正直、拍子抜けかもしれない。
 スサリエは肩の力を抜いた。両腕を交差させるような動きで、左手首に収められた矢包から右手甲の連弩へ、右手首の矢包から左手甲の連弩へと、短い矢を装填する。
 前を見ると、スラファが猿めいた姿勢でこっちを見ていた。毒液から燃え立つ炎のような眼をしている。こめかみから大量の朱を滴らせている。
「ッハァ……てめえ、コラ、タコ、コラ、殺すぞ、オイ、コラ、超犯す!」
 蛇に似た呼気。
「その前に言葉を学んでちょうだい類人猿」
 げんなり。
 別に何か奇想めいた攻防があったわけでもなく、睨みあいのさなか敵手がわずかに動いたところを弩で狙い撃ったら、普通に頭をかすめてやや太い血管を破っていったという、ただそれだけの話である。
 スサリエは脳天を狙ったのだから、一応避けられたということになるが、避けきれずに負傷しているところを見ると、どうにも底の浅さを感じさせる。
「ブチ犯す!」
 大量の唾を飛ばしてそう叫ぶと、疾走開始。さすがに速い。大きく吼えながら間合いを消化しにかかる。異様に長い舌が、獣の速度で後ろになびく。
 が、撃ってくれと言っているようなものだ。手首を差し向け、優美な指先にくくりつけられた引き金を作動させる。弦が跳ね、矢が飛ぶ。
 瞬間、長く尾を引く叫び声が唐突に止まった。すでに少年の小柄な影は消失している。
 硬い音とともに、鏃が石畳を噛む。
 さすがに、虚剣術《てじな》を使う程度の知性はあったようだ。
 いささかも慌てず、スサリエは数瞬待つ。
 ――さてさて、ぶっつけ本番だけど、どうなることやら。
 なんだか緊張感を抱けないのはなぜだろう。
 そろそろ頃合か。肩越しに弩を後ろへ向け――
 唐突に、消失した叫び声が再び空気を震わせはじめた。
 ――撃った。
「オオオォォオオオォオオオォォォオうほぉっ!?」
 変な声。次いでぺたりという音。
 ため息混じりにおもむろに、うしろを振り向く。
 スラファは片膝をついて、呻いていた。肩に矢が刺さっている。
「クソがッ! なんでだッ!」
 血色の眼光を突きたててくる。
「なんでって……」
 虚剣術の性質さえ知っていれば、消えた後に背後から攻撃を仕掛けてくるのが定石であることぐらい、簡単に予想がつく。
 まさか大声を上げたまま虚相界から出てくるほど馬鹿だとは思いもしなかったが。
 少年は、こめかみを凄い勢いで痙攣させつつ矢を引き抜いた。
「ぜってぇ殺す! 殺して死なして犯して死なして殺す! ブチ抜く!」

 ●

 もうこれは無理だ。
 ラーニが虚相界に入った瞬間を迎え撃つように繰り出される横薙ぎ。
 絶妙過ぎる機合いにて振るわれる曲刀は、何をどう足掻いても回避不能。体を前に押し進めようとする動きが、いまだに全身の肉を支配しており、避ける動作の開始が間に合わない。
 目前に迫る終わり。
 確実な終わり。
 死。
 ――死……
 ひどく、こみ上げてくるものがある。
 胸が軋みを上げている。
 まるで、何かが体の中で膨れ上がり、臓腑をぎしぎしと圧迫しているかのようだ。

「…………」

 ――それはとても冷たいものに違いない。

「……い――」

 ――それはとても黒いものに違いない。

「……や――」

 ――それは、恐怖に違いない。

「……いやぁ――!」

 体を、丸めた。
 突き動かされるように。
 死から、眼をそらした。
 現実から、逃げた。
 少なくともラーニは自分の行動を、そう解釈した。そうとしか解釈し得ない、愚行であった。
 丸まってどうする。
 丸まってどうするんだ。
 こんな土壇場でまで逃避に走ろうとする自分の弱さが、ほとほと嫌になる。
 だが、その教訓を生かす機会は、もう訪れないだろう。
 わたしはこれから死ぬ。
 丸めた背中を断ち割られて死ぬ。
 激痛に泣き叫びながら死ぬ。
 死ぬ――
「……?」
 ――はずだったのだが。
「かわした……か」
 夜晶石より反響してくるかのような声が、虚相界に広がった。物質界で聞くものよりさらに沈鬱な韻律で、ラーニに意味を伝え、溶けていった。
 ラーニは、いまだに物質界に残っている両脚を引き抜き、そのまま前転。姿勢を安定させると、振り返った。
「悪いが、君の成長を喜ぶ気分ではない」
 ザムロは得物を振りぬいた姿勢のまま、こちらを見もせずに言った。
 周囲は、海の底を思わせる紺色だ。だが、微妙な濃淡をうねらせているその情景は、狭間から雷光を覗かせる暗雲のごとく、赫々とした戦意を時折ほとばしらせている。
 ラーニは、そうしたなかでザムロと対峙している。
 ――何が、起きたのか。
 なぜ自分が生きているのか。
 物質界と虚相界を律する理の違いこそが、その答えだった。
 虚相界には、重力がない。
 それゆえ、上半身を虚相界、下半身を物質界に置いている人間には、歪な作用が働く。
 重さという枷を無視して動ける上半身に対して、重力を受ける下半身は、瞬間的には固定されたような形になる。
 そのとき全身を丸めてしまえば、下半身が支点の役割を果たし、普通に丸まるよりも更に下へと体を逃すことができる。
 ぎりぎりではあった。
 かなり幸運に助けられた面もあっただろう。
 だが、あの状況において、背を曲げて身を縮めることこそが、最善の行動だったのだ。
 ――偶然だ。
 反射的に、そう思う。
 しかし。
 ――ほんとうに、そうなのかな。
 あの、絶望的に見えた局面で、狙い済ましたかのように最良の方策を採る。
 できすぎている。
 素直に、そう思う。
 身を縮こまらせる行動が、単に恐怖からきたものなら、そもそも思考が停止して何一つ行動を起こさないまま斬られていたと思う。自分のことだから、わかる。
 であるならば。
 切り抜ける道がわかっていて、判断し、行動に移した……ということ。
 誰が?
 わたしが。
 胸の圧迫感が、ふいに和らいだ。
 わたしが、判断し、行動に移した。
 そういうことが、できた。
 できたんだ。
 恐怖の代わりに、意志の灯が、心を照らした。
 ――やってみよう。
 できなくはないことが、わかったから。
 やれるだけ、やってみよう。
「ザムロ!」
 叫んだ。
「あなたと戦う理由はありません。話を、聞いてください」

 ●

 何も知らぬ第三者からの眼で見ると、おそらく自分が一方的に押しているように見えるのではないだろうか。
 じわりと、冷たい汗が艶めいた肌を伝い落ちる。
 そのさまを感じ取ることに、スサリエは逃避しそうになっていた。
 ぎょっとするほど大量の血に濡れた顔で、眼の前の少年が頬を歪めている。
 ぎちりと音が鳴りそうな笑みだ。
 同時に、余裕の笑みでもあった。
 無傷の自分が表情をなくし、負傷だらけの敵手が禍々しく哂っている。その状況をおかしく思う余裕もほとんどない。
 正直、舐めていた。
 虚剣術を、単に消えるだけの小細工だと思っていた。出てきたところを撃ち抜けば、簡単に討てる、とも。
 ある意味、正解ではある。虚相界に潜ったのちの行動を予測さえできれば、それで勝利は確定する。実際、スサリエは単純な推理のもとに敵の再出現地点を割り出し、両手首に固定された連弩で少年を狙い撃つことができた。
 スサリエの真後ろである。
 そこ以外に「突然消える技」の利点を生かせる場所など存在しない。
 敵の眼の前で虚相界に潜って見せ、狼狽しているところを後ろから斬り捨てる。それこそが彼ら虚剣士の勝利への常道なのだろう。
 初見の相手であれば、まず間違いなく後ろに現れるはず。
 その予測は完璧に正しく、それゆえに放たれた矢は敵の矮躯を捉え、肩に食い込んだ。
 なぜか、血は飛び散らなかった。
 その意味について深く考えることもなく、三度ほどまったく同じ攻防を繰り返した。
 敵が潜り、後ろに現れ、自分が迎え撃つ。
 敵が潜り、後ろに現れ、自分が迎え撃つ。
 敵が潜り、後ろに現れ、自分が迎え撃つ。
 正直、二度目あたりでこの状況のわけのわからなさを自覚してはいたのだけれど、襲ってくるものを迎え撃たないわけにもいかず、ずるずると何度も同じことをしてしまった。
 その結果が今の状況である。
 とはいえ、スサリエ自身もこの窮地の全容を把握しているわけではない。
 ただ、いい加減自分から仕掛けようとして両腕を動かした瞬間、ぞっとするほどすぐそばを、何か小さなモノが走り抜けていったことはわかった。
 瞬間――
「え……?」
 まるで(・・・)豪雨が降ってきたかのようだった(・・・・・・・・・・・・・・・)
 雨と違うのは、それらがあらゆる角度を描いて乱れ飛んでいること。
 上から下から右から左から、極小の塊が無数に飛び交う。
 無数の弾体。視認すら難しい速度。それが周囲の薄闇を満たしている。空気を穿つ擦過音が、幾重にも幾重にも巻き起こり、連続した。
 当たればただでは済まないことだけはわかる。
 しかも、それらはスサリエの体には一切触れず、その柔肌をなぞるように通りすぎてゆく。あたかも空間をスサリエの形に削ろうとしているかのようだ。
 理解が追いつかない。
 なに、これ。
 引き攣ったような笑いが耳朶を不快になぞり上げる。
「わァかってんだろうなァ、スサリエ・リフィナプス。次に動いたら、俺の血が(・・・・)あんたの体を撃ち抜くぜェ?」
 意味はまるでわからない。
 だが、その言葉が真実であると、体中の全細胞が騒ぎ立てていた。
「さァてと、まずは武器を捨ててもらおうかァー? あーん?」
 ねっとりとした視線が、体に貪りついてくる。
 戦慄とともに。


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