「武器を隠してないか調べねえとなァ、オイ?」
えひひと笑う、こういう手合いはかなりダメな部類に入る。
見た目は少年だ。酷薄な三白眼が滾っている。出血死するんじゃないかと思うほど多くの血を流しながら、その顔には異様な精気が横溢している。
熱い呼気が頬に触れ、スサリエは思わず眉目をひそめた。
触れただけで肌を通りすぎ、肉に染み込んでしまいそうな気がした。
彼の身元についてはとっくに調べ上げている。〈ギセ・ムの右眼〉を相手にすることがわかった時から、そういう捜査は進めていた。
スラファ・アブソカル。
アブソカル家といえば、皇政時代においては多数の暗殺者を輩出し、宮廷の権力闘争に鮮烈な赤をあしらった、悪名高い貴族の一門だ。いわく東夷の妖術師を抱え込んでいる、いわく化け物を飼っている、いわく地下に広大な庭園帝国をこしらえている、いわく世界を破滅させることを目論む権力的思想集団の末端組織である――――眉に唾を付けたくなる噂にはこと欠かない一族だが、それらの話は呆れたことに真実の一端は捉えている。
公的にはとっくに取り潰しを受けたはずだが、そんなことで彼らが離散するわけもなく――
「っ!」
わき腹を虫が這う感触に、思考が中断される。
見ると、スラファは野卑な笑みを浮かべてスサリエの躯に触れていた。自らの血に濡れた蜘蛛のような指先で、起伏に富んだ輪郭をなぞっている。
――不埒な腕をねじり上げて後ろに回りこみ、弩を突きつける。反射的にそう思考し、肉体の中でその動きが始まりかけたものの、思いとどまる。
少しでも動いたら、その瞬間に全身を撃ち抜かれるのだろう。
あの、正体不明の、豪雨のような飛び道具。無数の弾体。
いや、あれは武器とか技とか、そういう範疇の代物なのか。
あれこそ妖術のたぐいではないだろうか。
そう思わざるを得ないほどに不可解極まる現象。
何よりわけがわからないのが、あんなに大量に飛び交っていた物体が、次の瞬間には影も形もなくなっている事実。
いや……だいたい検討はつく。虚剣士であれば、そうした工作は思いのまま……なのかもしれない。今頃はこのあたりの虚相界を無数の礫が漂っているのだろう。
そして、必要に応じて物質界に射出する――?
――どうやって?
「ちょ……ッ」
肌を這い回る蟻走感に、思わず身をよじる。
スラファは喉を痙攣させて嗜虐の笑いをあらわにした。両眼に一層の血を滾らせ、さらに身を詰めてくる。両手に塗れた血を薄い衣服になすりつけながら、柔らかな肢体の感触を味わっているようだった。
お気に入りの白い奢装が、赤黒い液体に穢されている。怒りよりも、衝撃のほうが大きかった。ぬめる汁液が布を浸透し、肌に触れ、何か取り返しのつかない陵辱を肉に刻んでゆくような気がした。
紅く濡れた部分が肌に張り付く。そしてスサリエ自身の嫌悪か――それとも何か別の感情かによって、どくん、どくんと脈打ちはじめた。
冷たい外気の動きを妙に敏感に感じ、身が震える。
抵抗する意志の切っ先が、わずかに、欠けた。
情欲に戦慄くスラファの指が、丸く突き出た双丘を捉えた。
「あ……く……っ」
それは柔らかく形を変えながら、おぞましい痺れをスサリエの意識へ送り込んでくる。
――マズい。
スラファの血がそこにもなすりつけられ、豊かなふくらみは太く脈動しだす。さらに少年の姿をした侵略者は長い舌を伸ばし、薄い衣服越しにねっとりと舐め上げはじめた。熱を帯びた吐息や、舌のかすかな凹凸までもが感じ取れた。
思わず、腰が引けた。
緊張に高まる吐息が、どうしようもなく艶を帯びてしまう。
突き動かされるように一歩下がると、背中に冷たい石壁が当たる。
そのことが、よけいにスサリエを追い詰める。
この敵手、あらゆるしぐさに正気の蓋を引き剥がすような何かがあった。
――これはとってもマズい……!
つつしみのない女だと、上司や同僚から嫌味を言われたこともある。
いやまぁ、仕方ないことかもなぁ、とスサリエ本人も思っている。七人もの人間に想いを寄せているというのは、一般常識に照らし合わせて見ても、あんまりつつしみ深くない。
でも、自分なりに誠実に、全力で恋をしているつもり。無節操に誘惑してると思われるのは、ほんのちょっとばかし心外だ。
少なくとも、あの七人のためなら自分の命を捨てても後悔はない。シトはそのひとりだし、だから今ここにいる。
足りないかもしれないけれど、まぁ、その程度は、好き。
だから、意に沿わない相手にそういうことを強制されるのは絶対にゴメンこうむる。
――こうむるけど、しかし。
……死んでもイヤかと言われると、これは答えに窮するところではある。
つまり、この最悪な状況を受け入れつつある自分が心のどこかにいることを、認めなければならないようだ。
――うん。
少し、落ち着いた。
ぶんぶんと首を振り、火照った頬に冷気を当てる。スラファはこの動作を許容した。
自分の内面が自覚できれば、心胆の置き所も決まってくる。相も変わらず望みもしない熱と痺れが送り込まれてくるが、それに翻弄される中で冷静に打開策を練る自分を作ることができた。
実を言うと、スラファの素性を思い出した段階で、手をひとつ考えてはいた。あまりにも気が進まない手段なので今まで気づかないフリをしていたが――どうしようもない。
スラファには、常に行動をともにする弟がいるらしい。
クロンル・アブソカル。
彼は今、どこにいるんだろう?
別行動をとっているのか、それとも――
「……んっ」
なんとなく、漠然とではあるが――彼あるいは彼らが用いる詐術の本質に、触れつつあるような気がする。あと少しで何か大切なことを思い出しそうな、もどかしい気持ち。
それは、気のせいではなかった。
●
あのとき、何が起こったのか。
倒れた姿勢から剣を振り上げ、ナシーヴの胸と顎に斬れ込みを入れながらも、シトは胸中でそればかりを考えている。
自分が斬り伏せられたときのことを。
――捉えた、と思った。
あの機合いでかわせるはずがない、と。
それほどまでに、あの弾き撃ち=\―鎖を剣に引っ掛け、振るう力を押さえつけたのち、一気に解き放つことで鋼の靭性を瞬発させ初速を得る技法――は完璧だった。絶対にかわせるはずがないと思い込んでいた。刃が敵の肉を貫く感触まで幻覚してしまうほどに。
間違いなく、生涯最高の一閃であったと断言できる。
が、結果はかすりもせず、一方的に重傷を負わされる始末。
なぜ、などとは問わぬ。
虚剣術。
忘れていた、わけではない。しかし、かの魔技の働きを最大限に評価し、かつナシーヴの体裁きを考慮に入れたとしても、よもやかわすとは想像だにしていなかった。
――いや、よい。
シトはナシーヴを見据える。
――俺側の認識などどうでもよい。
できると言うのなら、それはできるのだろう。不条理だと騒ぎ立てたところで事態は何も解決しない。
ゆっくりと、立ち上がった。立ち上がるにも、渾身の力が必要だった。
彼女を、守る。どうあっても守る。
その意志に微塵の揺らぎもない。
――この一命、諸手の鋼、左道の業……そのためにあり。
ならばやることは変わらぬ。
胸すわって進むなり。
踏み込んだ。紅を散らしながら。紅にまみれながら。
「黒犬……!」
剣撃。鎖撃。
「来い!」
二束瞬撃。どちらかに対処しても、もう一方が牙を剥く連携だが――
ナシーヴの姿が消える。どちらも標的を失う。
――そうであろうよ。
シトは鎖をたぐり、その意志を鉄環のひとつひとつに行き渡らせた。
左腕を頭上に差し上げる。
すると、周りを鎖がめぐりはじめる。優美な螺旋を描きながら、鋼の連なりはシトの長身を覆いつくす。
空を切る音が規則正しく連続する。視界を区切る鎖の斜線が次々と下ってゆく。
――いずこからでも……
カル…と、鎖に触れるものがあった。ナシーヴが背後から突き入れる剣尖に他ならなかった。
――お相手つかまつるッ。
即座にしゃくるような動きで腕を引く。その動きは鎖を伝播してゆき、敵刃まで到達した瞬間、剣身に巻きついた。所作を封じた。
「むッ」
力にまかせて引っ張る。
とっさに反応できず、均衡を崩すナシーヴ。つんのめりながら引きずられるように一歩二歩。
出迎えるようにシトは剣撃を放つ。
……ナシーヴが、奇剣を手放した。刃を下からかいくぐる。
さすがに意表を突かれる。滑り込みざまの蹴りを受け、倒れ掛かる。
ゴウ――ッ
ずっと昔に潰れた喉が、破れそうなほど発振した。前のめりに倒れながら肘を落とした。総身の重量が一点に集中し、ナシーヴの胸板に撃ちおろされる。
まったく同時にナシーヴの拳がこちらの顎を叩きのめした。
仰向けに吹き飛び、背中から叩きつけられる。背中の斬傷がさらに血を噴いた。もはや痛みも感ぜられなくなっていた。
世界が、歪む。脳が身をよじって悶えている。
存外に大きな音をたててナシーヴの剣が路を転がり、半瞬遅れてシトの鎖がじゃらりと身を横たえた。
玄剣≠フ虚剣士は折れたあばらを抑えながら跳ね起き、同時に剣に手を伸ばす。
不思議と、それだけはしっかりと認識できた。左腕を跳ね上げた。主の意志を受けた銀蛇が、のたうちながらナシーヴの右手を撃砕する。指がちぎれ飛んだ。
「がッ」
苦鳴は一瞬で終わる。彼はもう一方の手で鎖を捕らえると口で咥え、すかさず剣を拾った。さらに、肉の筋を浮き立たせながら頸をひねる。
立ち上がりかけていたシトは、強引に斬間に引き込まれた。
一息で五つの火花が散った。剣と剣が狂猛な咆哮を上げ、牙を突き立て合った。
双方、腕一本で刃を駆っている。
シトは鎖を噛まれており、左腕を動かせなかった。
ナシーヴは右手を破壊されていた。皮一枚でつながる小指が、激しい剣撃に暴れている。玄妙無辺を旨とするはずのその剣技は、今や片手を封ぜられ、勢い任せの乱撃と成り果てた。しかしそれゆえに、異様な圧力をともなって叩き込まれてくる。一撃を止めるごとに、彼の獣性が流し込まれてくる。平常心が散々にかき乱される。止めきれず、全身に斬傷を刻まれる。
彼の頬は、鎖を噛み千切らんばかりの笑みに歪んでいた。生まれてはじめて玩具を与えられた幼子にも似た、救いようもなく無邪気な笑顔。
――自分はそんな顔をしていない、という自信は、なかった。
もはや剣技も何もない。魔獣と凶獣の殺し合い。どこまでも加速してゆく爪牙の応酬。二匹の修羅は暴虐の枢軸と化し、殺意と破壊を撒き散らす。
ナシーヴの裡に眠る烈火が噴き出てきたかのような、ひときわ激烈極まる一撃に、剣と腕を撃ち払われた。胴体が無防備にさらけ出される。
危機感。
脊髄が引き抜かれるような。
全力で石畳を蹴り、斬間を離脱。
刹那――
ナシーヴが鎖から口を放したことと、
ナシーヴが旋回して一瞬背を向けたことと、
ナシーヴが肘を突き出して
闇色の
滑らかな平面
空間を二分して
何が起きたか、理解する間も
そんなはずが
――決着。
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