ディザルは取り留めのない回顧をやめ、眼を開いた。
彼は原生林の中で、幹に背を預けていた。
草木の匂いと虫の唄を含んだ闇が、あたりを覆っている。見上げれば、月桂樹のまばらな樹冠の間から、欠けた月がこちらを冷ややかに見下していた。
ちょうど、状況開始の刻限である。
「――征くぞ」
時間感覚は精密無比だった。
「はッ!」
十数人の男たちの応えが唱和する。全員、両腰に手甲剣を下げている。彼らはディザルより直々に教えを賜った、精鋭の暗殺部隊――ラーニの兄弟弟子ともいうべき者たちであった。
草地を馳せる音が、森の口へと駆け抜けてゆく。
やがて彼らは月光の下へと飛び出した。目前に塀が出現する。
瞬時に虚相界へもぐり込んでそれを越え、敷地の内で次々と実体化。
広い庭園に出る。青々とした芝生と、暖色の煉瓦道と、色とりどりの草樹花葉。日光の下で見たらさぞ明媚な眺めだったことだろう。
その向こうに、壮麗といっていい建物が立っている。月明かりに照らされて、薄桃色の壁と白い柱の対比が嫌味のない華やかさを紡いでいた。
しかし、なぜか壁の一部が崩れ落ちていた。黒ずんだ内部の様子が見える。
ディザルたちは闇に乗じ、音もなく駆け寄る。
無数の鞘走りが短く鳴り、大振りな手甲剣が双翼のように後ろに流される。
破壊された所から矢のように進入し、展開。それぞれが死角を埋めるように散開し、予想される反撃にそなえる。
――何も起きない。
いささか緊張を殺がれた部下たちの様子を、ディザルは闇の中でもはっきりと認識した。
独立剣廷吏スサリエ・リフィナプスが、〈ギセ・ムの右眼〉の襲撃に対して何も対策を立てていなかったとは考えられない。独立剣廷吏は、そんな愚物が就任できるほど形骸化した役職ではない。
ふと、どこかで弩の弦が弾ける音がした。ディザル以外の誰も聞くことはできないであろうほど、遠い場所から。
ひどく、危機感を抱いた。
「全員、虚相界に潜――」
巨大な掌に張り飛ばされる錯覚を抱かせるほどの轟音が、全員を打ちのめす。視界全域が爆炎に包み込まれた。地獄が吹き上がってきたかのような禍々しい焔と衝撃に、ディザルの部隊は一瞬で焼き尽くされ、粉砕された。
虚相界に逃げ込む暇すらなかった。
スサリエの豪邸は、中に多くの命を抱えたまま、爆ぜ、砕け、燃え上がった。
彼らの悲鳴や断末魔すらも、呑み下して。
●
「かつて地皇と地監府によって野放図に広げられたこの国の版図だけど、それが世界のすべてってわけじゃないわ。むしろほんの一部に過ぎないの。世界の果てなんて言われている死峰ラタルスワジやオッディルン海の向こうにも、ちゃんと世界はつづいてるし、人が住んでいる場所もあるの。そしてその中には、わたしたちの想像だにしない文化と技術を持った連中もいるわ。これは、そういうところからいくつもの偶然に助けられて伝播してきた第三種異文明匿技物よ」
金属製の小さな筒をもてあそびながら、スサリエは言う。
「第三種……何ですか?」
「第三種異文明匿技物。地監府の公安の連中がいろんな理由から流出を抑制している技や物のこと。これは雷管≠チていうもので、同じく第三種異文明匿技物の吼土≠フ中に埋め込んでぶっ叩くと、ものすごい火と衝撃を撒き散らすの」
腰に下げていた弩を、抜く手も見せずに構えた。恐ろしく迅い動作。
「あとは応用ね。家の七箇所に吼土≠ニ雷管≠設置し、一本の縄に連動して同時に爆発する仕掛けを作っておく。あとは連中を中に誘い込んで、弩を撃ち込んで、縄を切って、どっかん。吼土≠フ調合にけっこう手間取ったけど、完っ璧にうまくいったわ」
もちろん、中にはもう使用人は一人もいない。全員、無期限の有給休暇を強制的にとらせて追っ払っている。
スサリエの顔は紅く輝いていた。それは単に燃え上がる炎が白い面に映えているというだけでなく、紅潮しているように見えた。
「あぁン……綺麗……一度燃やしてみたかったのよねぇ、あの家……」
思わず、ちょっと身を引く。
そこへ、うしろから白い手が伸びてラーニとスサリエの頭を下げさせた。
「シト……?」
シトは険しい眼で燃える屋敷のほうを見ていた。
つられてラーニもそちらへ眼を戻す。
巨大な業火が、周囲の庭園を赤々と照らし、夜天を焦がしている。
その一部が、急に膨れ上がった。
気泡のような球状の膨張。
「な、に……?」
不可解なその現象の意味を考える間もなく、炎の膨らみが弾けた。
豪、と空気が鳴動する。熱風がラーニたちの位置まで吹きつけてくる。
燃え盛る焔柱の根元から、大気の塊が噴き出ていた。凄まじい突風がつむじを巻きながら飛び出し、塀や森に激しく打ち当たった。炎の彩りが巻き込まれていることによって、そのさまははっきりと眼に見えた。
それは、あたかも横向きの竜巻のようだ。炎や、空気や、燃え残った残骸、周囲の草花などすべてを巻き込みながら、あまりにも巨大な咆哮をあげていた。天にのびる大火を内側から食い破り、大半を吹き散らしていた。
「ッ!」
「うそ……」
炎が四散した跡には、人影。
黒々とわだかまる、人影。
ちろちろと、法衣の裾に熾がまとわりついている。赫々と足元の残骸が燻り、その男の周囲を血の色に染めていた。
上腕以上の尺を持つ大型手甲剣を握っている。その妙に生物的な輪郭ゆえに、影は腕の先にもう一つの間接を持つ奇形の生き物に見えた。
彼は腰を落とし、体全体を捻り、肩越しに腕を突き出していた。
あの型をラーニは知っている。
ラーニだけは、知っている。
彼――ディザルの教えを受けた麒麟児として。
一度だけ眼の前で実践してもらったことがある、極端な攻撃偏重の奥義。
〈羅殲〉。
肉体全体の力を導く主要な十三の関節。それらから生じるすべての螺旋運動を損分なく剣に乗せ、一気に突き撃つ技。
少しでも諸関節を可動させる機を見誤れば、異なる関節から生じた螺旋運動は互いに打ち消しあって威力を殺してしまい、下手を打つと自らの肢体をねじ切ることにすらなる諸刃の剣だ。
瞬間的に剣尖にかかる回転力は凄まじく、敵手が弄するあらゆる防備を突き抜けて、すみやかに絶息せしめることができる。切り札ともいうべき滅技。
だが、それも人間同士の斬りあいにおいて絶対的な威を有するというだけのこと。今眼の前で起こっている、天変地異と見まごうような異常現象を引き起こす力などあるはずがない。
はずがないのだが――
ラーニはほとんど確信していた。
あの大災をねじり伏せた、強大な螺旋風。
引き起こしたのは間違いなくディザルの〈羅殲〉だ。
一体どんな原理が働いたのか見当もつかないけれど、渦の向きと、突き出されたディザルの腕の向きは完全に一致している。
ふいに、後ろからぐいと襟首を引かれた。
シトだ。
それで、我に返る。
「と、とにかく、逃げよっ」
小声で、スサリエが皆の気持ちを代弁した。
●
動作や剣撃に、意味や感情を込め、相手に叩きつける。
ディザルが見つけた答えとは、極論すればそういうものだった。
普通の言語や身ぶり手ぶりでは、単純な概念しか伝え切れないのだ。
自分以外の人間は、自由にお互いをわかりあうことができる。だが、ディザルだけはそれが一方通行だった。わかってやることはできても、わかってもらうことはできない。
ただの一度も。
寂寥感などという言葉では表せない、救いようのない孤独であった。
ディザルの精神はほとんど閉塞していたと言ってもよい。それも、かなり絶望的に。
だから、わかってもらいたかった。だれでもいいから、この孤独を見つけてほしかった。それはもはや人生の主題といってもよかった。
――それゆえ、ルキスと最初に刃を交えたとき。
「おもしろい男ね。これほど奇妙な理で動く剣ははじめて受けたわ」
そのとき。
つかのま。
一瞬。
ほんの少しだけ、何かが相手に伝わったような気がした。
偶然かもしれない。気のせいかもしれない。おそらくそうなのだろう。
だが、ひょっとしたら。
その希望は、あまりに甘美であった。
そして、仮説を立てる。
もしかすると、死力を尽くした闘争とは、言葉以上に有用な伝達手段なのではなかろうか。
斬撃の方向、頃合。彼我の位置関係。激突の機。込める力の種類、強弱。衝撃を弾くか、浸透させるか、押し込むか、引き込むか。
それらすべての機微を巧妙に組み合わせれば、無限の意味を組み立てることができるのではないか。ディザルの野放図なまでに膨大な精神活動を、表現できるのではないか。
一筋の光明を見た思いだった。
それを成すためには、精密無比な身体制御が必要不可欠。
だから、ディザルはひたすらに修練を重ねた。明らかに、常軌を逸したほどにまで。
血がしぶき、汗と混じり、肉が裂け、膿み、腫れても、まったく頓着しなかった。
幾千?
幾万?
幾億?
気の遠くなるような型の反復。
ディザルは自分の肉体から徹底的に不随意の動きを排し、指の一本、筋肉の一筋にいたるまで完全に己の支配化におこうとした。ほとんど狂気の域にまで達した妄執が、それを可能とした。神経網の異様な発達を招き、あげくに臓物の働きまで己の意志で制御できるにいたった。
さらに、それら肉体的な鍛錬の成果を統御する、精神的な鍛錬をも進めていった。
ルキスから虚剣術を伝授されたのが、結果としては起爆剤となった。
今まで見てきた世界ならざる世界の存在を知るということ。
ふたつの世界を行き来するということ。
それは、世界を客観視するという発想の呼び水となった。
認識の、構造の、奇形化。
世界の観かたが変わっていった。
普通の人間は、二つの眼を通じて前を見る。
しかし彼が勝ち得た認識は、それとは根本から異なっていた。
――己の存在が拡散し、世界と交じり合ってゆく心地。
ひとつの視点から世界を見るのではなく、己の内側に世界を取り込むことによってあらゆる位置、立場から同時に観る。
万物が流転するということの構造を識る。
そうした観点を持つことによって、己の肉体に対する感覚は完璧なものとなった。
さらに長い期間を費やして、完全なる肉体機能と完全なる精神機能の相互関連を煮詰めに煮詰め――
とうとう、完成した。
言葉にたよらず、すべてを表現するに足る、ディザルの言語が。
四方より迫りくる爆圧と火炎。
熱気が肌を灼く。
無限に引き伸ばされる時間のなかで、それらをながめる。
特に一点を注視するのではなく、視界全域を同時に観る。
茫漠たる心地で。
――すると、わかる。
自然と、頭のなかに世界がもうひとつ出来上がる。
周囲の状況の客観的な縮図が組み上がる。
それは単に視覚的なものというだけではなく、そこをめぐる力の流れ、しくみをも知覚できる、五感を超えた図式であった。
――だから、わかる。
燃え上がる家具、壁紙、柱、調度品、梁、死体。それらひとつひとつの燃焼が、この巨大な炎の坩堝のなかで、どのように広がり、いかなる作用をしめし、いずれの影響をおよぼすのか。全体的な力の流れがどうなるのか。そして「屋敷の炎上」という名の構造に対し、どのような刺激をあたえるとどうなるか。
――すべて、わかる。
炎は、渦を巻いていた。
螺旋の猛焔。周囲の大気を貪欲に取り込む、焼滅の渦。
だが、驚くにはあたらない。森羅万象はすべて何らかの螺旋を描く原理によって力を得ているのだ。この世でただひとり、ディザルだけがそれをわかっていた。
なにかの現象を止めたいのであれば、それが存在する根拠たる螺旋原理を崩せばよい。
ゆえに、彼は構えた。
腰を落とし、手甲剣を握る手を脇にひきつける。体中のねじれを拳に収束させる。
それ自体がひとつの主題を備えた彫像のごとく、一種異様な美をもった構え。
踏み込み。地中よりきたる反響を脚から取り込む。
そして。
解き放つ。
大地の力を、体の諸関節のひねりで螺旋形によりあわせ、剣尖から撃ち放つ。
〈羅殲〉。
豪、と空気に新たな渦が発生した。
凄まじく強い、横向きの螺旋であった。
円形の孔が焔の帳に穿たれ、何かに押しのけられるように広がった。
大気の流れを読み、最もふさわしい瞬間、最も適切な一点へ、最小限の力でねじれを与える。
ただそれだけのことで、爆炎も、爆圧も、塵芥のごとく吹き散らされていった。
停滞した時間が終わる。
旋風の余韻に乗って涼しい夜気が周囲に入り込んでくる。
すぐに、人の存在を捉えた。
三人。
若い男と、若い女と、それにラーニ・ザリトゥ。
木陰に隠れているつもりなのだろうが、ディザルの認識をもってすれば目の前にいるのと変わらない。
やや慌てながら、森の中へと逃げてゆく。
「街の方角か」
ぽつりと。
そしておもむろに界面を形成し、虚相界に潜り込む。
極彩色の世界に浮遊しながら、軽く気息を充実させる。
転瞬――
「珂ァッ!」
咆哮。
多種多様な色の混沌を、急激に無色が覆ってゆく。爆発的に広がってゆく。
ディザルが放った精神圧だ。
大気のように虚相界を満たしている感情のうねりを、特に方向性の定まっていない純粋な気が押し流してゆく。
島全域の虚相界が、その瞬間、虚無に塗りつぶされた。
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