無限に広がる蒼い世界のただなかで、女の子の妖精がひとり、楽しげに宙を舞っていました。
 通気口から都の外に飛び出して、視界を覆い尽くす彩雲の水彩画の中に飛び込んで、永劫の風を一身に浴びて、風を読み、風に乗り、くるくると、ふわふわと。
 明るいお日様の光。少し冷たい空気。ごうごうと過ぎてゆく風。そして全身を包み込む青い空! 大気の中に体が溶け出してゆくようなこの感覚を、ティエルンは心ゆくまで味わいました。彼女の背には翼はありません。ただ手足をしなやかにゆらめかせ、自身の重心を自在に操って宙を泳いでいました。
 ――神様がすべての妖精たちにくれた、すてきな魔法。空を自由に飛べる力。
 ほっそりとした肢体を伸びやかにゆらして宙を泳ぐ様は、はっとするほど美しく、幻のようでした。しかしクリクリとよく動く大きな眼と、明るい栗色の髪の毛が、ティエルンをどちらかといえば子供っぽい感じにしていました。
 ティエルンは空中でくるりと宙返りして、背後にあった妖精の都を見やります。それは近くからではとても大きな壁の一部にしか見えませんでした。遠くの方は空気に霞んでいて、全体は把握できません。
 妖精の都は、とても空気が澄んでいる日にうんと離れて見てみれば、青空の中にぽつんと浮かぶ、大きな大きな銀の剣に見えます。いっとう飛ぶのが巧い妖精が、端から端まで急いで飛んでみても十日はかかってしまうほどの、それはそれは大きな剣でした。その中は海綿のように空洞だらけで、たくさんの妖精たちが暮らしています。
 ふと、ティエルンは大粒の瞳を別の方向に向けました。瞬かせました。視線の先には、都に向かって近づいてくる人影があります。ティエルンのような滑らかな遊飛ではなく、ひどく必死に不格好に、妖精の都へとたどり着こうとしているようでした。
 それは、天使に見えました。なぜなら、その背中には大きな翼があったのです。
 彼はアトの方角からやってきたのです。永劫の風下からやってきたのです。
 汗だくになりながら。
 やっとのことで妖精の都の丸い出入り口にたどり着き、そこに渡された縄をつかんだ天使は、額の汗をぬぐってほっと一息ついています。ティエルンはそれをはじめに見つけた妖精です。彼の大きな翼に魅入られていました。
 ティエルンは恐る恐る宙を移動して、彼に近づきました。しげしげと眺めます。見た目は若い男の人に似ていて、そでの長い服を着ていました。背中の翼は白くて大きくて、羽毛ひとつひとつがふわふわと風になびいています。
「あなたはだぁれ?」
 ティエルンは恐る恐る聞きました。
 彼は驚いたのかビクリと体をふるわせ、こちらを見ました。すぐに笑顔になりました。
「こんにちはお嬢さん。僕は天使です」
 そしてティエルンが想像した通りの答えをいいました。
「どこからきたの?」
 聞くと、天使は“永劫の風下”――アトの方角を指差します。
「あっちにむかってずっとずっと飛んでいった先に、神様の都があります。僕はそこからやってきました」
「へぇ〜」
 ティエルンは素直に感心しました。今までも、この妖精の都から飛び立って別の都を探しに行った妖精はいたのです。しかしその誰もが何も見つけられずに戻ってきたのでした。神様の都というのはよほど遠い所にあるのでしょう。
「この大空のどこかに、重力にしばられず、優雅に飛び回る種族がすむ都があると聞いて、ぜひとも見てみたくて羽ばたいてきました」
 ジュウリョクって何なんだろう、と一瞬ティエルンは思いましたが、それよりも自分たちの都を見たくて天使がやってきたことがうれしくて、声を弾ませました。
「妖精の都へようこそ天使さん。あたしが案内してあげる」
「やぁ、ありがとうお嬢さん。ぜひおねがいします」
 天使は、妖精の都がこの空に誕生して以来、初めて訪れた外からの客でした。
 ティエルンは天使を連れて、空洞の通路の一つを飛んでいました。遠くからは銀色に見える妖精の都も、近くでみるとほこりっぽい灰色です。でも壁のツルツルとした表面ぜんぶにびっしりと細い細い溝があり、そこを時々青色や緑色や紫色の光がスッと凄い速さで走ってゆく様は、近くで見なければわからない美しさでした。それは魔力の光でした。巨大な都全体に力を行き届かせる魔法のしくみでした。
 やがて、なめらかな回廊が終わり、壁一面にびっしりと妖精の家がひっついている空間にたどり着きました。家と家の間には妖精達の移動を助けるため、縦横に縄が渡されていました。
 いくつかの家の中から、妖精が顔を出しては驚いていました。
「みろ、天使だ」
「ほんとうだ、翼がある」
 ざわざわと騒がしくなります。ティエルンはわけもなく誇らしい気持ちで、その姿を観察しました。男の人がいて、女の人がいました。お年寄りがいて、子供がいました。みんなティエルンと同じように、ほっそりと流れるような体つきでした。
 ティエルンはクモの巣のようにからみあった縄の一本を掴んで止まりました。天使もそれにならおうとしましたが、縄をつかみそこねて飛んできた勢いのまま通り過ぎかけました。あたふたと翼を動かして、やっとのことで縄をつかみ、息をつきました。
「だいじょうぶ?」
「はは、飛ぶのに慣れてないもので」
「天使なのに?」
 ティエルンは首をかしげました。
 そこへ、ほかの妖精たちが物珍しそうに近づいてきます。
「ティエルン、そのお方はもしや……」
 いちばん年長の妖精が恐る恐る聞きいてきました。
「天使さんだよ。この都のことを知りたいんだって」
 ティエルンはまるで自慢するように胸を張りながら応えます。
 ざわざわと一層騒がしくなりました。
「やっぱり天使だって」
「神様の使いか」
「なんてきれいなおすがた」
「ありがたや」
「ありがたや」
 いつの間にか辺りには沢山の妖精たちが目を輝かせてこちらを見ています。
「あの」
 そのとき、天使が大きな声で皆に呼びかけました。
「あなたがたのリーダーに会わせていただきたいのですが」

 ●

 たくさんの妖精たちに案内されて、天使はひときわ大きな家が壁にひっついている場所までやってきました。
「導師トハルンさまの家です。ささ、どうぞ天使さま」
 促されて丸い扉を開け、家の中へと入っていきました。
 中は薄暗くてよく見えませんでしたが、玄関の中空に、何か小さな塊が浮かんでいるのに天使は気づきました。
「珍しいお客だな」
 塊は言いました。注意して見ると、とても小柄な妖精が背中を丸めて胡座をかいてぷかぷか浮かんでいるようでした。
「あなたが導師さまでしょうか」
「他人を導けるほど物を知っているとは思わんが、皆からはそう呼ばれている」
 天使は顔を引き締めて、
「あなたにとても大切なお話があります」
 真剣に言いました。ティエルンには見せなかった、真面目で鋭い表情です。
「聞かせてもらおう」
 長老も真剣に答えました。

 天使は話し始めました。それは恐ろしい内容の話でした。
「妖精の都が、滅びるというのか……?」
「はい。今からきっちり一ヶ月後、妖精の都は粉々に砕けて、滅んでしまいます……」
 導師トハルンは絶句しました。思考が止まり、声が出てきませんでした。
「これは予想でも推測でもなく、確定的な予測です。都が滅びを免れることは、絶対にありません。しかし、ここに生きる者達の命を助けることはできます。あなた方を救うように神様から命令を賜った天使が、僕です。神様の都では、すでにあなた方を受け入れる用意が整っています。混乱や恐慌を避け、避難活動を円滑に行うために、ぜひ導師さまの口からこのことを皆さんに説明していただきたいのです」
 トハルンはすぐに気持ちを切り替え、ショックから立ち直りました。他の妖精たちから尊敬され、都全体の指導者たる十二導師に選ばれた理由の一つが、これでした。
「わかった。そういうことなら喜んで協力しよう」
 天使は、ほっと笑顔を零しました。
 導師トハルンはふと、ある疑問を感じました。
「ところで、基本的なことを聞くのだが……その滅びの原因は、何なのだ?」
 天使の笑顔が、枯れていきました。
「それ……は……」

 しばらくのち、天使は導師と一緒に外に出ました。内心が、表情を道連れに沈んでゆくのを押さえることができません。
 ――会合は、失敗に終わったのです。
 ティエルンはこちらの顔を見てびっくりしたのか、真っ先に飛んできました。
「いったいどうしたの?」
 天使は無理に笑顔を作っていいました。
「やぁ、なんでもないんです」
 ティエルンはきょとんと首をかしげていました。
 そこへ導師トハルンが助け舟を出してくれました。
「ティエルン、すまないが、皆をここに呼んできてくれないか」
「……はーい」
 ティエルンはいぶかしげながらも、導師の言う通りに、集落のみんなをここに呼び集めるために飛んでいきました。
 しばらくして。
「みな、集まったな」
 妖精たちを見渡しながら、彼は恭しく天使を示しました。
「こちらの御方は、この蒼穹世界をお創りにになった神様の使いである。神様は、この天使様に我々の様子を見てくるようご命令なさったのだ。しばらく妖精の都に留まられるが、決して失礼のないようにしなさい」
 妖精たちは、全員声を揃えて「わかりました」と答えました。
 ティエルンだけが、怪訝そうな顔をしていました。

 その夜、天使は導師トハルンの家の部屋を借りて寝ていました。といってもこの都では寝台などは必要になりません。寝袋の中にもぐり込んで、部屋の中を漂いながら夜を過ごすのです。なかなか寝付けずにいました。やっぱり固い地面にへばりついて寝るほうが慣れているな、と天使は思いました。
 そして――少しだけ、泣きました。
 涙が辺りに散らばり、窓から差し込む月明かりを受けて輝きました。
 この妖精世界に、危機が迫っています。最初は協力してくれるかに見えた導師トハルンは、危機の理由を知るなり一切の協力を拒みました。そしてこの話は他の者たちには絶対に勘付かれないようにしてくれ、とまでいいました。なぜ、と問うて、トハルンが答えたそのわけは、理解はできるものの共感しえないものでした。
 ――私は、あんたを恨む。そんな絶望にしかなりえない事実をもたらしたあんたを、私は恨む。
 彼のその言葉が、意識の片隅で重く明滅していました。
 夜が明けて、眼を覚ますと、天使はとりあえず外に出てみることにしました。
 扉を開けると風がびゅうびゅうと吹き込んできました。導師に聞いた話によると、妖精たちはこの風を“永劫の風”と呼んでいるとのことです。常に同じ方向から途切れることなく吹き続けているため、妖精たちはこの風を元に方角を定めていて、風上を『サキ』、風下を『アト』と名付けています。
 扉のふちを蹴って、視界いっぱいに広がる青空の直中に飛び出しました。しばらく風を切って進み、振り返ってみると、全体が見渡せないほど巨大な灰色の壁(というか床というか)に壷のような形の家々がひっついています。
 あのとても小さく見えるつぶつぶの一つ一つに、妖精の家族が暮らしているのです。いったいどれほどの数がここに住んでいるのでしょう。そして、滅びの時が来たらどれほどの命が失われてしまうのでしょう。妖精たちはすでに起き出しているらしく、みな慌ただしげにどこかに飛んでいっていました。
 しばらく眺めていると、ふいに見知った顔が飛んでいるのを見つけました。天使が最初に出会った妖精の少女、ティエルンでした。特にどこかに急いでいるという風でもなく、ただただ風を切って飛ぶことを楽しんでいるようでした。流麗な海生生物のように、ゆらりゆらりと栗色の髪が揺れ、長い手と、かかとのない足がなびいています。眼を閉じて、微かに微笑んで。
 天使はしばらくぼう、とその様を見ていました。そして、眼を伏せ、溢れかけた涙を拭いました。
「ティエルンさーん、おはようございまーす!」
 大声で呼びかけると、少女はそれに気づいて、手を振りました。体をぴん、と伸ばし、矢のようにこちらに向かってきます。その速さは翼を持つ天使が驚くほどのもので、いかに妖精たちが飛ぶことに慣れているかが思い知れます。
「おはよ、天使さん。なにしてるの?」
 あっというまに天使のそばにやってきました。
「やぁ、これからあなた方の暮らしの様子を見に行こうとしていたところです」
「神さまからのごめいれいね。どこに行くつもりだったの?」
 ティエルンは腰の後ろで手を組んで、首をかしげました。
「いや、特に決めてはいないのですが」
「じゃぁ、とりあえず神臓さまのところでもみてみる? あたしもこれから行くところだし」
「しんぞうさま?」
「来ればわかるわ。運が良ければアルンさまにも会えるかも」
 ティエルンに手を引っ張られ、天使はあたふたとついていきます。果ての見えない灰色の壁にそって、どんどん加速します。あっというまに家の群れが視界の中で遠くに追いやられます。顔にあたる風圧が強くなります。溝を走る細い光がもの凄い速度で通り過ぎていきます。
 同じ方向に飛んでいる妖精たちにたくさん出会いました。
 しばらく進んでいると、いくつかの支流が合流して大きな川を形作るように、妖精たちの数は増えてゆき、視界はどの方向を見ても小魚の群れのように寄り添う人影に埋め尽くされました。
「みんな、しんぞうさまの所へ向かっているのですか?」
「そうよ。朝は特に多いの」
「はぁ……」
 天使は神臓が何なのか想像できませんでした。
 飛んでいるうちに、だんだんと景色も変化してゆきます。青や緑や紫の光が走っているいくつもの溝が合流し、太く深くなっているのです。光そのものも、溝に合わせて大きく強くなってゆくのでした。
 また、広く大きな回廊全体を照らしている、光源もさだかではない照明が、鼓動のように明るくなったり暗くなったりを繰り返していました。奥に進めば進むほど、明るい時にはより明るく、暗い時にはより暗く、低く巨大な唸りのような音まで周囲に満ち始め、何かに近づいている妙な確信が天使の中に沸き立ちました。溝を走る光も太く強く浮かびあがります。
「この先が、神臓さまのみくらよ」
 やがて回廊が終わり、ひときわ大きく明るい球形の空間にたどり着きました。そこはもう、極彩の輝きに満たされた幻覚のような世界でした。内壁を多彩な色の閃きが飛び交い、空間は橙色の暖かい光に満たされています。また、その明かりに照らされて、鮮やかな緑の植物が無数に浮遊しながら生育していました。その枝は全方位に伸びており、緑の球体を形作っていました。
「うわぁ……」
「きれいでしょ」
「はい……」
 空間はおおまかには球形でしたが、球の中心を貫く線に沿って内壁が吸い上げられるように盛り上がり、真中心でつながっていました。その接合部には、なにやら名状しがたい塊が蠢動していました。
 ソレは、鋼の光沢を宿していながらなお、有機的に鼓動していました。微細な部品が集積し、噛み合い、無数の活塞の稼動が絶えずソレの全容を変え、内部から圧倒的な光条がこぼれ、脈打ち、うねり、唸っていました。固定され、動かぬ存在であるにもかかわらず、ソレの持つ躍動感はほとんど破壊的なまでに強大でした。ソレは胎児のようであり、卵のようであり、太陽のようであり、心臓のようでありました。とてつもない可能性を感じさせる、ソレは神の臓物でした。
「あれが、しんぞうさま……?」
 他の妖精たちは二人を追い越して続々と神臓の御室に入ってきます。彼らは懐から何やら黒い金属の球体を取り出し、敬うように捧げ持ちました。すると、部品の隙間から絶えず光を漏らしている神臓が、落雷のように鋭く蛇行する閃光を金属球に向かって撃ち込んだのです。黒い珠は激しく明滅し、その閃光を余さず吸い取っています。閃光は幾筋も宙を疾り、それぞれの先にはもれなく妖精たちの掲げる金属球がありました。
「あれは」
 天使の眼が確信を湛えて細められました。ようやく、彼は神臓の正体に気付きました。
 横でティエルンが不思議そうに首をかしげます。
「しってるの?」
「えぇ、天使ですから。驚きましたよ、まだ動いていたなんて」
 金属球は神臓から光を受け取り、自身が煌めきを放ち始めました。妖精たちはそれを大切そうにしまうと、またぞろ移動を始めます。また、今さっき御室に入ってきた妖精たちも次々と神臓の周りに集まって雷撃を受け取り、先行する集団に続きます。
「あっ、いけない」
 慌てて神臓の方へ凄い速さで飛んでいくティエルン。
「はやくしないとなくなっちゃう」
 天使が追いついた時には、彼女もまた珠を取り出して神臓から烈光を受け取っていました。
「これの吐き出す魔力資源は、基本的に無尽蔵のはずですが……」
「そうじゃないのっ」
 鋭く反転し、今度は御室の隅へ向かって宙を突き進んでいきました。ティエルンの行く先を見やると、さっきの妖精たちが先を争うように一カ所に集っています。みなたくましい体格の大人の妖精ばかりでしたが、ティエルンはその中に負けじと押し入っていきました。
「何なんだ……?」
 押し合いへし合い。
 しばし呆然と待っていると、妖精の少女は長い手足をばたつかせて群れから這い出てきました。
「一体どうしたんです?」
 返答がわりに何かが投げられました。天使は驚きながらそれを受け取り、しげしげと観察しました。橙色の果実のようです。
「それ、神臓さまのみひかりをあびて育ったくだもの。数がすくないから、毎日競争になるの」
 それは天使さんの分ね、と果物が何個か入った袋を抱えて言いました。
「あ、これはどうも……」
 恐る恐る齧ってみると、しゅっ、と果汁の霧が広がり、口の中を涼しげな甘酸っぱさが満たしました。思わず二口三口。ふぃー、と幸せそうに息を付きます。その仕草がおかしかったのか、ティエルンは小さく笑いました。
 天使はしばらくきょとんとその様子を眺めていましたが、不意に何かに気づいたのか、少女の頭に手を伸ばしました。
「ティエルンさん、髪が」
 栗色の髪が、さっきもみくちゃになった時にひどく乱れていて、でたらめな方向に跳ね飛んでいました。
 天使は果汁のついていない方の手で、ティエルンの髪を梳いてやりました。穏やかに眼を細めます。
「せっかく可愛らしいんですから、もう少し気を使った方がいいですよ」
「なっ」
 ティエルンは一瞬びくりと戦慄き、そわそわと落ち着かなげにあらぬ方向を見やります。
「う、うん、そう……だね」
 その様子を不思議そうに見つめながら、天使は少し首を傾げます。
「ちょっと顔色が変ですよ? 大丈夫ですか?」
「なんでもないっ」
 そっぽを向いてしまいました。困った天使は頭をかいて、声をかけるべきかどうか考え込みました。
 と、そこへ壮年の妖精が一人、白い長衣をたなびかせてこちらにやってくるのに天使は気づきました。どうも、さっきみんなに果物を配っていた者のようでした。
 天使は彼の服装に、眼を見張りました。
「もし、あなたのその服は一体どこで」
 天使と妖精の声が唱和しました。ティエルンが思わず振り向くほど見事な和声でした。というのも、二人の服はとてもよく似ていたのです。襟や裾のこまかい形は違う所もありましたが、全体の意匠が目指す方向性は同じものでした。尊さと柔和さを顕す、ぞれは神の代弁者の衣でした。
「……そちらからどうぞ」
 さきに平静を取り戻した天使は、そう壮年の妖精に促しました。
「あぁ、はい。私は代々この神臓様の修理調整をさせて頂いている家系に連なる者で、皆からは守人のアルンと呼ばれています。どうぞお見知りおきを」
「あ、これはご丁寧に……」
「この服は守人を襲名した者にはるか昔から受け継がれている神官衣です。かつて神のおそばに仕えていた御使い達が着ていたものと言われています。あなたはもしや……」
 天使は息を呑みました。
「たぶんその言い伝えは本当です。僕は正真正銘、神の御意志に沿って全ての民の安寧を図る御使い――天使です。僕とあなたの服が同じものであるのなら、あなたの祖先もおそらく天使だったのでしょう。やぁ……感激だなぁ。まさか同類が生き残っていたなんて」
「え、え? なに、どういうこと?」
 ティエルンは頭を抱えています。
「アルンさまのご先祖さまは天使で、アルンさまは妖精で……え?」
 混乱する様を見て、天使は苦い後悔を味わいました。不用意に手がかりを与えると、真実に気づかれてしまう恐れがあるために。そして、彼女に対してすら嘘をつき続けなければならないこの状況を呪いました。
「あぁ……つまりその……妖精と天使はもともとおなじ民でして。遠い昔、神様のもとを離れて自由に飛ぶ魔力を得たのが妖精で、神様のおそばに残ってさまざまな神通力を授かったのが天使なのです」
 結局、真実に限りなく近い嘘をつくしかありませんでした。
「へぇ〜、そうだったんだぁ」
 ティエルンは眼を輝かせて感心しているようでした。
 一方、アルンは難しそうな顔です。
「すると……都に点在する階段や手すりなどの、明らかに妖精には必要のない器物も、その話と関係があるのですね?」
 さすがに、鋭い。
「……この妖精の都もまた、神様の都から分離したものです」
 天使はナイフを突きつけられたような気分になりながら、やっとそれだけを答えます。
「ふむ」
 アルンは少しの間あごに手を当てていましたが、ふいに鋭く眼を細めて天使を見据え、こう言いました。
「では、あなたは妖精の都が滅び逝く運命にあることも知っているのですね?」
 天使は一瞬、心臓に冷水を浴びせられたのかと錯覚しました。ティエルンは眼を白黒させています。
「あ、あなたは……気づいているのですか!?」
 天使はアルンに詰め寄ります。
「私は物心ついた時からずっと神臓様の様子を見てきました。その程度のことはわかっていましたよ」
「……えっ」
 天使は、予想していたのとはまったく異なる答えに虚をつかれました。
「ど、ど、どういうことなの? あたしたち、死んじゃうの……?」
 妖精の少女は眼に涙を浮かべています。
「あぁ、大丈夫だよティエルン。なにも今日明日にどうにかなるような話でもないのだから」
 聞く者を安心させる声色で、守人はティエルンをなぐさめます。そして天使のほうを向きました。
「この神臓様は、巨大な閉鎖系の維持に必要とする莫大な資源を、無尽蔵に生産し続ける奇跡の結晶です。その閉鎖系とは言うまでもなく妖精の都そのもので、都内部を満たす不思議な明かりも、妖精たちの日々の食料を生産する自動農園も、都の単位構造を維持する様々な代謝機構も、全てこの神臓様が光の溝を通じて都全域に魔法動力を送り続けている結果と私は考えています。まさに神の御技と言えましょう」
 一息にしゃべり、咳払いをひとつ。
「代々研究を続けてきた我々守人は、神臓様が魔力を吐き出す原理そのものを解明することはできませんでしたが、しかしその性質はほぼ把握しました。これは質量を食って熱量を吐き出す――そういう魔法機械ですね?」
「……その通りです」
「つまりは、“燃料”となる質量さえあればいつまでも稼動し続けると言うこと。食わせるのはどんな物体でも良く、最も効率の良い再循環方法として廃物問題をも解決してきました。ところが――神臓様が自身の稼動に要求する質量は、妖精の都全体が排出する廃物の総量より、遥かに多かったのです。いち早くその事実に気づいた守人達は、すべての妖精たちに、要らない物を徹底的に神臓様にお供えするよう呼びかけましたが、所詮は焼け石に水でした。決定的に“燃料”が不足してしまった神臓様は、ある時ついに……」
「……妖精の都そのものを喰い始めた」
 皆まで言わせず、天使は守人の言葉を引き継ぎました。
 アルンは重々しく頷きます。そして、神臓の御室の一角を指差しました。
「見てください。光の溝が小さな円を描いている場所があるでしょう。あの円、何日か前までは、御室の外の通路にあったのです。何年かかけて巨視的に見てみれば、都全体が神臓様に引き込まれる形で歪んでゆく様子がわかることでしょう。単位構造を持つ妖精の都は、全体の形状を崩すことなく吸収されてゆく事ができるのです」
「いつなの? しんぞうさまにぜんぶ食べられちゃうのは」
 消え入りそうな声で、ティエルンは訪ねました。
「大丈夫。ティエルンが生きているうちは、みんな都が小さくなっていることにも気づかないだろうね」
 アルンの答えに、少女は少し安心したのか、うつむいていた顔を上げました。しかし直後に大きな眼を憂いの形に伏せてしまいます。
「でも……あたしたちの子供の子供の子供の子供の……とにかくずっと後の妖精たちは、いつかみんな、死んじゃうんだよね」
 ふたたび、少女の瞳から涙が溢れかけました。
「ご心配なく」
 思わず、その言葉が天使の口を突いて出てきました。何の解決にもならないとわかっていながらも、言葉は止まりませんでした。
「僕は天使です。この世に生きる全ての民の安寧を図る神の御使いです。この翼にかけて、妖精の都を救ってみせましょう。安心ください。そう――」
 いけしゃあしゃあと淀みなくそんな虚言を吐く自らへの、どうしようもない嫌悪感。屈託のない笑顔を作っていた無意識がその思いを汲んだのか、天使の顔はうつむきます。押さえた調子で言葉の続きを言いました。
「――あなた方は、何も心配しなくても良いのです。未来を思い患うことなく、日々を健やかに、生きてください」
 本心の滲み出たその言い回しに、守人アルンは少し変な顔をしました。しかしティエルンの方は気づかなかったのか、眼を輝かせました。
「ほんとう? ほんとにあたしたちを助けてくれる?」
「えぇ……もちろん。僕はそのために、ここに来たのですから」
 胸を引き裂く苦悩を上手く隠せたかどうか、自信が持てませんでした。

 神臓の御室を後にした天使は、今後の自分の進退について、かつてないほど重く深く考えを巡らせていました。
「ねぇねぇ、つぎはなにを見たい?」
 前方でティエルンが、にこにこと笑顔を顕しています。
 ――この笑顔のために。
 自分は、何ができるのだろうか。
 何も知らず、ただただ無邪気な好意を隠そうともしないこの少女のために。
 守人アルンのような、仲間たちの遠い未来を憂えていた者のために。
 そして、この都に暮らす全ての妖精たちのために。
 自分は、何をするべきなのだろうか。
 何かできることはないのだろうか。
「……天使さん?」
 返事がないことに怪訝な顔をして、ティエルンはこちらを振り返りました。ゆっくりと宙を進み、天使の顔をのぞき込みます。
「大丈夫? ひょっとしてどっか悪いの?」
 言われて初めて、自分の顔が強張っているのに気づきました。あどけなさが色濃いティエルンの顔が、心配そうに目尻を下げています。
「あ……」
 苦悩は結晶し、決意となりました。
「ティエルンさんっ」
「な、なに?」
 なりふりなど、かまっていられない。
「他の集落へ、案内していただきたいのです。是非、お願いします」
「え……えっ?」
 少女は少しの間戸惑っているようでしたが、天使の表情を見て、すぐに優しさが滲み出たような微笑を浮かべました。
「うん、いいよ。天使さん、困ってるんでしょ? あたしにできることなら、なんでもする。友達だもん」
 苦しくなるような感覚を、天使は覚えました。あぁ、胸がつまっているんだな、と、心の片隅で理解しました。
「ありがとうございます……」
 そして、少女のほっそりとした体を抱きしめました。抱擁は、天使社会において親愛と感謝を言葉以上に伝えるものでした。
「みゃっ!?」
 ぴくん、とティルンの全身が強張ります。
 天使は眼を閉じて、ほんのりと低い体温を感じ取りました。彼女の肢体はだんだんと弛緩してゆきました。
 しばらくそうして感謝を示したのち、天使は腕を放しました。ティエルンは顔を背け、両手の指を絡み合わせ、あらぬ方を見やっています。
「あ、あ、あの……その……」
「はい?」
 もじもじと指を動かして、つっかえひっかえ言葉を紡ぎます。
「そ、そういうの、天使さんにとっては、その、当たり前な事なんだろうと思うんだけど……えっと、あたしたち妖精にとっては、えっと、その……」
 どうも要領を得ない言葉に、天使は首を傾げました。少女の顔色が、またしても熱にうなされているような色になっているのをみて、急に心配になってきました。
「あの、ひょっとしてティエルンさん、お加減が悪いのでしょうか? そういうことでしたら大事を取って休まれたほうが」
「もうっ」
 彼女は天使に背を向けてしまいました。
「あたしは大丈夫っ。ほかの集落へ行くなら何日かの旅になるから、準備がいるの。いったんもどろ」
「あ……はい」
 なぜか機嫌を損ねてしまったようです。しかし、不思議と悪い気はしませんでした。
 ――何日かの旅、か。
 あと一ヶ月の間に、全てのかたをつけなければなりません。今の所、導師トハルンにしか話していないその真実を、決意と共に縛り付けて。
 絶対に絶対に、みんな救ってみせる。

 いったんティエルンの集落に戻り、旅支度をしました。といっても、神臓の魔力によって休む間もなく稼動している代謝機構が、都全域を快適な環境に保っているので、それほど大げさな荷物は要りません。何日か分の食料と着替えを鞄に詰め込んだだけでした。
「天使さんは、必要ないの?」
「はい。僕たち天使は、完全にして完結した存在です。食べ物を味わうことはできますが、生命に直結した意味で外部から養分を取り入れる必要はありません。また、新陳代謝を行わないので、着替える必要もほとんどありません」
「ふぅ〜ん。よくわかんないけど、便利だね」
 天使は出発の前夜、導師トハルンに旅に出ることを告げました。彼は何か言いたそうな顔をしたものの、結局何も言わずに頷き返すだけでした。
 翌日明朝、天使とティエルンは出発しました。
「ところで、いま思ったんだけど」
「はい?」
「天使さんはどうして他の集落にいきたいの?」
 一瞬。ほんの一瞬だけ、この少女にはすべてを話してしまおうかと考えました。
 しかし。
「……やぁ、調査のためですよ。すべての集落を回らないと、神様の御命令を果たしたことになりませんからね」

 ●

 旅が始まりました。
 魔力光の溝が幾何学的な紋様を紡ぎ上げている回廊をずっと進むかと思えば、巨大な空間でいくつも道が分かれていたり、色彩豊かな自動農園が広がっていたりしました。崩れて通れなくなっている場所は多く、近道のために都の外側を通ることもありました。ごうごうと永劫の風が音を立てて通り過ぎ、視界一面に真っ青な空が広がっている様は、眼の覚めるような爽快さでした。
 ごくたまに、集落から離れて一人で暮らしている流れの妖精と出くわす以外では、ティエルンと天使はお互いしか話し相手はいませんでした。
 天使と日常的に接していると、ティエルンとしては非常な問題を感じる場面が多々ありました。というのも、ある種族にとっては何ということもない友好表現が、別の種族の間ではとても侮辱的な意味を持っているようなことはよくあるもので、非常に長い年月をまったく違う環境で暮らしてきた妖精と天使では、その差は特に顕著なのです。
「あ、あの、だから、そういうのは……えっと……」
 就寝の挨拶がわりに頬に口づけをされてしまったティエルンは、羞恥と混乱が発する熱によって茹で上がった意識から、やっとその言葉だけを絞り出すのでした。

 二人はその後、何日も何日もかけて飛び続け、都中に十二個存在する妖精たちの集落を訪れました。行く先々で天使は珍しがられ、その素性をティエルンが誇らしそうに話すと、多くの妖精たちは彼を崇め、奉りました。
 天使はどの集落でも、導師の居場所を聞き、一人で会いにいきました。ティエルンが付いて行くと言うと、いつもやんわりとはぐらかされてしまいます。
 なんだかおかしい。
 天使と旅を続けるうちに、ティエルンはそう思うようになりました。調査のため、というわりには、ひとつの集落に長く滞在することがありません。それに、何故かとても急いでいるのでした。寝る時間以外ではほとんど常に飛び続けています。そのことについて聞くと、いつもいつも巧妙にはぐらかされてしまうのでした。
 もう何日か経ちました。旅は続きます。
 この頃になると、ティエルンは気付きました。天使の様子が明らかにおかしくなっていることに。並んで飛んでいて、ふと天使の方を見ると、何かをこらえるように眼を伏せ、口を噤んでいるのです。
「どうしたの?」
「いえ、なんでもないんです」
 答える声は少しかすれています。不審に思いながらも、それ以上追求しませんでした。
 さらに数日が経過します。もうすでに、ほとんどの集落を訪れており、残すところあと三つだけとなりました。
 天使の憔悴ぶりは、もはや一目見ただけでわかるほどになっていました。いつも俯き、沈痛な面持ちで、その瞳はともすれば絶望の色に染まりそうな様相です。しかも、それぞれの集落の導師に会ってくる度に、どんどん様子がひどくなってゆくのでした。
「ねぇ、ほんとうに、どうしたの? ぜったい変だよ……」
 とうとういたたまれなくなって、ティエルンは聞きました。
 天使は答えませんでした。ただ黙々と、前に向かって進み続けていました。今までは、声をかければいつも微笑んで答えてくれたというのに。
 少女は、拒絶されたような気になりました。
「ねぇったら!」
 つい天使の腕をつかんで、こちらを向かせました。
 
 乱暴に振りほどかれました。

「……ッ!」
 見えない拳で思い切り殴られたような衝撃が、ティエルンの胸を襲いました。
「あ……」
 天使の青年は、初めてそれに気付いたように、こちらを見ました。しかしすぐに顔を背けました。
「……すいません……」
 少女は、自分の胸が痙攣するのを、押さえられませんでした。やがてそれは嗚咽となります。
「どうして、ほんとのこと、なんにも、話してくれないの? 調査のためって、うそなんでしょ? あたし、そんなに信用できない?」
 青年は、俯いたまま黙っていました。前髪に隠れて、表情は見えませんでした。答えに迷っているようでした。
「あたし、天使さんのこと、友達だと、思ってる。困って、るんなら、助けてあげたい。悩んでるんなら、相談に、乗りたい。こういうの、迷惑なのかなぁ……?」
「……すべて……」
 微かな声で、青年は呟きました。
「……え?」
「すべての集落を訪ね終われば、すべて……お話しします。だから……お願いです。どうか、このことはもう……聞かないでください……」
 彼の声も掠れ、何かに押さえつけられたような調子でした。
 ティエルンは、悟ったのです。
 この人は、ことが終わるまでは何も話すつもりはないのだ、と。
 何もかも終わってしまったあと、結果だけ教えるつもりなのだ、と。
「そんなの、ないよ……何も知らされずに、道案内するいがいに、あなたになんにも、してあげられないの? そんなの、やだ……」
 うつむいた少女の涙が、その飛沫が、あたりに散らばりました。
 いくら待っても答えはありませんでした。
 それが、答えでした。

 ●

 天使は、呆然とその身を前に流していました。いつもにぎやかに笑っていた少女は、彼のそばにはもういません。きっと、自分の集落に帰ったのでしょう。
 どうすればよかったのか、彼にはわかりませんでした。
 道中に出会った、流れ者の妖精から道を聞くと、最後の集落へ向かいました。どのみち、もはやできることなどそれくらいしかないのです。
 たとえそこの導師に、協力を取り付けることができたとしても、救えるのは全体からすれば一握りの数でしかありません。しかし、それでも、もはやできることなどそれくらいしかないのです。
 まる一日、休まず飛び続けました。もう、あまり時間はありません。
 やがて、目的地にたどり着きました。

「なんということだ……」
 それが、天使の話を聞いた導師エイルンの第一声でした。その顔には、絶望と無力感と悲しみがあるばかりでした。
「どうかどうか、都に住む全ての方々に、僕が用意した避難船に乗るよう呼びかけて頂きたいのです。あなた方が生きながらえるには、もうそれしかないのです。お願いします。導師さまの口からなら、皆さんも納得してくれるはずです。どうかどうか……」
 天使は必死になって頼み込みました。
 しかし――
「……我々妖精は、昔から自らの空を飛べる能力を何より大切にし、誇りに思ってきた。巧みに風を読んで素早く飛べる者は、皆から尊敬された。飛ぶことを中心に、我々の文化は発展していったと言っていい。神が与えたもうたこの素晴らしい力に、感謝の気持ちを忘れたことはなかった。それなのに、それなのに……あなたは皆のその気持ちを踏みにじろうというのか……」
「そうではありません! 僕はただ――」
「あなたは、用意した避難船に皆を乗せろと言う。だが、それは我々の価値観や考え方が全てまやかしのでたらめであったと言うに等しい。あなたには理解できないだろう、妖精たちにとって飛べなくなることは、死よりも恐ろしいものであることを! あなたは優しい方だ。本当にただ我々を助けたかっただけなのだろう。それはわかります。しかし、私はあなたに感謝し、その助けにすがることなど到底できない。そして、この都に住むすべての妖精が、私とまったく同じ答えを言うであろうことを断言します!」
 返す言葉など、出て来はしませんでした。十二の集落を導く十二人の導師たちは、全員がまったく同じ結論に至ったのでした。
 最後の希望も、絶たれました。

 もう、何も、できることは、ない。
「もう、何も、できることは、ない」
 すぐに、この都は、破滅する。
「すぐに、この都は、破滅する」
 お前は、誰一人、救えはしなかった。
「ぼくは、誰一人、救えはしなかった」
 裡なる声に追従し、一言一言自らに刻み付けるように。
 絶望と、苛立ちと、後悔と、焦燥と。それら全てが彼を苛み、その肉体を痙攣させました。震える手で、頭を抱え、胎児のように丸まりました。
「どうして、誰も彼もが……っ」
 それは血を絞り出すような声の疑問でした。否、疑問ですらありません。彼は妖精たちとふれあった時からその答えを知っていました。
 ――もう間もなく、妖精の都は絶対的な破滅を迎える。
 都の住民達を救うため、神は一人の天使と巨大な避難船を遣わした。
 神の都の高度な魔法技術を用いれば、一瞬にして、しかも強制的に、妖精全員を船の中に放り込むこともできた。
 だけど、僕はそれができない。
 数える気もなくさせるほどの長い年月にわたり、都全体を支配し、妖精たちを欺き続けてきた一つの巨大な、優しい嘘。あまりに残酷な、事実。
 一旦船に乗せてしまえば、彼らは嫌でもその事実に直面させられる。
 だから、できなかった。風を切って空を舞い、自らの飛行能力を心から誇りに思い、精神と文化の大半をそれに依って生きた彼ら。
 真実を知らせる事は、どんな拷問よりも――
「……ぁぁぁあああ!」
 懊悩に胸が締め付けられて絞り出た叫びは、しかし彼の孤独を強調しただけでした。
 神は、そして仲間の天使たちは、彼の失敗を責めはしないでしょう。事情を知れば、むしろ労り慰めさえするでしょう。彼の咎を訴える者は、だれもいなくなるでしょう。
 誰からも責められることのない罪。
 誰からも、許されることのない罪。
 ならばいっそ……
 青年は、長衣の懐から、神銀の短剣を取り出しました。
 このまま一晩も待っていれば、いずれ来たる大破壊が彼を粉々に打ち砕いてくれることでしょう。しかし、長老達すべてに絶望を吹き込んで回った自分に、彼らと心中できる資格があるようには思えませんでした。
 美しくも無慈悲な光沢を湛える切っ先が、彼の喉元を睨みつけました。
 このまま――
「待って!」
 甲高く澄んだ声が、もう聞くこともないと思っていた声が、耳朶を打ちました。
 物陰から飛び出す人影。こちらに飛来する人影。胸に飛び込んで抱きついてくる人影。
「そんなこと、やめてよぅ……」
 青年の胸に顔を埋め、細い肩を震わせて。
 彼女は、泣いていました。
「ティエルン……さん……」
「あたし、天使さんの役に立つことなんてできなかったし、天使さんのきもちをわかることも、なぐさめることも、はげますこともできなかった。だから……だから、おねがいするくらいしかできないから、だから! おねがいだから、やめてよぅそんなこと……」
 泣き声が盛大に辺りを満たし、青年の中に染み込んで行きました。
 短剣が床に当たる音が、小さく鳴りました。
 腕の中の少女は、ほんのりと体温が低くて。でもとても暖かくて。
「ティエルン……さん……っ」
 ぎゅっ、と。その硬くて柔らかい温もりを放すまい、と。
 答えるように、ティエルンは一層力を込めてしがみついてきました。煌めく涙を散らばらせて、顔を紅潮させながら、泣きはらした眼で青年を見上げました。
「あたし、天使さんのこと、好きなの。だから、おねがいだから……」
 言った直後、自らの言葉に真っ赤になって、再び天使の胸に顔を押し付けました。きらきらと、涙が舞いました。
 眼の奥が熱くなるのを、天使は感じました。目蓋を閉じると、目尻から光る飛沫が染み出るのがわかりました。戦慄く口元を不器用に動かして、
「僕もです……」
 掠れた声で、それだけを答えました。
 嬉しくて、悲しくて。
 天使と妖精は、
 青年と少女は、
 お互いの体温を等しくするかのように、お互いの涙を混じり合わせるかのように、いつまでも、いつまでも、抱き合って、泣いて、泣いて、そしていつしか泣き疲れて、眠ってしまいました。

「うん……そうなの。あれからずっと、天使さんのあとをおっかけて見てたの。しんぱいだったし、これでお別れなんていやだと思ったから。だから、短剣を取り出した時には、ほんとびっくりして、それで……」
 一晩明けて、通気口から差し込んでくる朝日を浴びながら、ティエルンは小さな声でそう言いました。
「天使さん……まだ、ほんとのこと話せない?」
「それは……」
 天使は、いまだに葛藤の渦の中にいました。
 話すべきか、話さぬべきか。
 多分、話さないほうが彼女にとっては幸せなのだろう。
 だけど。
 自分はきっと、ティエルンさんにひどいことをしようとしている。
 だけど。
 このまま、無為に彼女を死なせるなんてこと、絶対にできない。
 だから。
「外に、出ませんか? きっと、朝焼けがきれいですよ」
 まだ少し赤い眼を優しく細めて、天使はティエルンの手を取りました。

 ●

 天使の手に引かれて、通気口から都の外へ出てきたティエルンは、目の前に広がる緋と蒼の壮麗なグラデーションに胸が一杯になりました。
「わぁ……きれいだね」
 朝日が雲の間から差し込んできています。頭からつま先まで、この壮大なパノラマに包み込まれている感覚に、少女は胸が透くようでした。
「ティエルンさん」
 かたわらで浮かんでいる天使が、そっとティエルンの体に手を回してきました。途端に心臓が高鳴ります。
「ちょ、ちょっと、どうし……」
「飛びますよ」
「え?」
 瞬間、天使はティエルンを抱えたまま、想像を絶する速度でアトの方角へ突貫します。
「な……!」
 それは、ティエルンがどんなに頑張っても到底追いつけないほどの、凄まじいスピードでした。無機質な都の表面が、物凄い勢いで後方に過ぎてゆき、あっという間に妖精の都から離れてしまいました。
「すごい……天使さん、そんなにはやく飛べたんだ」
「いいえ」
 答える天使の顔は、何故かとてもつらそうでした。
「今、僕たちは止まっているんです」
「とまってる……って、げんに今、都からすごい速さで離れていってるじゃない」
「では、都の方を見てください」
 言われるままに、後ろを振り返って妖精の都を見ました。
 一瞬、息が止まりました。
「うそ……なに、あれ……!」

 ●

 その頃――
 妖精の都は、未曾有の大混乱に見舞われていました。
 空中に浮かんでいる都には、常に一定の方向から風が吹き付けていました。朝も昼も夜も、絶えることなく吹き続けるその風を、妖精たちは永劫の風と呼び、風の吹く向きを基準に方角を定めていました。この全方位に広がる蒼穹の中において、それ以外に基準などなかったのです。
 この日、永劫の風上――サキと呼ばれる方角から、ある巨大な存在が猛スピードで妖精の都に接近してきていることが、妖精たちの間に知れました。その存在は、もうとんでもない大きさでした。幾多の妖精たちが住むこの都が、豆粒にしか見えなくなるほどの、圧倒的で絶対的で絶望的で徹底的な巨きさでした。妖精たちのだれ一人として、それの全貌を見ることができた者はいませんでした。それはもはや視界一面を埋め尽くす、無限に広がる壁とも言うべき威容でした。
 そんな途轍もない壁が、我々を叩き潰さんと迫ってきている――!
 どうしようもない恐怖に駆られた妖精たちは、我先にとアトの方角に向けて必死に飛んで行きました。必死の形相で永劫の風に乗り、かつてない速度で自らの故郷から逃げ出しました。すべての妖精が一斉に群れをなして飛び立ったのです。その様は遠くから観察すれば、妖精の都からガス状の何かが染み出でているように見えたことでしょう。
 ふと――
 一人の妖精が、後ろを振り返りました。振り返ってしまいました。
 妖精の都からは、もうかなり遠ざかっています。しかし、迫りくる巨壁との距離は一向に広がっていません。むしろ縮んでいました。ソレが近づいてくる速さは、歴史上に名を残すどんな妖精よりも速いように思え、そしてそれは事実でした。妖精は、絶望の金切り声を上げました。なぜあんな巨大な存在が自分たちよりも遥かに速く飛ぶことができるのか。そんな疑問を考察する余裕は、どの妖精にも残されてはいませんでした。
 音もなく猛進してくる滅びが、とうとう妖精の都が浮かんでいる位置にまで到達し、激突しました。腹の底から響いてくるかのような大轟音が撃発し、都は――妖精たちにとって世界そのものとさえ言える超巨大構造物は――砕け散りました。いくつかの大きな塊と、無数の小さな塊に分たれました。破壊の衝撃で、大きく妖精たちの方へ弾き飛ばされた塊もありましたが、すぐに壁に追いつかれて、さらに小さく砕かれました。そのようなことが爆発のような轟砕音とともに、何度も何度もそこここで起こり、妖精たちの身を震わせました。やがて、すべての破片が壁面に張り付き、音は静まりました。
 あまりにもあっけない、世界の終末でした。
 残された妖精たちは、呆然とする暇すら与えられませんでした。広大な壁は、都を打ち壊しても止まることはなく、悪夢のように変わらない速度で前進してきます。妖精たちを叩き滅ぼさんと、非常識な速さで突進してきます。もう、すぐ、目の前に。
 悲鳴を上げる気力を持つ者すら、一人もいませんでした。

 ●

 どういうわけか、永劫の風が吹き止んでいました。
 理不尽な滅びが妖精の都を完膚なきまでに蹂躙する、その様を見ていたティエルンは、自分が呼吸するのを忘れていたことに気付きませんでした。
 なに。
 あれは、なに。
 現実感というものがまったく欠落している目の前の光景。現状を認識できません。
「すべて、お話しします」
 天使の声が、耳を通り過ぎていきました。その声は、つとめて感情を抑えているようでした。
「まず知っていて頂きたいのが、この世に存在するすべての物には、他の物を引き寄せる力が働いているということです。天使の物理学では、この謎の力を重力と呼んでいます。重力にはいくつかの性質があって、最も重要なのが、重い物体ほどそれの持つ重力が強くなると言うことです」
 ジュウリョク……?
「僕にもあなたにも、もちろん妖精の都そのものにも、重力は作用しているのです」
「そんなの、うそ……だって、そんな力、感じたことなんて一度もないもん……」
「いいえ。妖精の都にも、ティエルンさんたち妖精にも、ずっとずっと何千年もの間、重力は働き続けていました。ただ、誰もそれに気付かなかっただけで」
 一向に天使の話の意図が掴めず、極度に安定を欠いたティエルンの精神は苛立ちます。
「それと……都が粉々になっちゃうのと……何の関係があるの……? みんなは、どうなっちゃったの!? あれは、なんなの!?」
「あの、視界一面に広がる壁のようなものは、途方もなく巨大な重さをもつ物体の、ごく一部分です。強力な重力を持ち、常に周囲の物を引き寄せています」
 天使はそこで、言葉を切りました。そして、意を決するように決定的な言葉を放ちました。
「永劫の風は、落下の際の風圧です。あなたがたの基準で言えば、サキが下、アトが上を意味します」
 ティエルンは、心の奥底から、なにか暗くて冷たいものが溢れ出てくるような気がしました。根源的な恐怖でした。
「……ぃゃ……」
「妖精の都は、空に浮かんでいたのではありません。ただ、長い長い年月をかけて、落ち続けていただけなのです。雲の彼方、ここより遥か上方の暗い空には、本当の意味で浮かんでいる都市があります。神様の都です。神臓の過食暴走事故によってそこからから分離し、壁の重力に捕まってしまった欠片が妖精の都の正体なのです」
「……いや……」
 これまでティエルンを優しく包み込んでいた嘘が、無惨に引き剥がされようとしていました。
「そして今、落下し続けていた妖精の都は、数千年の旅路を終え、地表に激突しました」
「……いやぁ!」
 世界観の崩壊。完全なる崩壊。ティエルンは激しく身じろきました。
「ッ! 落ち着いて下さ」
「いや、いや、いや……いやいやいやいやいやいやいやいやいや! 放して! 放してよ……!」
 ティエルンの眼は、やっと涙を流し始めました。しかし、出てきた涙が、空中に散らばらずに頬を伝って流れ落ちている事実が、天使の話を皮肉にも裏付けていました。ティエルンは天使の腕の中で一層激しく暴れました。
「みんなを、みんなを助けにいくの! みんなあの大きな壁にはりついて動けないの! あたしが、あたしが助けるの……ッ!」
「あっ!」
 とうとう天使の手を振りほどき、ティエルンは壁の表面に散らばって張り付いている都の残骸に向かって飛んでいきました。落ちていったのではなく、飛んでいきました。途端に、なつかしい永劫の風が吹き始めました。
 あぁ、この感覚。風を切る、この感触。
 これこそが、これだけが。
 ――あたしの真実。
 ティエルンは、後を追ってくる天使から逃げ切るために、ぐっと体を伸ばして速度を上げました。落下速度などではなく、飛行速度を上げました。都を破壊した巨大な壁は、とんでもない速さで目の前に迫ってきます。だけど、怖いなんて思いませんでした。
 ――あたしは、壁にぶつかって死ぬの。地面に落ちて死ぬんじゃなくて、壁にぶつかって死ぬの。
 そう考えると、天使の話を聞いて胸の中に芽生えつつあった底なしの恐怖は跡形もなく立ち消えてゆくのでした。穏やかな気分で前を見ると、
「――ッ!?」
 壁の表面を、何かが移動していました。ティエルンの見たことのない生物です。茶色の毛並みが見えました。四本の細長い足を壁に付け、長い首の先に長い頭があります。
 それは、地表に住み、地表を走る、地表の動物でした。
「……あぁ!」
 何もかもに耐えられなくなって、ティエルンは眼を閉じ、耳を塞ぎ、世界との一切の繋がりを断とうとしました。もう、何も見たくありませんでした。ただ、自分が墜落死する瞬間を待ちました。
 その瞬間は、いつまで経ってもやってきませんでした。
 優しく抱きしめられる、胸の苦しくなる感触だけが、全身を包み込んでいました。
 眼を開けると、今にも泣きだしそうな青年の顔が、目の前に。
「どうして、たすけるのよう……」
 少女はしゃくりあげ、心臓を掴み掛かる絶望に、すすり泣きました。
「死なせたく、ないからです」
 震える声で、彼は答えました。そして背の翼を力強く動かし、ゆっくりと地表に降り立ちました。あたりは、青々とした平原が広がっていました。さっき見た茶色の動物が、群れをなして草を食んでいます。
「おろして」
「しかし……」
「いいから、おねがい」
 天使はわずかに躊躇ったあと、壊れ物を扱うように少女の体を地面に横たえました。
 ティエルンは身を起こそうとして、体がまったく動かないことに気付きました。全身を見えない圧力が強力に押さえつけ、何一つ身動きできないのです。悪夢のような力でした。
「これが、重力、なの?」
「……はい」
 どうしようもなく、自分がみじめでした。ついさっきまで、空を自由に飛んでいたのに、真実に直面した途端、地べたを這いずることすらできなくなったのです。鮮やかに風を切って飛び回る自分は、ただのまやかしだったのです。
 死にたい。
 切実に、そう思いました。飛べない人生なんて、何の意味も感じられない。それに、もう仲間は誰一人生きてはいないのです。自分だけが生きているのが、いかにも不自然に思われました。
「あなたはほんとうは、あたしたちを助てくれるはずだったのね?」
「……はい。でも、生きることと飛ぶことが同じ意味を持つあなた方に、真実を知らせ、重力下での生活を強要するのは……」
「うん……わかるよ。あたしにも、できればほんとのことなんて教えずに、見殺しにしてほしかった……」
 そう呟いた瞬間、彼は膝を突いて、ティエルンの眼を見つめました。
「そんなこと、言わないで下さい。あなたが自殺を止めてくれた時、僕はとてもうれしかったんです」
 そうだ。死んで欲しくないから、離ればなれは嫌だから、彼の自刃を止めた。
 なのに、あたしは。
 少女は、理解しました。この青年の、助けたくて、助けられなかった、忸怩たる苦悩を。それもわかってやれずに、真実を教えろとせがむことが、どれだけ彼を追いつめていたかも。
「一緒に、神様の都に来てくれませんか? あそこは、あそこは妖精の都に負けないくらい美しく暖かい所です。たとえ歩けなくたって、きっときっと、なんとかなります」
 青年は、怯える幼子のように不安そうな面持ちでした。
 その様子が妙におかしくて、ティエルンは微かに笑いました。いつのまにか、黒く淀んでいた絶望は、溶けかけていました。最初から存在しなかった世界観にしがみついて滅亡してしまった妖精達のかたくなさ。それを自覚したのです。
 答えは出ていました。
 ティエルンはまだすこし震えている唇で、声を形作りました。
「あたし、がんばるよ。いつかあなたと並んで歩けるよう、たくさんたくさんがんばる。歩けるようになったら、もう一度ここに来たいな。みんなのお墓、作りたいから」
 そして、死んでいった大勢の仲間達を思って、眼を閉じました。静かに涙を流しました。
 少女の体の下に腕が差し込まれ、持ち上げられました。
「その時は、僕も手伝いますよ」
 泣き笑いの顔で、彼はそれだけを言いました。
 朝日が、二人の顔を照らしていました。


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