黒い濁流が殺到してきた。
 すくなくともラーニにはそう感じられた。
 体を走る恐怖。両腰の新調した手甲剣を前で交差させる。
 激突。
 炸裂した衝撃が顔を叩く。
 一撃の勢いを殺しきれず、突き飛ばされる。
 背中から地面に叩きつけられ、しかし即座に後転して起き上がる。か細く咳き込む。
 前を見る。
 寒々とした夜景。誰もいない。
「っ!?」
 一瞬の混乱。
 ――とっさに前へ身を投げ出していなければ、右肩から左腰にかけて斬り割られ、悶死していたことだろう。
 すぐ後ろを、死霊のうめきのような刃鳴りが奔り抜けていった。
 今度は前転し、起き上がりざまに振り返る。
 短い悲鳴が喉からせり出た。
 ザムロの鬱蒼とした巨体が、視界を埋め尽くすほど近くにあった。すでに曲刀を振りかぶっていた。
 激烈な金属の悲鳴は、長く尾を引いた。
 すでに腕が軋みをあげている。
 ――だめだ!
 力の限り踏ん張り、後ろへ倒れようとする慣性に必死で耐える。みしりと骨が鳴った気がした。構わず、反動をつけて地面を蹴る。突進すると見せかけて彼我の間に界面を形成、虚相界にもぐり込む。
 流れを変え、背後に回りこむための所作であったが――
 読まれていた。
 感情の海に入った瞬間、目の前に曲刃が迫っていた。黒ずんだ汚れや、わずかな刃こぼれまで確認できる。
 ラーニが虚相界に入るのとほぼ同時に、ザムロも同じことをしていたのだ。己の肉体の中心線に界面を念成し、旋回することによって瞬時に現世から去り、さらにその回転運動を斬撃につなげていた。あまりにも鮮やかな「(せん)」。
 悲鳴を上げる間もなかった。

 

 ●

 

 ひとつだけ言えるのは、この青年が以前よりも格段に強力な敵手になっているということだった。
 シトは、剣を前に突き出し、鎖を射出する左腕は腰に引きつける構えで、以前討ち合った相手との再戦を佇んでいた。
 ナシーヴが、そこにいる。こちらを見るでもなく見ている。
 肉の一筋、骨の髄に至るまで見透かされていそうな、落ち着かぬ気分にさせられる眼。特にどこを注視しているでもなく、一見すると盲いているのかと思わせる眼。
 何かが、明らかに変わっている。
 戦いのさなかにこういう眼をする人間が、一般にどう言いあらわされているかを、シトは知っていた。
 だからこそ、確信が持てない。
 こんな短期間でその領域≠ノ至る人間がいるとは思えなかったから。
 ……停滞を斬り裂くように、シトは呼気を短く吐いた。
 体側を入れ替えざまに、左腕を突き出す。連なる銀光が解き放たれる。
 蛇のような擦過音が大気に焦げ付き、直後に音高く弾かれた。
 ナシーヴがうるさげに奇剣を掲げ、鉄鎖の一撃を振り払ったのだ。
 構わず、精妙に腕を振りながら連続して叩きつける。流麗な曲線を描く銀閃が、シトを中心に幾筋も拡散し、ナシーヴの立つ一点に向けて滑らかに収束してゆくように見えた。
 ナシーヴの周りで、無数の光華が狂い咲く。
 けたたましい鋼の悲鳴が、ひとつながりの怪音となって鼓膜を苛む。
 思わず、喉が鳴った。
 連撃を、ことごとく受け止めている。
 何という――
 ――いや。
 心中で首を振り、思いなおす。
 ――この時点で、彼は罠にかかった。
 なにも、ただ闇雲に鎖を叩き込んでいるわけではない。打ち払われた鎖は大きく弧を描き、更に増幅された慣性を得て再突撃をかける。迎撃すればするほど、自らを窮地に追い込む結果をまねく袋小路。最初は景気よく反射神経の優秀さを見せつけることができても、やがては体力か集中力のいずれかが尽きるだけだ。
 もう逃れられない。
 鎖と剣の激突で爆発した衝撃が大気を震わし、シトの髪をわずかに揺らした。
 左拳を縦横に振り回す。それに追従して、銀の乱舞が世界を満たし、あらゆる方向から敵手に襲い掛かる。鎖が風を切る高い音と、硬質の金属音が、交響する。
 不意に――
「無意味」
 いかなる感情も読み取れないつぶやきが、不思議とよく響いてきた。
 ぶつり。
 ひどく鈍い、異音。
 空中を、霞むほどの高速で、しかも不規則な軌道で迅り回る鎖。それが、剣で断ち斬られた音だ。
 その信じがたい現実を受け入れるのに、シトは一秒も要しなかった。
 しかし――
 その一秒に満たぬ隙に、目前まで踏み込まれていた事実には、さすがに硬直した。微塵も音を立てず、空気も動かさず、最初からそこにいたかのような、寒気を催すほど完璧な踏み込み。
 さらに行動が遅れる。
 ナシーヴの見上げる視線と、眼が合った。
 なめらかで冷たい、鋼に似た色だった。それはシトを見ていなかった(・・・・・・・・・・・・・)
 捻り出すような斬撃。噴き上がってくる。
 わずかに遅れてシトが剣を横に構え、防御の体勢。
 激突。
 ――否。
 シトは眼を限界まで見開く。
 衝突の直前に、ナシーヴが剣の柄を跳ね上げ、刃を下に落とした。受け流すようにシトの防備をかいくぐり――

 

 その回転を、一閃につなげる。
 大上段からの、振り下ろし。

 

 シトの顔は完全に下を向いていた。当たり前だ。最初の振り上げに対応して防御したのだから。体のどの部分も、第二の死撃に反応できていない。このまま、なすすべもなく両断され
 ――るつもりはなかった。
 シトは白皙の顔に、儚い微笑を乗せる。
 この男と死合うのは二度目。不規則に変動する太刀筋を使った、玄妙無辺なる剣技をして玄剣≠ニ号するはすでに明白。一度目は妙技であっても、二度目はもはや陳腐でしかあらず。
 シトは右手に保持した剣を横に構えている。
 もちろん、最初の振り上げに対する防備なのだが――
 もうひとつ、意味があった。
 剣身の先、切っ先にほど近い位置に、シトの左手が添えられている。そこから伸びる鎖が一本、刃に絡みつき、固定していた。
 剣と、鎖が、軋みを上げている。音に聞こえたわけではなく、それらを握り締める両手から伝わる手ごたえにより、それと知れる。
 剣には、今すぐにでも振り抜けるよう、右から左へと横薙ぐ力を加えている。
 鎖には、それを必死に押さえつけるよう、手元に引き寄せる力を加えている。
 両者の力が危うい拮抗を成り立たせ、この瞬間まで静止状態であったが――
 次に世界が極微の刻を進めたとき、箍がはずれた。
 鎖が、はずれた。
 抑圧されていた斬閃は、解き放たれたその瞬間から神速を得、シトの視界を横一文字に裁断した。ナシーヴの姿など、その剣が振り下ろされもしないうちに斬滅されていた。
 自身ですら意外なまでの、完全なる読み勝ち。
 ――よもや、ここまで読み通りにことが運ぶとは。
 相手に見え透いた小細工を弄させ、勝利を確信させ、しかし最終的にはそのすべてを飲み込む罠≠しかけていた。鉄壁の組み立て。約束される勝利。
 結果――
 結果だけを、冷徹に、簡潔に言いあらわすならば――
 シトが、神がかった神技を完璧に作動させ終えた瞬間、

 

 その敗北が、決定した。

 

 軽い、衝撃。
 背中が、じっとりと、温かくなった。それほどまでに汗をかいていたのか、と思った。その温もりが熱に変わり、痛みに変わったとき、シトはやっと、自らの後背より、血煙が吹き出ていることを知った。
 わけが、わからなかった。
 眼に映る夜の街並みが、紅く染まった。
 その現象が何を意味するのか。考えたくはなかったし、考える時間もなかった。
 確かなのは、自分の体から力が抜け、くずおれたということ。
 ただそれだけ。


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