黒衣の男が、膝からくずおれた。
そのまま、ゆっくりと倒れていった。
老い朽ちた巨木が倒壊してゆくさまを思い起こさせる。
ナシーヴは、その様子を感じ取っていた。
見るでもなく見ていた。
雪辱――ということになるのか。
実感が沸かない。
やけに透明な気分だ。
あれほど勝ちたいと願った相手を倒したというのに、終わってみれば達成感もなにもない。
むしろ、忸怩たる思いがある。
些細な私怨に囚われ、抜かずとも良い刃を抜き、殺さずに済むはずの相手を殺した。
憐憫の情ではなく、明らかに格下の相手と敵対することの無意味さがあった。自分が真の意味での強者であれば、誰かと敵対する必要すらなく、意志を通すことができたはず。
そう感じている自分に気づく。
――馬鹿な。
敵対者を殺しつくし、なお生き残ることこそ剣士の本分。
キオルの命令もある。
これでよかったのだ。
自身に言い聞かせる。
――言い聞かせなければならないということは、本心は違うところにあるのか。
「そうか……そうだな」
声に乗せて、思いを出す。
「黒犬よ、もしもお前が〈曳夜〉を使わざるを得ないほどの戦士であったなら……」
顔が勝手に歪む。
「恐らく俺は、この迷いを抱かずに、明日を探し当てることができたのだろうな」
やけに透明な気分だ。
否――
透明なのではなく、空しいのだ。
強くなるとは、ここまで空しいものなのか。
自分ですら、空漠とした心象にここまで薄ら寒さを覚えているのなら、あの三人はどれほどの空虚を感じているというのか。
特に、ディザルは。
どれほどの空虚か。どれほどの孤独か。
それはもはや恐怖、絶望の域ではないのか。
体が、震えた。はじめて、彼の矛盾に気づいた。
ディザルはどうやって心を生かしているのか。ひょっとしたら、とうの昔に死んでいたのではないか。彼の外面的な反応だけを見て、俺はかの武神と会話をしたと錯覚していただけではないのか。
そんな妄想を抱くほど、あの男がわからなくなっていた。
だから。
下から。
鋼の暴風が噴き上がってきたとき。
胸と頬に赤い切れ込みを入れられたとき。
鉄の匂いの霧が舞ったとき。
自分は多分、心の底からほっとした。
眼に確固とした意志を灯し、黒衣の男は倒れた姿勢から剣を振り上げたのだ。
そして、彼は立ち上がった。
まだ、立ち上がれるというのか。
まだ、俺と殺しあえるというのか。
まだ、大丈夫なのか。
――俺はまだ、孤独ではない。
それが、わかった。
逃避の対象になりうる敵手がいる。
この虚無を、直視せずに済む。
それが、何よりありがたかった。
「黒犬……!」
心を寄せた怨敵に。憎み足りぬ親友に。
最大限の殺意を叩きつける。
「来い!」
返答は、剣と鎖、二撃同時であった。
●
虚相界を流動する感情の波が、声を伝播する。
「あなたと戦う理由はありません。話を、聞いてください」
それがきっと、正しいことだと思ったから。
しかし、それに応える声はない。代わりに重い鉈のような斬撃が無造作に放り込まれてくる。
火花と一緒に、ラーニの軽い体も弾け飛んでゆく。
「こんな戦い、ばかげてますっ!」
気を張って制動をかけながら、叫ぶ。
聞き分けよく従うのはもうやめる。甘えるのも、ねだるのも、わがままを言って困らせるのもやめる。
対等の目線で説得しにかかる。
生まれてはじめて、そういうことをする。
いままで、それをしてこなかったから。
大人と子供の位置関係に安住し、相手の優しさを卑屈に期待するだけだったから。
しなければならない。
できませんでしたごめんなさいは通らない。できなければ死ぬだけ。
「かあさまを――ルキス・ザリトゥを亡きものにしたのは、わたしじゃない!」
訴える。虚相界の幻景をかき乱すような一撃一撃を、避け、受け、いなしながら。
無言の刃が重々しく閃くたびに、死線をひとつ越えるたびに、頭のなかで、むくり、むくりと成長するものがある。
まるで、ラーニの心がその手を伸ばし、体全体に意志を行き渡らせてゆくようであった。肉体すべてで思考する、何か高次の存在へと生まれ変わってゆくようであった。
意識が澄んでゆく。
動こうと思ったときにはすでに動いている。
そして、思ったとおりに体が動く。誤差がない。
だが、まるで余裕はない。
あらためて、ザムロの技――葬剣≠フ恐ろしさに震えが走る。
すべての剣撃、すべての動作に意味がある。
罠か、囮か、威嚇か、本命か。あるいは二つ三つ兼ね具えたそれか。内包したそれか。明確な目的意識をもって振るわれる、精妙無比のしくみであった。
命を機械的に刈り取る、しくみ。
がっつりと噛み合えば、まず殺りこぼさない。
それが葬剣=B
「命じたのはキオル! 実行したのはディザル!」
斬撃はやまない。断続的に、硬い死が飛んでくる。
特に速いわけではない。手数も多くない。
剣勢はかなり重いが、それとてゼノートの圧倒的な破壊撃と比べれば大人しいものだ。
だが、おそらく葬剣≠フ旨はそういうところにない。
ザムロの打つ一手一手が、こちらにとっては常に最悪の行動でありつづける。
その重圧こそが、もっともラーニを苦しめる。
ラーニが避けようとする瞬間にはすでに、ザムロの曲刀がそちらへ動きはじめているのだ。
別に予知したわけではない。
勘や経験で予測したのでもないだろう。
不可解の極み。
けれど、恐らくは――
ラーニが避けようと動き出すからには、その前段階でザムロの攻撃が迫っている必要がある。その最初の一撃が、急所の集中する体の中心ではなく、右腕を狙ったものだったとしたら。
斬られる側としては、どうしても左に動かざるをえない。打点がずれているため、しっかりとした防御も、とっさにはできない。
おおよそあらゆる剣術において、回避や防御の技は、相手が自分の急所を狙ってくることを前提として組み立てられている。
だが、ザムロはその前提をあっさりと無視。それゆえこちらは洗練された対処が執れず、不恰好な防備行動は致命的な隙を晒す。
つまりは、ただそれだけのこと。
ただそれだけのことのみで、不確定な未来を確定させる。
そこに、ザムロの凄味がある。
曖昧な要素を徹底的に廃して構築された、空間支配。
本来ならば、もっと早い段階でラーニは死んでいなければならないはずであった。
にも関わらず今でも生きているのは――
「わたしには、かあさまを殺す理由も力もない!」
自分でも、不可解に思ってはいる。
一分の隙もなく構成された、葬剣≠ニいう名の処刑装置。だが、ラーニの動きはその理論を細かく上回っていた。
視界がめまぐるしく変わる。物質界と虚相界を細かく行き来している。ザムロの姿が現れたり消えたり光の塊になったりする。旋回し、重心を移し、跳び、界面を渡り、斬間を駆ける。それらすべての所作が、わずかに予定調和を超える。
ザムロはそのたびに戦術理論を更新。速すぎず遅すぎず、ラーニの動作の間隙を突く斬閃を振るう。
それをまた、ラーニが超える。
即座にザムロがついてゆく。
その繰り返し。
少しずつ加速してゆく、二輪の歯車であった。つむじを巻いて、回り、回り、回りながら剣を薙ぎ、かいくぐり、二つの世界を抱き込む。
螺旋運動の連続。
いつか崩壊することがさだめられた、強い意志の循環。
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