12、空の下で

 赤髪が微風を受け、フワリとなびいた。
「ここは……」
 レイナは目を奪われていた。
 開け放たれた窓から覗く光景。見る筈がないと思っていた眺め。
 穏やかな一陣の風が駆け抜け、草や木の葉をざわめかせる。それらは暖かな光を受け、翠緑色の透き通った輝きを放った。
 一面の緑。
 どこまでも続く草原は緩やかな起伏に彩られ、緑色の中にも濃淡のコントラストが浮かび出ている。
 そして――
 上を見る。
 レイナは息を飲んだ。
 天上世界の外壁は、そこにはなかった。
 青い、蒼い、碧い――なにか。天井でも壁でもないモノ。
 傍らで草木の匂いが乗った風を気持ちよさそうに浴びていたコウが、
「空、だよ」
 レイナの視線に気付いて声を掛けた。
「そら……?」
 聞き慣れない言葉をオウム返しに訪ねる。白い閉鎖空間に引き蘢った人類が、『空』と言う単語を失って久しい。
「うえの青いトコ。なにもないのに青く見えるんだよ」
 上方に天井があるのが当たり前な世界に住んでいたレイナには、『なにもない』が具体的にどう言う事なのか、よく理解できなかった。
「それってどういう……」
 言葉は、か細い呻き声に遮られた。
「ユズハ?」
 目を覚ましたのかと思い、寝台の方に向き直った。だが、少女の眼は未だ閉じたまま。
 ユズハは再び小さく呻いた。やや青み掛かった肌に汗の粒が浮き出ている。
 コウは寝台に膝を乗せてユズハの顔を覗き込み、
「こわいゆめ、見てるのかな?」
 手の甲で額の汗を拭ってやった。
「本当にそれだけならいいんだがな」
 若い男の声。
 この声は――!
 レイナは傷の鈍痛を無視して素早く頭を巡らせた。
 寝室の出入り口に黒い影。墓標のように立っている。
 すぐにそれが黒衣の青年であることがわかったが、眼に入った瞬間の不吉な印象はレイナの中に長く残った。
 脳裏に、ハマエルの最期の様子が写し出される。
 知らず、体が少しだけ後ずさっていた。恐怖と警戒心に表情を堅くし、俯く。
 始めて会った時に、レイナは既に決めていた。この人を信用すまい――と。
 ゆっくりと顔を上げる。
 折しも、彼はレイナに眼を止めていた。
「眼は覚めたんだな。よかった」
 気負いのない笑顔を見せてくる。
「…………えぇ」
 レイナは目を逸らしながら答えた。
 ――ただそれだけの事だけれど、臨戦体制だけは解く事にした。
 彼はもう一度微笑むと、うなされるユズハに眼を向ける。
「で、こっちの眠り姫サマの方だが」
「そうそう、急にこうなっちゃったんだよ……」
 呻き声はとても小さく、ほとんど聞こえない。だが眉を寄せ、身じろきする様は、明らかに苦痛を訴えている。
 ――ひょっとしてこの子、毎晩こんなに……
「ふん、妙だな」
 青年は自分の顎に手をやり、逆の手をユズハの方へ伸ばした。
 額に、触れる。 


 ミカドの主観において、世界のありようが変わった。それは一時的な物ではあるが、重力や着衣の感触などは消滅し、幽霊にでもなったかのような錯覚を与えた。
 己の指先から伸びる“触手”を伝い、ユズハの脳内に意識を潜り込ませる。
 そこで、知覚した。
 不可解な視覚的イメージ。 


  冥く、深く、淀んだ泥の中。
 外界から遮断された闇の中。
 クレノ ユズハは暗黒に映える白い肢体を、窮屈そうに丸めていた。膝を抱え、顔を埋め、可能な限り小さくまとまろうとしていた。羊水の中をたゆたう胎児のように、自分を抱き締めていた。
 ……実際に周囲を満たしているのは羊水などではなく、抱き締める対象も自分自身ではなかったのだが――
 不意に、胸元がにわかに熱を帯びだす。
 ――また、来た。
 きつく閉められた手足の間から途切れ途切れの光条が漏れ始めた。 
 ユズハは一層力を込めて身を堅くする。
 光条を己の裡に仕舞い込むように。
 端々から這い出た光線に、周囲の蠢く闇が浮かび立つ。
 光は加速度的に強くなってゆく。胸中に異物感が生じ始める。
 ――熱い。
 胸元が灼かれそうな熱を感じる。
 ――熱い……。
 体の中で、何かが膨れ上がる。
 ――熱い……!
 光はもはや閃光となり、獄焔のような灼熱が丸めた躯を内側から焦がす。
 ――熱いよぉ……!
 醜悪な火膨れが柔肌に刻み込まれる。
 激烈な閃光が圧力を伴い、閉じた四肢をこじ開けようとする。
 それでもユズハは己を抱く手を離しはしない。
 〈理不尽な使命感〉
 離す訳にはいかない。
 〈憶えのない義務〉
 離せない。
 〈刷り込まれた拘束〉
 離すのが、怖い。
 〈冷たく身を貫く恐怖〉


「ふーむ」
 ミカドは少女の額から手を離した。
 途端に五感が戻って来る。
「ねぇ、どうだった?」
 コウが聞いた。
 ミカドはしばし沈黙を守った。その三白眼は思案するように閉じられている。
 《蠢く闇の中で、激しい閃光に身を灼かれながらも光源を抱き締める少女》
 己の脳に写し出された映像を、ミカドはそう解釈した。
 ――ふふん。
「結論……」
 ミカドは眼と口を開いた。
「なになに?」
 コウが身を乗り出す。レイナもこちらを見つめている。
 刹那の時間の停滞。
「……よくわからん」
 二つの溜息が協和した。
 ミカド、咳払い。
「ま、寝かしとこう。悪夢に殺される奴ぁいねぇよ」
 ばつの悪そうな顔で、ユズハにシーツを掛けなおしてやる。
「そりゃそうだけどさぁ……」
 コウは不満そうに頬を膨らませる。
「さて、と!」
 ミカドはそれを打ち消すように掌を合わせ、レイナの方を向く。
「食欲は回復したか? 二日寝てたから腹減ってるだろ」
「え、えぇ、まぁ……」
 彼女は困惑した面持ちで返答した。初対面の印象とのギャップに戸惑っているのかもしれない。
「待ってな、なんか作るからよ。……コウ、手伝え」
 ミカドはそう言いおくと、寝室の扉を開けて外に出る。後ろでコウが「手伝ってくれぐらい言えないのかなぁ〜」ブツブツ言いながら付いてきていた。


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