3、第二の御使い
第七天上世界、下層棒状居住区。
その北側に位置する繁華街で、ツジマサ レイナは艶やかな赤髪を風が揺らすに任せていた。
第七天上世界の街は、白い。そして白々しい。道ゆく人の数そのものは多いと言うのに、街中特有の喧しさが少ない。通
行人の顔はみな穏やかで、声を荒げている者など一人もいない。
奇妙な静寂感。
作り物のような平穏。
他の天上世界では、こんな事はなかった。
原因は、レイナにはよくわからない。
傍らを並んで歩いている小さな連れも同様であろう。
……と言うより、この少女は疑問にすら思ってないのではないか。
髪に手を触れながら、レイナはそんな思いを抱いていた。
クレノ ユズハ。
暗殺組織『白焔』の中でも、最年少にして最も奇妙なメンバー。
そして最強のメンバー。
その力は絶大。暗殺のターゲットが抱えていた機甲兵団の一ユニットを、無傷で壊滅させた事もある。殺人に対する忌避は皆無だ。
その実体は、無垢にして無表情。無感動にして無思慮。
表現力の決定的な欠如。
その原因は、『白焔』にあると、レイナは思っている。どう考えても、こんな子供に人殺しをさせるなど、まともな人間のすることではない。
一人の人間の人生を、永遠の暗黒の中に叩き落とす。そのあまりに重い事実を前に、ユズハが受けだ心の傷は、いかばかりであったことか。
数年前に、殺しをさせられる事を承知した上で『白焔』に身を投じた自分とは、あまりに境遇が違う。無論、だからと言って罪悪感が消えてなくなるわけではないが、物心ついた時に選択の余地もなく暗殺組織の中にいたユズハと比べれば、自分はまだ幸運だ。
いつも、思っていた。返り血に濡れて帰ってくる彼女を見る度に、そう思っていた。
「……そういう意味では、組織がなくなっちゃったのは、あなたにとっては良かったのかもね、ユズハ?」
『白焔』は彼女等を残して壊滅した。
ビジネススーツの男と、無言の兵士達によって。
あの時はとても恐ろしかった。彼等の持つ銃は、こちらが放つ攻撃の全てを打ち消した。その上、絶対不可侵――とは言わないまでも、小火器程度で破壊されるとは思えない《障壁》を、ただの数発撃ち込むだけで粉砕した。
彼等の目的も正体も、レイナにはわからないし、考えたくない。自分達のような超能力者の存在自体、あまりに冗談めいた事柄だ。この上何が来ようと驚きはしない。
ただ言えるのは、これでようやく、ユズハはまっとうな人生を歩める可能性が出て来たという事。例え《ビジター》が社会規模で恐怖される存在とは言え、そんな力など使わなければバレやしない。
小さな少女はこちらへ振り向き、少し首を傾げた。
その様子に、レイナは思わず微笑む。
そうだ。いくら無敵の強さを持つとは言え、この子はあくまで何も知らない子供。殺しの技術を持っていても、このままでは普通
の社会で幸せを掴む事など出来ないだろう。
自分が守ってあげなくては。
「これから、二人で生きていこうね……」
サラサラした黒髪を優しく撫でてやる。
きっと、二人で笑いあえる日も来るだろう。
心が受けた傷は、いつかは癒えてゆくものなのだから。
かつて『白焔』アジトの機能を果していた場所。
無数の《ビジター》の死骸が散乱する地獄絵図。
その直中で、ビジネススーツの男は裡にどす黒い思念をしまい込み、守護天使達に向けて撤収命令を下していた。
告死天使アズラエル。
それが、彼の識別コード。
彼は、生まれながらにして魔性と闘う宿命を背負った神の御使いだ。戦闘能力は全ての《ビジター》を超越し、その手にかけた魔性は数知れない。
彼が出会った魔性の中で、いまだに生きている者は、たったの一人。
……いや、三人か?
つい先程《身体施呪》によって逃亡した赤髪の女と黒髪の少女。
彼女等で三人目になるのか?
アズラエルは苛立たしげに首を振った。
――何を弱気になっているのだ。あんな蝿など、追い掛けて叩き潰す事は至極簡単。
――私が敵と認めたのは、あの黒衣の男だけ。それ以外はただの木偶に過ぎない。木偶は大人しく殴られていればいい。
あの女は身の程をわかっていない。まったくもってわかっていない。死を与えてやろう。最も滑稽なそれを。そうだそうしよう。
「神に仕えるべきあなたが、そんな感情を抱くのは感心出来ない事柄」
いきなりの声。
声色そのものは幼く甲高いのに、妙に老獪な響きがあった。
「……いらしていたのですか。サマエルさん」
心を読んだとしか思えないその言葉にも、動揺なく応じた。
血臭漂う図書館に、乾いた足音が心地よい反響を奏でる。その澄んだ音は、死体の山が築かれているこの場では違和感しか伴わなかった。
アズラエルは、足音の方へと向き直る。
少年がいた。まだ学業を始めているとも思えない、幼い背格好。白地に青く縁取られた、丈の長い法衣に包まれて。
しっとりとした白髪が自然に垂れ、前髪の間から覗く深紅の瞳は洗練された知性の光を宿していた。
先天性白皮症――アルビノ。
一体、どこから現れたのか。
アズラエルは、その種の詮索が無意味である事を知っていた。
少年はどこか達観したような紅い眼差しでこちらを一瞥した。
おもむろに口を開く。
「僕がこの場であなたに言える事は、三つ」
「なんでしょう?」
少年は、独特の口調で言葉を続ける。
「一つは情報。あなたが取り逃した女性の現在位置を、僕は知っている事実」
「……それはそれは」
少年――告死天使サマエルは、全ての天使の中でも最高の魔性知覚能力を持つ。
その効果範囲は、都市の数区画を楽にカバーする。その範囲内で彼の眼から逃れる事は、いかなる魔性にも不可能だ。
「僕は今、あなたをそこへ誘導してもいいと思う心境」
「それは、どうもありがとうございます」
アズラエルは素直に礼を言った。
少年は微かに頷いた。眼だけはこちらを見たままだった。
「もう一つは命令伝達。最上位魔性、アキムラ シロウとの接触に成功した事実。故に、あなたに交渉役兼抑止力として来てもらう命令」
アズラエルは胸中で深い溜め息をついた。
アキムラ シロウは、現在最も危険視されている魔性の一人だ。アズラエルが直接相まみえた事はないが、二人の告死天使を葬った事実を鑑みれば、絶大な力を持っていることは疑うべくもない。
教会の指導者は、どう言うわけか彼と話し合うつもりのようだ。このあたりはアズラエルの理解を超える事柄である。魔性は滅ぼすべき者だ。話し合う必要はない。
……なんにせよ。
そんな重要な命令があるのなら、何故自分を案内してもいいと言ったのだろう。
相変わらず、この少年の考えは実によくわからない。
「……実によくわかりました。それで、三つ目はなんでしょう?」
少年はまた頷いた。
「最後は忠告。あなたは魔性殲滅任務に対し、少し感情的すぎるきらいがある故、教会内でも問題視する声もある事実。人間的なのは、僕は悪い事とは思わないが、あなたは人ではなく天の御使い。ほどほどにしておく事を推奨」
アズラエルは、今度は胸中ではなく本物の溜め息をついた。
「わかってますよ……」
本当にわかっているわけはない。アズラエルはこの少年の深い信仰心を、それなりに尊敬してはいるので、とりあえず追従しただけだ。
サマエルはまた頷く。どうも、あまり突っ込んで言うつもりはないようだ。
「それでは、僕はもう行くつもり。赤髪の彼女を浄化するのは、もう少し待つ事を推奨。……でも、あなたの黄道十二宮天使ならば僕が案内してもいい心境」
確かに、黄道十二宮天使と守護天使十数体を差し向ければ、大抵の魔性は瞬殺できる。 だが、自分の手でなぶり殺そうと思っていただけに、配下に任せてしまうのは勿体ない気がした。
しかし。
「……分かりました。私の黄道十二宮天使と守護天使のみなさんを、かの魔性の元へ導いてやって下さい」
私怨よりも、効率のいい魔性殲滅を優先する事にした。
サマエルはしかと頷くと、ぶかぶかの法衣を翻して歩み始める。
再び、場違いなまでに澄んだ足音が木霊する。
小さな背中は、アズラエルの見ているそばから輪郭が薄くなってゆき、境界が崩れ、ぼやけ、消失した。
最初からそこにいなかったかのように。
アズラエルは奇妙な同僚が去った事を確認すると、もう一度溜め息をついた。
疑問が思考を過る。
――そういえば、何故サマエルは、わざわざ自分が案内してまであの魔性を追わせたのだろう?
かすかに頭を振る。
あの告死天使に対して詮索は無意味だ。
彼が何を考えているかなど、自分にわかろう筈もない。
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