませんって」
 これみよがしにため息ひとつ。ゼノートは剣を引き、そのまま背中に回す。するといつのまにか、あれほどの大質量が消失していた。
「さて、全員がそろったことですし、戯れはこの程度にしておきましょうか。キオルさんからの命令を伝えます」
 その一言で、ようやく時間が動き始めた。
 身を乗り出して処刑を止めようと動きかけていたザムロも、処刑を助長する位置にいたアブソカル兄弟も、当事者たるナシーヴも、ディザルさえもが、無言でゼノートの前に並ぶ。
 序列第一位、界剣のキオル≠フ言説をひとことたりとも聞き漏らすまいと。
「第二の襲撃計画です。あなたがた全員でラーニ・ザリトゥを滅殺してください。キオルさんは、彼女の所業にずいぶんと立腹なさっています」


トップに戻る 

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送