虚剣士と呼ばれる者たちがいる。
眼に見える世界の裏側に存在する、もうひとつの空間。『虚相界』。
そこへ至るための特殊な意識拡張法と体裁きを会得し、二つの世界を瞬時に行き来できるすべを身に着けた武芸者、それこそが虚剣士である。彼らは一瞬でこの世から姿を消し、どこにでも現れることができた。この特性を前に、あらゆる飛び道具は優位を失った。十分に鍛錬を積んだ虚剣士ならば、武の達人が放つ神速の一閃をもかわし、その死角から必殺の反撃を叩き込むことすら可能であった。
ことほどさように会得者へ超人的な力を授ける虚剣術だが、確認される限りにおいて、その歴史は極めて浅い。
十六年。
たったの十六年である。
十六年前、野心豊かな一人の少女によって、この技は編み出された。
ルキス・ザリトゥ。以前より天才剣士として恐れられていた彼女だが、虚剣術に開眼したことにより、その実力は手がつけられないものとなった。
元から覇気と向上心に満ちる女傑であったルキスは、虚剣術の伝授を請い願って集まってくる武芸者たちを片端から選別し、素質ある者のみを部下として引き込んでいった。
あらゆる職業的犯罪者に対して絶大な影響力を有する闇の司法、一大国にも匹敵する武力を備えた数百人規模の傭兵団、物語の世界から抜け出してきたかのような超人集団――〈ギセ・ムの右眼〉の、それが誕生であった。
ギセ・ムとは、古代の戦場にて信仰された神の名だ。右眼で武勲の運命を、左眼で戦死の運命を見る、死神である。
勢威を誇ること、数年。
ルキスの支配は唐突に、永遠に終わった。
群を抜く実力を持った、三人の弟子たちに裏切られて。
●
身体が熱い。
脳が綿になってしまったかのように鈍痛を発し、思考を妨げる。
波にもてあそばれるたびに、嫌な酩酊が頭を撫で回す。
不快、という感覚が残っているのなら、自分はまだ生きているのだろうか。
柔らかく細かい砂の感触が、頬に。
海岸。波の音が遠くに聞こえる。たまに、鳥の声。
呼吸。喉がえずく。背中を震わせ、海水を吐く。
背中と肩の傷痍が、ずくんずくん。口を開閉させているみたい。
開くたびに、中から熱い溶岩が流れ出る。
折れた右腕は、ちぎれてなくなったかのように感覚がない。
痛みはもうない。ただ、だるくて、すこしくすぐったい。
「もういいよね」
鼓動のたびに口をぱくぱくさせていた二つの傷たちが、声をそろえて言った。
「かあさまは死んじゃった」
「ゼノートも、ディザルも、キオルも、かあさまに心酔しているフリをしていただけだった」
「あなたを可愛がっていたのも、ぜんぶ、うそ」
「あなたを囲んでいた世界は、ぜんぶ、うそ」
ふたたび声をそろえて、
「もう、いいよね」
もっともに思えた。
うなずこうと、首に力をこめる。ぎしぎしと軋んで、ゆっくり曲がりはじめた。
――足音が、聞こえた。
ざり、ざり、ざり、ざり。
すぐ近くで止まる。
うなずきかけた頭を苦労してもたげ、眼を開く。傾ぎ、ぼやけた景色の中で、長外套の裾と革靴、それに長い佩剣の鞘先が見える。
――追っ手?
おかしなことに、今しがた諦めたはずの生への執着が頭をもたげてくる。
左腕はまだ動く。だが、左の手甲剣が破壊されていた。
小さく歯がみする。せめて一撃振るえれば、不意討ちで倒せたかもしれないのに。
死にたくない。その一念が、腹の底で死んでいた恐怖の感情に火をつける。ラーニは口を引き結び、眼を固く閉じた。ついに涙がこぼれた。
まだ、やりたいこと、たくさんあったのに。
…………
波の音が三往復する。
待てども、とどめの一撃は降ってこない。
小さく、眼を開く。
――その人物は、膝をついてこちらをのぞき込んでいた。
体型は黒い長外套に隠れて見えない。面は色白で、ほっそりしている。男性なのか女性なのか、よくわからない。身につけているものは上から下まで黒一色だ。
穏やかな眼で見下ろしている。
腰の剣を振り上げるでもなく、何か話しかけてくるでもなく、ただ見下ろしていた。
なぜか、黒くて大きな犬狼を連想した。
数瞬、見つめ合う。
そして、その人は眼だけで微笑んだ。長外套を脱ぎ、。ラーニの冷え切った身体を包み込んでくれた。
背と膝の下に両腕を差し入れられ、持ち上げられた。
さすがに無警戒に過ぎたかと思って、誰何しようと口を開ける。だけど、喉はひゅうひゅうと虚しく空気を通すだけだった。
その人はこちらを見下ろして微かに首をかしげた。
それが、ちょっとおかしくて。
瞳の大きな眼がとてもやさしくて。
冷えきった躯を包み込む長外套があんまりあったかくて。
警戒心は、眠気の中に融けていった。
●
ひっ、ひっ
喉の痙攣する感触で、目が覚める。
じっとりと汗をかいていた。
鼓動がせわしなく脈打つ。
時間をかけて、息を整える。
過呼吸で乾ききった喉に唾を流し込む。
身を起こす。
夢の中で、何度もかあさまが死んだ。あの情景が烙印のように頭から離れない。生き延びて、逃げ切って、はじめて恐怖が抜けてゆく。後に残ったのは、喪失感という名の大きな風穴だけ。
両膝を立てて、顔を伏せる。
嗚咽が止められない。
「かあ……さま……」
身体が震える。
綺麗で、凛々しく、かっこいいひとだった。憧れだった。ほとんどかまってもらえなかったけれど、常に目標であり続けてくれた。
失望させるのがこわくて、がむしゃらにディザルから教えを受けた。いつか、かあさまの次くらいに強くなれれば、そのときはほめてもらえるかもしれない。頭をなでてもらえるかもしれない。
もっと近寄りたかったのだ。甘えたかったのだ。
力を込めて両膝を抱きしめ、泣き叫びたい衝動にしばらく耐えた。
少し荒い呼吸音だけが、規則的に胸を冷やす。次第に落ち着いてくる。
そして、自分が今どこにいるのかが気になりはじめた。
天井。壁。床。視線をめぐらせる。
知らない部屋。知らない寝台。知らない空気。知らない匂い。
そうか。わたし、拾われて……
身体を見下ろす。相変わらず、小さくて細っこくて、それでも最近は少しだけ女性らしい丸みを帯びはじめてきた躯。大き過ぎる寝間套に包まれていた。折れた右腕には添え木が当てられ、しっかりと固定されていた。裾から胸をのぞくと、湿布と包帯で覆い尽くされている。
視線を元に戻す途中で、眼を引くものを見つけた。
寝台の脇にある机の上に、見慣れた手甲剣が二つ並べられている。
ラーニのものだ。
寝台横の床に脚を下ろそうとして身をよじる。鈍痛が身にしみたが、我慢。
木の床に脚を下ろす。その心地よい冷たさに、眼が細まる。ゆっくりと足に力を込め、立ち上がる。苦労して身体の均衡を保ちながら、騙し騙し歩みを進め、やっと机のそばにたどりつく。
手甲剣の片方は、柄だけを残して破損していたが、もう片方は完全な状態だ。
短剣と呼ぶには少々長い刃に、自分の姿が映っていた。
「ひどい顔……」
寝すぎで顔がむくんでいる。鋼にも似た質感を持つ鈍色の髪は、ぼさぼさに乱れていた。この針金みたいな髪質がどうにもうとましくて、かあさまのような柔らかい栗色の髪なら良かったのにな、と何度思ったことだろう。
横には、ラーニの衣服が折り畳まれている。もっとも、ゼノートの剣で手ひどく切り裂かれているので、もう着れないだろうが。
窓のそばへ寄ってみる。木戸を押し上げると、光とともに潮風が入り込んできた。
奇妙に壮大な光景が、そこにはあった。
まっさきに眼につくのは、遠近感を狂わせるほどの巨躯を誇る塔だ。
材質は何なのか、金属みたいな光沢を持っている。しかしその輪郭は曲線が多くて、不思議と生物的な印象を持つ。窓から見える風景のほとんどを占めているのに、全体は蒼く霞がかっていて、この部屋との遠い遠い距離を実感させた。文字通り、山より大きい。
その塔は、海の中から直接生えている。潮の満ち引きが原因なのか、根元の部分には地層のような変色紋様が小さく見えた。
そして、塔を囲む形で陸地が円環状に広がっている。水の中に沈んだ巨大なお椀の縁だけが顔を出しているような感じだった。塔が立っているのは、お椀の底だ。
ラーニがいるのは、そんな陸地にへばりつくように存在している街の一角だ。
踵を返して部屋に眼を戻す。
扉を見つけた。たどたどしく歩み寄り、押し開くと、下へ続く急な階段があった。窓からの景色を考えれば、ここは二階か三階なのだろう。
ゆっくりと、降りていった。
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