序
少女は人を待っている。
か細い雪がしんしんと降り積もる廃虚の裏路地で、何も言わずに佇んでいる。
会わなくてはならない人がいる。だからその人を待っている。
辺りに人影はなく、そもそも動くものが存在しない。
ずっと以前からそうであり、これからも恐らくそうであろう。
神が守護する天上に、人の都市が誕生して以来、人の営みは上へ上へと移動していった。
上へ――
神の御元へ――
“一におわす方”の御元へ――
ここはそうした思いに取り残され、もはや天上世界を支える柱としてしか機能していない都市の残骸だ。
『形骸化した灰色の森』。誰かがここを、そう言い表わした。
この仄暗い場所が選ばれた理由は二つ。
人通りが全くない為と、彼女が待つ人物が例外的に此処を通ることが分かっていた為。
単純極まりない。大して興味もないけれど。
少女は人を待っている。
無数に林立する灰色の柱を眺めながら。
柱は――かつて暖かな光を宿していた残骸は、幾ら眼を凝らそうとも頂上が視覚に捉えられる事は無い。その遥か手前で、ねっとりとした質感を持った雲海によって隠されてしまっている。
相手が現れた時の事を考える。
少し、ほんの少し憂鬱になる。
小さく溜め息をついた。
吐息が微かに白く染まる。
かなり、寒い。
自分の頼り無げなラインの肩を抱いた。
支給されたこの服は動き易くはあるのだが、やはり陽光の差し込まぬこの地で着用するのは辛い。
加えて、周囲にうっすらと積もり始めた雪には、僅かながら生体を死に追いやる毒素が含まれている。
この作業に自分が駆り出されたのも、雪が原因なのだろう。
少女は人を待っている。
与えられた役割があるのだ。
それを果たす為に待っている。
何も感じなかった。ただやれと言われたのでやろうと思った。
それ以外に自分が動く理由は――動かない理由も含めて――無い。
そこに居ようが居まいが、待人が来ようが来るまいが、そして来た時に自分が何をしようとも、雪はしんしんと微かな音を伴って降り積もる。間断なく。
降り積もる音に混じって、それを踏みつぶす音を知覚する。
僅かに振り向くと、黒目がちな瞳に待っていた人物の姿が飛び込んできた。
やや高めの背にのっぺりとした顔だち。
与えられた相手の情報と、いま視界にいる男の背格好は、完全に一致した。
外見と日々の行動パターン以外は何も知らない男。
彼女には必要最低限の情報しか教えられないし、知りたくも無い。
どうせ長い付き合いにはならないのだ。
気持ちを整理するようにもう一度息を吐く。
そして――
常識を逸脱したスピードで一気に間合いを詰める。
男との距離はまだ離れている。ゆえに向こうはまだこちらの存在に気付いていない。
速度を更に上げる。視界が紺碧に染まり始める。
障壁の形成。己の身から発する不可視の力が、意志の干渉によって物質としての形質を与えられ、堅牢無比な壁をなす一連のプロセス。
力を解放した今なら、この程度の距離など数回の跳躍で消化できる。
最初はアスファルトの道を蹴り、次はコンクリートの壁を蹴り、
そして三度目。
音高く靴を鳴らし、最後の跳躍を放つ。
男がようやく少女の存在に気付き、この少女が何者なのかを理解した。
しかし慌てた風も無く銃を引き抜いた事から考えると、前にも何度か襲撃を受けたことがあるのだろうか。
乾いた銃声が数回。男が引き金を引いた事を知らせる音。
しかし、人ならざる力を持つ少女にとってはさほど気になる事では無い。
弾丸は前面に張られた紺碧の障壁によって、ことごとく弾かれる。
男の笑みは一瞬にして消え失せ、驚愕、次いで恐怖の表情が顔に貼付く。
「《ビジター》か!?」
質問ではなく悲鳴。
それに答えるつもりは無いし、答えを求めている様子でも無いので黙殺する事に決めた。
地面に降り立つ、姿勢を低くして指を真直ぐに伸ばす、障壁を左腕に収束させる。
一瞬にしてそれらの予備動作は完了し、人外の力を込めた最速の貫手が放たれた。
輝く指先は男の胸に突き込まれ、滑らかに筋肉と肋骨を打ち砕き、心臓に到達する。
そして、貫通。
「がっ!!」
銃を取り落とし、止めどもなく血を吐く男。
人がモノになる瞬間。
何度、この瞬間を見てきたのだろう。
数える事をやめたのはいつからだろう。
「死ぬときには」
少女は男の体を受け止めた。
「死ぬときには、だれを思い浮かべるのですか?」
返事はない。返答を求めてもいない。
ただの意味の無い呟き。
「わたしは、だれを思い浮かべるのでしょう?」
血溜まりの中で全身が朱に染まるのにも構わず、もはや動かない男を抱きすくめる少女。
感慨は湧かない。
ただ、暖かいとは感じた。
「思い浮かべられる人が、わたしにはできるでしょうか?」
死体ではない誰かに発せられた問い。
ただの意味の無い呟き。
既に出ている答え。
思い浮かべられるニンゲンは、いない。
冷たさが支配する灰色の森の中、彼女は物言わぬ死体をいつまでも、いつまでも、抱き続けていた。
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