人を刺すと肉の感触が生々しく伝わってくるというが、あれは嘘だ。
 すくなくとも、刀を握る両手からはなんにも感じ取れやしない。
「かっ……ぅ……ッ」
 耳元で聞こえる、か細い喘鳴。
「き、さま……ァ……ッ」
 しなやかな肢体の熱をすべて受け止めようと、ぼくは彼女を貫く刃から手を離し、死にゆくその躯を抱きしめた。
 力の限り。彼女がまだ生きているうちに。
 きめ細やかな肌を、引き絞られた筋肉を、血潮の脈動を、生命の熱を。
 すこしでも確かに、記憶にとどめておけるように。
「殺…てやる……殺し…やる……ッ」
 怨嗟を吐き出す、彼女の声。
 腕にいっそう力を込める。
 これで、いいのか。
 ぼくは本当は、とんでもない間違いを犯そうとしているのではないか。
 今すぐ病院に担ぎ込めば、まだ間に合うのではないか。
 未練がましく湧き上がってくる葛藤。
 彼女、リツカの血肉が、ひくりひくりと痙攣する。
「こ……し…て……る……」
 ――だめだ。
 だめだ!
 秘剣のシステムは、ここで断ち斬る。
 剣豪たちの時代から脈々と培われてきた伝説は、ここで終わる。
 ぼくが、終わらせる。
「……こ…………る……――」
 彼女の体が不意に重くなった。
 ……勝った、のか。
 視界が滲んでいった。

 ●

 例えば、の話だが。
 身体的に同条件の二人の人間が、片方は銃を持ち、片方は剣を持っていたとしよう。
 そして、その二人が合図とともに殺し合いをはじめたとしよう。
 生き残るのはどちらだろうか。
 ――間違いなく、銃を持った方だろう。
 引き金を引けば即座に殺傷力が発生する瞬発性。いかなる長物もまるで問題にならない圧倒的な射程。
 論議の余地などない。
 銃声とともに勝負は終わる。
 単なる武力を求めてのことなら、剣の存在意義など、完全に、完璧に、完膚なきまでになくなった。
 それゆえ、銃誕生以降の武術は「精神性」という名の逃げ場所を用意した。まるで、最初からそうだったと言わんばかりの顔で。
 そうしなければ、生き残れなかったがために。
 だが。
 ありえない仮定をさせてもらうなら。
 幕末や戦国時代において幾多の逸話を残した剣豪。
 彼らがもし、現代にいたとするなら。
 相手は何も素人でなくていい。秒間数十発もの死をばらまく自動小銃をたずさえた、練度の高い歴戦の兵士ということにしておこう。
 場所は一切の遮蔽物が存在しない平地だ。
 そういう状況下において。
 兵士と剣豪。
 どちらが勝つのか。
 その結果について考えるにあたり、印象的な示唆を与える事件が、二千十五年の東京で起こった。

 ●

 霧散リツカという女性についてぼくが知っていることは、自分でも驚くほど少ない。
 高校二年であり、ぼくの一年先輩であるということ。
 成績は正直ぱっとしないらしいということ。
 からりとした笑顔が印象的で、男女の区別なく慕われているらしいこと。
 やたらとUFOキャッチャーが好きで、彼女の部屋はぬいぐるみに占拠されつつあるらしいこと。
 そして、これだけは「らしい」をつけずに断言するが――
 彼女は天才だった。
 ウチの道場の門戸をはじめて叩いたその日、霧散リツカは道場師範にいきなり真剣を押し付けられ、竹入りの巻き藁を斬り落とせと言われたことがある。
 ずぶの素人にいきなりそんなことをさせる父さんも父さんだが、こともなげにスパッと斬り落としてしまう彼女もどうかと思う。
「あ、けっこう簡単なんですねっ」
 ちっとも簡単じゃない!
 これがどれくらい凄いことかと言うと、生まれたての赤ん坊が逆立ちと屈伸を同時にやってのけるくらいには凄い。
 さらにその後一ヶ月で、刀を抜き付けた瞬間に納刀する〈朧曳〉という中目録技法をマスターしたり、まったく固定されていないペットボトルを斜めに斬り落としたり、約十年間居合道をやってきたぼくを組稽古で負かしたりと、常軌を逸した天才ぶりを発揮しまくった。
 とにかく――
 瞬発力、認識力、判断力、ブレのない正確な肉体駆動など、武道をやるのに有利となるさまざまな才能を、特出したレベルで秘めていたのだ。
 しかし、わからないことがある。
 彼女の才能をもってすれば、例えば剣道などでは全国レベルでの華々しい実績を上げられたことだろう。
 しかし、ここは対峙せぬことを是とする伝統的居合道場である。
 もちろん居合道にも試合はあるが、それは動作の正確性や気迫を競うものであって、彼女の即戦能力を活かせるような性質を有してはいないのだ。
 なにを思ってこの道場に来たのか。
 その問いに、彼女はあっけらかんと答えた。
「秘剣よっ!」
「秘剣?」
 実生活ではまず使われることのないその単語。先輩は照れもてらいもせずに言い放つ。
「つまり、必殺技ね」
「はぁ……レバーぐるりにパンチボタンですか?」
 ゴヴッ、とかそんな笑えない音を立てて、ぼくの額に居合刀がめりこんだ。
 いや、鞘つきだけど……鞘つきではあるけれど!
 くずおれて痛みに耐える。
「ごごごごめんっ! つい木刀のつもりでやっちゃった」
 すぐに彼女が、ウルフカットの髪を揺らしてしゃがみ込んでくる。
「……木刀なら気軽に殴ってもいいというわけではないと思いますが」
 ジト眼で睨むと、彼女は頭を下げながら勢いよく合掌する。
「ホントごめんっ。次からはちゃんと峰打ちにするから」
 ものすごく失礼な問題なので面と向かって言ったことはないが、彼女は、その、直接的な表現を使うなら、ほんの少しだけ、頭が緩い、ような印象もなきにしもあらずというか……うん。
「で、知ってるんでしょ? 師匠が必殺技みたいなものを使うってこと」
 実を言うと、知っている。
 もう十年も前、道場で居合をやらされはじめたときから。
 ――我が家に代々受け継がれる云々。
 ――必勝にして必殺の術理が云々。
 ――門外不出にして一子相伝の云々。
 最初聞かされたときは何の冗談かと思った。
 奥義?
 奥義ですと?
 それは一体、何ゲージ消費するんですか?
 幼かったぼくは、しかし内心でそうバカにしていたものだ。
 それ以来、思い出すこともなくなっていた。
「……どこで知ったんです?」
「お爺ちゃんお婆ちゃんの世代では、はっきり言って有名よ? 赤銀とこの宗主は条理を斬り裂く秘剣を持つって」
「はぁ……で、そんなこと信じたんですか」
 もう少し常識の世界で生きたほうがいいと思います。
「もちろん」
 ――空気が、変わった。
 もやもやとした陽光のように曖昧だった彼女の視線が、引き絞られた。
 先輩の頬から、笑みが消える。
 その大きな瞳には、ひたすら真っ直ぐな……使命感?
「その秘剣を、わたしがもらう」
 いや。
 いやいやいや。
 だから、なんで?
 そう聞きたかった。
 口は、動かなかった。
「アー」
 いきなり、猫みたいな赤ん坊みたいな声とともに、道場の扉がガタガタと鳴り出した。
「……あ、師匠の時間だった」
 道場の扉の間から、ちびっこい婆さんの姿がのぞいている。入ってこようとしているようだが、扉の開け方を忘れてしまったのか、いつまでもまごまごしている。
 赤銀武葬鬼伝流(しゃくぎんむそうきでんりゅう)宗主、赤銀ツネ。
 齢八十七を数える我が祖母。
 すぐに霧散先輩が駆け寄った。
「師匠〜もう、言ってくれればいいのにっ」
 先輩が扉を開けてやる。
 よたよたと危なっかしい足取りで、ツネ婆ちゃんが道場に足を踏み入れた。
 よれよれの浴衣がけで、凍った滝のような白髪が腰まで垂れている。深い皺が刻まれたその顔には、縦一筋に長い斬傷が走っており、右眼は潰れていた。
 この傷がいつどこでつけられたものなのか、もう誰にもわからない。ボケる前の婆ちゃんを知る唯一の生き証人たる父さんですら、聞き出すことはできなかったそうだ。
 骨ばった左手には、小振りの居合刀が握られている。それを右手に持ち替え、上座の方向へゆっくりと一礼。すぐにまた左手に戻す。
「……婆ちゃん、また裸足で来てるな……」
 いつものことながら呆れる。中庭の小石とかで脚を怪我しやしないか、心配だ。
「ささ、師匠、今日もヨロシクおねがいしますっ」
「アー」
 完膚なきまでに耄碌しているツネ婆ちゃんだが、そのわりには異常なほど規則正しい生活サイクルを繰り返している。
 毎日まったく同じ時間に寝起きし、決まって早朝と夕方に道場に出没するのだ。
 長年の習慣が、骨の髄まで染み込んでいるのだろう。機械のように、何年も同じことを繰り返している。
 婆ちゃんが先輩に付き添われ、やがて道場の中央にたどりつく。
 力尽きたように正座。
 先輩も後ろに下がって正座。
 ぼくも一応正座。
 それに気づいているのかいないのか、婆ちゃんは正座のまま、ゆっくりと得物を引き抜き、両手に捧げ持って刀礼。またゆっくりと鞘に戻す。カチリ。
 しばしの瞑目。
 三回ほど薄い呼吸を繰り返したのち、居合刀の鯉口を切る。
 そして喝ッと左眼を広げ、

 冷えた剣光が弧を描いた。

 ――と思った瞬間にはすでにカチリと納刀している。
 ドォン! という踏み込み音が、一瞬遅れて鼓膜を震わせた。
 コマ落としの映像かと思うほど、過程の動作が見えない。
 座した状態から踏み込み、抜刀即斬撃、斬撃即納刀。
 赤銀武葬鬼伝流は、血振りの動作を行わない。本当に人を斬ったのだとしても、刀に血がつく間もなく振り抜いてしまえばいいのだ。
 ……いや、そんなことできるわけがないのだが、ツネ婆ちゃんの動きを見ているとひょっとしたらできるんじゃないかとバカな妄想を抱いてしまう。
 驚いたことに、これらのアクションを終えたあとにも三日月の残光が空間に浮いているように見える。網膜に焼きついたのだ。
 婆ちゃんは、片膝立ちのまま残心している。
 やがて左足から一歩退き、正座する。
 空気が、弛緩した。自分が息を吐くのを忘れていたことに気づく。
「はー……」
 先輩とため息がハモった。
「ア〜」
 と、婆ちゃんは上機嫌。

 ●

「ありがとうございましたぁー!」
 何本かの演舞を終え、よたよたと母屋に帰ってゆく婆ちゃんを母屋に送ってから、先輩と二人で今日見た技法の反芻実践をし、今日の稽古はお開きとなる。
「送っていきますよ」
 先輩が制服姿に着替えて出てくると、ぼくはそう声をかけた。
「うん、いつもごめんね」
「ぼくが勝手にやってることですから、お気になさらず」
「そう? じゃ『ごめんね』じゃなくて『ありがとう』ねっ」
彼女はその子どもっぽい造形の顔に満面の笑みを灯す。
 思わず、眼が細まった。
「えぇ、では服の上からブラを着けるというその前衛的ファッションの所以でも語り明かしながら帰路をゆくとしましょう」
 荒々しく道場の扉が閉ざされ、激しい衣擦れの音とともにくぐもった声が訴える。
「今のナシ! ウソ! 夢! 妄想!」
「えぇ、わかってます、わかってますとも」
 ぼくは穏やかに微笑む。
 まったく、何かにつけてそそっかしい人だ。
 一分後、再び荒々しく扉が開かれ、先輩が出てくる。
 やや上気した顔をプイとそむけた。
「行こっ!」
「はいはい」
 もう九時を回り、太陽はすでに沈みきっている。
 先輩は、道場以外では居合刀も木刀も持ち歩かないので、いくらなんでも無用心だろうと思い、しばらく前からぼくが送っていくことにしている。
 それに。
「近頃は、このへんでも辻斬りなんか出るらしいですしね」
 そう、辻斬りである。
 通り魔ではなく、辻斬りである。
 帯刀禁止令以降の日本にそんな単語が幅を利かせている時点で、なんかもう、なにかが間違ってるような気がするのだが、辻斬りとしか言いようのない事件なのでそう呼ばれている。
 斬殺死体、である。
 老若男女の区別なく、日本中のいたるところでそういう死体が発見されるようになって、はや十年。
 どう考えても単独犯ではないのだが、ではなぜ全国の頭の弱い人が一斉に辻斬りなんかやりはじめたのか、その理由は今もってわからない。
 警察の諸兄にはさっさとなんとかしていただきたいものだ。一応取り締まりは強化されているそうだが、今度は警察官が斬り殺されるという事件が頻発しだしているらしい。
 この国は今、空前の人斬りブームなのだ。
「あー、やだよねー……ホント、なに考えてんだろ」
「別に、ちょっと棒フリを覚えて有頂天になった馬鹿野郎がトチ狂ってるだけでしょう」
「辛辣だね」
「……これでも言葉は抑えたほうです」
 そして、そう間違った認識とも思わない。
 武の道を、単に暴力のための手段として捉えている彼らは、よほど理解力が足りなかったか、精神的に幼かったのか。いずれにせよロクなものじゃない。
 ぼくは別に好きで居合を始めたわけではないが、それでもこの世界に長年触れて、何人もの尊敬に値する人たちに出会えた。
 あんな奴らのために、まっとうな剣者の方々が白い目で見られているなんて、とても理不尽な状況だ。
「ひょっとして、何か嫌な思い出でも?」
 何気ないその質問に、ぼくの心臓が一瞬停止する。
「……いえ、その、ちょっと――」
 ――母を斬り殺されちゃいまして――
「――あいつらの事件のせいで見たいドラマが潰れちゃいまして」
 くすっ、と。
 彼女は笑う。
「あるよねー、そういうこと」
「しかもすごく重要な回だったらしく、ヒロインの病気が治るだの治らないだの」
「あはっ、なにそれ、ベタだねぇ」
 そりゃベタでしょうよ。
 今でっちあげたんだから。

 ●

 ――ぼくは、夢を見ている。
 父さんに秘剣の話をしてもらったときのことを。
 あれは確か小学生の時分じゃなかったか。
 ぼくが赤銀武葬鬼伝流の小目録術許しを貰った日のことだ。
 まだかなり小さいぼくと、今も昔も変わらず大柄な父さんが、道場で正座して向き合っているさまを、今のぼくはすこし離れたところで見ている。
「刀を使った立ち会いってのはよ、その勝負の本質は機≠フ取り合いになるんだ」
「機? 何のこと?」
「必ず勝てる瞬間のことだ。その瞬間、特定の方法で打ち込めば確実に一本取れる。そういう隙のことだ」
「そんな都合のいい隙なんて、本当にあるの?」
「あるさ。必ずある。どんなすげえ剣士でもな。刀を振る≠ニいう動作の構造上、絶対に発生する。……といっても、機をうまく見抜くのは、俺ほどの達人サマでも毎回成功するわけじゃぁねえ。機が一種類しかないんならそれもできるが、主だったものだけでも〈先の先〉、〈先〉、〈先の後〉、〈後の先〉と四つもありやがって、それぞれに打ち込み方も違ってくる。こうなるともうバクチだな。その上相手が本心を隠してニセモノの機を見せることもあって、話がさらにややこしくなってくる」
「頭痛くなりそうだね……」
「この世に存在するあらゆる剣術はな、今言った四種の機のどれかを狙う意図で編み出されたものだ。例外は……まぁ、すごく少ねえとだけ言っておこうか」
「ふーん」
「〈先の先〉の機を狙う奴は、敵から見ると〈先〉もしくは〈先の後〉の機を晒している。同じように、〈先〉や〈先の後〉の機を狙おうとする奴は敵から見ると〈後の先〉の機を、〈後の先〉の機を狙う奴は〈先の先〉の機を晒している。ま要するにジャンケンみてえなモンだ」
「じゃぁ必勝法なんてないんじゃないの?」
「基本的には、そうだ。だが、ジャンケンとは違う点もある。相手の機を、実際に仕掛ける前に見ることができるってところだ。先読みが効くんだよ。相手に読ませておいて実は……! なんてこともザラにあるから、絶対じゃねえがな」
「難しいね」
「ま、それはそれとして、だ。赤銀武葬鬼伝流には、こういうしょうもない三すくみ状態から一段抜きん出た境地が存在する。……いわゆる秘剣って奴だ」

 ●

 居合の稽古とは、一人で行うものだ。
 仮想敵を明確にイメージして立ち回り、集中力と客観的な認識力を養う。
 このときの仮想敵とは大抵の場合自分自身であり、居合は「記憶の中にいる過去の自分に、常に克つ」ことを旨とするのだ。
 このことをしっかり念頭に置いていないと、単なる一人チャンバラごっこになってしまう。
 そのためのイマジネーションを補強する目的で、組稽古をやることもある。
「ほらほら、踏み込みが浅いよ〜?」
「くっ」
 ぼくの打ち込みが空を裂き、唸りを上げる。
 何度も、何度も。
 そのたびに、カシュ、カシュ、と竹が擦れる音が、かすかにする。
 幾筋も踊る竹刀の軌跡の向こうで、先輩の微笑が揺れている。
「体重移動と打ち込みのタイミングが乱れてるね。焦っちゃダメだよ、平常心平常心」
「ぐぐ……」
 カシュ、カシュ、と得物が鳴る。
 ぼくの攻撃を、彼女はすべて刀身を斜めに当てていなしているのだ。
 斬撃が逸らされる角度は、わずかなものだ。だから慣性がほとんど殺されず、竹刀は先輩のすぐ横を抵抗もなく通り抜けてゆく。それに引っ張られて体勢が乱れ、次の一手が遅れる。その事実が彼女の対処を更に簡単なものにする。
 まさに理想的な受け太刀だった。
 こういうとき、実感する。
 彼女は、天才なんだな、と。
 同時に少々情けなくもある。
 彼女がこの道場に来たのは、去年のことである。
 つまり、一年と少々。
 ただそれだけの期間で、幼稚園の頃から居合道をつづけてきたぼくを鮮やかに追い抜き、赤銀武葬鬼伝流の免許皆伝まであと一歩というところまで行ってしまった。
 才人の背中を見送る凡夫の心境は、せつない。
 でも、あまり嫉妬めいた生々しさはない。どちらかというと、今にも孵りそうな卵を見るような、美しく磨かれてゆく原石を見るような、そんな感覚。
 ――そう、彼女は美しい。
 大きな才能を持って生まれ、しかしそれに安住することなく研磨をつづける人間の姿は、例外なく美しい。
 だからぼくはきっと、そんな彼女の姿を見ていたいんだと思う。
 これからも、ずっと。
「ほらっ、集中が途切れてるよっ」
 ――ベヂッ
 熱いんだか痛いんだかよくわからない衝撃が、額で弾ける。
「くぉぉ……ッ」
 額を押さえてうずくまる。
「なんか別のこと考えてたでしょう、打ち込みに意志が乗ってないぞっ」
 ビキビキと頭蓋の中に染み込んでくる痛みが、ぼくは少しうれしかった。
 ――そう、優れた打ち込みには、精神的な何かが宿る。
 使い手の魂、そのひとかけらが、得物に乗って対手へ流れ込むのだ。
 いま、ぼくの意識を痺れさせているこの痛みもまた、霧散リツカという女性を象徴するかのように、鮮烈で、透明だ。
「フッ……痛みすらも美しい」
「なに言ってるの?」
 わかりません。
「ア〜」がたがた。
「わっ、師匠の時間だった!」

 ●

 その日の敵手は複数のようだった。
 抜き身の刀を構えた男たちは、すでにツネ婆ちゃんの周りをぐるりと取り囲んでいる。
 囲まれる当人は、刀に手をかけた状態でややうつむき加減にたたずんでいた。
 はっきり言って、失敗である。
 それも致命的な失敗だ。
 一流であるなら、「囲まれたときどうするか」ではなく、「囲まれないためにどうするか」の術理を極めるべきではないのか。
 暴力の民主主義は厳然とした力を持っており、大人数の敵を同時に相手しなくてはならない状況を許した時点で、その剣客は半分以上敗北している。ましてや包囲されるなど、どんな殺され方で死んでも文句の言えない失態だ。重要なのは戦術(タクティクス)ではなく、戦略(ストラテジー)。
 ……と、赤銀道場師範、教士五段受有者であるところの我が父・赤銀ザキラなら言うだろう。
 ぼくはそんな修羅場など経験したことがないのでわからないが、この言は正しいように思える。
 しかし、今、婆ちゃんはその禁を破り、悠々と抜刀に構えていた。
 気圧が、急増する。
 水中にいるかのような圧迫感が、小柄な老婆の体から放射される。誇張抜きで、婆ちゃんが大きく見える。断じて気のせいではない。
 その骨ばった親指が鍔を押し、鯉口を切った。
 即座に男たちが反応。一斉に殺到する。
 次の瞬間、婆ちゃんの抜刀瞬撃が
 ――閃かない。
 老剣士の姿が、消失していた。
 跳んだか!
 即座に道場の天上を見上げる。
 いない。
 どこだ!?
 今度はすぐに気づいた。
 下。
 床にへばりつくように。
 しゃがみ込むなどというレベルではなく。
 何か、地面を高速で這う、名状しがたい生物のように。
 手足を奇妙に折り畳んだ姿態でありながら、両手はしっかりと刀に添えられている。
 転瞬、隻眼の矮躯が毒蛇のように跳び上がった。
 ――あとはもう、一瞬だった。
 宙転からの抜き付けで一人。その回転を傾けて放つ袈裟で一人。勢いのまま、後方から迫る一人の喉へ柄頭を突き入れ、さらに旋回。身を折って咳き込む男の懐をすり抜けながら螺旋力の乗った斬撃で一人。そしていまだにえずいている一人を振り向きざまに仕留める。
 一息で、四人。
 婆ちゃんは素早く眼を転じた。あと一人いるようだ。逃げてゆく五人目を正面に捉えると――なんと刀を投じた。
 縦回転する刃が男の延髄を正確に貫き、直後すり抜けて道場の壁に突き刺さった。
 衝撃で、柄が震えている。
 それで、五人の敵手の幻は跡形もなく消え去った。道場には最初から、婆ちゃんとぼくと先輩の三人しかいない。
 正座して演武を見ていたぼくらは、体を戒める圧力から解放され、ほぁ〜、と気の抜けた息をつく。
 五人もの敵を一瞬で倒す型。
 単に身を守るためだけなら、逃げる敵まで討つ必要はない。
 これは、暗殺の術理。
 どうしても斬らねばならない五人を確実に屠るため、わざと包囲を許す剣。
 あまりにも鮮明な仮想敵に対する動作は、状況を客観するぼくらにまで五人の敵の姿を幻視させる。パントマイムと同じ理屈だ。
 ――だが、これすらも赤銀武葬鬼伝流においては中目録の技でしかない。
 すなわち、婆ちゃんにとって軽い運動みたいなものなのだ
 大目録術許しの深奥に位置する秘剣を修めた剣士は、一息に五人なんてケチくさいことは言わず、十人は倒せる、らしい。
 もっとも、そんな領域に至った人間は、できるからと言って実行などしない。
 ――自らの思うところを成すにあたって、他者と敵対する必要すらない。
 ツネ婆ちゃんが身につけているのは、そういう次元の強さだ。
 偉大な剣聖である。
 その偉大な剣聖は、少し腰を落とした姿勢で残心している。
 ……と、思ったら、急にペタペタと自分の腰元を触り、落ち着かない挙動で周りを見回しはじめた。
「ア〜……」
 心なしか哀しげ。
 どうも刀を探しているようだ。今自分で投げたことはすっかり忘れてしまっている。
 クスクスと、隣で先輩が笑っている。
「師匠って、かぁわい〜ぃ」
 ぼくも苦笑しながら、壁に刺さっている居合刀を取りに行く。

 ●

 ――ぼくはまた、夢を見ている。
 いつかのつづきを。
「秘剣って……」
「あ、てめえ馬鹿にしてやがるな? まぁ仕方ねえけど。やっぱ今どき秘剣はねえよなぁ、オイ?」
「いや同意されても……で、どんな技なの?」
「んー、あー、多分ガキンチョのお前に説明したってわかるわけねーだろーけど……あえて言うなら反則≠セ。そして無敵≠セ」
「ご期待通りわかんないよ」
「さっき言ったように、剣術ってのはジャンケンみてえな三すくみで成り立っている。それはもうリンゴが木から落ちるのと同じくらい確かなことでな、だれもその原理からは逃れられない」
「うん」
「だが、この秘剣は数少ない例外の一つだ。こいつはもうアレだ。相手がどんな手で来ようがまったく関係なく、確実に優越する手を出せる。百パーだ。仕損じはねえ。そういう剣技だ」
「なんでそんなことができるの? すごい先読み?」
「先読みとは違うな……お前が想像してんのはアレだろ? 剣聖の無想の境地みてえなナニだろ? そういうんじゃねえんだ。先読みはしてねえ。斬り合う瞬間に至るまで、この技の使い手は、相手がどの機を狙ってくるか全然わからねえ」
「じゃどうやって百パー勝つの?」
「その斬り合う瞬間を何度も繰り返して、優越する手を見つけるんだ」
「……はぁ?」
「ま、いろいろ理屈をつけて解釈することもできるが、お前にわかるとは思えねえし、はっきり言ってめんどいからやめる」
「あっそう……で、その技って名前あるの?」
「〈宇宙ノ颶(うつのかぜ)〉ってんだ」
「うつのかぜ? へんな名前」
「るせえなぁ、大昔のセンスはお前にゃわかんねえよ」

 ●

 たまに、だが。
 こうして並んで歩いていると、ぼくたちが周囲の人々にどう見られているのか、多少なりとも気になってくることがある。
「それでねー、アイツってばアレで臆病なところがあるから――」
 屈託なく喋りつづけるリツカ先輩の話に相槌を打ちながら、思いに耽る。
 彼女の横顔は、夜の街の明かりで白く浮かび上がっていた。紺のブレザー姿なので、余計にそう見える。
 今となってはやや野暮ったくもあるウルフカットの髪型も、茶目っ気に富む彼女にはふさわしい。
 可愛らしいひとだな、と感じる。
 素直にそう思う。
 だから、『ぼくたちが周囲の人々にどう見られているのか』という益体もない命題に思考をめぐらせる時、ある単語が脳裏をチラついたとして、一体誰がぼくを責められよう。
「でも、よく考えてみると笑えないよね。あの子にだって――」
 そもそも、ぼくは彼女のことをどう思っているのか。
 憧れは、抱いている。尊敬もしている。
 一緒にいて楽しいひとだ。
 時折ツッコミに殺傷力が伴っているのも愛嬌だ。
 好きか嫌いかで言えば間違いなく好きである。
 が、その感情が『異性として好き』なのかというと、深く考え込んでしまう。
 ぼくの中における霧散リツカへの好感は、もっと根源的な美しさ≠ノ対する崇拝じみた感情と、わかちがたく結びついている。
 その美しさとは、すなわち彼女の振るう剣に宿る人格と魂に対するものだ。
 ひょっとしたら、自分で区別がついていないだけなのかもしれないが――

 ――グチィッ

 うむ。懐かしい感触だ。
 額から浸透してきた衝撃で朦朧としながら、そう思った。
「もー、話聞いてないでしょっ!」
 ぎょっとするほど間近で、彼女の声がする。
 見ると、視界全体に彼女の顔が広がっていた。澄んだ、茶色い瞳が睨みを効かせており、『怒ったぞ』という情報を雄弁に物語っていた。
 ……どうも、おでこをぶつけ合った状態のようだ。
「いえ、そんなことは」
 さすがに一歩退きながら、中身のない弁明をする。
「うーそー! キミが「自動頷きモード」に入ったら一発でわかるんだからねっ!」
 しょうがない、素直に謝っておくか。
「ごめ」
「あっ、マリセンだ! ねえ、ちょっと入ってこうよ」
 ……この人の怒りは持続しないのが常だが、いくらなんでも持続しなさすぎだと思う。
 謝罪の言葉くらい聞こうよ!
 『水族館マリントピアの向かいにあるゲームセンター』略してマリセンに引きずられていきながら、ぼくはやるせない感情に突き動かされて夜空を見上げた。
 街の明かりにかき消されて、星はほとんど見えなかった。

 ●

「ぬぅぅ……っ」
 UFOキャッチャーは、アームが三本爪の機種を選ぶのが鉄則である。
 最も掴みやすく、最も安定する形なのだ。
「むむむ……」
 そして、ワンコインゲットに執着しないこと。まずぬいぐるみの手足を掴んで前にずらし、二回目のアタックで頭を鷲掴みにして穴に落とすのが王道だ。
「ぐ……っ」
 店側の絶妙な配置により、よほどの凄腕でもないかぎり一撃で落とすことはとても難しくなっている。取れそうに見えて、取れない。その陣立ての妙。
 ――などという知識とはまったく関係なく。
「おつかれ〜!」
 ぼくは千円使ってやっと一つ落とすという、パッとしない成果に終わった。
 景品の平均価値が二百円〜三百円という世界にあっては、完全なる敗北である。
 そして大枚はたいて手に入れた戦利品は、名状しがたいレベルで虚無的な眼を湛えたタコのようなエリマキトカゲのようなよくわからないキャラクターだ。怖い。
「うわぁ〜、いいないいな、かわいいなっ」
 ぼくにまとわりつきながら、眼を輝かせている。
 この人の趣味がわからない。
「……よろしければ、どうぞ」
「わ〜い」
 ぬいぐるみを抱き上げながらクルクル回ってはしゃぐ先輩。スカート広がってはしたないからお止めなさい。
 抱き上げられるタコトカゲの死んだ眼を見ながら、ふと思う。彼女の部屋は、あんな冒涜的な恐怖に満ちた造詣のぬいぐるみがひしめいているのだろうか、と。
 その想像に地獄めいた戦慄を覚えながら、気分を変えるために何気なく眼を転じた。
「……え」
 ツネ婆ちゃんがいた。
 ように見えた。
 ガラス張りの大きな出入り口から、向かいの水族館が闇の中でほのかに見えるのだが、その足元に浴衣を着た小柄な人影があった……ような……
 いやいや待て。
 こんなところにツネ婆ちゃんがいるわけがない。
 「ア〜」しか言えないような状態でホームヘルパーの加藤さんを出し抜いてこれるとは思えないし、そもそも外出すべきいかなる理由も婆ちゃんにはない。
 だから、あれは婆ちゃんではない。
 遠目にちょっと似た人だったというだけだ。あるいは、単なる気のせい。
 そう思う。
 思うのだが……
 チラと後ろを見る。
 先輩が、勇んでUFOキャッチャーに挑んでいた。前のめりだ。
 テコでも動きそうにない。
「先輩、ちょっとここで待ってて下さいね」
「うーん、頑張るよ」
 聞いてないなこの人。
 まぁ、あと三十分はここで粘っていることだろう。
「すぐ戻ります」
 ぼくは駆け出した。

 ●

 ――結局。
 少々肌寒い夜風のなか、しばらく探し回ってはみたものの、それらしい姿を捉えることはできなかった。やっぱり気のせいか。
 やれやれとマリセンに戻ってみると、
「あれ……」
 先輩が陣取っていたUFOキャッチャーの周辺に、数人の人影があった。
 よく見てみると、その中の一人はリツカ先輩だ。そして彼女以外の全員が男だ。見たところ、高校生か大学生だろうか。今風のファッションを着こなした、爽やかな面々だ。
 ほんの少しだけ、嫌な予感を抱く。
 何か――
 何か、リツカ先輩が取り囲まれているような……
 いやいやいやいや。すぐに悪意と結び付けてはいけない。
 あれだ、きっと学校での友達にばったり会って話し込んでいるんだ。
 その証拠に、若い男どもの表情はものすごくにこやかじゃないか。
 問題ない。
 何も、問題は、ない。
 ――男の一人が不意に手を伸ばし、先輩の細い腕を掴んで引っ張った。
 ――先輩の大きな瞳に、はっきりと怯えの色が走った。
 ぞわり、と。
 腹の底で小さな熱が発生し、チロチロと臓腑を撫で上げるのを感じた。
 対照的に、胸のあたりは冷たく凝っている。
 現実を見ろ。
 あれは控え目に言うところの『ちょっと強引なナンパ』だ。
 ぼくは深々と呼吸を行い、気分を落ち着かせると、歩き出した。
 決して走らず、着実に距離を詰めていった。
「先輩、遅くなってすいません」
 声をかける。
 途端に全員がこっちを向く。刺すような視線。
「あ……」
 涙目の先輩が、安堵したような、不安なような、途方にくれたような顔をした。
「話し込んでいるところ悪いんですが、ちょっと来てくれます?」
 男の手から、スルリと先輩の手を抜き取ると、そのまま握り締めて包囲から抜け出した。すれ違いざまのにこやかな会釈も忘れない。男たちは一瞬の出来事に唖然としているようだった。
 急く気持ちを抑えて歩きつづけること数歩。
「困るなぁ、ちょっと待てよ」
 後ろから声。
 ぼくは心の中で天を仰いだ。
 あぁーそうだよなぁー! やっぱ見逃してくれるわけないよなぁー!
 ぼくは先輩の手を握り締めたまま、全速力で走り出した。
「わぅっ」
 彼女はこけそうになりながらも、なんとかついてくる。
「待てって、おい!」
 柔和な仮面をかなぐり捨てた声が、後ろから迫ってきた。複数の足音が聞こえる。
 ぼくらはマリセンから飛び出すと、街路をでたらめに迷走しだした。
 右左右左左右左左右右ときてもっかい右!
 しかし――
「しつこい……!」
 後ろを振り返る。彼らはニヤニヤ笑いながら、一定の距離を保って追ってきている。
 くそっ、なんか楽しんでるぞあいつら!
「ちょ……ごめ……もう、限界……っ」
 息も絶え絶えに、先輩は立ち止まってしまった。
 限界なのはぼくも一緒だ。
 二人で膝に手を突いて、ぜえぜえ。
 消えかけの街灯が点滅する、人気のない公園。
 いつのまにか、そんなところに入り込んでいたようだ。樹々の匂いが、大気に溶けている。よりによってこんな人通りのないところで息が切れるとは……
 すぐに強制ナンパ集団が追いついてきた。
「おいおい、終わりかよ」
 嘲りの混じった笑いが上がる。
 ……なんでそんなに余裕なんだ。陸上部かアンタら。
 ようやく呼吸が落ち着いてきた。
「しつこいな……何なんです? 何か用ですか?」
 睨みつけながら、言う。
「だからさ、俺らはそっちの娘とお話してたの。邪魔しないでくれる?」
「嫌がってます。やめてください」
 舌打ちの音が聞こえた。中央にいた一人が、ジャケットの懐に手を突っ込んで近づいてくる。
「何なの? 君。はっきり言ってウザいんだけど――」
 取り出されたのは三段式警棒。男が打ち振るうと、遠心力でカチカチッと伸びた。
 え、嘘……
「――ねえ!」
 振り下ろされてくる――!
 正気かこの人! こんなあっさりと暴力に頼るなんて!
 心臓が暴れまくる。眼が限界まで見開かれる。どこか遠くで、先輩の悲鳴がしたような気がする。
 ――思考や理性とは別の、もっと根っこの部分が反応した。
 右足を引いて半身になった瞬間、ぞっとするほどすぐそばを警棒が奔り抜けていった。
 即座に両手を伸ばす。左手で男の手を、右手で警棒を掴む。
 掴んだ腕をねじり上げながら相手の背後に回り込み、背負い投げの要領で腕を思いっきり引きおろした。
 赤銀武葬鬼伝流――〈死手絡ミ〉!
 男が宙を舞い、直後にアスファルトに叩きつけられる。
「がっ!」
 彼は一瞬もがき、すぐに動かなくなった。
 お、思わずやってしまった……。
 暴力沙汰にだけはせずに済ませようと思っていたのに。
「え、何こいつ」
「何こいつ」
 空気が剣呑なものになる。皮膚が粟立つ。
「ちょい調子乗ってね?」
「乗ってるね」
 ……さわやかイケメンなんてとんでもない。見た目よりずっと凶暴だ。
 勘弁してくれよ、頼むから……
 投げ飛ばすと同時に奪いとっていた警棒を逆手に構える。竹刀や居合刀ほど長くはないが、ウェイトは申し分ない。
「やめにしよう。暴力は何も解決しない」
 自分でも死にたくなるほど説得力に富んだ言葉を契機に、彼らは殺到してきた。
 相手は、五人。
 ……五人?
 記憶の琴線に触れるものがある。
 それが何だったか思い出そうと首を捻っていると、眼の前に拳が。
 殴られた――と思った瞬間には、体が勝手に反応して超低姿勢状態に。
「あっ?」
 地面にへばりつくように。
 しゃがみ込むなどというレベルではなく。
 何か、地面を高速で這う、名状しがたい生物のように。
 下から見上げると、彼らはぼくの姿を見失っているようだ。
 極限まで折りたたまれた脚を瞬発させ、大跳躍。一気に敵の頭の上まで跳び上がり、宙転。同時に逆手から順手へ得物を持ち替える。これら二つの回転を警棒に乗せ、渾身の力で叩きつける。
「ぎぇっ!」一人目。
 地面に降り立ち、いまだ全身に宿る回転の軸を滑らかに傾け、袈裟打ちを捻り出す。
「うぐっ!」二人目。
 警棒を左斜め下に振り抜く動きをやや修正し、左足を引きながら振り返りざまに柄頭を突き出す動作に代える。
 ちょうど後ろから掴みかかってきていた奴の喉を打ち抜いた。
「げっ! ごっ!」三人目。
 さらに回転力を殺さぬまま旋回。身を追って咳き込んでいる三人目の脇をすりぬけ、その向こう側にいる金髪の奴に総身の関節可動を同期させて放つ閃撃を見舞う。
「おぇ……ッ!」四人目。
 そのまま振り返る。同時に頭上で得物を翻し、シームレスに上段の構えへ移行。喉を押さえて呻いている三人目をめがけ、踏み込みながら打ち下ろす。
「くぁっ!」
 ……こうして、四人が沈んだ。
「う、う、あ、あ……!」
 残る五人目が、背を向けて逃げ出した。
 ぼくは――というよりぼくの記憶と体に染み付いた技は――半ば自動的な反応で警棒を投擲しようとした。
 ――いや待て、別に逃げる奴を仕留める必要なんかない。
 そう思い、体に制動をかける。
 かけようとする。
 ――ん!?
 止まらない。
 螺旋の動きがまだ全身の肉の中に残っている。その回転に沿うように一歩踏み出し、腰をねじり、オーバースロー気味に警棒が投げ放たれた。
 全身の力が無理なく宿った得物が、縦回転しながらカッ飛んでゆく。
 そして、延髄にヒット。
「あげッ!?」五人目。
 赤銀武葬鬼伝流――〈鏖ノ五旋〉!
 今日、ツネ婆ちゃんが道場で演じた技だ。実際にやってみると、はじめから終わりまで回転力を利用しつくした合理的な体さばきであることがわかる。
 いや、そんなことより。
「い……行きましょう、先輩」
 呆然としている彼女の手を取り、再び駆け出した。
 彼らが眼を醒まさないうちに。

 ●

 ぼくらは、街路の植え込みを囲む石段に腰かけ、ひゅうひゅうと荒く呼吸を繰り返していた。
 眼の前を、自動車のライトが行き交っている。その向こうにはビル群の明かりが、さらに向こうには地味で目立たない星空が広がっていた。
 右腕に、先輩の体温を感じる。
 彼女は、もたれかかるようにぼくの右腕に抱きついて、か細く息を整えていた。
「……み、見直しちゃった」
 こちらを見上げてくる。眼の端に残る涙が、街の光をうけて煌めいていた。
「びっくりしたよ……あんな人数だったのに……」
 そして顔を下げ、ぼくの肩に顔を押し付ける。
「それに比べてわたしってダメだな……なんにもできなかった……すごく怖くて……」
 そうだろうか? 先輩がやれば、ぼくより数段鮮やかに彼らを黙らせたことだろう。
 別に謙譲ではなく、彼女の実力は悠々とそれを可能にする。
 今回は、たまたまぼくの方が冷静さを取り戻す時間的余裕に恵まれていたというだけのことだ。
 ……と思うのだが、しかしその考えをどんな言葉で彼女に伝えればいいのだろう。
 何を言っても、空虚な慰めとしか取ってもらえないような気がする。
「こんなんじゃ……絶対無理だ……」
 ……何のことだろう?
 ぼくは結局何も言わず、彼女の手を取ってぼくの胸板に触れさせた。
「え?」
「心臓、まだバクバクいってますよね?」
「あ……」
「ぼくもあの時、滅茶苦茶怖かったんです」
「ホントだぁ……」
 リツカさんの顔が、ほんの少しの笑みに彩られる。
「よく見たら、手も震えてるね」
「……うっ」
「あ、膝もっ」
「うぅっ」
 指摘されるとさすがに恥がこみあげてくる。
 彼女はクスクス笑いながら、さらにペタペタと体中触ってくる。
 よかった、いつもの調子を取り戻したみたいだ。
 しかし……
「うりうり〜、どこもかしこもガクガクだね〜」
 ペタペタ。
「……あの、先輩」
「ん〜、なに?」
 ペタペタ。
「さすがに、その、照れるんですが」
「……」
 彼女の手が、熱いものに触れたかのように引っ込められた。
「……」
「……ご、ゴメン」
「いえ……」
 二人して、下を向いて黙る。
 たくさんの車のエンジン音だけが、しばらく流れた。
「……帰ろっか」
 彼女が立ち上がった。
「……ですね」
 ぼくもつづく。
 お互い、なんとなく眼を合わせられないまま歩きだし、やがてリツカ先輩の家にたどりついた。
 彼女は門をくぐり、石畳の階段を駆け上がってから、パッとこちらを振り向いた。
「遅くまでつき合わせちゃってゴメンね。それから、助けてくれてすっごくありがとう」
 ちょっと紅潮した顔に、澄んだ水から反射する陽光のような笑顔が輝いた。
「ちょっと……ううん、とってもカッコよかった!」
 そういうと、頬を覆い隠しながら逃げるように玄関を開け放ち、家の中へ入っていった。
 ぼくは何も言えず、ゆっくり閉じゆく玄関を見ていた。
 すこし、ぼう、としていた。
 やがて、自分が体を動かせるという事実を思い出すと、乱暴に顔を振って頬に宿る熱を追い出し、我ながらおぼつかない足取りで帰路についた

 家に帰ると、ツネ婆ちゃんが行方不明になっていた。

 ●

 玄関をくぐった瞬間、ホームヘルパーの加藤さんが慌てた様子でまくしたててきた。
 話を要約すると、ついさっき、いつものように晩御飯と替えのオムツを持って婆ちゃんの部屋に行ったら、もぬけの殻になっていて、家中探し回ってもいないという。
「警察には連絡しましたか?」
「しようと思ったんですが、そのまえにザキラさんが『絶対に警察はダメ』ってすごい剣幕で言うもんで、わたしゃもうどうすりゃいいのやら……」
 責任を感じて意気消沈している加藤さんを尻目に、ぼくは電話をかけていた。
 我が父・赤銀ザキラの携帯だ。
「警察に連絡しよう」
『駄目だ』
 ぼくの言葉を、父さんは一言で切り捨てた。
「どうして!」
『マッポは駄目だ。とにかく駄目だ』
 一昔前の新宿歌舞伎町で、数十人のチンピラを木刀一本でのめした伝説の喧嘩師が、無駄なまでに威圧感に満ちたうなり声でそう断じた。
 というかマッポて。
 リアルな言い回しが嫌だ。
「何か知ってるんだね」
『しらねえな』
 頑迷な口調。教えろと言って教えてくれそうにない。
「……わかった、とりあえず今はそういうことにしとく」
『ふん』
「それで? 介護事務所には連絡していいの?」
『いいわけねえだろ。公にしたらすぐマッポが来ちまうだろーが! とにかくどこにも報せるなよ、いいな?』
 なんでそんなワケのわからない理屈で怒られなきゃなんないんだ。
「……あのさ、前もこういうことはあったわけ?」
『あったさ。このところは妙に多かったな。……なんだお前、気づかなかったのか? 修行が足りねえよ』
「多かったって……なんでほっとくんだよ!」
『いいだろ別に。毎度ちゃんと帰ってくるしよ』
 呆れた。ここまで無責任だとは思わなかった。
 こんな人が教士称号なんか取ってるんだから世も末だ。
「もういいよ、探しに行ってくる!」
『あ、待てコラ』
 受話器を叩きつけて、加藤さんの方を振り向く。
「ここで婆ちゃんを待ってて下さい。父が言うにはいずれ帰ってくるそうなので」
「あ、はい!」
 ぼくは駆け出した。
 婆ちゃんの部屋の前を通りかかったとき、ふと思い立って立ち止まった。
 戸を開け、電気をつける。
 何か、手がかりになるようなものはないかと。
 すみずみまで見渡す。
 和室だ。加藤さんとぼくの普段からの奮闘により、小奇麗に片付いている。
 畳。襖。床の間。電気行灯。全体的に和物で統一されていたが、手すりつきのベッドだけは異彩を放っている。
 いつものことだ。何も変わりはない。
 何も。
 何も――
 ――全身の産毛が、総毛立つ。
 床の間。
「なんで……」
 床の間の刀掛けには。
「何なんだよ……」
 真剣が。
「どういう意味だよ!」
 飾られていたはず。
 なのに。
 まさか。
 しかし。
 不吉な考えを振り払うように、ぼくは部屋から飛び出した。
 気の迷いだ。
 ぼくは混乱のあまり、わけのわからないことを考えている。
 そう思い込んだ。
 本当は、わかっていたのに。
 ――真剣を持ち出したのは、婆ちゃん以外にありえないというのに。
 ――刃の潰されていない刀の用途など、ひとつしかないというのに。
 それを、妄想だと、思い込んだ。

 ●

 遮二無二、駆ける。
 我武者羅に、駆ける。
 夜の明かりに浮き上がる街を、疾駆する。
 腹の底から這い登ってくる悪寒に、突き動かされるように。
 ……なにしろ目立つ風貌だ。
 刀を持っている隻眼の婆さんなんて、強烈に目立ちまくる
 道ゆく人々に片っ端から聞いていけば、すぐ捕まえられるだろうと思っていた。
 しかし――
 見つからない。
 誰も彼も、そんな姿は見ていないと言う。
「……くそっ、なんなんだよ!」
 荒く息をついた。
 体が酸素を渇望している。
 膝に手を突き、呼吸を整えた。
 ――なぜ誰も見ていない?
 そんなことがありうるのか?
 いや、ひょっとしたら、婆ちゃんは家から出てなどいないのかもしれない。
 襖の中にでも隠れていたのかもしれない。
 他愛ない笑い話として片付けられるような事柄なのかもしれない。
 ……そんなわけあるか!
 真剣が持ち出されているというだけで、もうただごとじゃない。
 ぼくは身を起こし、前を睨みつける。
 視界の端で、紺色の影を捉えた。
 あれ……
 何故か、いま、ありえない姿を見たような……
「……っておいおい」
 彼女じゃないか!
「先輩!」
 ぼくは駆け寄った。
 紺色のブレザー制服の人物が、こっちを振り返った。
「あ……」
 一瞬眼をまん丸に開き、バツの悪そうな顔をする。
「どうしたんですか、あんなことがあった後なのに」
「う、うん、ちょっとコンビニに……」
「無用心だなぁ」
「そ、それより、キミこそどうしたの?」
 そうだった。
「ウチの婆ちゃん見ませんでした?」
「師匠? 見てないけど……どうしたの?」
「家に帰ったら行方不明になってました」
「……大変じゃない!」
「えぇ……」
 彼女は両手で作ったちいさな握りこぶしを持ち上げた。
「わかった。わたしも探すっ」
「何言ってるんですか。女の子がこんな夜遅くにウロウロしちゃいけません」
「今度は大丈夫! これ、借りるね」
 念のために持ってきておいた、刀袋入りの木刀が、いともあっさりと彼女の手に奪われていた。
 ううむ……
 まぁ確かに、あらかじめ得物を持って心機を臨戦状態に置いているなら、父さんクラスの達人か、銃でも持ち出されない限り、まったく負ける要素はない、とは言える。
「……わかりました。でも、またさっきみたいに絡まれたら、撃退するより逃げることを先に考えてくださいね」
 相手のためにも。
「わかってるって! じゃ、わたしはあっちを探すねっ」
 ぼくたちは別れた。

 ●

 一時間ほど探し回ったのち、ぼくらは霧散家の近くで合流した。
「どうでした?」
「ダメ……」
 二人して肩を落とす。
 と――
「ん……?」
 妙に騒がしい。
 複数の男の声が、どこかからか漂ってきた。
 先輩の緊張が、空気越しに伝わってくる。
 野太く、獰猛な、父さんと似た匂いのする声だ。もっとも、あれほど突き抜けた何かは感じないが……
 数が多い。何かを威嚇するような調子だ。あの角のむこうから聞こえてくる。
 喧嘩、だろうか。関わるつもりはないのできびすを返す。
「……!?」
 ――と。
 今、何か――
 怒声に混じって、聞き覚えのある声が……

 ……ァ〜……

「ッ!」
 婆ちゃんの声!?
 嘘だろ!?
 ぼくは地面を蹴った。全速力で曲がり角まで向かう。
 そして、地獄を見た。

 ●

 何を。
 間違えたのだろう。
 ぼくはどうして。
 いつから。
 フィクションの世界に迷い込んでしまったのだろう。
 それも、とびきり低俗な。

 《錆びた、鉄の匂い》
 《折り重なって倒れる人々》

 おかしい。
 何かが、救いようもなく異形だ。
 こんな光景はありえない。
 近代国家に、こんな酸鼻な場面があってはならない。

 《赤》
 《無造作に転がる首》
 《紅》
 《腹腔からまろび出る腸》
 《赫》
 《死の痙攣をつづける手足》

 《その中心に佇む、白い影》

 いやだ

 《洗い晒しの浴衣》

 やめろ

 《骨ばった手に携えられた刀》

 見たくない

 《凍った滝のような白髪》

 見たくない!

 《その奥で虚無を放つ、隻眼》

「ア〜」

 腹の底から、悲鳴が吐き出されてきた。
 後から後から、止まらなかった。
 ぼくの認識は歪んでいた。歪んだものを見せ付けられ、ぼくも歪んだ。
 それゆえ、後ろから伸びた手によって口が押さえつけられていることを把握するのに、時間がかかった。
「――ッ! ――ッッ!?」
「ダメだよ……! ダメ……いま見つかったら、殺されちゃう……!」
 か細く、震えた声。
 美しく、いとおしいと感じた声。
 霧散リツカの、声。
 そして、背中に当たる、柔らかで温かな感触。
 どうして!?
 なんだ!?
 どうなってる!?
 なぜこんな!?
 口をついて出てくる疑問は、しかし彼女の手に阻まれて吐き散らされることはなかった。
「とにかく落ち着いて……おねがい……」
 しばらくもがいていたぼくも、「おねがい」とつぶやきつづける彼女の声に、徐々に鎮められていった。
 うなずくことで、意志を伝える。
 ようやく、口が解放された。
 ぼくは即座に振り返る。
「どうして……こんな……なんなんだ……」
 搾り出すように、それだけを言った。
 先輩は、眼いっぱいに涙を湛えて、見た目にわかるほど震えていた。
 その時。
「さすがだな、《白の剣鬼》」
 浪々とした若い男の声が、どこかからか。
「貴様にかかっては、この人数でも一瞬か」
 思わず振り返って見ると、屍山血河を踏みしめて、一人の青年がそこにいた。
 黒いロングコートを血風になびかせた、二十代半ばの男。凍りつくような美貌のなかで、頬から口元にかけてつけられた傷痕が、一種荒々しい印象を与えていた。
「どんな気分だった? どんな気分になれば、そこまで簡単に殺められる?」
 眼の奥にたぎる、粘い炎。
「――その何もわからないというような呆けた面で、あのとき彼女を手にかけたのか?」
 彼は肩に手を回すと、一気にコートを脱ぎ捨てた。ハイネックのセーターに、黒いジーンズ。腰のベルトには、一振りの刀が差してあった。
「何の故もなく、ただ殺すために殺したというのか!?」
 スッと腰を落とし、抜刀に構える。
 ――強い。
 一目見ただけでわかった。無駄のない、機能美すらそぎ落とした構え。
 ――あの人、ぼくなんかじゃ想像もつかない領域にいる。
「死ね。彼女が味わった苦痛と恐怖を、万分の一でも思い知れ」
 彼と対峙する白い者も、応えるように抜刀に構える。
「ア〜」
 毎日道場で見ている姿だった。
「――シィッ!」
 足元の死体を吹き飛ばして、青年が一個の弾体のように突貫する。
 白い者の間合いを一瞬で侵略する。
「是ッ!」
 一閃。研ぎ澄まされた抜刀瞬撃。
 ――だけど、足りない。
 この、白い人影の形をした世界の歪みを正すには、そんな当たり前の技法では足りない。
 ほら、白の剣鬼は斬撃の先で、すでに刀を鞘ごと掲げている。
 防がれるだけだ。
 そう、思った。
「ッ!?」
 眼を、見張る。
 青年の刃が、完全に抜き放たれた瞬間。
 横薙ぎと思われた一撃は、刺突に変わっていた。
 手首のスナップを効かせて放つ、致死の直線。
 常軌を逸するレベルで強靭な手首がなければ到底出来ない芸当。
 だが。
 ――その現象を、どう解釈すればいいのだろう。
 白い者の姿が、忽然と消えていた。
 誓って瞬きなどしていなかったのに、その移動の瞬間が見えなかった。
 単なる超高速などではない。不自然さすら感じさせる、消失。
「覇ァッ!」
 信じがたいことに、それすらも青年の想定内だったようだ。
 貴様の技は、一度見ている=\―彼の眼光が、そう語っていた。
 足を入れ替えざま、後方に向き直ると、刀を頭上に担ぐと同時に振り下ろした。あらゆる挙動が素晴らしい迅さで連結され、考えられうる最速の斬撃を後ろに放つ。
 そこに、一瞬、白の者の姿があるように見え――
 ――盛大な血飛沫が、上がった。

 青年の体から。

「グッ……ガッ……!?」
 凄まじい憤怒の貌で、彼は片膝を突いた。
 その整った顔立ちを、吹き上がる血が赤く穢してゆく。
「ク、ソ、が……ぁ……!」
 そして、彼は後ろを振り返ろうとする途中で、
 緩慢に力尽き、
 崩れ落ちた。
 その体の周囲を、白い影が飛び回る。
 そのたびに、新たな血散が花開く。
 そのたびに、青年の体が痙攣する。
 そのたびに、指や耳が千切れ飛んでゆく。
 何度も、何度も。
 嬲り殺し。
 そういう他なかった。
 地獄のような数瞬が過ぎ去り、もはや人相もわからなくなった青年は、ようやく安息を手に入れたらしく、二度と動かなくなった。
 徐々に赤い領域が広がっていき、他の血糊と交じり合っていった。
 白の者は、それを離れた場所から見ていた。青年が最期の一閃を放った方角の反対方向――すなわち、ソレが最初に立っていた場所だった。
 刀を振り抜いた姿勢からゆっくり戻ると、血振りもせずに納刀する。
 その刀には、一滴の血も付いていなかった。

 ――赤銀武葬鬼伝流は、血振りの動作を行わない。本当に人を斬ったのだとしても、刀に血がつく間もなく振り抜いてしまえばいいのだ。

 ぼくは、もう、なにがどうなっているのか、なにをどうすればいいのか、まるでわからなかった。
 そして、ようやく、そばに先輩がいることを思い出した。
「あれは……あそこに立っているのは……」
 戯画めいて赤い惨劇の中央で、ぽつねんと立つ白い影を、震える指で示す。
「あれは……」
「師匠……ううん、赤銀ツネ」
 彼女は、はじめてあそこに立っている者の名を言った。
 強い力を込めて、言った。
 そうなのか。
 やはりそうなのか。
 それしかないのか。
 足元から這い上がってくる、わけのわからない恐怖に、ぼくはへたり込んだ。
「そして、わたしの……ママの仇……」
「……え……」
 彼女はしゃがみ込んでぼくと目線を合わせ、言葉をつづけた。
「わたしのママは、五年前、あの人に殺された」
 泣き腫らした眼の中に、精一杯の剄烈な光を宿しながら。
「わたしは、その現場を見た」
 わななく口元を必死に動かして。
「怖かった。そして、抑えられないほど憎かった……大好きな……ママだったのに……!」
 ほとんど、睨みつけるようにして。
「だから、わたしはあの人の足取りを追った。そして、赤銀道場ってとこにいることを掴んだ」
 ぽろぽろと、涙がこぼれだした。
「最初は自信がもてなかった。このお婆ちゃんが、本当に人を斬ったのかって。――でも、いま、確信した……! あの人は! 辻斬りなの! 関係ない人を斬って喜んでる、そういう人なの!」
 あぁ。
 そうなのか。
 だから彼女は、ウチの道場に入ったのか。
「仇を……討ちたいんですか」
 これまでの、それなりに楽しかった日々が、赤銀ツネの曖昧と、霧散リツカの演技によってでっち上げられた虚構であったことを、ぼくは穏やかな絶望とともに受け入れた。
「そのために……赤銀ツネと同じ力を得るために……今まで修行に励んでいたんですね」
 自分で驚くほど抑揚のない声。
「……そうだよ」
 彼女は、ごまかしもせずに答える。
 そして、枯れた笑みを浮かべる。
「キミにだけは、知られたくなかった……かな……」
 激怒の情念が、ぼくの胸腔を内側から焼きはじめた。
 裏切りだった。
 その枯れた笑みが、裏切りだった。
 あなたは、そんな笑みを浮かべていい人じゃない。
 そう怒鳴りたかった。
 ぼくの身内のせいで、そこまで追い詰められるなんてことが、許されるはずがない。
 どうして相談してくれなかったんだ!
 その思いを言葉にしようと口を開いたその時――

「アー」

 ――間近で聞こえたその声に、体毛を逆立てた。
 よくよく考えれてみれば、怒鳴り合ってていい状況じゃない!
 腰を浮かせ、声のほうを見る。
 一滴の血糊も付いていない、白い浴衣姿がそこにあった。気配も足音もなく、忽然と出現していた。
 いましがた大量殺戮を行ってきたようには到底見えない姿だ。
 大きな隻眼の奥で、濁った虚無が燃えていた。
 意志の光など、なかった。
「婆ちゃん……!」
 哀切と恐怖と怒りで、胸が凝る。
「アー」
 赤ん坊のような、猫のような声。痩せた手が、ゆっくりと佩刀に伸びてゆく。
 ダメだ。
 いけない。
 逃げなければ。
 でも、体が動かない。
 逃げても無駄だということが、本能の部分でわかっていたから。
 不可解極まる瞬間移動の連続。まるで、世界という風景画の中へ好き勝手に貼り付けられるシールのように、白い殺戮者はどこにでも現れ、どこまでも追ってくる。
 手立てが、何もない。
「イヤ……」
 壊れかけた鈴の鳴るような声。
「もう、殺させない……」
 リツカさんが、ぼくと婆ちゃんの間に立ちふさがっていた。
「もう二度と、わたしの大切の人を死なせない……!」
 澄んだ怒りと、不退転の決意を携えて。
 無理だ。
 そんな木刀で、どうしようっていうんだ。
 カシュ、と、鯉口の切られる音。
 呼吸が、止まる。ぼくは彼女を突き倒そうと、脚に力を込める。
 しかし。
「ア……ッ?」
 婆ちゃんの所作が、止まった。
 隻眼の瞳孔が、せわしなく動く。
 ……何を、探している?
「ア、ア……ア〜……ア……?」
 年経た樹木を思わせる手が、痙攣をはじめた。
 瞳孔の収縮と呼応して、徐々に早くなってゆく。
「アアア、ア、アー……アアアアアッ!」
 もはや全身がガタガタと震えだしていた。
 どこか、壊れかけた機械に似ていた。
 そして――
「ア……」
 唐突に、静寂。
 婆ちゃんは中空を呆、と見上げていた。
 やがて、こっちを見た。
 ギチッ
 と、音がした。
 婆ちゃんが、頬の肉を引き攣らせ、歪めたのだ。
 その表情が笑みであることを認識するのに、数秒かかった。
 何、だ……?
 なぜ笑っている!?
 怖気が立つほど拡大した瞳孔は、リツカさんにピタリと合わされ、まったく揺らがない。
「ゲ、ゲ……カ!」
 喉を痙攣させた――笑い声、なのか?
 そして、口を開いた。
 ソレは、甲高く啼いた。人間には発音不可能な、引き絞られるような声で。

【オマエに=継剣の刻】
【至れり=決めた】

 わからない。
 わからない!
 何を言っている!
「あ……!?」
 呼吸を妨げる圧迫感は、消えていた。
 白の剣鬼が、消えていた。
 現れたときと同じように。出来の悪いゲームの処理落ちにも似て。
 何の前触れもなく。何の余韻もなく。
 ただ、消えた。
 腰が抜け、後ろに倒れ込んだ。
 長いこと、立ち上がることも出来なかった。
「リツカ……さん……?」
 そして、気が付いたときには彼女の姿も消えていた。
 どこへ、行ったのか。
「う……あ……」
 なぜか、わからないが。
 ぼくはそのことに、癒えようもない喪失感を覚えていた。

 ●

 それからぼくは警察に通報し、しかし犯人については知らぬ存ぜぬを通した。
 あの現場では、実に七名もの人間が死んでいたという。
 それら全員が刀剣に類するものを持ち、全員が刀傷で死んでいた。
 徒党を組んだ辻斬り同士での抗争ではないか、というのが警察が苦し紛れに出した見解である。
 ここまで派手な刃傷沙汰は類がなく、ニュースでも大々的に報道されていた。

「よう、えらい目にあったってぇ顔だな」
 署まで迎えにきた父さんの気楽な口調に、わけもなく反感を覚えた。
 努めて無視するように脇を通り抜け、外に出た。
 早歩きで、しばらく歩く。すぐ後ろから力強い足音がついてくる。
「婆さんはちゃんと家に戻ってきたぜ。何事もなく、な」
 低く太い声がした。
 振り返ると、父さんがニタニタと笑っている。縦にも横にも大きい巨躯だ。
「……知っていたんだな」
 自分でも驚くほど、しわがれた声だった。
「あぁ?」
「ツネ婆ちゃんが辻斬りやってたこと、知ってたんだな!?」
「あー知ってたぜ。だから何だ? どうかしたのか? あ?」
「……どうして黙って見ていた……どうして何もしなかった……! てめえの母親だろうがァッ!」
 背中から電柱に叩きつけられた。
 ぼくの胸倉を、父さんは巨大な拳で掴み、持ち上げていた。
 ごく間近で、獣のような眼が眼光を射かけてきている。眉間には禍々しい皺が寄り、顔ごと叩き潰されるんじゃないかと思うほどの凄まじい威圧感が噴きつけてくる。
 カッと眼を開いて、見返してやる。絶対に、視線を逸らしはしない。
「あのな、よく聞け。クソガキ」
 噛んで含めるように。
「俺がなんで《新宿(ジュク)の狂虎》と呼ばれてたか教えてやる――」
 鬼の形相から一変、ヘラヘラ笑い始めた。
「――勝てない相手とは絶対にやり合わなかったからだぁ!」
 ぼくは無言で渾身の拳をこの男の頬に打ち込んでいた。
 しかし、小揺るぎもしない。
 赤銀ザキラは鼻を鳴らし、ぼくを放した。
 着地しそこね、尻餅をつく。
 そんなぼくを、彼は路上でひき潰されたカエルでも眺めるような眼で見下していた。
「婆さんが人を斬るさまを見たんなら、わかるだろうが」
 ぼそりと。不要なものを吐き出すように。
「意味ねえんだよ。何しようがな。マッポにチクるか? バカ言え。無駄に死人が増えるだけだ」
「だからって……!」
「自分の手でお袋の所業を止めてやろうなんて、柄にもなく息巻いてた時もあったなぁ……だが無理だったよ。あんのババア、ボケてる時ですら全然隙がねえ。どうやっても勝ち筋が見出せなかった。その上、飯に毒を盛っても、巧い具合に避けやがる。まぁ、秘剣の性質を考えれば無理もねえ……」
 ギリ……と、歯を軋らせる。
「だからよぉ、やめたんだ。ほっとくことにした。せいぜいご機嫌を損ねないように接してだな、さっさとおっ死(ち)んでくれねぇかなァーってカミサマホトケサマに祈ることにしたんだよ!」
 轟音。父さんが電柱を殴りつけた音。
 その貌には、悲しみすらも擦り切れた無表情があった。

 ●

 次の日、彼女が赤銀家に姿を現した。
 だけどぼくは、その人が霧散リツカであることが、一瞬わからなかった。
「あの人は、いる?」
「え……あ……」
 特に顔の造形が変わったわけではない。
 ただ、ころころと表情豊かだった彼女が何の感情も表にしていないというだけで、ここまで印象が変わってしまうものなのかと、戦慄を覚えた。
「あれからどこに行ってたんですか!? 突然いなくなって……」
「あの人は、いる?」
 さっきより強い口調。
「……い、います。そろそろ道場に出てくる時間ですが……」
「そう」
 彼女はぼくの横をすり抜け、道場のほうへ向かっていった。
「ちょ、ちょっと待ってください! 一体どうしたんですか!? 何があったんです!」
 気のなさそうな所作で振り返ると、リツカさんは言った。
「別に。やるべきことを決めただけ」
 その声が孕む虚無に、ぼくははっきりと恐怖した。
 それがまるで、婆ちゃんの瞳にあったものとあまりにも似ていて。
「だめ……だ……敵うわけない……!」
 彼女の腕を掴もうと、駆け寄って。
 ――鋭絶なる光が閃いたかと思った刹那、ぼくの首に刃が触れていた。
 その動作は、記憶にある彼女のどんな一振りよりも、圧倒的に迅い。
「邪魔、しないで。わたしは、秘剣を、もらう」
「う……あ……」
 その刃は、彼女の手元から伸びている。
 どうやってか、真剣を用意していたのだ。
 それが何を意味するのか、考えたくない。
 ――だからと言って、ぼくに何が出来たというのか。
 くずおれて、彼女の後姿を見ている以外に、何が出来たというのか。
 どうすれば、どうすれば、どうすれば……!
 無為に巡る思考。
 ぼくにまったく構うことなく、彼女は道場へと入っていった。
 そして――足音。

「ア〜」

 軋む首を動かして、声のほうを見た。
 赤銀ツネ。白の剣鬼。殺戮の妄徒。
 ざり、ざり、と石畳を踏みしめ、ゆっくりと道場に向かう。
 いつものように、裸足で。
「あなたは……」
 声が震える。
「あなたは、なんなんだ!」
 ざり――
 足音が、止まった。
 こっちを、見ていた。

「――肉体が記憶する動作の鋳型。高次元振動。〈宇宙ノ颶〉。殺意に身を焦がすウロボロス。可能性を渡るモノ。かつて赤銀無謬斎であったモノ――」

 ギチッ、と頬が引き攣り、あの笑いを形作る。

「それ、が、俺」

 ざり、ざり、ざり、ざり――
 足音が、遠ざかってゆく。
 老婆の肉体に宿る何かは、道場の扉を開け放ち、中に入っていった。
 扉が、ゆっくりと閉じてゆく。
 あぁ――
 魔戦は、はじまった。
 霧散リツカと赤銀ツネは、対峙した。
 すべてが終わり、あの扉から出てくるのは、どちらか一方のみ――
 だが、結果などわかりきっていた。
 赤銀ツネは、人間が勝てる相手じゃない。

 ●

 何分経ったのだろうか。
 何時間経ったのだろうか。
 ひょっとしたら、十秒も経っていなかったかもしれない。
 道場の扉を、内側から開くものが、あった。
 奇跡は、起きた。
「リツカさん……!」
 出てきたのは、霧散リツカ!
 あぁ――!
 ぼくは彼女に駆け寄った。
 そして、息を呑む。
 彼女の右眼があった部分を、一筋の斬傷が走り、おびただしい出血を強いていた。
「すぐ手当てを!」
 伸ばされるぼくの手を、リツカさんは払いのけた。
 ――怖気が、走った。

 ギチッ、と頬が引き攣り、あの笑いを形作る。

「かくて、継剣の儀、滞りなく、終わり、鏖殺の連環は、紡がれ、つづける」

 何……を、言って……いる……?

「ゲ、ゲ……カ!」

 その瞬間、ぼくの心は、一度死んだ。
 全身の肉が引き攣り、ともなってしゃっくりのような笑いがこぼれた。
 なのに、ソレはまったく頓着することなく、ぼくの横を通り過ぎてゆき、門から外へ、悠々と出て行った。
 見えなくなった。

 そして、太陽が傾きかけた頃。
 ぼくはやっと、絶叫することができた。

 ●

 辻斬り事件が、急増した。
 婆ちゃんの葬式が終わり、学校にも行かず、抜け殻の心地で日々を過ごしていたぼくは、どこか遠いところでそのニュースを聞いた。
 霧散リツカが、やっているのだ。
 出現と消失を繰り返し、刀に血糊がつかないほどの速度で殺戮を演じているのだ。
 それだけは、わかった。
「はしゃいでるな、あの野郎」
 すぐ近くで、誰かの声がした。
「ま、もうカンケーねえけど」
 雨の音だけが、ひどく近くに感じられる。
「しかし、なんだろうな」
 軽軽しい口調。
「そんなに新しい体の使い心地がいいのかねぇ」
 ぼくは立ち上がった。
 意識が、急激に浮上する。
 見ると、父さんがいつものように嫌な笑みを浮かべていた。
 睨み返す。
「まだ死体にゃなってなかったようだな、おい」
「……教えてほしい」
 抑えた声を、そろりと出す。
「アレは、何なんだ?」
 父さんの笑みが、深くなった。
「まぁ座れ。あんまり短くない話だ」
 大人しくぼくは座った。
 父さんは、リモコンからテレビを消す。
 途端に、雨音だけが周囲を包み込んだ。
「あー……まぁ、なんだ、何から話したモンか……」
 ひとしきり頭を掻き、
「お前、不老不死が本当に存在すると思うか?」
「……思わない」
「つまんねえ回答どーも」
「それで?」
「うん、なんつぅか、俺らの先祖の中に、限定的な意味で不老不死を実現させた野郎がいた」
「……」
「赤銀無謬斎ってんだが……戦国時代だったかな? まぁとにかくそいつは人殺しが好きで好きで好きで好きでたまらねえガイキチ野郎だったわけだ」
 赤銀無謬斎。
 婆ちゃんが、最期に言っていた名前だ。
「で、元々手のつけられねえ剣腕を誇っていたんだが、さらに多くを殺すため、ある必殺技を編み出した。〈宇宙ノ颶(うつのかぜ)〉と名づけられたその秘剣は、これがまた凶悪極まりない代物でな。一説によると十人以上の敵を一息で殺せるようなモンだったらしい」
 そこで一息つく。
「話は変わるが、お前、こんな経験はねえか? 例えば、誰かと竹刀なり木刀なりで居合っていて、対手の打ち込みを防いだ時にだ、そいつが抱く感情や人格が、獲物を通じて流れ込んできたりした、とか」
「……ある」
 覚えが、ありまくる。
 彼女と組稽古をしているときなど、ほとんど毎回だった。鮮烈で透明な彼女の心が、衝撃とともに体に浸透してくるその感覚が、ひどく心地よかった。
「それは気のせいじゃねえ。優れた打ち込みは、その一打一打に使い手の魂が乗る。俗に剣質とか呼ばれている概念の正体は、それだ」
 父さんは身を乗り出す。
「最高の心技体を巡らせて捻り出した斬撃はな、時として使い手の人格すべてを表現しちまうことがある。それを肉体で――あるいは心を通わせた得物で――受けた人間は、損分なくその情報を理解できるってぇワケだ。……もちろん、実際問題としてそんなことはありえねえ。人間ってのは機械じゃねえからな。毎回毎回まったく同じ結果を出せるわけじゃねえし、受けるほうだって殺し合いの最中でそんなことを気にするはずもねぇ」
 ……それはそうだろうな。
「だがな、赤銀無謬斎の〈宇宙ノ颶〉はそれを可能にした。動作のブレをなくし、完璧な結果を機械のように繰り出しつづける、肉体的なプロトコル。攻撃の技ではなく、防御の技でもなく、ただ挙動のすべてを統括するオペレーティングシステム。――そういう技術だ」
 なんだ、それは。
「そして、その核となったものは、無謬斎自身の人格だ。殺戮への飽くなき渇望が、肉体という鋳型を通じて〈宇宙ノ颶〉という動作体系へと姿を変えた。あれはな、動作そのものが無謬斎の人格を表現しているんだよ」
「……そんなものが、どうして今に伝わっているんだ」
「あぁ、その通り。本来〈宇宙ノ颶〉は創始者自身にしか使えない、一代限りの絶技――無謬斎の死とともにその技術は永遠に失われるはずだった。……だが、どうも奴はそれを良しとしなかったらしい。自らの寿命が尽きることで、殺戮の歓喜が味わえなくなることに我慢がならなかった」
 そこで、父さんの声が一段低くなった。
「だから、奴は不死となった」
「……なんだって?」
「まぁ不死というと誤解を招く表現だが、要するに自らの人格を後世に完璧な形で遺すことにしたんだよ。この世のあらゆる現象は、情報――つまりひとくさりの記述のようなものであり、その記述さえ完全に保存できるのなら、己の意識の連続性は保たれると、そう考えたようだ」
 ――だんだんと、話が見えてきた。
 己の人格情報を後世に残す媒体として、〈宇宙ノ颶〉は最適の代物だったのだろう。なにしろそれは、もともと自分の人格情報が『剣技の動作』という記述法で翻訳し直されたものなのだから。
「そして奴は、そのための生贄に、自分のガキを選んだ」
「……つまり、自分の子供に〈宇宙ノ颶〉を修得させ、その肉体に乗り移った……?」
「そういうことだ。もう〈宇宙ノ颶〉は無謬斎自身と同義だと言っていい。剣技の継承による人格の保存――俺は今まで嫌になるほど多くの剣鬼どもを見てきたが、こんなとんでもねえことをやりとげたのは奴だけだ」
 ……つまり。
「今、霧散リツカの体を動かして辻斬りをやりまくっているのは、その大昔のクソッタレ剣豪ということか」
「そう! クソッタレ・ファッキン・剣豪だ!」
「ブチ殺してやる……」
 ごくナチュラルに、そんな言葉が出てきた。
 もう、何がどう推移しようが、無謬斎だけは許すつもりはなかった。
「それで、突然現れたり消えたりするのは何なんだ?」
 ……これが、最大の疑問だった。
 場所を問わず、即座に消え、すぐに現れる。
 条理への明らかな反逆。
「それを教える前に、ひとつ聞いておく」
「なに」
「お前、その理屈を知ってどうするつもりだ?」
「どうって……決まってる」
 強く、父さんを睨む。
「霧散リツカを止める」
「無理だ」
 この人の言は、いつもすげない。
「断言してやる。お前じゃどうしようもない」
「そんなこと、やってみなくちゃわからない!」
「身の程を知れよ半人前。勝てるとでも思ってんのか?」
 父さんは言葉をつづける。
「いいか? 〈宇宙ノ颶〉の事象記述は、それ自体が物質の実在をあやふやにするキーコード――いわゆる量子化だ。己の存在を拡散させ、さまざまな技と動きを繰り出す『あり得たかもしれない自分』を複数発生させる。そしてその中で最も都合のよい結果を出した『自分』を選択し、確定させることができるってわけだ。ヘドが出るほどの無敵ぶりだよ。最低にタチの悪い後出しジャンケン――それと似たようなもんだ」
「な……に……?」
 なんだ、それは。
 なんだそのクソみたいな後付け設定は。
 それじゃあ――
 それじゃあまるで――
 ゲームのプレイヤーみたいじゃないか!
 セーブとロードを何度も繰り返して最終的に必ず勝つ勇者野郎かよ。
 そして、この世のすべての人間は、奴の経験値となる運命のモンスターってわけか。
 面白すぎる。
 フザけろ。
「か……」
 やっと捻り出した声は、自分で笑えるほどかすれていた。
「勝てなくていい! ただ彼女をそのフザけた剣技から解き放つことができれば……」
「それこそ無理だ。あきらめな」
 なげやりな言葉が、ぼくの魂を粉々に打ちのめす。
「一旦〈宇宙ノ颶〉を押し付けられちまえば、もう逃れる方法はない。誰か別の人間に〈宇宙ノ颶〉を継承させるまで、永遠に殺戮淫楽に囚われたままだ」
「技を別の人間に継承させれば、彼女は解放されるんだな!?」
「あー、されるぜ? ただし、それと同時にお前のガールフレンドは死ぬがな」
「どうして!」
「どうしてか。それは俺にもよくわからねえ。だが、〈宇宙ノ颶(うつのかぜ)〉の継承があった際、元々秘剣を修得していた方の人間は斬り殺される運命にある。ひとつの例外もなく、だ」
 確かに、ツネ婆ちゃんは斬殺されていた……恐らくは、リツカさんに。
「これは俺の勝手な想像だがな……〈宇宙ノ颶〉には無謬斎の魂がそっくり乗っかってるワケだろ? 技を継承させるときに、古いほうの肉体が死ななきゃ、無謬斎が二人いることになっちまう。そういう矛盾は、なんつぅか……なんつぅかなぁ、この世界そのものの働きかけで規制されちまうんじゃねえかな。魂は唯一無二の存在。その原則を侵す野郎はカミサマにメッ! てされちまうんだろ。多分」
「なにか……なにか方法があるはずだ!」
「方法があったら今まで〈宇宙ノ颶〉が受け継がれているわけねえだろ!」
 大喝。部屋が震えた。
 そして、察する。
 父さんが、〈宇宙ノ颶〉を継承しなかった訳を。
「つうかてめえ、わかってんのか? 仮にあの娘が〈宇宙ノ颶〉から生きて解放されたとしても、待っているのは史上類を見ない凶悪殺人犯としての人生なんだぞ?」
「ッ!」
 歯が、軋る。
 胸の中を迷いが巡り、巡り、熱を帯び始める。
 リツカさんの凶行を止めるには、殺すしかない。
 ――それは嫌だ!
 じゃぁどうする。リツカさんをこのまま放っておくか?
 ――それだけはダメだ! これ以上彼女の肉体と魂が汚されつづけるのを、看過するわけにはいかない。
 考えろ。
 ぼくは何をすべきか。
 考えろ。
 何よりも、彼女が望んでいることを。
「……ひとつ、聞いてもいいかな」
「あぁ?」
「母さんは、どうして死んだんだ?」
 途端に、父さんは表情を消した。
 雨音が、さっきより酷くなった気がした。
 やがて、時計の秒針が半周をしたころ。
「……あいつは、継承に失敗したんだよ」
 それだけ聞けば、十分だった。
「父さん」
「なんだよ」
「頼みがある」

 ●

 ぼくはコートを羽織り、街路の一角を歩いていた。
 腰には、真剣を佩いている。
 辻斬りの犯行には、赤銀武葬鬼伝流の使い手のみに悟れる、ある種のパターンのようなものがある。
 先回りは、可能なはずだ。
 その確信はあったが、今のところ外ればかりだ。
 こうしている間にも、彼女はどこかで人を斬っている。
 掌は、爪が食い込み過ぎて、もう血だらけになっていた。
 構うものか。
 居酒屋の看板が張り出す、隘路に差し掛かる。
 息が、止まる。
 濃い血の匂い。
 来た。
 とうとう、当たりを引いた。
「……リツカさん」
 ゆらゆらと佇む、なつかしい彼女の姿。
 右目を走る傷が、無残だった。
 足元には、また斬殺死体が転がっている。
 あぁ――
 どうして。
 こんな……こんな……
 何の故もなく、殺されてしまった人。
 霧散リツカの魂に、またひとつ、消えようのない穢れが刻まれたのだ。
 何もかも、胸をギリギリと締め付けてくる。
 今ここで殺されたこの人が、それ以前に斬り殺された多くの人々が、そうした被害者に近しい人々が、望まぬ殺戮を強いられた歴代の〈宇宙ノ颶〉の使い手たちが。
 そして何より、眼の前で魂を陵辱されつづける、彼女が。
 あぁ――なぜ。
 ただ、大好きだった母親の仇を許せずに、力を求めつづけたことが、こんな仕打ちを受けなければならないほどの罪だったというのか。
 なぜ……こんな……よくも……
「すぐ……」
 万感を込めて。
「助けますからね」
 想いを吐く。
「必ず、助けますからね……!」
 そして、彼女は応えるように――

 ギチッ、と頬を引き攣らせ、あの笑いを形作る。

「供物、贄、餌!」

 その顔で……

「愚物、白痴、虚け!」

 その声で……

「死! 戮! 鏖!」

 それ以上、彼女を汚すな……ッ!!
 一瞬で抜刀の構えを取ると、眼光で殺さんばかりに奴を睥睨した。
 決意は、揺るがない。
 彼女を、止める。
 ……いや。
 そんな言葉で誤魔化すな。
 彼女を、殺す。
 そのために、魔戦を演ずる。
 まるで勝ち目のない死合いを、挑む。
 意志持つ剣技を、ここで滅ぼす。

 ●

 彼女は寸暇もなく地面を蹴り、突進してきた。
 ただ抜刀に構え、駆け寄ってくる。
 策も何も感じ取れない動きだった。
 ――剣術とは、本来そういうものだ。
 薩摩示現流の剣士たちは、大声で吶喊しながら走り込み、剣を振り下ろすというただそれだけの術理を極めに極め、その信じがたいパワーとスピードから幕末の世を震え上がらせたという。
 どんな技術体系にも言えることだが、その原理は単純な方がいい。複雑な技は繰り出すまでの手順が多く、動作の継ぎ目で力が逃げていってしまう。
 身をよじり、奇怪な軌道で敵を襲う秘剣≠ヘ、そのほとんどがアイディア倒れの代物なのだ。
 ――磁界のような、圧迫感。
 彼女の姿が、すぐそばまで近づいてきていた。
 速い!
 予想以上の速さに、心が鬣を逆立てる。佩刀をやや持ち上げ、鞘の中で刃が天を向くようにする。柄を握る方の肘を突き出す型で、機を待つ。
「来い!」
 ぼくと彼女は同時に抜刀。
 二条の光が交錯する。
 否――
 ぼくの方が速い!
 剣を振るうという動作の構造上、絶対に発生する隙。対手の攻撃の直前もしくは最中に在る死線。
 〈先〉の機。
 捉えた!
 振り抜く。
 袈裟に迅る、剣閃。
 その一振りに、遠く眩ゆい霧散リツカとの思い出を込めて。
 そして、思う。
 ――なぜ。
 手ごたえが、ないのだろう。
 斜の軌跡の向こうで、彼女がぎちり、と笑んだ。
 ぼくの刃が描く半円の、外側にいた。
 ――熟達した示現流剣士は、そのあまりの気迫ゆえ、敵手に間合いを実際より近く錯覚させることができたという。
 そして、慌てて振り下された見当はずれの一撃から悠々と〈後の先〉を取るのだ。
 今の状況は、まさにそれ。
 獲物と思って食らい付けば、それは釣り師の垂らす針だった。
 刀を振り抜き、がら空きとなった胴に、彼女の抜刀瞬撃が閃く。
 あぁ――
 このまま、刃を受けよう。角度から見ても、即死はするまい。自らの肉と臓物をもって彼女の刃を止め、相討ちに持ち込む。
 彼女を、一人では逝かせない。
 ――そう考えていた。
 のに。
 硬質の音が、右手から。
 ぼくの右腕が動き、保持したままの鞘で斬撃を受けたのだ。
 剣圧に押されるまま旋回し、振り返りざまに薙ぎ払う。
 彼女は抜かりなく、間合いの外に逃れていた。
 元より、こんな苦し紛れの一撃が通用するとは思っていない。
 ……さっき、ぼくは何を考えていたのか。
 相討ちに持ち込む?
 彼女と一緒に死ぬ?
 ふざけるな。
 〈宇宙ノ颶〉の使い手に、そんな甘い手が通じるものか。
 大昔のクソッタレ・ファッキン・死にぞこない・剣豪によって霧散リツカが食い物にされているという最悪状況から目を逸らし、彼女に討たれるという甘美な選択肢に自分で説得力を与えるための方便に過ぎない。
 逃げるな。甘えるな。
 戦況把握。
 ぼくは鞘で受け止めた際、右前腕に骨まで届く傷を負ったようだ。
 致命傷には程遠いが、無視できる軽傷でもない。
 剣速に不利を抱え込むことだろう。
 ――それがどうした。
 霧散リツカという、神に愛されたかのような天才を前に、そんな程度の不利が一体いかほどの意味を持つというのか。
 以前からおよびもつかなかったというのに、その上彼女は〈宇宙ノ颶〉を受け継いでいる。
 彼我の優劣など最初からわかりきっていた。
 ぼくでは何をどうあがいても彼女を超えられない。
 だが、それでは終われない。
「どうした、来いよ」
 ぼくは、硬直する頬を無理に動かし、精一杯の嘲笑を形作る。
「それとも、一太刀で仕留められなかったことがそんなにショックか?」
 ぎち。
「驕るなよ、小童ァ」
 彼女の愛らしかった頬が、醜怪に軋む。
「遊んでもらっていることがわからんのか? 不遜を通り越して哀れだな」
 抜き身を持ち上げて、肩に担ぐように構える。
「あがけ。甲斐なく死する者よ」
 やはり、無理だな。
 もはや自分に対する情けなさすら通り越して、静かにそれを認めた。
 剣術では、絶対に勝てない。
 ぼくは抜刀の構えのまま、左手を懐に伸ばした。
「言いたいことはそれだけか? 終わりか? 御託はいいんだ! さっさと来い!」
 見え透いた挑発。
 だが、問題ない。
 彼女は必ず乗ってくる。
 ほら、駆け出した。今度は横へ。
 さぁ――来い。
 背後へ回り込もうとする彼女の姿を、あえて目で追わず、コートの懐に手を突っ込みながら待った。
 じりじりと焦げるような一瞬の後、ぼくはコートの裾をからげながら旋回。円舞のフィニッシュを決めるように、背後へ振り向きながら腕を突き出す。
 その腕の先には、黒い鉄の塊があった。
 サブマシンガン。
 詳しい型番など覚える気になれなかったが、要するに引き金を引けば弾がたくさん出てくる武器だ。
 近接戦闘における、問答無用の最強手段。
 父さんが昔のツテで調達してきたものを、借り受けた。
 銃口の前に、剣を振りかぶるリツカさんの姿がある。
 ――捉えた!
 さぁ、どうする!
 その秘剣は、確かにあらゆる剣技を超越する。
 剣闘を支配する四つの力学――〈先の先〉〈先〉〈先の後〉〈後の先〉。
 そのいずれに対しても優越する手を出せる究極の技だ。
 だが、〈先〉も〈先の先〉も知ったこっちゃねえとばかりに弾を吐きまくるこの頭の悪い兵器を前に、そんなチマい理屈が通用するか!
 無闇にやかましい、ひとくさりの射撃音。
 思わぬ反動に、腕がすぐ跳ね上がる。マズルフラッシュが眼を灼く。
 慌てて引き金から指を外すと、唐突に訪れた静寂の中で、彼女の姿はなくなっていた。
 悪寒。
 何らかの対処を成す前に、腰の辺りを冷たく熱い感覚が走りぬける。
 斬られた!
 その瞬間、ぼくの肉体に、何か途方もなく巨大で、粘く、熱い何かが流れ込んできた。魂を陵辱した。臓腑が痙攣し、吐き気を生じさせるのを感じた。
 ソレの感情はあまりにも異質だったのだ。
 生き物への好奇心、無機物への恐怖、知性への慈愛、本能への憎悪。あるいはその裏返し。致命的な矛盾の集積。
 そして、無限にとぐろを巻く、殺意。
 ぼくは身を折って、胃の内容物をブチ撒けていた。
 全身が、痙攣していた。
 これが、〈宇宙ノ颶〉。
 これが、赤銀無謬斎。
 ほんとうに、人だったのか!?
「笑止、なり」
 後ろから、猿のような笑い声。
「かような玩具が、俺の芸術に優る道理なし」
 がちがちと噛み合わなかった歯が、不意に、軋んだ。
 反則野郎が――!
 クソッタレ・ファッキン・死にぞこない・ガイキチ・タマなし・剣豪のどうしようもない妄執は、ついに近代テクノロジーの殺傷システムすら凌駕した。

 ●

 あぁ――
 なんとなく、わかった。
 なんで昨今、日本中で辻斬り事件が多発しているのか。
 思えば一連の斬殺事件は、確か拳銃を引き抜いた状態で正面から斬り殺されているヤクザの遺体が最初ではなかったか。
 事件当時、付近では銃声を聞いたという通報があり、さらに現場からは硝煙反応が出いたという。
 ――日本中に雌伏していた、潜在的な人斬り野郎ども。
 彼らは、気づいてしまったのだ。
 剣術とは、とても振れ幅の大きい技術体系だ。
 その戦力の全体的な平均値は、銃に比べれば話にならないほど低い。
 おまけに、使い手の才覚に著しく依存した戦闘方法だ。
 大量の人材に、短期間で確実な戦力を付与することが鉄則の近代戦術においては、スズメの涙ほどの価値もない。
 だが――それゆえに――

 その数少ない例外となった剣才者たちは、この事件を契機に自らの力のほどを自覚した。

 集団対集団の平均ではまるで敵わないが、個人対個人の領域において、才覚と経験がものを言う剣術は、ごくまれに奇形じみて強大な力を持つ鬼子を誕生させることがある。
 七から九までの力を万遍なく使い手に与える銃は、決して十の力を持つことはない。
 だが、剣はその不完全さゆえに、十の力を持った魔人を極小の確率で輩出する。
 極小とはいえ、全国規模で考えれば百人は下るまい。
 そして、この世のいかなる暴力も、彼らを止めることはできない。
 その連中の中には、暴力衝動に対する物理的な抑圧がないことに気づき、自らの欲望のままに動き出した者もいただろう――
 ――剣は、弱い。
 それは不変の真理。
 だが、使い手を野放図に強くする蓋然性を、わずかながら持つ。
 この国の人斬りブームは、つまり、そのようなものなのだ。

 ●

 まだわずかに震える体を押して、ゆっくりと振り返る。
 彼女が、いた。
 『サブマシンガンで蜂の巣にされる自分』ではなく、『その場に留まって敵手の腰を斬る自分』を選択したということか。
 ……父さんの言葉が思い出される

『いいか? 〈宇宙ノ颶〉の事象記述は、それ自体が物質の実在をあやふやにするキーコード――いわゆる量子化だ。己の存在を拡散させ、さまざまな技と動きを繰り出す『あり得たかもしれない自分』を複数発生させる。そしてその中で最も都合のよい結果を出した『自分』を選択し、確定させることができるってわけだ。ヘドが出るほどの無敵ぶりだよ。最低にタチの悪い後出しジャンケン――それと似たようなもんだ』

 そう、無敵だ。
 どれだけ巧みな対処を成そうが、彼女はそれに対して噛み合う動きを選ぶことができる。
 ぼくはゲームの中の敵キャラクターであり、奴はセーブとロードを繰り返して何度でも挑んでくるプレイヤーだ。
 本質的に、勝ち目はない。
 ――だが。
「ッ!」
 ――唯一ぼくに有利な要素があるとするなら。
 背中を走る、横一文字の熱。
 じわり、と湿った感触が、出血を報せる。同時に流れ込んでくる腐った魂の怒涛に、死に物狂いで耐える。
 ――奴は、その救いがたい嗜虐の性ゆえに、ぼくをひと思いに殺さないということだ。
 さんざんにいたぶられ、嬲り殺されるまでのわずかな間が、ぼくに与えられた勝機だ。
 ……いや、本当にそうなのか?
 そんな単純な理由か?
「ぐっ!」
 再び、斬られた。
 今度は、腕。利き腕ではないのは、慈悲ではなく悪意。
 目の端や、鼻や、口や、耳から、何か粘つく液体が流れ出ている。同時に胃液が後から後から止まらない。数年間放置された冷蔵庫の中に押し込められる方がよほどマシだと断言できる気分だった。
 そして愕然とする。
 これが……無謬斎の魂の欠片だというのなら。
 その魂の本体に侵略され、等しい存在と化したリツカさんが味わう業苦は。
 その狂気は。
 その末路は。
 眼球が、びくびくと熱くなる。眼から、今度はさらさらとした何かが零れ出る。
 喉の奥から、獣の慟哭がせり出てくる。
 死んだほうがいい。
 赤銀家の人間は、全員死ぬべきだ。
 こんな、おぞましいという言葉すら形容しきれぬ、腐乱し切った秘剣を編み出した先祖の責任をとって、全員死ぬべきだ。
 この剣技の存在を知っている人間がいること自体、ぼくには耐えられない。
 〈宇宙ノ颶〉の痕跡を、滅ぼす。徹底的に滅ぼす。
 死に物狂いで、見出す。
 ひとつの手順を。
 ――確かに、ゲームの敵キャラクターは、プレイヤーに絶対に敵わない。
 だが、ひとつだけ例外がある。
 ひとつだけ、勝ちうる可能性がある。

 ――例えばの話だが。
 深い深いダンジョンの中へ、プレイヤーキャラクターたる勇者が潜入したとしよう。そこでは無数のモンスターがひしめいており、戦いの中で勇者は徐々に傷ついてゆく。アイテムや魔法で回復もできるが、それとて無限ではない。やがて、ボスキャラクターの直前に存在するセーブポイントにたどりつき、プレイヤーは安堵のあまり深く考えもせずにセーブしてしまう。そして、ボスと対峙する。勝てると高をくくっているのだ。だがボスは強かった。想像以上の攻撃力で、あっという間に勇者を瀕死状態にしてしまった。勇者は体力を回復しようとするが、すでに魔力もアイテムも枯渇していた。やがて成すすべもなく殺されてしまう。プレイヤーキャラクターはセーブした時点からやり直すことを考えるが、思い出してみればあの時点ですでに魔力もアイテムも枯渇している。これではどう考えても、勝ち目がない。何度か繰り返してみたものの、どうやっても勝てず、やがてプレイヤーはそのゲームを投げ出してしまった――

 ……奴のセーブは、どういったインターバルで繰り返されるのか。
 どういう時に、奴はセーブするのか。
 決まっている。
 仕掛ける直前だ。
 奴の姿が、再び消滅した。
 やるしかない――
 正直、血を流しすぎた。正気を喪いすぎた。
 意識を保っていられる時間は、そう長くはなさそうだ。
 ぼくは、引き金の前から突き出ている弾倉を放り捨てると、コートの中から新たな弾倉を出して叩き込んだ。
 これからやろうとしていることは、はっきり言って机上の空論だ。
 理屈としてはありえなくもないが、しかし実際にできるかと言えば寸暇も置かずノーだ。
 ここはマス目で区切られたゲームの世界ではない。
 無限の尺度を内包する三次元空間。
 できると思う方がどうかしている。
 ――そんな在り来たりな理屈をこねる自分を叩き殺し、
 ぼくは、吠えた。力の限り、咆哮した。
 喉も破れよと。
 活路は、自分の手でこじ開ける。
 そのために、肉を捧ぐ。
 意思を捧ぐ。
 魂を捧ぐ。
 背後に銃弾を放った。
 マズルフラッシュ。
 跳ね上がる銃身を片手の力で必死に押さえ込みつつ、そのままターン。
 銃口が旋回する軌道を変化させつつ、振り回す。
 傷つき疲れ果てたぼくの肉体は、この土壇場で最後の炎を燃やす。
 神速の境地を見る。
 ジャイロスコープの多重リングのごとく、銃弾の結界が紡がれる。
 それだけでは不足だ。
 銃把から手を離し、佩剣に手を沿え、抜刀瞬撃。全身の骨肉が血の叫びを上げる。さまざまな組織を断裂させながら、ぼくの斬撃は、手首を粉砕しつつ、刺突に変わる。
 名も知らぬ、あの人の神技。
 その切っ先は、
 血の霧を穿ち、
 空気の壁を穿ち、
 連なる銃弾の間隙を縫い、

 そして、音速を

 ――剣先が、彼女の体を貫いた。
 結局奴は、迷いに迷った挙句、胸を貫かれる最後を選んだようだった。
 奴が取りうる、あらゆる選択肢に蓋をする、それは『ハマり』という名の無限地獄。
 もちろん、サブマシンガン一丁の弾幕ごときで『ありえたかもしれない可能性』のすべてを潰せなどしない。
 だが、可能性の分岐点の設定――わかりやすく言うところの『セーブ』――を行うタイミングに当たりをつけていれば、対処のしようはある。
 すなわち、攻撃を仕掛ける直前。
 その瞬間から可能性の枝は時間と共に広がってゆき、やがて無限の『ありえたかもしれない可能性』が発生してしまう。
 だが。
 それより前。
 セーブが行われた直後。
 可能性の枝が広がりきらない極微の刻。
 その刻のみ、奴のあらゆる選択肢を比較的簡単に塞ぐチャンスが来る。
 はっきりいって九割方バクチである。
 奴のセーブのタイミングをわずかでも見誤れば、ぼくは死んでいた。
 それだけでなく、弾幕の配置が少しでも適切でなければ、〈宇宙ノ颶(うつのかぜ)〉は逃げ道を見つけていたことだろう。
 そして、弾幕の穴を塞ぐ最後の刺突、その動作に極小の遅滞でもあれば、彼女の刀が先にぼくを貫いていたことだろう。
 もう一度同じことをやれと言われても、絶対に無理だ。
 たとえ、生涯をかけて研鑚を積み重ねたとしても、あの瞬間の自分に追いつくことなど永遠にないだろう。
 それほどの死線。
 それほどの神技。
 だが、ぼくは、それを成した。

 ●

 人を刺すと肉の感触が生々しく伝わってくるというが、あれは嘘だ。
 すくなくとも、刀を握る両手からはなんにも感じ取れやしない。
「かっ……ぅ……ッ」
 耳元で聞こえる、か細い喘鳴。
「き、さま……ァ……ッ」
 しなやかな肢体の熱をすべて受け止めようと、ぼくは彼女を貫く刃から手を離し、死にゆくその躯を抱きしめた。
 力の限り。彼女がまだ生きているうちに。
 きめ細やかな肌を、引き絞られた筋肉を、血潮の脈動を、生命の熱を。
 すこしでも確かに、記憶にとどめておけるように。
「殺…てやる……殺し…やる……ッ」
 怨嗟を吐き出す、彼女の声。
 腕にいっそう力を込める。
 これで、いいのか。
 ぼくは本当は、とんでもない間違いを犯そうとしているのではないか。
 今すぐ病院に担ぎ込めば、まだ間に合うのではないか。
 未練がましく湧き上がってくる葛藤。
 彼女、霧散リツカの血肉が、ひくりひくりと痙攣する。
「こ……し…て……る……」
 ――だめだ。
 だめだ!
 秘剣のシステムは、ここで断ち斬る。
 剣豪たちの時代から脈々と培われてきた伝説は、ここで終わる。
 ぼくが、終わらせる。
「……こ…………る……――」
 ……彼女の体が不意に重くなった。
 勝った、のか。
 視界が滲んでいった。

 ●

 あぁ――
 何を泣くことがあるだろう。
 霧散リツカは、死になどしない。
 ただ、そのありようを変えるだけだ。
 〈宇宙ノ颶〉の継承は、それを一度見て生き残っていることが条件。
 そして二度目を見た瞬間、それは視覚を通じてその者の認識の中に確たる影響を残す。
 それは、バラバラの、単体では意味をなさない魂の欠片だ。
 だが、それでも確かに存在する、影響。
 今、ぼくは赤銀無謬斎を――〈宇宙ノ颶〉を、殺した。
 完膚なきまでに、殺した。
 だが、それまでに〈宇宙ノ颶〉の中に取り込まれていた、歴代の継承者たちの人格情報は、どこへゆくのか?
 そのまま、消えるのか?
 否。
 〈宇宙ノ颶〉をその身に受け、その原理を悟ったぼくは、自然と悟った。
 継承者たちの人格は、散り散りになり、技を見た者の認識の中に紛れ込む。
 そして、ぼくと〈宇宙ノ颶〉の魔戦の様子を、今は銃声を聞きつけた多数の人々が見ている。
 霧散リツカの意識も、また。

 あぁ――
 撒き散らされた情報たちは、宿主たちの中で成長をはじめることだろう。
 それはやがて、非凡な剣才となって表に出てくることだろう。
 この瞬間、ぼくは〈宇宙ノ颶〉を砕き散らし、無数の剣豪の芽を発生させたのだ。
 ぼくが周囲への被害を考えずに銃を乱射したために、そのあおりを受けた者もいるだろう。
 そのことについては、まったく、詫びの言葉もない。
 だから、もし〈宇宙ノ颶〉の欠片を宿した彼らが復讐を企図したとしても、ぼくはそれを受け入れ、最高に憎むべき仇役を演ずるだろう。
 そうして、恨みの連鎖は、徐々に加速してゆくことだろう。
 やがて覚醒した剣豪たちは、たがいに合い争うことだろう。
 散り散りになったとしても、それは〈宇宙ノ颶〉の一部。
 彼らを魔戦へと駆り立てることだろう。
 その渦に、ぼくもまた、当然のように身を投じてゆくだろう。
 秘剣の痕跡を、完全に滅ぼすために。

 あぁ――
 そして。
 相討った剣豪たちの中に宿る継承者たちの人格は、勝者のほうへと受け継がれ、そんなことを幾度も繰り返すうちに、徐々に元の人格を再構築しはじめることだろう。
 霧散リツカの情報も、また――

 ●

《いつか》
《幾多の死闘に彩られた時の果て》
《因果の終着点で》

 ●

 玄関を抜けると、まだ紫が抜け切らない早朝の光が、鮮烈に差してきた。
 吐く息が、白い。
「行くのか」
 門から出ようとすると、親父がそこにいた。
 ……お見通しってわけかよ。
「あぁ」
 視線をそちらに流し、睨む。
 相変わらず、嫌な笑みの剥がれない男だ。
 最後になるから、言いたいことは言っておく。
「……ほんと言うとな、あんたも殺してやりたいよ」
「ほぉう」
 何嬉しそうな顔してんだよ。
「だが先に、散らばっていったクソ秘剣の宿主たちをなんとかする」
 地面を、見る。
「あんたは、最後だ」
 それだけを言うと、ロングコートを翻し、歩みだす。

 ●

《ぼくは》
《ふたたび》
《彼女と》

 ●

「まぁ待てよ」
「あぁ?」
 苛立ちながら、振り返りもせずに。
 後ろからカッ飛んできたものを掴み取る。
 ずしりと、重い。
「生き試しの大業物認定だ。てめえがぶら下げてるチンケな雑魚よかよく斬れる」
「……何のつもりだ」
「それから、東京紅鎬会ってぇトコのおやっさんを尋ねな。俺の息子だって言やぁ、いろいろ手ぇ貸してくれるぜ。他の組はあれだ、いろいろ恨みを買いまくったからなぁ」
「あんたのコネなんか、死んでも使うかよ」
 そう言い捨て、しかし刀を捨てる気になれないでいる自分に気づく。
 手にぴたりと吸い付き、しかし離そうとすればすっと身を引く。
 そういうのは、嫌いじゃない。
「……じゃあな、クソ親父」
 刀を持った手を掲げながら、今度こそ立ち止まらずに、歩き始める。
「あばよ、クソガキ」
 斬鬼羅の道を。

 ●

《そのときが来ることを》
《きっと信じて》


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