東の空には、もう星が現れ始めていた。
 五月も中旬だが、黄昏となると少し寒い。
 薄闇の中で、少年達は中庭に敷かれた畳を手際よく片付けている。相変わらず元気だ。
 彼等に混じり、アヤカも畳の一端を持ち上げて運んでいる。
 知らず、眼が彼女を追い掛ける。
 …………。
 
 『戦場で』。
 アヤカはそう答えた。確かにそう答えた。
 …………。
 彼女の表情、口調、眼に写る感情……とても嘘や冗談を言っているようには見えなかった。
「どう言う事だ?」
 アヤカが何故戦場に? そもそも、一体どこの戦場なんだ?
 …………。
 いやまてよ。
 アヤカは戦場であの凄そうな刀を得た、と言う事は――
「その戦場は、今から10年以内にあった……と」
 ちょっとややこしかったので声に出してみる。アヤカはどう見ても10才前後だ。生まれる前にあった戦場に行く事はできない。
 ……はて?
 10年以内にユミシマで戦争なんぞあっただろうか?
 そんなニュース、聞いた事もないぞ。七十年前に《崩壊の大戦》が終結して以来、ユミシマは戦争からは縁遠い国となっている筈だ。
 うーん……。
 『戦場』っていう言葉は実はただの比喩だったのかな……。
 ていうか、人の過去をいちいち詮索するのもアレだな……。
「あーもー、やめやめ!」
 俺は立ち上がった。
 今は剣豪ジン・テツヤと手合わせするためにここにいる。ここの子供達とも、もちろんアヤカとも、一期一会なのだ。
 俺は前方に意識を戻す。
 三十秒までは確かにあったはずの稽古場は、跡形もなく姿を消していた。
「早いな……」
 何と言う妙技。
 完璧な連係、適切な役割分担、迅速な行動、的確な状況判断。それらが揃わなければ不可能だったであろう。はたして少年達は、畳の出し入れを幾度こなしてきたのだろうか。
 匠の技。
 意味もなくそんな言葉が頭を過った。
「……無駄なまでに」
 小さく溜息をつく。
「ん?」
 何か――唐突に、恐ろしく微細な針の束に頬を撫でられるような感覚を覚えた。
 正体不明の違和感……いや、ここを訪れてから何度か感じた事はある。
 俺の隣に、誰かいるのではないか――と言った類のそれ。
「……ふ……」
 読めたぞ。どうせまた『灯台もと暗し効果』で『……もっと下』なんだろう?
 パターンを掴んだぜ。
「いるんだろう? アヤカ!」
 摺り足で素早く向き直る。
 はたして、そこにいた――
「ハズレ、だの」
 ――ベンチに腰掛ける謎の男がニヤリ。
 肝臓が縮こまり、心臓が暴れ回った。
 思わず知らず、短い悲鳴。
「い、いつからそこに?」
 二歩後進。五歩の距離で向かい合う。
 彼は低く笑った。
「『あーもー、やめやめ!』の少し前からかのぉ」
 冷たい驚愕がゆっくりと胸に浸透した。恐怖にも似た空気。
「な……んと?」
 アヤカの場合はまだわからないでもない。あの時俺が彼女の存在に気付かなかったのはせいぜい四、五秒の間だろう。俺だって、死角から忍び足で接近すれば出来ない芸当じゃない。
 だが、この人は――
「で」
 俺の思考を断つタイミングで男が立ち上がった。
 そして顎鬚を弄りながら、眼を向けてくる。
「お主、何者だ?」
 その視線は、普通なら怒りや敵意を感じそうなものだ。射るような眼光。滲み出る極限まで研ぎ澄まされた鋭さ。
 だが、同時に揺らめく水銀にも似た静謐さをも含む視線だ。あくまで穏やかに。それでなお鋭利に。
 この威圧感。安心感。裡に沸き上がる静かな驚嘆。
 聞いた事がある――
 少年の頃、軍学校の教官が戯れに話してくれた概念。当時は訳のわからない例え話にしか聞こえなかったが……今なら理解できる。
 極限の武人のみが獲得し得る絶対の明鏡止水。
 他者の情操をも鎮める人格的統合状態。
 変性意識(ライト・トランス)。
 教官は、そんな風に呼んでいた。
 一流の資質を持つ戦士は、冷静に状況を観察し、彼我の実力を客観的に把握できる『眼』を有する。だが、更にその上、『眼を開く』事を可能とする境地に達した猛者ともなれば、静まり返った水面 のように完全なる精神均衡を保ち、我々とは世界を異なった風に見ていると言う――
 つまりはこの人が。
 この人こそが。
 確証はないが、確信はある。
 ついに、俺は出会えたのだ。どう見ても三十代にしか見えないが、恐らく彼が“そう”なのだ。
「あなたの名声を聞き、驚きを覚え、同時に己の力量にも自信を持つ者です」
 きっぱりと。はっきりと。俺は言った。
 彼は――究極の読動術『鬼眼』の使い手は、絶対の自信を孕みながらも傲然さを感じさせない笑みを向けてくれた。
 さすがは変性意識の人。道場破り相手にも穏健さを崩さな……
「ほーう、お主も俺を倒すなどと言う物理的に不可能な事をアホ真面目にやりとげようとしてわざわざ御苦労にも渡海してきたバカチンの一人かね」
 厳粛で心地よい重低音の声。さすがは変性意識。
 はっはっはっはっは、と俺は笑った。
「いやぁ〜、その通りなんですよ」
 ほっほっほっほっほ、と剣豪殿も笑った。
「やはりのぉ、無駄な事をしよる」
 さすがは変性意識。
 はっはっはっはっは。
 ほっほっほっほっほ。

 教官、今の俺なら五歩の間合いも一瞬で踏破できそうです。
 笑いながら。


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