5、加護の烈風
黄道十二宮天使ハマエルは、彼の上司とも言うべき告死天使アズラエルからの命令を反芻していた。
『逃走した赤髪の魔性を討つべし』
分かりやすいが、妙な命令だ。
告死天使が持つ絶大な力は、最上位魔性にこそ発揮されるべきだ。特に強力でもない魔性を速やかに抹殺する事は、黄道十二宮天使や守護天使の領分であるのは確かだが……
それにしたところで、『捜索し、もし見つければ殺す』が基本である。
最初から討つ魔性が特定されている事など、最上位魔性を標的とした特務以外にありえない。
だが、今回標的となる赤髪の女は、中位魔性だと言う。少なくとも、わざわざ名指しで狙われるような大物ではない。
さらに奇妙な事に、自分達を魔性の元へ導いたのは告死天使の一人であるサマエルであった。
こうなると、根底から命令の意図がわからなくなってくる。
告死天使が出向く程の事でもないからハマエルに任務が回って来たのではないのか?
ここへ向かうまでの間、ずっとそんな疑念が頭を駆け巡っていたのだ。
……しかし、ハマエルは今、疑問に対する解答を得た。
赤髪の魔性と並んで佇む小柄な少女。
彼女から、濃厚な魔の瘴気が放射されている。
それは視覚的に認識出来る類のものではないが、どこかドロリとした質感を持つ汚水のように感じられた。
聖女の加護を身に纏う天使にしか知覚できない現象。まごう事なき魔性の証。
そして、この濃度……
どれほど楽観的に見積もっても、この黒髪の少女は上位魔性だ。いや、下手をすれば最上位
に届くかもしれない。
『白焔』にいたと言う、最上位魔性とは、もしや――
本能がけたたましく警笛を鳴らす。
危険、危険、あの少女は危険――
ハマエルはそれに従い、攻撃命令の目的語を『黒髪の魔性』に設定し直し、送信した。守護天使達は即座に命令を認識し、発砲。
轟音とマズルフラッシュが辺りを蹂躙し、テーブルやイスが散弾の一部を受けて盛大に木屑を飛ばした。
守護天使が持つ散弾銃は、対魔性戦用に聖女の加護が添加された弾丸を使用している。その働きは単純明快。
魔性の力を破壊し、これを滅ぼす。
故に、いかなる能力を持っていようとも確実にダメージを与えられる。それは、最強の防御術たる《障壁》を持っていたとしても同じ事だ。
ましてや、守護天使十体による一斉掃射。
はっきり言って、生きている方がおかしい。
守護天使達は、散弾銃のチェンバーから弾薬が尽きた事を確認し、あらかじめ設定された思考ルーチンに従って装弾作業を開始した。
それが、命取りとなった。
硝煙が漂い、木屑が舞う光景。その全体が、歪んだ鏡のように彎曲し始めた。
鼓動のように収縮を繰り返す“歪み”の向こう側で、一瞬蒼い何かが輝いた。
――死体の一つの目前に、彼女は現れた。
右腕に紺碧の光を宿した少女であった。少女が死体の目の前に立っていた。
直前まで確かに存在していた十数mの間合いは、瞬きすら出来ないうちに消え去っている。
「《空間彎曲》、か……」
死体の単調な意識を介して送られてくる映像を脳内で認識しながら、ハマエルは事務的に呟いた。
少女が纏う光は瞬時に形態を変え、手刀をコーティングする刃を形成。
《障壁》の局部展開。
大きく踏み込み、打ち払われた蒼き刃は、守護天使の喉を停滞なく通過し、大量の血液を噴出させた。
その背後で死体が銃を構える。
崩れ落ちるコンバットアーマーには眼もくれず、少女は体を旋回させながら伸ばした爪先に《障壁》を展開。
爆音が轟く。
強烈な回し蹴りを喰らった兵士は全身を破裂させて吹き飛んだ。
魔性が細い脚を引き戻すと、一瞬遅れて守護天使の破損した臓物がバシャバシャと地面
に叩き付けられる。
当然、即死。
……いや、『生ける死体』が『死せる死体』に戻っただけか。
ハマエルはそんな場違いな感慨をかなぐり捨てると、守護天使に装弾作業を中止させ、新たな命令を下した。
すなわち、『抜剣し、黒髪の魔性を斬り殺せ』。
直後に八つの鞘走りの音がした。
――その時。
ハマエルは、突如として脇腹に凄まじい衝撃を受け、側面に打ち飛ばされた。
咄嗟に受け身を取って落下の衝撃はやわらげるも、脇腹に受けた打撃は重い。
思わず苦鳴を漏らす。
元から兵器として製造された告死天使や、すでに死人となっている守護天使と違い、彼はれっきとした人間だ。殴られれば痛いし、限度を超えた苦痛が行動を阻害する事もありうる。
だが――
だが、まだ大丈夫だ。
天使として強化された彼の肉体は、さっきの打撃によく耐えた。内臓破裂には至っていない。
ハマエルは衝撃が来た方向へと向き直る。
そこには、赤髪の魔性が厳しい表情で立っていた。
「……あなた達が、なぜ『白焔』を滅ぼしたのか知らないけど……あたしはまだ死にたくないし、死ねない!」
ハマエルも、ゆっくりと立ち上がり、呼吸を整える。
「どのみち、お前達は必ず滅びる。これは神の御意志なのだ」
言葉を返すでもなく、呟いた。
ユズハは、表情の見えない兵士達が携える剣を眺め、少々混乱していた。
奇妙な剣であった。
形状は、旧世紀の『近世』と呼ばれる時代に用いられたシュヴァイツァー・サーベルに酷似している。だが、刀身は異様なまでに光をギラギラと反射し、まるで剣そのものが発光しているかのようだ。客観的に見れば、それは滑らかで美しい刀身である。
なぜか、ユズハはそこから奇妙な圧迫感を感じた。
悪寒にも似た不快感、嫌悪感。
かすかに眉を寄せる。
剣を構えた兵士達は、摺り足でにじり寄ってくる。隙を見せれば、一瞬にして肉迫し、斬撃を放ちそうな雰囲気だ。
だから、と言うわけでもないだろうが、こちらから打って出る事にした。
一人に狙いを定めると、《ビジター》の強力な脚力をもって床を蹴り砕き、加速を得る。
兵士達は円を描くように標的を包囲していたため、ユズハが一人に接近した事により、一瞬だけ一対一の状況が発生した。
突進の勢いに任せ、《障壁》を纏わせた拳を打ち込む。
破砕音。兵士の胸部装甲が陥没し、生命の熱い躍動が吹き出した。
側方より、例の嫌悪感が急激に膨れ上がる。鮮烈な鋼の煌めきが迫りくる。
即座に腕の《障壁》を解除し、逆の腕に『盾』のような形状で展開し直した。
防御は間に合う。だが安心はしない。
先刻、散弾銃を防いだ時の消耗ぶりを鑑みれば、この剣にも何か理不尽な力がある可能性は高い。
その上、ユズハにはもうあまり余力はなかった。
散弾銃の一斉掃射が堪えている。普通に《障壁》を貼っていては、間違いなく、もろとも粉砕されていた所だ。ユズハがまだ生存していられるのは、《空間彎曲》をもって弾丸と自分との距離を散弾銃の射程限界まで『延長』したためである。しかし、《空間彎曲》は非常に消耗の激しい能力だ。それは肉体的な疲労ではないが、あまりに酷使すると意識を失う怖れがある。
……そんな思惑とは一切関係なく、鋭い光沢を宿す切っ先は『盾』に激突する。
そして――
それは、起こった。
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