6、加護の烈風・下

 彼が授かった力とは、言葉に直せばひどく単純な代物であった。
 しかし単純である事が、力の強弱を決定付ける要因とは成り得ない。
 事実、彼はその力に非常に満足し、いっそうの忠誠を『彼女』に誓った。
 彼が持つ能力。
 それはもちろん、告死天使が振るう絶望に等しい一撃と比較すれば、格下と言わざるを得ないが――
 ……だから?
 それがなんだと言うのか。
 彼は口元を歪める。
 ――私は、貴女の期待に答えられるなら、それ以外には何も望まぬ。絶大な力などいらない。ただ、自分が永遠に貴女の味方である事を示せればよい。
 それが、彼のたった一つの願い。
 ――ねぇ、猊下?


 レイナの見るそばで、青年は左腕を持ち上げ、手の甲をこちらに見せるようにした。
 巨大な昆虫の羽音のような低周波。
 大気を震わす、異音。
 レイナは半身に身構える。油断なく。
 同時に困惑する。狼狽える。
 どう言う訳か、躯を駆け巡るのは緊張でも怒りでもなく、強烈な嫌悪感だった。
 眼前の青年が怖い、汚らしい、触りたくない。
 それは、敵対者を前にした心情ではない。そもそもレイナの感性から喚起されたモノですらない。
 感情の起伏などではない、物理的な現象としての『嫌悪感』。
 異音のトーンが上昇する。同時に『嫌悪感』もより強くなる。
「な、なに……?」
 レイナは我知らず後ずさる。
 かつてない不快感。込み上げる嘔吐感。
 異音のトーンがピークに達する。
 ハマエルは持ち上げた拳をグッと握りしめると、腰を落とし、体の反対側から肘先が見える程に腕を振りかぶった。
 彼我の距離は離れている。もとより拳撃が届く間合いではないが――
「邪なる者、救いを受けよ!」
 ハマエルは渾身の力を込め、拳を撃ち出す。
 瞬間。
 大音響が大気を引き裂き、レイナは塵のように撃ち飛ばされた。
 《身体施呪》をもってしても逃れる事が叶わぬ一撃。『飛来』したのではなく、『発生』したのだ。
 白く堅牢な高層建築の壁に叩き付けられる。崩れ落ちるように倒れ込む。
 巨大な槌に殴り飛ばされたかのような衝撃。
「が……あ……!」
 胸を掻きむしるように抱き締め、うずくまった。
 血反吐が口元を汚す。
 強力な鈍痛が全身を蹂躙した。
 間違いなく肋骨は砕かれている。
 肉体が物理的に強化される《身体施呪》能力者でなければ、まずやられていた。そんな事を有り難がるつもりなど毛頭ないが。
 レイナはゆっくりと顔を持ち上げた。
 青年はゆくっりと歩みを進めていた。
 視線が交錯する。
「すまない」
 ハマエルの口を突いて出て来たのは、簡潔な謝辞の言葉であった。
「え……?」
 訳がわからず、混乱する。
「お前を苦しめた事については謝ろう。聖女猊下は魔性と言えども無用な苦しみを受ける事をお望みではない」
 ハマエルの瞳は、どこか慈しむような光をたたえていた。
「だから――」
 あの異音が大気を震わす。
 握りしめられる拳。
「次こそは、救ってやろう……」
「ふざけないでよ!!」
 レイナは全身が焼かれるように熱くなるのを感じた。
 よろめき、ふらつきながら、立ち上がった。
 ハマエルは既に“溜め”を終えている。
 拳が破壊を宿し、空間を切り裂く。
 炸裂音が轟き、大気が爆ぜた。


 ユズハにも、その轟音は聞こえていた。
 「耳障りな音」以外の感想は抱かなかった。
 注意を向ける余裕もつもりもなかった。
 自分の肩口に禍々しい銀光――シュバイツァー・サーベルが突き立っている。
 白煙が立ち上り、肉が焦げる刺激臭が鼻を突く。何故か血は出ない。
 激痛。激痛。危険。
 他の兵士達も機を制し、斬り掛かってくる。
 それでも、停滞なく血まみれの肩ごしに逆の腕を翳す。広げた指の周囲に不可視の“触手”を伸ばし、それに触れた大気の分子一つ一つを認識する。脳内に、極小世界で知覚された破壊的な量 の情報が流れ込み、しかしユズハは顔色を変えずに全て受け入れる。
 そして、“触手”を蠢かせ、大気の分子運動に干渉。膨大な摩擦熱が発生し、《念発火》の発動体勢が整う。
 掌から凄まじい熱量の爆炎が撃ち出された。
 “触手”の誘導により超常的な指向性を得たそれは、肩口に突き立つ剣の柄を握る兵士に直撃し、炸裂。大量 の熱気と焔の礫を周囲にまき散らした。
 黒く変色しながら爆ぜ割れる兵士。伴って、剣が肩から抜け落ちる。
 血は出ない。鈍く重い痛みと、焦げた異臭が感じられるだけだ。
 熱の余波がちりちりと傷口を舐め上げる。
 即座に地面に貼付くように身を屈める。火炎の帳を縫って突き進んできた六つの剣光が、頭皮を掠めて通 り過ぎた。
 ユズハは身を屈めた勢いのままに、地面に打ち付けた掌を軸にして体全体を旋回させる。
 鈍い音がした。
 爪先に宿る蒼光を薙ぎ、兵士の膝を叩き潰したのだ。赤い血肉と白い骨格が飛沫となって散った。
 ユズハは脚部が半回転したところで、軸となる腕を変えて体を反転させる。
 今度は、低い弾道で回し蹴りを放った。
 破砕音と同時に、さらに二人の兵士が脚部を破壊される。
 それでも、彼等の動きは止まらない。
 脚を破壊されて横転した兵士も、身を引いて難を逃れた兵士も、各々の姿勢から申し合わせたように斬撃を放つ。
 破滅的な寒気が体を満たす。しかし、それに身を竦ませるような暇はない。全身を覆うように《障壁》展開しながら、舞うように身を捌く。
 六つの刃が《障壁》の至る所へ食らい付いた。
 殺人的なまでの疲労感。
 脳が悲鳴を上げ、意識が遠くなりかける。
 能力の使い過ぎによる枯渇状態。
 《障壁》の抵抗に、僅かに速度を落とされながら、凶暴な煌めきはズブズブと内部へ侵入してくる。
 身を捩り、捌き、躱し、刀身の平を叩き伏せ――しかし絶妙な角度とタイミングで放たれた一閃が胸を浅く抉り、直後に足元から太股を切り裂かれた。白煙が吹き出す。苦痛が脳を直撃し、皮肉にも意識をクリアーにする。
 視界が滲む。痛みが涙腺をこじ開けたようだ。それは生理的な反応であり、如何なる情緒も干渉していない、と思う。
 素早く涙を拭い去る。視界の確保は大切だ。
 どこかで、大気が爆ぜるような炸裂音が轟いた。さっきも聞いた「耳障りな音」だ。
 ああ、レイナは死んでしまったかもしれない。
 とても残念だ。
 気を取り直して前を見る。
 生きている兵士は残り六人。内三人は無傷。
 もう《障壁》で各個撃破する余裕はない。傷が疼き、満足に体を動かせない。
 生暖かい感触が首筋を伝い、耳から血液が流れた事を知らせた。
 気が付けば、視界を仄かな霞が覆っていた。脳が視覚情報を受け取る事も億劫な程に疲弊しているのだ。
 三人の五体満足な兵士が、戦闘前とまるで変わらぬ歩調で近付き始めた。
 反射的に腕を持ち上げる。途端に熱くなる肩の傷を無視し、脳内で揺らめく水銀の海のようなイメージを展開する。限界を超えた駆動による激しい頭痛をも無視し、不可視の“触手”で空間そのものを知覚の網に捉えようとした。
 円盤状の空間が認識された。それは自分と兵士達を隔てるように屹立している。
 ユズハは“触手”を用いてその『円盤』のこちら側の面を収縮させ、向こう側の面 を引き延ばす。
 ちょうど、お椀のような形に引き歪んだ。そこを通る光がねじ曲がり、兵士達をやけに小さく見せた。
 そのまま、ユズハはさらに《念発火》を発現させる。腕に焔が纏わり付き、激しく揺らめいた。
 意志を総動員して泣叫ぶ脳細胞を押さえ付けると、大袈裟とも言える動作で烈火を叩き付けた。
 腹の底から響く爆裂音。重く巨大な震動。
 視界を覆う、紅蓮の帳。
 彎曲空間がレンズのように作用し、朱の奔流は広範囲に爆散。前方に存在したモノを吹き飛ばし、舐め尽くし、焼き尽くした。
 黒ずんだ塊と、変わらない純白の風景だけが残った。


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