屋根裏に押し込められ、「隠れていなさい」と言われた。
 「すぐに片付けるから」とも言われた。
 それなのに。
 ラーニ・ザリトゥは、自分の心臓が凍り付き、砕け散ったような気がしていた。
 目の前で、かあさまが、死んだ。
 あまりにも現実味のに欠ける事態だった。
 そばに行きたい。
 そして何かの間違いだということを確認したい。
 しかし、できなかった。ラーニの全細胞が動くことを拒否していた。
 それは母の死による喪失感をも塗りつぶす、圧倒的な恐怖。
 床板の隙間から、下の様子が見える。首をなくして倒れる母と、そのそばに立つ一人の男。灰色の法衣が顔も体型も覆い隠している。泰然とたたずむ幽鬼めいた風貌は、同じ人間とは思えなかった。
 絶剣のディザル=B組織の運営やら何やらで忙しいルキスに命じられ、ラーニに虚剣術を教えた男だった。
 単にちょっと無口な人としか思っていなかった。組織における恐怖の象徴みたいな眼で見られていたけれど、少なくともラーニは彼を怖いと思ったことはなかった。
 今、この時までは。
 怖かった。あまりにも怖すぎた。動けば一瞬で気付かれる。それが、恐ろしい。
 怪物的な本性を顕したその男は、滑らかに武器を納めると、法衣をひるがえして出口へ向かった。
 ラーニは悲しみよりも安堵を覚え、自分に嫌悪した。小刻みに痙攣しがちな呼吸を抑えつける。とにかく落ち着こう。深呼吸。
 かすかな、本当にかすかな呼吸音が静寂を漂った。
 ディザルが、足を止めた。
 振り返った。
 こっちを、見た。
 脊髄を握りつぶされる錯覚。それほどの眼光だった。
 ラーニは寸前のところで悲鳴を飲み下す。衝動の赴くまま、転がるようにその場から全速力で逃げ出した。大きな足音を立ててしまった。間違いなく気付かれた。一層の恐怖がこみ上げてくる。
 狭く暗い天井裏を駆け抜けた。全速力で。
 飛来する梁や柱を避ける。屈む。飛び越える。
 物心ついたころから、ここはラーニの遊び場だった。構造はよく知っている。
 裏の船着き場に行こう。そして逃げよう。一刻も早く。早く!
 一縷の希望にすがるように、さらに速度を上げる。
 前方に光が見える。小さかったころ、部屋から抜け出すために開けた穴。ラーニの成長とともに大きくなっていったものだ。直角に曲がった壁の影にあり、外から見るとほとんど目立たない。
 顔を出す。真っ白な陽光と潮風が襲ってくる。視界を二分する空と海を、沈みかけた太陽が黄金に染めていた。
 明るさに眼が慣れる間ももどかしい。手足を突っ張って直角の壁を降りてゆく。
 地面に降り立つ。目的の場所へ続く石の階段を駆け下りたその時、波音につつまれた桟橋に立つ人物を見つけた。
 呼吸が止まった。

 

 ●

 

「来ましたか」
 彼はラーニを見下ろしていた。
 濡れたようにしっとりとした金髪と、見る者を硬直させてしまう完璧な造形の顔。あまりに完璧すぎて、かえって作り物めいている。さらに、判で押したような微笑を美貌に張り付かせていた。
 そして眼を引くのが、背中に下げられている規格外の巨剣だ。長身の持ち主とほぼ同じ全長に、胴と同じ程度の幅広い剣身。
 常人では持ち上げることもできなさそうな大剣だった。
 ラーニは、ふるえる声で青年の名を呼ぶ。
 キオルと並び、ディザルに迫る実力を持つ虚剣士の名を。
「ゼノート……」
 彼は眼を細めた。
 背中に手を回し、いともあっさりと巨剣を抜き振る。ヴン、と低い刃風が轟く。撃ち下ろされた巨大な刃が桟橋の木材を爆砕させた。その刃は鋼の光沢を宿していながら、どこか生物的な印象を与える。曲線のみで全体の意匠が構成されているせいだろうか。光の加減によっては、ぬめりを帯びた筋肉組織が剣の形に束ねられているようにも見えた。
「キオルさんからの命令です。死んで下さい」
「っ!」
 胸中に、冷たい汚泥が生じた。彼までもが裏切りに手を貸しているというのか。
 細い腰の両側に手を伸ばす。それはディザルの得物と同じ類の――しかしずっと小ぶりな――武器だった。
 手甲剣(ジャマダハル)
 二つの刃を前で交差させる。
 直後――
 凄まじい衝撃が細い両腕の骨を軋ませた。ただの一撃受け止めただけで関節が悲鳴を上げる。体全体にかかる力はどうしようもなく、ラーニは木っ端のように吹き飛ばされた。
 硬い岩壁に叩き付けられ、か細く呻く。
 人間に可能な一撃とは思えない。
 痛みにうずくまる暇など与えられなかった。間髪入れず叩き込まれてきた連撃が崖面を粉砕した。
 粉塵にまぎれて前に飛び出したラーニは、しかしあり得ない早さで引き戻されていた鉄塊の迎撃を受ける。
 かわせない。
 天性の戦闘感覚が、恐怖も焦りも黙らせた。
 風を追い抜き迫る巨大な刃を――その手前の空間をラーニは見据えた。凝視した。その裏側にある世界を睨んだ。
 空間に、平面を思い描く。垂直に立つ水面の心象を。
 そこへ、飛び込んだ。
 途端、あたりの光景が一変する。明るい空も、薄汚い壁も、影の差す桟橋も、その向こうに広がる海原も、すべてが不安定な暖色の色彩となって揺らめいていた。重力の感覚は消え、潮の匂いは消え、空気が流れる音すらない。完全な無音の世界。周囲に満ちていた闘争の意志によって、視界全体が炎に包まれているかのような暖色系となっている。物質世界とは異なる秩序に律せられる虚相界。この世の裏側。
 烈火のごとき殺意の色を発散する源には、白熱光によって形作られる人影があった。長大な剣を振り抜いた姿勢だった。
 ラーニは意志の赴くまま、その者の背後に回り込む。両手首の手甲剣を腰だめに構えながら、再び眼前に平面を意識し、物質世界に通じる水面をつくりだした。そこへ身を投じる。
 世界が尋常なありようを取り戻す。敵対者の後ろに実体化したラーニは、しかし突如として背中を走る激痛に反撃の機を逸した。膝をついた。
 虚相界に入るのが一瞬遅かった。物質世界に逃げ遅れた背中の表層を、斬り裂かれていたのだ。
「く、ぅ……っ」
 傷が熱く凶暴に脈打つ。あまりに鋭い苦痛。意地でも涙など見せてやるものかと、唇をかんで耐える。地面に手をつく。手甲剣がかすかに鳴る。
 ふいに、ラーニの白い頬に冷たい剣の平が当てられた。
「驚きました。もう虚相界に入ることができるとは。ディザルの言う通り、素晴らしい才能です」
 傲然とラーニを見下していた。衝動ではなく理性によって殺人を行う――そういうたぐいの眼をしていた。ラーニは普段から彼を知っていた。恐るべき虚剣士であることも、つねに微笑みを絶やさなかったことも、意外と子供好きだったことも。
 ゼノート・リフィナプス。
  咆剣のゼノート=B
  組織に入ったのは比較的最近だが、あっという間に序列を駆け上って剣名持ち≠ニなった天才肌だ。
 ついこの間まで、歳の離れた兄のように慕っていた青年。
 今、刃の切れ味を思わせる面には嘲笑すら浮かんでいない。
 すべて、演技だったというのか。
「ディザルの教えが良かったのか、あるいはルキスさんの血筋なのか――」
 肩をすくめる。
「どうでもいいですけどね」
「裏切り、者」
 つまる喉を押しのけて、ラーニはそうこぼした。
 胸が苦しかった。視界がゆらいでいた。
「どうして、かあさまを……」
 自らの言葉で、より実感する。何者よりも強く闊達だった母は、もうどこにもいないことを。ゼノートがその片棒を担いだことを。
「言い訳はしませんし、許していただかなくて結構ですよ。まぁ要するにルキスさんは邪魔になったということです。そしてあなたもね」
 その眼も、その表情も、身にまとう空気も、優しくかまってくれた頃の彼と何一つ変わっていない事実に、ラーニは胸が毒で満たされてゆくような心地を味わった。
 頬に当てられていた剣身が、水平に寝かされた。ゼノートの体格は決して貧弱ではないが、筋肉隆々としているわけでもない。この規格外の巨剣を片手で軽々と保持しているさまは、妙に違和感を誘う。
 風を切る高い音とともに、ナイフを弄ぶような気安さで剣が振りかぶられる。剣の重量がまったく感じられない所作だった。
「あぁ最期に言っておきますけれど、私は周囲に支えられているという自覚のない女子供が嫌いですのでさっさと死ね」
 押さえつけられていた怖れが跳ね起き、暴れ始めた。呼吸がうまくいかず、肺がふるえる。死にたくない。
 裏切ったの。かあさまを。殺したの。わたしを。殺すの。
 どうして。
 どうして!
  不意に、奇妙な感覚に襲われる。耳鳴りが遠く聞こえる。水中にいるかのような錯覚。
 生への執着に突き動かされるままに地面を蹴りつけ、素早く旋回した。ゼノートの大剣が薙ぎ払われるのと同時だった。
 少女の姿が瞬時に掻き消える。己の肉体の中心線に虚相界への水面を設定し、回転することによって現世から瞬時に姿を消す、虚剣術の一。
 異貌の空間に身を投じると、すぐさまラーニは逃走をはじめた。炎の幻想の中を泳ぐように突き進む。
 すると、周囲の色彩がより鮮烈な赤を帯びた。戦意の紅。殺意の赫。
 横合いから突き出されてきた刃を止められたのは、ほとんど奇跡に近い。
 突き飛ばされた勢いを意志の力でなんとか打ち消すと、攻撃が飛来した方向を見る。
 空中に、ゼノートの顔と剣を握った腕が浮かんでいる。すぐに身体のほうも水面から出てくるかのように虚相界へ姿を現した。
 逃がさぬ、という明確な意志を発散していた。
 刹那、巨きな得物を後ろに流し、瞬発的に突進してくる。
 あり得ざる連撃がはじまった。
 ラーニの身長を楽々と上回るような長物にもかかわらず、瞬きすらできない間に無数の重撃が連続する。
 軽く短い手甲剣を二つもってしても、豪雨のような剣技についてゆくのがやっとだった。その上、一発一発に大砲のような衝威が備わっている。凄まじい過負荷によって腕が内出血をはじめる。火花が幾度も明滅する。
 理不尽なまでの強さだった。
 剣にかかる慣性はどうやって殺しているというのか。
 ひときわ甲高い異音が轟き、鋼の欠片が舞い散った。右腕が折れた。
 右の手甲剣も砕き壊され、左の肩口は斬り裂かれていた。
「いっ……! う……ぅ」
 どうして。どうして。
 無力な問いを頭から追い出し――た時には目の前に刃があった。のけぞる形の回避ができたのは脊髄反射のおかげだが、頭の先に界面を展開したのは頭の思考だった。そり返りながら現世に放り出されたラーニは、そこに足場が存在しないことに気付く。
 臓腑がなで回されるような落下感。
 次の瞬間、ラーニは海中に没していた。背と肩の斬り傷が鋭く痛んだ。暗く冷たい深みの中で、口から盛大に気泡が抜け出てゆく。恐慌をおこしかけ、手足をばたつかせた。
 意味はなかった。
 気が遠のく。
 どうして。どうして。
 問いがまた頭を去来する。闇に融けてゆく意識の中で、容を失う。
 どうして――


トップに戻る 

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送