『焼肉はヤバい』。
 ――飢群(きむら)家に祖父の代から伝わる不文律であった。
 いや、焼肉に限らず、バーベキューだろうがジンギスカンだろうがしゃぶしゃぶだろうが鍋物だろうが、とにかく家族全員の食う分量が一箇所に集められているメニューなら何でも危険なのだが、中でも「取った取られた」の戦況がわかりやすい焼肉は、最大級の危険をはらんでいるのだ。

「わたし、これがいいー」
 末っ子・チカが発した無邪気な言葉に、他の面々は凍りついた。
 恐ろしく古い型のテレビから流れる、特上カルビの焼かれる音だけが、白々しくお茶の間を満たしていた。八歳という幼さを考慮に入れても少食な部類に入るチカだが、別に食事そのものが嫌いなわけではない。
 しばし、その場にいる五人家族全員が無言となる。
 うらやましさを隠そうともしないで画面に見入っているチカを尻目に、父・ケイジはむすりと黙り込み、腕を組んでいる。
 長男・長女・次男の三人は一瞬だけ互いの目を見合った。
 それぞれの顔に、殺気めいた緊張が走る。
 そして――
「ち、チカちゃん、ほら、ハンバーグとかどう? 好物でしょ? お姉ちゃん、腕によりをかけて作るから……」
 長女・ミカは、いつもより三割り増し優しい声色でとりなした。
「そ、そうだな! ハンバーグもいいよな! 超さんせーい! 超ばんざーい!」
 次男・アキラは、いつもより数段威勢の良い調子でまくしたてた。
 二人にとって、チカは歳の離れたかわいい妹である。できれば彼女のささやかに過ぎるわがままを聞き入れてあげたいところだが、焼肉だけは危険過ぎる。
 飢群家において、それは禁忌である。
 チカがまだ母・リカのお腹にいたころ、一度だけ晩御飯に焼肉が選ばれたことがある。
 そのときの惨状は、ミカとアキラにとって、永遠に消えぬ烙印だ。黒くこびりつき、ひどく疼く。
 ならば、遠まわしに説得するしかな
「ふぇ……だめなの?」
 うっ。
 押し黙る二人。胸の裡で、この瞬間におグルメ番組などお流しになられやがったテレビ局関係者各位へ、盛大な悪態を浴びせた。
 と、そこへ典雅なテノールが飛来する。
「僕はチカに賛成だな。焼肉なんてホント、小学生のころ食べたっきりだよ」
 長男・ユウは、いつもと変わらぬ爽やかな微笑みを浮かべていた。
「そ、そんな、兄さん……!」「正気か兄貴!?」
 驚愕の声を上げるミカとアキラ。ここにいる誰よりも焼肉の恐ろしさを思い知っているはずのユウ兄が、あろうことか賛成したのである。父ケイジもわずかに眼を開いている。
「おいおい、大げさだなぁ。だいいち、僕の送別会なんだろう?」
 苦笑交じりに、青年は薄い色の髪をかきあげる。
 貧乏な飢群家にとって、長男ユウは希望の星である。世間一般で『天才』という言葉から安易に思い描かれるイメージをそのまま体現する男・飢群ユウ。頭脳超明晰スポーツ超万能知識欲超旺盛。おまけに外見は爽やか美形。偶然という言葉を無力に貶める、存在自体が奇跡の完璧超人だ。
 彼は首都圏の超一流大学を一校だけ受験し、一発合格。このたび家を離れ、寮で暮らすことになった。学費や家賃はほとんど奨学金で賄われる。
 といったところで、飢群家では送別会が行われる運びとなった。
 ユウはにっこり笑うと、勢いよく手を上げた。そういう子供っぽい動作すら、ユウがやると素晴らしくカッコいい。
「はいはい、改めてユウ兄ちゃんからのリクエストです。兄ちゃんは最後にみんなと一緒に焼肉が食べたいのです」
 一方、母親のいない飢群家において家事家計全般を掌握する支配者であるところの長女・ミカは、白い腕を組んでしばし唸っていたが、
「うぅん……そこまで言うんなら……オーケー、いいわ。兄さん言い出したら聞かないしね」
 顔を上げ、困ったように微笑む。それだけで、ささくれがちだった空気が穏やかに流れ始めた。
「いいよね? お父さん」
 父ケイジは無言で肩をすくめた。
 好きにせよ、ということらしい。
「わぁ、やったぁ!」
 チカは小さな体で飛び跳ねる。
「楽しみだねー、焼肉ー」
 ユウも眼を細めてそれに合わせる。
「さてと。買出しに行かなくっちゃ。……ちょっと奮発しちゃお」
 ミカはミカで、家計の余裕と焼肉の費用を暗算で折衷させはじめていた。
 父ケイジは相変わらず無口だったが、その顔は穏やかさを帯びていた。
 どういうわけか、みんな楽しげ。
「……お、おい……」
 唯一アキラだけが、不安げな顔で一同を見渡している。
 しかし、何かから解放されたかのように生き生きとしだした家族を見ているうちに、心の奥底から赫々と輝く溶岩が湧き出してくるかのような気分になる。
 なんだ、この熱い気持ちは――!
 中学でやっている剣道の試合中ですら、これほど興奮したことはない。
 そして、アキラは自覚する。

 俺は、脂滴る肉を腹が破裂するほど貪りてえ――!!

 極限の熱量をもった、凶暴な衝動。飢群の血の呪い。
「ま、いっか! 兄貴の送別会くらいハメはずしてもな!」
 とうとう、そう言った。
 言ってしまった。

 ●

 飢群家の庭先に火炉と金網がでん、とすえられた。押入れから引っ張り出してきたふっるい机には、肉が山と盛られた皿がある。夕日が降り注ぎ、肉の赤身がいっそう鮮やかに見えた。
「うおー、肉! 肉! 肉がたらふく喰えるぞーッッ!」
「素晴らしい! 素晴らしい!」
 今までに見たこともないような大量の肉を前にして、ユウとアキラはテンションがてっぺんを突破していた。ヒョー!だのホォーウ!だの奇声を発しながら手足をくねらせたり体をねじったり急にメリハリのついた動作で四方に突きを放ったりクイックイッと腰を振ったり鮮やかにターンを決めたりブリッジしながら高速で走り回ったり起き上がりざまに後ろを振り返りながら華麗な流し目をキメつつミカを両手で指差したりしている。
 二人の動きが完全に合っているのが不気味だ。
「……なにやってるの?」
 ミカ、かなり引きながら聞く。
「決まってんだろ! 肉の神へ感謝を捧げる舞踏でい!」
「肉の神が持つ四対八本の触手を模した踊りでね、星辰と照らし合わせたしかるべき日時に行えば、かの神が現世に降臨するという話だよ」
「変な神様作らないでよ」
「わぁ、すごいすごいー! おぉにーちゃんもちぃにーちゃんもじょうずだねー」
「…………」
 ミカ、頭を抱えながら台所へ野菜を取りに行く。

 ●

 じゅー、と肉の焼かれる音が漂っている。いい匂いだ。
 旨かった。ちょっとギチギチ筋張っていたが、エンゲル係数が高騰する生活を送るアキラにとっては思わず感涙をこぼしてしまいそうなほどに旨かった。安物とはいえ、肉は肉だ。
 ぶっちゃけ感動していた。
 ――こんなに旨かったのか!
 旨! 激旨!
 眼には、涙が湛えられている。
 肉のとろけるような旨味が全身にしみてゆくようだった。
 感動だった。
 それは、今まで無意識のうちに渇望し続けていたものを、あまさず与えられた感動であった。己の存在が満たされ、すべてから祝福され、あらゆる欠乏が癒される心地であった。
 生きる理由、見つけた気がした。
 十代の時を生きる若者の常として、有り余るエネルギーを何にぶつければ良いのかわからず、日々悶々と過ごしていたアキラ。
 しかし、今、この瞬間、すべての答えを得た。
 ――俺は、肉を喰うために生まれてきたんだ……ッ
 そう。ただそれだけ。たった一言で片のつく、単純なこと。
 あぁ、こんな簡単なことに気づけなかったなんて。
 もはやアキラにとって、肉を喰うことは生きることと同義になっていた。
 手は凄まじい速度で動き、まだ生焼けだろうがなんだろうがお構いなしで肉を口に放り込んでいる。
旨! 激旨!
「ちょ、ちょっとアキラ! 他の人の食べる分なくなっちゃうでしょ!」
 鮮やかにスルー。
 つぅか銀皿にはまだあんなにあるじゃねえかよケツの穴の小せえ野郎だなオイオイ。
 手は止めない。眼も動かさない。もう、肉以外のあらゆる事象にかかずらうのが厭わしい。喰う。喰う。喰らう。
「こら、聞いてるの!?」
 ずびし、と。
 山と盛られた肉の一切れを長箸でつかもうとしたアキラは、別方向から撃ち込まれてきた箸の切っ先によって肉が縫いとめられたことを認識する。
「あァ?」
 こめかみがひくつくのを感じながら、アキラはその箸の持ち主を下からねめつける。
 ミカだ。
 この女……何の権利があって俺の人生のテーマ遂行を邪魔しやがるのか。
「二秒だけ待ってやる。その箸をどけろ」
「なに言ってるの。ちょっとはみんなのこと考えなさい」
 そのたしなめるような口調が、カンに障った。
 赤黒く滾る赫怒が、アキラの胸を内側より灼いた。
 ゆるせなかった。
 こればかりは譲れなかった。
 そんなことをして楽しいのか。あぁ楽しいんだろうなぁ、人のささやかな自己実現を阻止して悦に浸るのはよォ!
 アキラは、吼えた。
 怒鳴り声などではなかった。
 咆哮。
 闘争本能の奔流。
 立ち向かうつもりだった。
 断固として。

 ●

 ジャッ、と。
 鋭い呼気とともに、閃光が走りぬけた。
 のけぞってそれをかわしたミカのセミロングが、風圧で舞い上がる。
「ちょ、なにするの!」
 アキラは舌打ち。野郎、今の一撃を避けるとは。
 気を取り直して連撃。
 銃弾の速度で撃ち込まれるアキラの拳が空気を急激に押し広げ、高い異音を奏でる。
 あるいは直線状に、あるいは弧を描いて、自在にホーミングするパンチの嵐。
 ミカの上半身が、ブレた。一撃一撃に翻弄されるように、さまざまな方向へと顔が跳ね飛んでゆく。
 だが――
「ッ!?」
 コンビネーションが唐突に止まる。
 突き出した腕をミカに取られていた。
「ふんっ!」
 瞬間、世界が回転する。
「うおぉ!」
 まるで洗濯機の中だ。一瞬のことだったのだろうが、アキラにはやたら長く感じられた。
 床に叩き付けられる。肺から息が押し出される。深刻な衝撃。しかも猛回転で頭がぐらぐらする。
 それゆえ、立ち上がるのに0.5秒もかかってしまった。
 そこはすでに火鉢のある庭先ではなく、家の中。畳の上。
 凄い勢いで投げ飛ばされたのだ。
 ミカを見据えた。
「ッ! 野郎……!?」
 無傷だった。あれだけ拳をぶち込んだのに。どうもさっきの動きはマト○ックス避けみたいなものだったらしい。てっきり連続技がヒットしてのけぞっているのかと油断していた。
 だが、そんなことはどうでもいい。奴のあの表情に比べれば。
 ミカは、怒ってはいなかった。
 穏やかな微笑みを浮かべていた。
 見るものを慄然とさせる笑みがあることを、アキラははじめて知った。
「もう、おいたが過ぎるわよ」
 特にどこが変わったというわけでもない。だが、確かに何かが変わった。ミカの中に眠る巨大な何かが、身を起こしたのだ。その確信があった。
「いいぜ……来やがれ!」
 やけくそ気味に、叫んだ。

 ●

「ありゃりゃ、あれはもう終わりだね。勝負あったよ」
 のんびりと肉を焼きながら、ユウはつぶやいた。
「どーゆーこと?」
 ちょっと固い一切れに苦戦しつつ、チカが聞く。
「庭先にいた時だけが、アキラの勝機だったんだよ。家の中に戦場が移ってしまった以上、もうミカの勝ちは揺るがない」
「……あー、そー言えば……」
 ケイジは焼ピーマンの内の空洞になみなみとたれを注ぎ込んでかぶりつくという、何だかよくわからない喰い方をしては、無言で頬を歪めていた。

 ●

 最初はタンスだった。
「ほぐぅっ!?」
 アキラは自分のわき腹が強打されたことを鈍く巨大な痛みで知る。
 二段目の引き出しがいきなり飛び出て、アキラに襲い掛かったのだ。
「クソ、なんだよ!」
 乱暴に掌底で引き出しを押し戻す。すると同時に一番下の段が飛び出てアキラのスネを打った。
「ぎゃぁ!?」
 膝を抱えてのたうちまわっているところに、今度はタンス全体が倒れ掛かってきた。
「うぉっ!」
 タンスが倒れた衝撃が空気を震わせ、埃を舞い上がらせる。ほうほうの体で床を転がり、難を逃れる。
 ――なんだよこれ!?
 まるで、タンス自体が敵意をもっているかのようだ。
 水晶の鈴を転がしたような笑い声が、つつましやかに耳朶をなでる。
「もう、おっちょこちょいね、アキラは。大丈夫?」
 ミカだ。家の中に入ってきた飢群家長女は微笑み、白くたおやかな手を差し伸べた。
「……ッ!」
 全身の骨が氷になってしまったかのような感覚。
 全速離脱。転がりながら間合いをとり、なめらかに立ち上がる。
 さっきまでアキラがいた場所に、騒々しい音を立てて電灯が落下した。電球も傘も割れ、鋭利な破片を盛大に撒き散らす。
 うっかりミカの手をとっていたなら、どうなっていたことやら。
 恐怖という名の黒いしこりが、アキラの体を冷たく蝕んでゆく。
 それを皮切りに、家の中のあらゆる家具小物備品がアキラに牙を剥いた。
 無数の辞書が飛来して全身に打ちあたる。ひるんだ隙にコクヨのシャーペン、トンボのえんぴつ、サンスターのコンパスなどが銃弾の速度で撃ち込まれてきた。引き戸がいきなり閉まってアキラを挟む。背後から大きなハサミが曲線的な軌道でアキラの急所を狙った。同時に本棚が倒れかかってくる。とどめに扇風機の羽が外れて猛回転、何度避けても生きているかのように戻り、犠牲者を斬り裂いていった。
 すべてがアキラを拒んだ。すべてがアキラを憎んだ。
「ぎゃふ……っ!」
 ――古来より、恐怖に駆られた兵士がたどる運命は、ほぼ定められている。
「痛っ! 痛ぇ!」
 ――戦意を失い、指揮系統を失い、潰走をはじめてしまった彼らに待ち受けているものは。
「畜生……来るなァァ!」
 ――それはただただ一方的な。
「やめろォォ!」
 ――虐殺。

 ●

「おねーちゃんとちぃにーちゃん、見えなくなっちゃったねー」
「チカ、お肉はもういいのかい?」
「うんっ、もうお腹いっぱい!」
「はは、チカは小食だなぁ。将来太る心配はしなくて済みそうだね」
「そーゆーおぉにーちゃんはよく食べるねー」
 ものすごい勢いでユウは肉を食べていた。右手の箸で肉を焼き、左手の箸で口に運ぶ。一分の無駄もないコンビネーション。
 その速度、実に秒間二切れ。
 しかしそこまで貪婪に早食いを遂行していながら、ユウに気ぜわしい様子がなく、涼しげな気品を失わない理不尽。おまけに悠々と言葉まで発する。
「そりゃあ、チカ、こんなに大量のお肉を前にして、落ち着いてなんかいられないよ」
 と、落ち着き払った口調。
 その横では、ケイジが焼ニンジンの四角い切れを重ね立ててピラミッドを作るという何だかよくわからない遊びをしては、無言で頬を歪めていた。
「父さん、食べ物で遊ばない」
「だめー」
 飢群家の大黒柱、途端に悲しげな顔で俯く。

 ●

「なんなんだよ、一体なんなんだよお前ぇ!」
 アキラは恐慌に揉まれていた。
 力の限り逃げ回る。その影を縫いとめるように、包丁が次々と壁に突き立ってゆく。
 わけがわからない。
 ポルターガイストじみたこの怪現象。一体どういう理屈が働いているというのか。
 生の恐怖。
 追い立てられ、家中を走る。扇風機の刃をはじめ、コップが、洗濯ばさみが、皿が、写真立てが、のたうつコード類が、入れ替わり立ち代りアキラの背に迫った。あきれたことにテレビや掃除機などの大型家電まで飛んできて、その圧倒的な破壊力を誇示してゆく。
 致命的な攻撃を避け続けるアキラの体裁きも半端ではないが、無傷で切り抜けるには数が多すぎた。そして速すぎた。
 いつしか――
「家の中を走り回っちゃダメっていつも言ってるでしょ、もうっ」
 ――ソレの前に、戻ってきていた。
 ソレは、邪教の女神のごとく凄惨な美をまとって、一人用ソファに腰掛けていた。絶対的に優位な立場から見下ろす眼だった。
 アキラは、その玉座の前に跪く。みすぼらしい奴隷も同然の呈。
 全身が生傷だらけで服はボロボロだ。
「クッ……畜生……」
 目の前の女が、理解の範疇を超えた存在に思えてならなかった。
 なんで、俺はこんなバケモノと戦っちまったんだ……
 不思議と、攻撃は止んでいた。
 眼が、合った。
「どうして勝てないか、知りたい?」
 いたわるような猫なで声。
「……なんでだよ……」
 くすり、とひとつ笑い、ミカは華奢な左腕を持ち上げた。顔の横に手の甲が位置している。
 反射的にその手を凝視したアキラは、そこに信じがたいものを見る。
「なんだよ……それ……」
 ほっそりとした指に幾重にも巻きつく何か。
 光の加減で見え隠れする、極細の何か。
 四方八方に伸びて末端の見えない、蜘蛛の糸のようなそれ。
「わたしの腕は、この家の意志と繋がっている……」
 家の、意志。
 聞きなれないその単語に対する疑問を口にする暇もなく、ミカは陶然と声を上げた。
「もう長いこと、この家の家事全般をこなしてきたわ……そしてわかったの。壁や、柱や、部屋や、家具や、置物、文房具に本さまざまな家電、それから壁のシミに至るまで、家の中に存在するあらゆるものは、意志をもっているということを」
 とろんと瞳を潤ませて、ミカは手に頬擦りをする。愛しげに。
「料理や洗濯や掃除を通じて、わたしはいつしか彼らと会話ができるようになっていた。そして心と心を繋いだわ。とってもいい子たち……みんなわたしに心酔してる……自分たちを綺麗にしてくれる神様だって……」
 そしてこっちを見た。眼に爛々と光を宿して。
「だから、彼らの期待に応えるわ! この鋼糸は、わたしと彼らの絆! そしてわたしの意志を伝える神経! 同時に彼らの意志を具象化する筋肉! この家の中にいる限り、わたしはすべてを操れる! いいえ、わたしが家そのものになるのよ! だからわたしたちは決して負けない! すべては焼肉のために!」
 ミカは腕を振るう。それはあたかも管弦楽団の指揮者のごとく。
 そしてその動きから発生した振動やうねりが、糸の繋がる先まで伝播してゆき、家の意志を呼び起こす。
 家が、震えはじめた。地鳴りにも似た、低く、強く、太い律動。
 来る。
 今までで一番デカい攻撃が来る――!
 呼吸が止まりかけた。
 だが、ミカが最後に言った言葉が、頭のどこかで引っかかった。
 ――すべては焼肉のために。
 焼肉、だと。
 その一言が、意識をクリアにする。
 その一瞬が、全身を撃ち抜く。
 何かを、思い出した。
 俺は――
 俺は、なんで闘っているのか。
 その答え。
 アキラが抱える動機。

 刹那、一つ一つを認識するのも馬鹿馬鹿しくなるほど大量の物物物物物物物物物物物物物物物物が圧倒的な壊滅的な絶望的な速度と威力と殺意を伴い、
 ――それは不滅の、不変の、不死身の、不朽の、永遠の。

 ●

「むぅ、あれは飢群家の家系図にのみ名を残す幻の滅技『壊汰阿成轟雷波(えたあなるごうらいは)』! 噂には聞いていたが、まさかこの眼で見ることになろうとは……」
「しっているのかー、らいでーん」
 二人とも悪い漫画の読みすぎだ。
 ケイジは真剣にそう思った。
 つうかチカまで。
 お父さん泣きそう。

 ●

 超いてえ。
 アキラは全身が撃ちのめされ、圧搾される感触を味わった。
 骨の六本や七本は折れている気がする。
 あんの女、全然容赦ねえ。
 しかも生き埋め状態だ。背中に当たってるちゃぶ台の足とかが凄く痛い。
 だが、それは行動の妨げにはならなかった。
 思い出したから。
 大切なこと。
 力の限り、手を伸ばす。
 すべてが殺到してくる際、一瞬だけ確認していたもの。
 飢群アキラという男を完全にするための、最後の欠片。
 ひし、と、掴む。
 二度と離さぬように。
 そして――

「飢群幾何無想流・殲式――《螺旋参十弐連》」

 跳躍、回転、旋回、上昇、円舞。
 斬り散らせ。
 身を阻むすべてを!
 家財の山が、爆裂した。吹き飛んでゆくあらゆるモノが、横一文字に断たれている。
 垂直に跳んだアキラは、高速で旋回しながら急上昇していた。
 その手には、一刀。
 極限まで絞られた機能美が、芸術性となって見る者を撃つ類のそれ。
 幾重にもめぐる螺旋の斬閃が、蛍火のごとく虚空に残っている。
 永遠にも似た一瞬。そして――
 しゅたっ
 得物を振り抜いた姿勢で着地。直後、大小さまざまな家具小物がドカドカと落下してゆく。まるでドーナツ化現象のように、アキラの周囲だけ空白だ。
「最後――なんて言った?」
 低い姿勢から、静かに、そう聞いた。
「え……」
「『すべては焼肉のために』……そう、言わなかったか?」
 ミカはそう言った。確かにそう言った。
 そしてそれは、アキラが抱える命題でもある。
 焼肉。
 この世でただ一つ、無条件に絶対的な価値を持つ存在。
 それを一切れでも多く喰らうために、俺は闘っている。
 あぁ。
 そうなのか。
 だからアンタも闘うのか。
 自然と、そう察せられた。食べまくる自分を戒めるかのような言動も、焼肉を欲する心の裏返しでしかなかった。
「……そうね、確かに言ったわ。アキラを止めたのも、本心では焼肉を守るためだった。後悔なんかない。焼肉を食べるためならなんだってするんだもの!」
 穏やかな納得と共感があった。
 これまで、ひどく理不尽な恐怖の対象としか見られなかったこの女を、等身大の人間として見られるようになっていた。
 そうか、俺たち二人とも――飢群なんだな。
 太い笑みが、自然と浮かんでくる。
 だが、倶に天を戴けぬ間柄であることは変わらない。
 チャ――と、アキラは刀を担ぐように構える。
「さぁ、終わらせようぜ、すべて」
 スゥ――と、ミカの顔から動揺の色が消える。
「そうね。生き残った方が、至高の権利を手に入れるわ」
 静かに、闘気が高まってゆく。
 まるで、二人を世界から隔絶するかのように。
 すべてが決する一瞬の予感に打ち震えながら。

 ●

「やれやれ……アキラの奴、まぁ〜たお爺ちゃんの刀なんか持ち出してる」
「えーっ、ちぃにーちゃんってあんなスゴい技使えたの……?」
 眼をまん丸にして驚いているチカに、ユウは薄く笑む。
「チカは知らなかったっけ? アキラはね――」
 顔をあげ、遠くを見る。
 あるいは、遠い過去を。
「――中学でやってる剣道の試合、負けたことがないんだ」
「へぇー」
「…………」
「…………」
「…………」
「……えっ、せつめいおわり?」
「そうだよ?」
 無理がある。

 ●

 家の中限定とはいえ、森羅万象を思うがままに操る力。
 それは――
 それはもはや、神ではないのか。
 アキラは刀の柄を握り締めながら、脂汗がこめかみを伝うのを感じた。
 それでもなお、不敵に笑う。
 いいぜ。
 こいつが神だと言うのなら――
「いくぜっ!」
 ――神に刃を突きつけるまで!
 アキラは、飢群アキラという存在がこの世に息づいている意味を感じていた。
 感じまくっていた。
 これまでの人生で、今ほど充実した瞬間はなかった。
 そして、感謝した。
 この世に存在し、目的となってくれる焼肉に。
 焼肉の存在を許すこの世界に。
 肉を捧げてくれた牛さんたちに。彼らを育ててくれた畜産業の人々に。たれを作ってくれたエバラ食品社に。金網をこさえくれた名も知らぬ工場の諸氏に。
 過去のすべて、現在のすべて、未来のすべてに。
 そして、最高の敵手となって立ちはだかってくれる姉貴にも。
 つまりは、今この状況が形作られるのに関与したすべての要素に。
 尽きせぬ『ありがとう』を。
 だから、やる。
 恐るべき戦闘能力を誇るこの女を、完膚なきまでにブッ倒す。
 たん、と。
 床を蹴った。
 そして――
「「ごっちそーさまでしたぁー!」」
 ――固まった。
 一瞬の間。その言葉が持つ恐ろしい意味を飲み下すのに必要な時間。
 そして叫ぶ。
「何……ィ……!?」
「なんですって!?」
 アキラとミカは、声がした方を振り向いた。
 開かれた引き戸から見える庭先で、ユウとチカとケイジがそろって手を合わせていた。
 愕然とした。

 ●

 すべては計画通りだった。
 ユウは手を合わせながら、唇の端を吊り上げる。
 目的は完遂している。あとは事後処理だけであった。
 目的とはすなわち、焼肉に他ならない。
 彼もまた、飢群なのだ。

 ●

 一体なんなのか。何故こんなことになったのか。
 アキラの脳裏にはその無意味な問いがいつまでも渦巻いていた。
 ――いや、何故だも何もない。
 俺と姉貴が闘ってる間に、あれだけ大量にあった肉を全部喰われた、と。
 誰に?
 まず、親父ではない。親父は以前焼肉が出たときの悲惨な経験から、完全にベジタリアンに鞍替えしている。
 チカでもない。こいつの小食ぶりは普段からよく見られる。食ったは食っただろうが、全体からすればごく一部だろう。
 では、残り九割九分の肉は一体誰の腹に?
 消去法などという論理を持ち出すまでもなく、明らかだった。
「兄貴ィィ……!」
「兄さんッッ!」
 黒い気炎を立ち上らせながら、地獄の底から響いてくるかのような声を絞り出す。それは、絶望の怨嗟だった。
 アキラとミカ。
 思いは同じだった。
 対するユウは、いつもとまったく変わらない涼しげな微笑を湛えている。
 心なしか、見下ろすように。
 そのさまを見た二頭の野獣は、喉笛が破れそうなほどの咆哮を上げ、二条の突風と化した。間合いは一瞬で消滅した。
 ふたつの死撃がユウの長身痩躯を貫く直前、アキラとミカの眼の前に、何か板のようなものが出現した。
 盾か。
 それで盾のつもりか。
 アキラは凶暴な笑みを浮かべる。盾ごと打ち砕かんと刀に一層の力を込め――
「ッ!?」
 ――急停止した。
 ミカもまた。
「「それは……まさか……!」」
 眼をみはる。ユウが掲げたものを見る。
 それは発泡スチロールとフィルムでラッピングされた、
 肉。
 肉。
 肉。
 産地直送、黒毛和牛、特上霜降カルビ、九千五百円(税込)。
 赤と白、対照的なふたつの色彩が奏でる、至高のデュオ。
 その鮮やかさ。
 その神々しさ。
 二人はいつしか畏敬の念に打たれ、一歩二歩と後退していた。あたかも、キリスト復活を目の当たりにした十二使徒のごとく。あるいは、ブッダ誕生を観たアシタ仙のごとく。
「いやぁ、今日のために買っておいたんだけどさ」
 ユウが頭をかきながら、照れくさげに言う。
「よかったら食べなよ。僕も父さんもチカもお腹いっぱいだし」
 あまりのことに、二人ともしばらくマトモな口がきけなかった。
「あ……あ…………お……」
「……で……でも……どうして、今……」
 あはは、とユウは気負いなく笑う。
「だって最初から出してたらみんな僕に遠慮してあんまり食べないだろ? 僕はいいんだよ、安い肉で。それより日ごろから世話になってきたみんなに礼をしたくてさ」
 ……自分は安い肉で我慢し、弟と妹たちには特上肉をさりげなく買っておく。そういう長男の心遣いであった。
「えーっ、そんなのあったのー? そんしたー、ぶーぶー」
 チカは横でふくれっつらだ。
「お……あ……兄貴……」
「お兄ちゃん……」
 さっきまで修羅の形相をしていた二人は、ぶわっと眼に涙を溢れさせる。
 ほどなく、決壊。
「おっと……二人ともどうしたんだい? 小さい子みたいに……」
 二人はひっし≠ニユウに抱きついていた。
 抱きつきながら、泣いていた。
 嗚咽が流れ出る。
 ユウ兄のこと、誤解していた。
 あの爽やかスマイルの裏に絶対何かあると、今までずっと思い込んでいた。
 まさか、東京に行ってしまう前日に、ユウ兄の本当の優しさに気づくなんて。
 俺。
 私。
 バカだぁ……
「あれ、チカも?」
「んー、なんとなくー」
 も一つひっし=B
「……いや参ったね父さん」
 ユウがケイジに顔を向ける。
 ケイジはしばらく何とも言えない顔をしていたが、数秒後にはあきらめたように肩をすくめた。
 しばらく胸貸してやれ、との御達しである。
 苦微笑でそれに応えると、抱きつく三人に顔を戻した。
「ミカ……いつもホントにありがとう。家事とかあんまり手伝ってあげられなくてごめんね」
「……ひぐっ……うぅん……」
「チカ……なんだかんだで一番一緒にいたね。東京にいったら寂しくなるな」
「だいじょうぶ、毎日あそびにいってあげるっ」
 そしてアキラの方へ視線がいく。
「アキラ……んー……あー……お前のことだから言われなくても日々全力だろうけど、んー、あー、頑張れ」
「おうよ……………………って、なんだその扱いの違いは! ずりーぞチクショウ、抗議だ! レコンキスタ! メーデー! シュプレヒコール! ストリーキング!」
「……あと、自分でも意味のわかってない言葉は使わないほうがいいよ。これ、兄ちゃんからの忠告な」

 ●

 その後、アキラとミカは凄い勢いで特上霜降カルビを完食した。
 あまりの旨さにまた泣いた。
 ケイジはやっぱり何とも言えない眼でそれを見ていた。

 ●

 翌日。
 東京へ旅立つユウを新幹線のホームまで送っていったのち。
「おねーちゃん、ちぃにーちゃん、だいじょうび?」
 ――特上カルビは賞味期限がヤバいくらい過ぎていた。
 過ぎまくっていた。
「兄貴ィィ……!」
「兄さんッッ!」
 凶獣どもの唸りが、一人人数の減った飢群家に木霊する。
 すでに東京へと逃げ去ってしまった怨敵を求めて。
 痛みは、突然発生した。
 腹の中で君臨する恐るべき暴威に、アキラとミカはのたうちまわることしかできなかった。
 なんという――
 なんという、男なのか。
 最初から、ユウが描いた卑劣極まるシナリオ通りにことが進んでいたのだ。
 まず、廃棄されようとしていた賞味期限切れ特上カルビをタダ同然で手に入れたのち、自分の送別会で焼肉を供させるようしむける。
 母である飢群リカの因子を色濃く受け継いだ長女ミカと次男アキラが、肉をめぐって全面対立することは、容易に予測できたのだろう。
 自分はその間に、まともな肉を腹いっぱい好きなだけ欲しいだけ思うさま貪り喰いまくった挙句、怒り狂って復讐しようとした二人には甘美な毒を押し付ける。
 そして事態が明るみに出ないうちに東京へトンズラこいたのだ。
 そういうことを、するのか。
 そういうことが、できるのか。
 良心などと言ったものに邪魔されることなく、そういうことをしてのける。
 たまらぬ悪魔であった。
「「ぅぅうぉぉぉのぉぉおぉぉれえぇぇえぇぇぇえぇぇぇ……!」」
 落ち着いたら。
 この痛みが、癒えた暁には――
 奴の住処へ、復讐しにゆく。
 必ず。
 絶対。
 確実に。
 そう、誓った。

 ●

 その日の夜。
 誰も居ない庭先で、ぽつねんと佇む影があった。
 ケイジである。
 その眉間には、深い苦悩の皺が刻まれていた。
 彼は迷っていた。

 実は、焼肉の大部分を食べたのは、自分なのである。

 少なくとも七割方は、平らげた。
 ――我慢、できなかった。
 確かにベジタリアンに鞍替えはした。しかし、目の前でユウとチカが幸せそうに肉を頬張っているのを目の当たりにして、ケイジの精神リミッタ―は一瞬にして千切れ飛んでいた。後のことは、あまり記憶にない。
 つまり、ミカとアキラの怒りのほとんどは自分へ向けられるべきものなのだが、結果としてユウ一人が罪を被る形となった。
 これもユウの計算の内なのだろうか?
 まさか、日頃から肉をガマンしていた父さんに、思い切り本懐を遂げさせるための――
 だとしたら、なんて心の広い息子だろう。
 ……やっぱ真実を告げるべきだ。
 そう思うが、悶え苦しみながら怒り狂う二人の形相が、何年か前に焼肉が供されたときのリカの顔とあまりに似ていて、超怖かった。
「……すまん、ユウ。父さんは弱い男だ……許してくれ……許してくれ……ッ」
 彼は恐妻家である。あの形相をする人間の怒りだけは買いたくない。
 飢群リカ。
 仕事の関係で東京に単身赴任している、文武両道のスーパーキャリア。
 そして、超人ぞろいの飢群家においてすら、最強の力を持つ女。
 ケイジとて、飢群幾何無想流を終式まで修めた超剣士だが、彼女にだけは勝てる気がしない。
 いまごろユウは、向こうでリカと合流しているはずである。
 ……考えてみれば。
 どうせそこで超絶豪華な進学祝い焼肉フルコースをおごって貰えるのだから、あんまりユウに同情する必要もないかな、と思い直し、ケイジはやっぱり黙っておくことにした。

                                       完

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