1
 自分は今、伝説と対峙している――

 闘技場は、水を打ったような静寂に包み込まれていた。少女は滲み出る汗を掌に握り込んだ。喉がひどく乾いた。唾を飲み込んだ。観客達の視線が痛かった。
 目の前には、一人の男。
 鋭い眼光が、鷲鼻の上に乗っていた。あまりにも猛々しい魔力の流動が、彼の体内で竜のようにうねっている――それが、わかった。
 “魔王”と呼ばれたその男。常勝無敗の砲魔術師。
 かつてない危機感が、全身を鎖のように戒めた。胸の中に黒く冷たい淀みがあるようで苦しかった。こんなことではいけないという思いが、余計に不安を煽った。汗が冷たかった。
 ――端的に言って、怖い。
 だが。
 しかし。
 息をゆっくりと吸った。腹の底に気息を蓄積させた。恐怖が代謝され、自信に変じる様を思い浮かべた。
 大丈夫。必ず勝つ、とは言わないが、簡単にやられはしない。準決勝戦まで勝ち上がってきたのだ。今度だって。
 少女は鋭く呼気を吐き出し、腰を落とした。
 試合が始まった。

 膝から力が抜け、石の床に崩れ落ちた時、少女は歯噛みした。
 試合の終了を知らせる銅鑼の音が轟いた。
 少しだけ、泣けてきた。
 眼を拭い、身を起こし、男を睨み付けた。今回は遅れを取った。しかし次こそは。
 涙の残滓の向こうで、男の姿が微かにゆらいだ。
 少女は不可解げに眉をひそめた。
 様子が尋常ではなかった。男は眼を剥き、力なく口を開け、己の両掌を凝然と見つめていた。そのまま、膝を突いた。
 この勝負は、男の勝利のはず。
 なのに、なぜ。
 わけがわからなかったが、戦いが終わった以上、そこから立ち去るしかなかった。
 その時――
 対戦相手の男が立ち上がり、かすれた声で棄権の意を表明した。叫び混じりの悲痛な声だった。観衆達が大きくざわめき、次の瞬間口々に理由を問うた。
 男はそれに構わず、踵を返して選手控え室への出入り口に向かった。
 ふざけるな、と少女は怒鳴りたかった。だがそうはしなかった。できなかった。
 男が、一瞬だけ、少女を見たのだ。何かの感情を必死で押し隠した視線だった。
 少女は悟った。
 押し隠された感情とは、紛れもない憎悪であることを。

 2
 斜面から見る市街が、夕彩に没していた。
 紅茶の中のような色彩。玩具のように小さな建物群。木組みに漆喰を塗り込めた家屋が多く、そのどれもが天井部に剣を象った白い塔を備え付けているので、巨大な塩晶の森の中を歩いているようだとよく形容される。
 日没を報せる鐘が周囲に響和し、年少の子供たちがはしゃぎながら街を駆け抜けてゆく。その声は、いつも聞くのより心無しか弾んでいる。
 子供に限らず、道往く人々の間にはどこか華やかな空気が漂っていた。最近、人口密度が高くなっている。
 今から四日ののち、三年に一度の『閉鎖戦術級魔導征圧者決定戦』――通称『魔法大会』が開催される。数百年の伝統を持つ、由緒ある競技にして祭典。大陸中から導師級の腕を持つ魔術戦闘技能者達が参加し、物好きな観光客達が押し寄せ、各国軍事関係者が視察に訪れ、商人達が出店を広げ、吟遊詩人や旅芸一座が彩りを添える。その経済効果は計り知れなかった。
 お祭りの空気。
 そんな中、少年が二人、戦闘職能養成学校のゆったりとした制服をなびかせながら歩いていた。体格にかなりの差があり、始めて見る者は誰も彼等を同じ十歳とは思わないだろう。
「ゴメンね、また付き合わせちゃって」
 フィーエン・ダヴォーゲンは大きな紙袋を両手で抱え、側を歩く級友を見上げた。甲高く、わずかに舌足らずな声。歩みを進める度に腰の模擬剣がかちゃかちゃと鳴った。
「気にすんな。俺も用があった」
 エイレオ・アーウィンクロゥは大きな紙袋を片手に下げながら、軽く肩を竦める。背負った身の丈ほどもある呪装杖が、年齢のわりに大柄な体をさらに威圧的に見せていた。
「導師レンシルへの差し入れ?」
「そ。姉貴も自分の飯くらい自分でなんとかすりゃいいのによー。一ヶ月くらい放っといたら多分餓死するぜ、ありゃ」
 フィーエンが笑う。
「あと四日の辛抱だね」
 レンシル・アーウィンクロゥ。現在最年少の導師級魔術士として、魔術産業に携わる者たちの間では著名な女性だ。数年前から修行のために引き蘢り、一部の身内しか会うことはできない。それはつまり、四日後の魔法大会へ向けての極端な意気込みの現れだった。
 楽しみでしょうがない。フィーエンも、エイレオも、闘技場で行われる激しい魔法の応酬に魅せられた少年の一人だった。自然と、表情も弾みがちになる。
「あぁ……だが、どうかな。万一また負けでもしたら、今度は修行の旅に出る! とか言い出しそうで俺は怖いね」
 エイレオは肩をすくめ、学友の色素の薄い面を見下ろす。彼の紙袋の中の食材は、いつになく量が多い。表情を改める。
「それより、今日はその、ウィバロ爺さん帰ってきてるのか」
「あ、うん……週に一回は家に居るよう約束したから」
 少しだけ眼を伏せるフィーエン。
「そうか。イシェラ婆さんが死んじまってから大変だな。一人で爺さんの面倒見てんだろ?」
「うん、まぁ、それはそっちも、ね」
 エイレオは思わず苦笑する。
「妙な身内を持つと苦労するねぇ……あー、今日姉貴ンとこに寄るから、ここまでな」
「あ、うん、じゃあね」
「おう」
 フィーエンは、石畳の四ツ辻から歩み去っていく友人に軽く手を振った後、自らの帰路を進み始めた。
 しばらく歩くと、やはり上から塔を生やした自宅に辿り着く。
 玄関前に何かくすんだ色の塊が見えた。フィーエンは首をかしげ、塊に歩み寄る。徐々に鮮明になる輪郭。正体に気づき、眼を見張る。
「お、お爺ちゃん! どうしたの? 入らないの?」
 うずくまっていたものがゆっくりと顔を上げ、こちらを力なく見上げた。首に掛かっている半円形の首飾りが、微かに揺れる。半円形は白い呪媒石で出来ており、魔法円と呪言が細かく刻み込まれていた。羽織っている長外套は煤けており、老人の顔が襟元に埋まるように覗いている。
 ウィバロ・ダヴォーゲン。フィーエンの祖父だった。
 彼は茫洋とした眼をしばたかせ、もごもごと口を動かし、
「鍵が…な」
 不明瞭な言葉を紡いだ。
 フィーエンは微かに唇を尖らせる。
「鍵はそこの花壇の裏って、前も言わなかったかなぁ」
「…む、ぅ…」
 答える祖父の姿は、実際より小さく見えた。いつものことだけれども。
 フィーエンは花壇の裏から家の鍵を引っ張り出すと、ウィバロの節くれだった手を取った。
「さ、立って」
「…うむ…」
 老人は、よろよろと立ち上がる。肩は垂れ下がり、背筋は折れ曲がっている。躍動感とは無縁の背格好だった。
「お…」
「わっ」
 不意に体制を崩し、転びかける。
 フィーエンは慌てて背中を支え、そして細い眉をしかめた。きつい酒精の匂い。
「また昼間からお酒? もうやめなよ……」
 祖父はうつむいたまま、「あぁ…」と応え、今度はウィバロが眉を僅かにひそめた。
「魔力の…残滓がついている…」
 心臓が跳ね上がった。祖父の偏執的な魔術嫌いは今に始まったことではない。
「あ、うん、今日は魔術専攻の人達と合同授業だったから」
 何喰わぬ顔で応えた。
 ウィバロは一瞬、眼を細めて見つめてきたが、すぐに顔を下に戻した。
「そうか…あまり魔術士のような連中に近寄らぬようにな…」
 フィーエンは眼を伏せる。
「……早く入ろ。夕御飯買ってきたよ」

 3
 神話の時代に築かれた闘技場。その周りに人が住み始め、徐々に規模が大きくなり、いつの間にか生産基盤が整っていったことが、この都市の起源と言われている。伝説に名を残す魔導師たちが雌雄を決したとされるその闘技場には、物理的・魔術的な最上級の絶縁障壁を張り巡らす呪化極針が六つ、舞台を囲むように設置されている。
 魔法大会優勝者には、賞金や賞杯の他に、三年の間この闘技場を訓練場として貸し切る権利があたえられる。太古の伝承に基づく慣例のような物だが、どれほど高出力の魔術を繰り出しても被害が広がらない上に、一般には立ち入り禁止となっているので、鍛練の場としては確かに適格だった。
 すでに日は落ち、闘技場に澄んだ闇がわだかまっている。六角形の観客席に囲まれる収束点には、人影が一つ。
 その人物はかしこまるように片膝を立てて座していた。両手は腰の横に引き付けられており、伸ばした四指をもう一方の手が掴んでいた。眼を閉じて心持ちうつむく顔は、年若い女のそれ。
 鋭く細く、眼を開ける。透徹した眼差し。表情が剣呑な色を帯びる。
 薄い唇が動き、言葉を紡ぎ出す。言葉とは言霊であり、魔導構文。語と語を一定の法則でつなぎ、周囲の空間に存在する未分化の力に意味と定義をあたえる。
 右手の四指をきつく掴んでいた左手が緩められる。すっ、と鋭く伸ばされた右手が引き抜かれた。左右の手の間で、紅く輝く帯のようなものが伸びている。
 抜剣の動作そのものだった。
 左手の親指と人指し指でできた輪は“鯉口”、右手の四指は“柄”として意味付けられている。すると“剣を抜く動作”の形相が発生し、概念的に刃を形作る。
 魔導構文を核とした高濃度の攻撃意志――それを刃形の結界で包み込んだ、剣の偶像だ。色は夕焼けよりも血よりもなお紅い。深紅。
 剣魔術。
 “剣”という形状に想起される攻撃的主観を、そのまま破壊力に変換する魔術戦闘技能の一つ。
 今や魔力の剣は完全に引き抜かれており、発光する刀身は彼女の全身を薄く照らしていた。流れるような痩身。魔術士らしからぬ、動きを重視した軽装。
 彼女は鋭く呼気を吐くと、素早く立ち上がりながら大きく踏み込んだ。
 同時に横薙ぎの一閃。大気の流れを変えるほどの剛剣。深紅の軌跡が闇を斬り裂き、空を断ち割り、魔力の流動をも攪拌し、そして空間に留まる。
 だが――
 小さく溜息をついた。軌跡が太い。魔力の収束がうまくいっていない。剣魔術は広範囲への干渉よりも、狭い領域に力を集中させることを旨とする。こんなことではまるで話にならない、と思った。
 “剣”を仕舞うと、再び体を暗黒が包み込んだ。
 星空を見上げる。
 一度。
 たった一度だけ、この場所で完全に納得のいく技を繰り出せたことがあった。
 そのときの感触を取り戻そうと、三年間あがいてきた。
 前魔法大会準決勝戦。
 “魔王”と称された、公認される中では最強と謳われる魔導師との激戦。自分は生涯最強の相手に生涯最強の術を叩き付け、しかし力及ばず敗北した。それ自体に不満はない。
 しかし、脳裏を疑問が撫でてゆくことがある。
 三年前、この場所で。
 自分に膝を折らせたあの男は、喜びを露にしなかった。無論、彼にとっては数え切れないほど経験してきた勝利の一つに過ぎなかったのだろうが――
 それでも、首を傾げずにはいられない。
 ――どうして、勝利を捨てたの?
 不可解の極み。
 ――あの表情は何だったのか?
 一度だけ。始めて自分に見せた、感情の揺らぎ。
 ――あれは、
「姉貴〜、飯だぞ〜!」
 やる気なさげな呼び声に、我に帰る。
 振り向くと、観客席の中程にある出入り口に、人影が見えた。ゆったりとした制服に、長大な呪装杖、手に持った大きな紙袋が朧げに確認できる。
 エイレオだった。十歳近く年下のくせに、身長が自分と並びつつある生意気な弟だ。
 規定された命令呪言を発して舞台を覆う絶縁障壁を解除する。手を振って声に応え、小走りで駆け寄った。
 何だかんだ言って、腹は減っている。

 4
 大気が澄み、鳥がさえずる。
 ひんやりとした早朝。暁光が斜めから差し込む自宅の庭先で、フィーエンは顔を精一杯引き締めながら模擬剣を構えていた。
 柄を握る手からじんわりと染み出した熱が、剣先に移動する。漠然と感じられる魔力の流動。剣魔術に限らず、魔法全般は魔力の流れを想起することが大切だ。
 戦闘職能養成学校は休みの日だが、早朝の鍛練を欠かしたことはない。そうでなくとも、魔術の訓練は祖父ウィバロの起きていない時刻にする必要があった。
「ハッ!」
 気合いとともに、模擬剣を斜め下へ突き出す。切っ先に移動した熱が弾け、刀身から細長い衝撃波が撃ち出された。地面に激突し、土塊が飛ぶ。
 今度はそばに落ちていた木の葉を拾い、腕を伸ばして持つ手を上から離した。
 微風に弄ばれ、木の葉は鋭い波線を描きながらゆっくり落下する。
「せぃっ!」
 得物を振り降ろす。太刀筋に平行して薄緑の光刃が幾重にも奔り、木の葉をかき消すように散り散りにした。成功。フィーエンは表情を輝かせる。
 構えを解いた。
「ふぅ」
 肩の力を抜き、額を拭う。心地よい疲労感。ただ魔法を使うのとは段違いの消耗だ。それでも剣魔術としては初歩の技。世の中には、剣を持たずに己の魔力のみで刀身を造り出すなどという、とんでもない高等技術をもった剣魔術士も存在する。
 自分はまだまだだ。もっとも、いつかは極めてやるつもりだけれど。
 その時。
 小枝を踏みつぶす音が、背後で。
「フィーエン。何をしておる」
 背筋が強張った。口調がやや険しいのは、昨日の夕方の酒精が抜けたためだけではないようだ。
 少年は思わず掌を眼に当てた。バレてしまったのだ……。
「お、おはよう、お爺ちゃん」
 振り返ると、灰色の衣の老人――ウィバロが、いつになく鋭い眼で佇んでいた。
「何をしているのかと聞いておる…」
 その瞳に宿る魔術への憎念の炎に、フィーエンの目尻が哀しげに下がる。。
「だって、これは……」
「魔術など止めなさいと言った筈であろう」
 声が低い。感情を押さえているのだ。まずい徴候。
「で、でも」
「お前は剣術専攻なのであろう。そんな事をしていてはどっちつかずになってしまう」
「そんなことないよ! 学校ではちゃんとやってるって」
 ついムキになる。
「とにかく、魔術は許さん」
 ウィバロの眼の鋭さが増す。反論を許さぬ威圧感。しかし、答えにはなっていない。
 フィーエンは、長い間胸の裡に溜め込んでいた疑問を吐き出したくなる衝動に、耐えられなかった。
「どうして? どうしてそんなに魔術が嫌いなの?」
「お前はなぜそう魔術をやりたがる!!」
 一喝。
 思わず身が竦まる。駄目だと思うけれど、視界が滲んでしまう。俯く。
 対峙は十数秒続いた。
 フィーエンは喉から何かがせり出てきそうな感覚を堪え、口を開いた。地面を見下ろしながら。
「……カッコ良かったから……」
 それを言った瞬間、下を向いた視界の上限から、凄まじい怒気の波が襲い掛かってくるような気がした。言ってはいけないとは思ったが、止まらなかった。
「三年前の魔法大会、お爺ちゃんも、導師レンシルも、とてもカッコ良かったから……っ」
 言い終わる前に平手打ちが飛んできた。
 衝撃で祖父の顔が視界に入ってきた。空間が歪みそうな熱量の怒気が漲る顔だった。
 そして眼を伏せ、再び抜け殻のような老人の顔になった。
「…すまん…」
 フィーエンは、いたたまれなくなった。
 家を飛び出した。

 5
 あのまま、レンシル・アーウィンクロゥは一晩中“剣”を振り続けた。結果は芳しくない。この状態のまま本番を迎えそうだ。
「じたばたしても仕方がない、かな?」
 自嘲気味につぶやく。前魔法大会での優勝以来、彼女は闘技場に住み着き、ほとんど外に出ることもなかった。話し相手と言えば、たまに食料を買い溜めしてきてくれる弟と、たまに役所から掃除にやってくる管理人くらいのもの。自然と、独り言も多くなる。
 久しぶりに街に出てみた。気分転換も良いかも知れない。なかば投げやりな気分でそう考える。
 あちこちで、露店商の呼び声が朝の涼しげな空気に響き渡っていた。野菜や干魚、乳製品などがところせましと陳列される中、呪術用の発光塩や瓶入り鉱生物が時々輝きを放つ。朝市の時間には少々遅いので、黒山の盛況ぶり、というほどでもないが、三年間沈黙の中で過ごしてきた者には中々に新鮮だ。
 空を見上げる。闘技場で見るのよりずっと狭い、しかし変わらず美しい空。
 ふと、肩にに軽い衝撃を感じた。
 視界を地上に戻すと、
「あ、ごめんなさい」
 灰色の頭が見えた。すぐにこの少年と自分がぶつかったのだと悟った。
 震え、消え入りそうな声で詫びてくる。ウチの弟にもこれくらいの可愛気があればなぁ、などと思い、意識せず声が優しくなる。
「ううん、こっちこそよそ見してたみたい」
 少年の顔を見る。灰色の髪に真っ白な肌、少女じみた風貌。大きな瞳だけが赤く腫れていた。泣きながら歩いていたのだろう。
 痛ましく感じないでもなかったが、別に自分が立ち入ることでもないので、そのまますれ違った。
 数歩歩いた時だった。
「あーっ!」
 後方で甲高い声がした。そして軽快な足音が近付いてくる。
 なにごとかと振り向く直前、後ろから視界の中に回り込んでくるものがあった。さっきの少年だ。彼は両手で眼に溜まった涙を拭うと、こちらの顔をまじまじと見つめてきた。
「あ、あのっ!」
 大きな眼をいっぱいに見開いて、微かに頬を紅潮させながら。
「な、何?」
「ひょっとして、導師レンシル・アーウィンクロゥ様ですか!?」
 名前を呼ばれるのは久しぶりのことだ。導師とか付けるのはちょっと勘弁してほしいが。
「まぁそうだけど……」
 無意識のうちに後首に手をやった。三年の間に自分は有名人になってしまったのだろうか。
「あの、僕、前回の大会の試合、見てました」
 レンシルは軽く眼を見開いた。
 少年は緊張のためか、少々つっかえながら続ける。
「それで、あの……すごく、カッコ良かったですっ」
「え、本当?」
 少しだけ口元を緩めた。素直に嬉しかった。
 少年もさっきまで泣いていたのが嘘のように笑い返してくれた。
「え、えっと、今年の大会も頑張って下さい!」
 しばらく、立ち話が続いた。ころころと表情の変わる、話していて気持ちのいい少年だった。彼はフィーエン・ダヴォーゲンと名乗った。
「フィーエン、か」
 レンシルはふと胸に引っ掛かるものを感じた。
「……ダヴォーゲン?」
「えぇ――――あ」
 フィーエンも、その姓の持つ意味に気付いたようだった。
「“魔王”ウィバロ・ダヴォーゲン」
 思わず、その名が口を突いて出た。
 かつて自分と闘い、地を舐めさせられた相手。間違いなく宿敵と呼ぶに値する男の名。そして、己の心に恐怖と共に刻み付けられた魔導師の名。
「君って、もしかして」
 問いかける。問いかけながら相手を見遣る。フィーエンはうつむいており、灰色の前髪が眼を覆い隠していた。うめくように声を出した。
「……はい、祖父の名前はウィバロ。かつて“魔王”と呼ばれていた人です」
 全身に震えが奔る。強敵への畏怖、超人的な精度で繰り出される技への驚愕、己の全てを出し尽くして闘える熱い歓喜。三年前に体感したそれらの感情が、蘇ってくるような気がした――
「奇遇だね。お爺さんに再戦を楽しみにしていると伝えておいてよ」
 ――それゆえ、すぐには気付かなかった。
 少年の唇が、小さく震えていることに。
 押し殺した嗚咽が漏れ出てきた。フィーエンは口元に手をやっている。それでやっと、泣き出したらしいことがわかる。
 正直、かなり慌てた。
 自分は何かまずいことを言ってしまったのだろうか。それともいつの間にか怖がらせてしまったのか。三年間の空白は、彼女から年少者への接し方を忘れさせていた。ちなみにエイレオは“年少者”に含まれていない。
 どうしたものかと思案しようとするが、焦りが邪魔をする。周囲からチラチラと投げられる非難めいた視線が痛い。多分、こちらが悪いのは事実なので、睨み返すこともできない。
「ごめ……さい……急に……」
 俯いたまま、フィーエンは両の拳で眼をごしごしと擦った。
「あ、うん、いや」
 言葉を続けようかと一瞬躊躇ったが。
「理由を、聞いてもいいかな」
 沈黙の後、少年は微かにうなずいた。
「祖父が、あなたと再び闘うことは、きっとないと思います」
 その様子から、レンシルは不吉な推測をした。
「まさか」
 亡くなってしまったのだろうか? しかし老衰にしてはいくらなんでも早すぎる。
 フィーエンは慌てて言う。
「お爺ちゃんは元気です。でも、“魔王”と呼ばれた無敗の魔導師は、きっと、もう」
 言葉は徐々に嗚咽が混じり、小さくなっていった。
 レンシルは、手を伸ばした。触れてどうなると思わなくもなかったが、放ってもおけなかった。
 指が少年の顔に触れ、そのまま柔らかい前髪を掻き上げた。少し身を屈め、目線をあわせる。驚いたのか、その泣き腫らした眼は見開かれていた。
「何があったのか知らないけど、そう非観的になることもないんじゃないかな。生きているのなら、必ず相見えると私は思ってる」
 ウィバロ・ダヴォーゲンとは、ただの一度、それも数分間立ち会ったばかり。それでも、確信に近い思いがある。あれは、魔術に対して真剣に向き合ってきた者の眼だ。妙な言い方だが、信頼している。
 少年の濡れた頬を拭う。
「さ、そんなに泣いちゃお爺さんが可哀想」
 なるたけ口調を穏やかに言った。

 6
 外套が汚れるのにも構わず、地べたに腰を降ろし、空を見上げ。
 何もせず、何も思わず、ただ酒瓶を傾けながら。
 路地は、異様な静けさに包まれていた。人気がまったくないのだ。極端な時刻というわけではなく、何らかの天災があったわけでもない。他人の意思決定に干渉し、無意識のうちにここから立ち去らせる――そういう類の呪的力場を、ここら一帯に張り付けているのだ。
 ――フィーエンは、今どこにいるのだろうか。
 ひどいことをした。そういう自覚はある。そんな程度の自覚、とも言えるが。
 良い子だ。両親が逝った時も、祖母が逝った時も、じっとこらえ、立ち上がり、立ち直り、こちらの手を引っ張ってくれた。引っ張ってやるのは、本当は自分がすべきことだったというのに。怒鳴って良い相手ではない。手を上げて良い相手ではない。
 ただ、押さえ切れなかった。
 懐に手を入れ、半円形の首飾りを取り出す。白い呪媒石の表面に彫り込まれた細かな魔法円を、親指が撫でる。
 ……押さえ切れなかった?
 自嘲気味に小さく笑い、息を吐く。そんな大層な事情があるのか。あの子に何の咎があるというのか。
 過去に自分がしでかした、どうしようもなく愚かで、取り返しの付かない過ち。
 その八つ当たりをしているだけのこと。救い難い。
 首を振り、上を見上げる。
 蒼穹が眼に入った。燦々と輝き、露骨に自分を見下していた。
 不意に、手元が温度を帯び始めているのに気付く。それは熱というよりも、暖かみ。染み入るように、手から身体へと。
 視線を下に戻す。手に持った半円形の首飾りから、霧雨のように曖昧で柔らかい光が滲み出ていた。どこか、覚えのある感触。記憶の琴線。
 不可解には思わなかった。ただ、手が震えた。
 わけのわからぬ衝動が突き上がってくる。
「ぐぅ……」
 呪媒石を握りしめ、胸に抱き、いっそう丸くうずくまる。
 その時。
 突如、鼓動のような衝撃が全身を走り回った。なにごとかと辺りを見回すが、周囲の景色に異常なところはない。異変は己の身体で起きている。
 再び、暴風のような痙攣が体躯を貫き、思わず酒瓶を取り落とした。硝子の割れる音が小さい。気がついたら視界に霞みが掛かり、頬を撫でる微風の感触もない。五感が鈍くなってゆく。体が溶けてゆく。世界が溶けてゆく。
 いや――
 自分が、世界から遠ざかっている……?
 白に染まりつつある視界の中で、半円形の呪媒石だけが、確かな存在感をもって網膜に投影されていた。網膜など本当に存在しているのかどうかすら、もはや曖昧なのだが。
 視界が完全に白くなった。白い世界の中にいるという風でもなく、何も映されていない映写幕を三次元に拡張したような、自分の肉体も、空間すらも存在しない、絶対の虚無の中であった。目の前に呪媒石が浮かんでいる。それだけが違和感として“存在している”。
 押し寄せてくるものがある。圧倒的なまでに巨大な、衝撃。奔流。
 肉体は消失しても、その事実を認識する主体たる個は残っていた。だが、この凄まじい何かの流動は、その個さえも押し潰してしまいかねないほどの膨大な圧力となっていた。
 彼は――まだ彼と呼べる程度は残存しているその者は――それの全体を見ることをあきらめた。それはあまりにも巨大過ぎて、すべてを把握することができないのだ。顕微鏡の倍率を変えるように細部へ細部へと意識を移してゆき、ようやく彼の主観にも理解できそうな規模となった。それは情報だった。断片的で、ちっぽけで、単体では何ら意味をつかみ取れない欠片。彼は極ゆっくりと認識の及ぶ範囲を広げていく。いきなり全体を見ようとするから理解できなくなるのだ。段階を経て徐々に視野を拡大してゆけばいい。最初の欠片を中心に、多種多彩な情報達が見え始める。それらは有機的に繋がり、干渉し合い、全体として総和以上の意味を持っていた。
 遅まきながら、その意味を彼は悟った。
 震撼する。
 彼が普段、五感を通して認識していた世界。それら全てを魔導構文の語法に記述し直した、かつてないほど大規模な論理模型であった。この世の偶像、その一部分であった。
 情報の奔流は止まらない。各々の断片が人智を超えた精度で噛み合い、組み合わさり、世界を構築してゆく。流れは、この異変の終始において在って在り続けた唯一の存在たる半円形の呪媒石より溶け出しているものであった。花弁が開くように、氷が溶けるように、折り畳まれた紙を広げるように、掌大のちっぽけな石から世界が展開されてゆく。解凍されてゆく。
 やがて、一つの情景が、完成しつつあった。
 彼は、それを見た。感じた。識った。
 絶叫が上がった。

 7
 どうにかこうにかフィーエンを落ち着かせることに成功すると、魔法大会を見に来ることを約束させ、レンシルは少年と別れた。
 太陽が真上から照っている。ちょっと、暑くなってきた。
 特に目的もなく、街を散歩する。

 ――お爺ちゃんは元気です。でも、“魔王”と呼ばれた無敗の魔導師は、きっと、もう。

 刺さらずに終わった小さな棘が、意外に大きな影を落とす。
 なんだろう。ウィバロ・ダヴォーゲンのことは信頼しているはずなのに。
 思い起こす。
 彼に打ち負かされた時のことを。“魔王”は膝を折り、こちらを睨んでいた。溶岩のような嚇怒を自制心という名の岩盤の中に押し込んだ貌。
 彼は……私を怨んでいる……?
 無論、身に覚えはない。まったくない。本気でない。第一、三年前の試合以外には、ウィバロと会ったことすらないのだ。恨みの買いようがない。
 溜息。
 考えても仕方のないことは考えないに限るとはよく言われるが、それでもつい考えてしまうあたりに人間の本質があるのではないだろうか。
「導師アーウィンクロゥ」
「……え?」
 重くかすれた声が、レンシルの意識を表層に引き上げた。
 うつむいていた顔を上げる。前を見る。いつのまにか、薄暗く煤けた裏路地に入り込んでいたようだ。違和感。今し方の声を否定するかのような、耳に響く静寂。先ほどまでレンシルを包み込んでいた喧噪は霧散していた。生き物の気配がまるで感じられない。唯一の例外を覗いて。
 目の前には、一人の男。
 鋭い眼光が、鷲鼻の上に乗っていた。あまりにも猛々しい魔力の流動が、彼の体内で竜のようにうねっている――それが、わかった。
 煤けた土色の外套の中にあってなお、滲み出る強者の凄みを失わぬ。世界が彼を中心に凝固している。“魔王”の存在感。
「あなたは!」
 なぜ今まで気付かなかったのだろう。自分はそこまで思考にのめり込んでいたのか。
「久しいな。相討つ刻以外には会っておらなんだ」
 その男――ウィバロ・ダヴォーゲンは、薄暗い街路の一角に座り込み、うずくまる巨獣のような眼差しをこちらに向けていた。
「え、えぇ……」
 自分を怨んでいるかもしれない相手のことを考えている時にその本人に出くわしたのだから、寝耳に水だ。つい声も硬くなる。
「……偶然ですね。さっきお孫さんに会ったところですよ」
 男の眼が一瞬だけ見開かれたような気がするが、眼の中の巨獣は再び体を横たえた。
「偶然ではない。少々強引に招かせてもらった」
 意味の判らないその言葉に疑問を挟む前に、ウィバロは喋り出した。
「孫から……何か聞いたようだな」
「えぇ。あなたが魔導師としての自分を既に捨ててしまっている、と」
 レンシルの声は硬いままであった。さきほどから嫌な感覚が背筋を舐め回している。それは戦慄であり、危機感。鼓動が警鐘のように早くなる。
「そうだ。魔王は業深き自らの技を封印し、ただの痴れ人へと戻る」
 ウィバロは濁った笑みを浮かべた。飢えに耐えかねて自らの仔を喰らった野獣なら、こんな笑みを浮かべるようになるのかも知れない。
「今、この時を最後にな」
 擦過音の伴う瘴気を吐き出し、屍を焼く焔のようにユラリと立ち上がった。周囲の空間に内在する力が、彼を中心に収斂し、禍々しい気迫に変容する。それは、殺意。業物のように研ぎ澄まされ、泥のように澱みきった、怨霊をも取り殺さんばかりの殺意。
「“剣”を抜けアーウィンクロゥ! あの時と同じに!」
 ウィバロは腕を振り上げ、レンシルへ向けた掌から輝く呪印を展開。印を構成する呪紋索が蔦のように伸び、立体的に絡まり合いながら魔導構造を形成する。それは砲。腔内に『加速』と『牽引』の呪紋を螺旋形に配し、呪力を形相魔導学的に収束し加速させるための腔綫とした魔導旋条砲。
「ッ!?」
 その事実を頭で理解する前に、レンシルは横に身を投げ出していた。直前まで頭部があった位置を掘削機のように回転する弾体が奔り抜ける。突風が吹き荒れ、その身に秘める桁外れな威力を誇示していった。魔導旋条砲によって意味を彫り込まれ、物理的な影響力を与えられた攻撃意志の結固体――呪弾式だ。
 なぜ――!
 そんな疑問は、連続して撃ち放たれる破壊の驟雨にかき消された。
 迷っている暇は、ない。
 レンシルは咄嗟に倒れ込むように呪弾式の群れをやり過ごすと、起き上がりざまに石畳を蹴り付けた。極端な前傾姿勢で全身の筋力を統合し、加速し加速し加速する。大気の壁を突き破る。
 呪弾式の第二波が迎撃の牙を剥いた。やけにばらけた弾道だ。
 レンシルは無作為な軌道で右へ左へやり過ごすが、広いとは言えない路地の中で徐々に左方向へと追い詰められてゆく。方向転換のために動きが止まった一瞬を狙って撃ち込まれた攻撃を強引な制動でやり過ごすと、ようやくレンシルは魔王が一発も無駄弾を撃っていないことに気付いた。
 直接こちらを狙うだけでない。一見的外れな方向に撃ち込んだ呪弾式によって回避方向を限定させているのだ。このまま避け続けるのは逆に危険だろう。
 角度を付けて敷石を踏み込み、街路の中央に復帰する。
 咆哮。
 軸足を中心に全身に捻りを加える。鞘に納まる剣の形に組んだ両手を、ウィバロから隠す姿勢で、レンシルは一個の弾丸となった。迫り来る弾幕の直中へ、銃弾の勢いで突撃する。
 全身の発条が弾けた。一瞬にして鞘の拘束から解き放たれた魔導構造剣が刃鳴りを轟かせる。
 疾り抜ける赫い閃光。
 猛然と突き進む呪弾式が、数個まとめて叩き潰された。行使者の手から直接呪力を注ぎ込まれる魔導構造剣は、存在論理の強固さにおいて呪弾式の比ではない。剣魔術士は魔王の仕組んだ心理的な縛鎖を断ち斬ると同時に、敵対者への突破口を開いた。
 猛進する。
 ――鳩尾に柄頭の一撃を加えて取り押さえるっ!
 そして、すべてを尋ねなければ。なにもかも、すべてを。それから――
 ふと、気付く。
 
 いつのまにか、周囲の空間には無数の発光体が浮遊していた。光は、回転軸をゆるやかに変じながら回り続ける魔導構造の円環の中に捉えられていた。レンシルは前後左右全方位をそれらに取り囲まれていた。

 剣魔術士は、ようやく思い当たる。自分は無数の呪弾式をかわしていたにも関わらず、背後で当然発生するはずの破壊音が一切なかったのは何故なのか。
 その答えが、これ。あらかじめ用意していたのか、戦闘中に紡ぎ出したのかはレンシルの知る所ではないが、撃ち放たれた呪弾式は全てこの回転円環に捕らえられ、今現在自分を完全に包囲している。
 魔王はあからさまな失望の表情をしていた。その程度なのか、と顔が語っていた。
 瞬間。
 全ての円環が一斉にレンシルの方を向いた。閉じ込めていた攻撃意志の塊を解き放った。
 剣で捌き切れる量では、なかった。

 8
 妙な所に迷い込んじまったな。
 エイレオ・アーウィンクロゥは頭を掻いた。
 つい数分前まで表通りを歩いていたハズなのだが。ふと気が付けばこんなさびれた裏街道をひとりぽつんと進んでいる。一緒に露店や屋台をひやかしていたはずの悪友たちともはぐれてしまった。
 特に意識して離れたわけでもないのに、一体何でこんなことに。
 それにしても、人がいない。
 このごろは街の人口密度が数倍に高まっているはずなのだが、自分以外の人間を一人たりとも見かけない。遠くから喧噪が耳に入ってくるようなこともない。
 違和感を覚える。
 まるで、つい今し方に人間だけがふっと消えてしまったかのような、
「“剣”を抜けアーウィンクロゥ! あの時と同じに!」
 突然の怒号。咄嗟に身構える。
 いきなり何だよ。というか誰だよ。どうでもいいが俺は剣なんか持ってないぞ。
 きょろきょろと頭を振り、ようやく怒号の発生源をつきとめる。別れ道の先で、二つの人影が対峙し合っていた。
「あ。姉貴」
 一人は、レンシル・アーウィンクロゥ。一見しただけで緊張しているとわかるほど、その面は強張っていた。
 もう一方の人物は、掌をレンシルへと向け、心胆の寒くなるような眼光を浴びせていた。
 ――ウィバロの爺さん!
 エイレオは、かの魔王とも面識がある。フィーエンの家に遊びにいった時によく相手してもらったものだ。みてくれはやたらと迫力があるが、結構いい人だった。魔術学科の課題を手伝ってもらったこともある。
 三年ほど前だったか。どういうわけか態度がいきなり硬化した。もうフィーエンとの友誼は絶ってほしい、とまで言われた。理由も、答えてくれない。
 フィーエンとはその後も友達であり続けている。もちろん、ウィバロには内緒で。
 しかし、あれ以来フィーエンの家に行くことはなかった。
 エイレオ自身、その理不尽に腹を立てていたのだ。フィーエンの友達を選ぶのはフィーエンであって、アンタじゃない、と思っていた。
 そして現在。
 レンシルとウィバロが対峙している。
 なぜ、この二人が、今ここで。
 ひどく混乱する。
 ウィバロが掌から精緻な呪紋を紡ぎ上げ、砲口を組成する。暴力そのもののような呪弾式が放たれる。
 ――なんでっ!?
 風を巻き込みながら高速で飛来する破壊の塊を、レンシルは横に身を投げて避けた。
 エイレオは思わず感嘆する。オレだったら絶対に今の一撃を避けられなかった。まがいなりにも前魔法大会優勝者。その身のこなしは並の戦士を凌駕している。そもそもウィバロの一撃にしても、常識はずれの破壊力を孕んでいることは一目でわかる。
 これが、導師級魔術士の実力か……
 ――惚けている場合ではない。
 つまりは、今の攻撃に致命的な呪力が込められていたというまぎれもない証左。なんだかわからんが、爺さんは姉貴を殺す気だ。突然の出来事に混乱する頭脳で、なんとか姉を援護できないものかと必死に思考を巡らせる。
 その間に、ウィバロは呪弾式を連射している。魔力反応の砲火が周囲を明滅させる。俊敏に石畳を蹴りながら、レンシルはそれを躱し続ける。
 エイレオは、気づいた。レンシルがやりすごし、その背後へと飛んでいった呪弾式が、中空で唐突に停止したことに。あまりにも違和感を想起させる光景だった。停止した呪弾式の周囲では、複雑にして精妙な術式が環のような構造を展開させている。回転軸を変じながら回り続けるそれが、疾走する砲撃を宙に押しとどめているようだった。後続の弾体によく目をこらす。魔導砲弾の弾核部に、呪弾式とは独立して機能する魔導構文が添加されている。弾体が一定の距離を疾った時点で表裏がくるりと裏返り、その術式は発動した。『断絶』の意を冠する呪紋が刻印された円環の回転によって、球状にくりぬかれた位相空間における位置座標軸と力学的な系を混乱させ、呪弾式に進むべき方向を見失わせたのだ。
 戦況は動く。強烈極まる抜き打ちによって呪弾式数個を粉砕したレンシルは、そのまま弩矢のように突進。魔王に肉薄する。
 後方では、強大なる破壊力を封じ込めた回転儀が、ゆらりと移動を開始していた。剣魔術士を追っている。
 追われる当人は、気づいていない。
 少年は直感する。
 やばい。
 焦燥に浸食されつつある頭で必死に対応策をひねり出す。眼前の無数の円環すべてがレンシルを狙うとなると、自分が展開できる限りの呪力を込めた障壁術法をもってしても、到底防ぎきることはできない。
 ならば――!
 それは賭けであった。確実に功を奏するとは言いがたい手段であった。だが、姉を救う手段は他にない。
 低く魔導構文を唱える。魔術的な知覚の眼を開く。空間に内在する、無秩序でまとまらぬ力を、とある自然現象に見立てて意味付ける。同時に石畳で舗装された地面に両掌を打ち付けた。掌から地下へと“根”を張り巡らせるかのように、精錬させた力を行き渡らせる。この都市の地盤は、砂の粒子同士が噛み合いながら骨格のようなものを形成して地表を支えている砂地盤だ。広範囲に張り巡らせた“根”の、ちょうどレンシルの真下に位置する一点に、ありったけの力を集中させる。
 そして一気に起爆。
 魔力の流動を、現象としての高周波振動に変える。砂粒子の骨格を粉微塵に粉砕する。崩壊のしらべ。局地的な液状化現象。
「きゃぁっ!?」
 間一髪だった。
 レンシルの周囲を包囲した無数の円環が呪弾式を解き放つのと、石の舗装が崩れて彼女の体が泥の中へ沈み込むのは、ほとんど同時だった。

 9
 これは死んじゃったな、と他人事のように確信していた、はずなのだが。
 標的を失った大量の呪弾式が、空間のある一点で同時に激突し、魔力の飛沫を爆発的に散華させる。その一点とは、もちろん自分が直前まで存在していた位置である。
 足下で前触れもなく出来上がっていた“石塊の泥水和え”に身を浸しながら、レンシルは花火のように幻想的なその光景を呆然と眺め上げていた。何が起こったのかさっぱりわからなかった。
「姉貴!」
 聞き覚えのある声が、意識を急激に覚醒させる。慌てて身を起こそうとして、泥に足を取られる。すり鉢状に抉れた地面の中で、砕けた敷石と泥水と自分がごっちゃになっているようだ。
「馬鹿な。なぜ無関係な人間がここにいる」
 窪地の縁に立つウィバロが、その深淵のような瞳に微かな驚きを顕し、こちらよりも上の位置に視線を向けていた。
 しかし、何かに思い当たったのか、顔を自嘲とも苦笑ともつかぬ形に歪める。
「そうか……君もまたアーウィンクロゥの字名を持つ者であったな」
「勝手に納得すんな! どういうことだよ、ウィバロの爺さん!」
 再び聞き覚えのある声が響く。レンシルは、魔王が見ている方向に眼をやる。反対側の縁には――案の定、エイレオが眉を鋭くつり上げて身構えていた。
「エイレオ、さっさと逃げなさい! あんたの敵う相手じゃない!」
 ウィバロが自分を殺そうとしている以上、弟には殺意を向けない、などという保証はどこにもない。
 しかし少年は動かない。
「……いや、殺られかけてた奴に言われても説得力ねぇし」
「なんですってぇ!?」
 言い返そうとした所で、不意に魔王の動く気配がした。
 姉弟は瞬時に敵へ警戒を向ける。
「ッ!」
 ウィバロは背を向けて歩み去ろうとしているところだった。
「おい止まれよ!」
 エイレオは、激しく揺らめく火球を宿した掌を向けながら、制止した。彼はレンシルやウィバロと違い、純粋な力の顕現としての魔術を行使できるほどの位階にはないので、何らかの自然現象を象った形でしか魔力を把握し展開させることができない。この場合、火炎になぞらえた魔術を用いている。
 意外にも、ウィバロはすんなりと歩みを止めた。
「導師アーウィンクロゥ…いや、導師レンシル」
 背を向けたまま、男は訥々と語りかけてくる。怖気の走るような闘気は、跡形もなく消えていた。唐突の豹変。
「え……」
 不可解な変貌に戸惑う。
「儂は…うつけ者だ。一時の血の迷いに駆られて…貴女にも家族がいることを忘れていた…」
 殺意が去った跡には、抜け殻のような老人がいただけだった。その瞳にあったのは、憧憬のような共感。苦痛のような倦怠。
「突然の凶行…さぞ驚かれたことと思う。謝って終わるものでもないが…すまなかった…」
「は、はぁ……」
「この上恐縮だが…一つ…頼まれてはもらえないだろうか…」
 言いながらこちらに振り返り、よたよたと歩み寄ってくる。エイレオが緊張に身構えるのが気配で分かった。
 だが、レンシルは臨戦態勢を解いた。いまやウィバロは覇気の抜け切った老爺にしか見えず、危険があるようには思えなかった。
 ――これが、本当にあの“魔王”なの。
 心のどこかで愕然とする自分がいる。
 ウィバロは懐から何かを取り出し、窪んだ泥沼の縁に置いた。眼を凝らすと、白い半円形の呪媒石に、恐ろしく細かな術式を彫り込んだ代物だった。しかし、それがいかなる効果を持った魔導構文なのか、いくら眼を凝らしても把握できない。
「これを…孫に…フィーエンに…手渡して欲しい…」
 呪媒石――古賢竜類の化石化した脳皮質から切り出した物体。それ自体に極大容量かつ半永久的な情報保存能力と演算能力が備わっており、魔導構文ではなく竜の思考言語によって意味付けた魔力を流すことで、情報の入出力を行うことができる。
 しかし、なぜ?
 呪媒石のこうした性質を鑑みるに、ウィバロはフィーエンに何かの情報を伝えようとしているようだが。これほどの極大容量媒体でなければ伝えられない情報とは、何なのか?
「なんで直接渡さないんだ?」
 エイレオが、険のいくらか残る口調で訪ねた。
 老人は、しばらく黙っていた。やがて、重い口を開く。
「…フィーエンの事を…よろしく頼む…これからも…あれの味方でいてやってほしい…」
 ひどく、ひどく、嫌な予感を抱く。台詞自体は、ただ単に“孫と仲良くしてやってくれ”と言っているだけのようにも取れる。
 だが、直感する。
 それは、違う。
 なぜ、今そんなことを言うのか。何故、呪媒石を直接渡さないのか。
 その言葉は、とりかえしのつかない意味を含んだ――
「どういう意味ですか!」
「どういう意味だよ!」
 ――遺言。
 少なくともレンシルはそう感じた。エイレオも多分そう思ってる。ウィバロの、あまりにも投げ遣りで諦め切った様子は、そう思わせるに十分なものだった。
 老人は姉弟の詰問に答えず、踵を返して歩み去ろうとする。
「待って!」
「もう、若い者を押さえつけるのも枷になるのも飽きた」
 そこだけ、強い意志を滲ませる。
「待ってください!」
 構わず、レンシルは呼び止め続ける。
「こっちのことも考えてください! 冗談じゃないです! 勝ち逃げですか!? 追いつめるだけ追いつめてほっぽりだすんですか!?」
 弟が何やら呆れたような気配がしたが、この際無視。
 ウィバロが胡乱げな眼を向けてくるが、構わない。ここで彼を行かせることだけは、何としても阻止する。
「あれで勝ったなんて思われるのは心外です! あそこから逆転劇の始まりなんです!」
「姉貴、ガキかあんたは」
 弟の生意気極まりない戯言などもちろん無視だ。
 ウィバロが再びこちらに向き直る。
「それで…何が言いたい…」
「魔法大会に出てください!!」
 ひときわ大きなその声は、周囲の無人を埋めるかのようだった。
「出る理由が…見当たらない…」
「出てくれないんならその呪媒石をこの場で壊しますっ! 粉々に!」
「……最悪だな」
「黙ってなさい半人前!」
 言い合いは、微かに漂ってくるウィバロの溜め息で中断された。
「わかった。それで貴女の気が済むのならな」
 そして、今度こそ歩み去る。断固として。
 レンシルはその様を凝と見送った。引き止めはしない。この期に及んで約束を破るような人でもないだろう。ひとまずは、安心だ。少なくとも魔法大会が終わるまでは。
「ねぇ」
 曲がり角から姿を消すウィバロを睨みながら、傍らの弟に声をかける。
「なんだよ」
「勝つわ。絶対」
「……そうか」
「それとさ」
「あん?」
 エイレオの方にキッと顔を向ける。髪に付いた泥が跳ねとんだ。
 すぅ、と肺に空気を送り込む。一拍の間。
「あんたねぇ、もうちょっとマシな助け方はなかったわけ!? 泥だらけじゃないのよ!」
「っせぇなぁ。命の恩人様に文句たれんじゃねぇよ」
 言い返しながら、やる気なさげに首を鳴らす。なおも睨みつけると、心底かったるそうに窪地の縁から手を伸ばしてきた。
 ――ああもう、生意気!

 10
 祖父が帰ってこないまま夜を過ごすのは、珍しいことではない。これまでも、家にいない日の方が多いくらいだった。だからもちろん驚くべきことではないのだが――
 大地そのものの影が地表を完全に覆い尽くす時刻には、フィーエンは自宅に帰ってきていた。
 ウィバロとよく話し合う決心が、やっとついたのだ。あの時はウィバロだけでなくフィーエンも感情的だった。いきなりはたかれて動転しはしたが、自分がまったく悪くないなどとは思わなかった。何かよほどの事情があったのかもしれない。そうとも知らずに自分は古傷を引っ掻いてしまったのかもしれない。もっと落ち着いて話し合うべきだったのかもしれない。
 なけなしの決意を胸に家に戻ると、しかし、どこの部屋にも明かりなど点いておらず、祖父の姿もなかった。伝言も、何もなかった。
 落胆と同時に安堵も覚えた自分が、情けなかった。
 ――あの人は、僕の帰りなど、待ちはしないのだ。
 涙を拭いた。拭きはしたが、あまり意味はなかった。
 崩れ落ちるように椅子に身を投げ出し、途方に暮れた。
 ――いつから、一人でいる事が多くなったんだろう。
 いつからウィバロは酒浸りになったのか。いつから魔法を忌避するようになったのか。
 いつから。そしてなぜ。
「いっしょにいるのが、つらくなったのかな」
 物思いに耽る。
 思えば、ウィバロはいつもいつも、会話をしている時でさえ、こちらを見ることは稀だった気がする。彼はここではないどこかを見ていた。きっと、とても高く遠いところを。
 ――そこにはきっと、お父さんとお母さんと、それにお婆ちゃんがいて……
 フィーエンの父親は、ウィバロの血を受け継いだだけあって優秀な魔導師だったらしい。だが、フィーエンが生まれる少し前に事故で亡くなったという。
 フィーエンの母親は、魔術的な事物とは関わりのない普通の女性だったらしい。フィーエンの出産の際、難産が祟って夫の後を追ったという。
 少年は、両親の顔を知らない。ひとなりも知らない。それでも、寂しさを感じたことはなかった。無骨だがどこか青年のような精悍さを持っていた祖父と、理知的な仮面の下に柔和な純朴さを隠した祖母がいたから。
 ……あぁ、そうか。
 そうなんだ。
「お爺ちゃんが変になったのは……」
 フィーエンの祖母、イシェラ・ダヴォーゲンは、大陸中に名を知られた紋章魔導学者だった。あくまで魔導師ではなく学者であり、魔法大会に出る事も、市街に潜む魔物と相対する事もない。そもそも彼女は身体が非常に弱く、病に伏せることが多かった。荒事には根本的に向いていない。だが術式理論の構築・改善に関しては、イシェラの右に出る者はいなかった。十数年前に発表した論文『汎認識論/不可識な熱量への干渉と論理が削り出す知覚』は、この世に存在するあらゆる魔法――魔術呪術妖術幻術邪術など――のみならず、明らかに物理に反した一部錬金術や、一流の戦士がしばし経験する知覚加速現象など、ほとんどの超常的現象を単一の原理で説明づけてしまった稀代の問題書として、現在でも有名だ。魔術理論への造詣と習熟の深さはウィバロをも上回っている。
「……あなたが死んでしまってからなんだ」
 晩年、彼女はある道楽とも言えるような研究を進めていた。それは、魔術を即物的で直接的な“手段”としてしか見てこなかった多くの人々にとっては、あまりにも不可解な代物ではあったが――
 物音がした。
 次いで、玄関を強く叩く音。
「フィーエン! いねぇのか!? おーい!」
 じっくり聞くまでもなくエイレオの声だった。
「いたら返事しろ! いなくても返事しろ!」
 慌てて涙をぬぐって、軽く咳払い。
「いるよ〜!」
 急いで出入り口に向かった。扉を開ける。夜の涼しげな風と羽虫の鳴き声が、フィーエンの横を通り過ぎていった。
「よう。こんな時間に悪ぃな。昼間行ってもいないからよ」
 案の定、同級生のやたら背の高い影が、無闇に不敵な笑顔を浮かべていた。
「それはいいけど、どうしたの?」
「お前に渡す物がある」
「渡す物?」
 目の前に握り拳がぬっと突き出された。思わず少し仰け反る。
「手を出しな」
 おずおずと手のひらの差し出すと、普段から見慣れていた物体がそこに置かれた。
「これは――!」
 白い、半円。
「ウィバロ爺さんから頼まれた」
「でも、どうして!?」
 エイレオは、困っているような苦笑しているような、微妙な顔をした。
「まぁ、ちょっとな。そんなことより、」
 ふと、こちらを見下ろしていた視線を上に戻し、室内を見た。
「爺さんは、いないんだな」
「……うん」
「そうか」
 なぜか神妙に、うなずいた。
「なぁ」
「うん?」
「晩飯は食ったか」
「……まだだけど?」
 とても食べる気にはなれなかったから。
「なら、今日はウチで食ってかないか?」
「え?」
「いや、一人になりたいってんなら無理にとは言わねぇが……姉貴がよ、久しぶりに家に帰ったかと思えばお前をウチに呼べってうるさくてよー」
 と、エイレオは頭を掻きながら苦笑する。
 特に今のフィーエンの状況に気を利かせてのことでもないのだろうが、正直ありがたかった。誰かと話していれば、気も紛れるかもしれない。
「うん……ありがとう。ご馳走になります」

 その日は帰りがすっかり遅くなった。

 11
 都市のどんな建造物よりも圧倒的な質量を有する闘技場は、ぎらつく陽光を受けて鈍色の重厚感を周囲に発散していた。その元では、少しでも良い席を確保しようとする気の早い者達が押し掛けて来ている。花崗岩と鉄の巨大な集合体は、普段誰も寄り付かない分を埋め合わせるかのように喧噪を吸収していた。
 閉鎖戦術級魔導征圧者決定戦、当日。
 あれから三日が経つ。
 出場登録を済ませたウィバロは、重い足取りで選手控え室への回廊を歩んでいた。
 思考も沈む。
 なぜ、自分はこんなことをしているのだろう。
 こんな所にとどまっているはずではないというのに。
 “あれ”を見てしまった以上、もはや生き恥を晒すのは堪え難かった。事態があそこにまで至る直接の引き金を引いた者は、レンシル・アーウィンクロゥだ。むろん悪意はない。本当の責任はウィバロ自身にのみある。彼女に何の責もないことなど最初から承知している。
 だが。
 それで納得しきるには、あまりにも失ったものが大きすぎた。
 アーウィンクロゥは、何も知らぬ。知らぬまま、躊躇いも罪悪感もなく、自分の最も大切なモノを奪い取っていった。
 それが、歯がゆい。
 あまりに理不尽だった。腹の底で暴れ回るこの衝動を、どうにか押さえつけようとして、歯を食いしばり、しかし押さえ切れず――
 気がつけば、他人の意思決定に働きかけて無意識のうちに遠ざけさせる呪的力場を広範囲に展開し、その術式構造に多少の改竄を加えていた。『アーウィンクロゥ』の名を持つ者に対してだけは、自分の方へ引き寄せる形で意思干渉を行うようにしたのだ。“こと”が終われば自らの頭を撃ち抜き、すべてから逃れるつもりだった。
 結果としては、『レンシル』ではなく『アーウィンクロゥ』と設定してしまったために、無関係なはずのエイレオまで呼び寄せることとなり、予定は初期段階で頓挫した。だがそれで良かった。あの少年が乱入したおかけで、レンシルが自分と同じように大切なモノを抱えた一人の人間である事実に、ようやく気づけたのだから。おかげで踏みとどまることができた。
 こんな所にまで漂ってくる喧噪が、花崗岩の回廊に殷々と木霊している。
「む…」
 控え室の扉の横には見覚えのある影が佇んでいた。
 エイレオ・アーウィンクロゥ。こちらに気づくと、顔を引き締めて歩み寄って来た。
「姉貴からの伝言だ。『あなたが死ぬ気をなくす結果で終わらせます』だとよ」
 死ぬ気をなくす結果……?
 意味は掴みかねるが、深く詮索するつもりはなかった。
「…そうか」
 それだけを言うと、視線を感じながらも少年の前を横切って控え室の扉を開けた。
 ――どんな結果であれ、これで最期だ。
 己を決意で焼き固める。扉を閉めようとすると、エイレオが戸を手で押さえた。
「爺さん、大会が終わったらどうするつもりなんだよ」
「言わせるのか?」
 言葉に自嘲の笑いが混じる。
「フィーエンを置いて、かよ」
 笑いが立ち枯れてゆく。
「…君には関係のないことだ」
 後ろ手で強引に扉を閉める。エイレオが何かを怒鳴っていたが、もはや耳には入れなかった。

 千年の歴史を持つ、超越者達の由緒正しき乱痴気騒ぎが、今年も始まった。

 12
 ウィバロは順調に勝ち上がっていた。強大な魔力と技術をもって対戦相手につけいる暇も与えずに完勝し続けた。防御術法にほとんど力を割かない極めて攻撃的な戦術が、彼の圧倒的な実力を観客たちの脳裏に鮮烈に刷り込む結果となった。
「爺さん、箍が外れたって感じだな」
「箍?」
「三年前の試合じゃ、どっちかっていうと守備寄りの戦術で、堅実過ぎるほど魔力の温存に気を使っていたんだが……見ろよ、最初から本気の全力の全開だ。守りを捨て去っちまってるな。俺がいうのもナンだが、危なくないか、あれ」
 フィーエンは答えられず、ただ呪媒石を握る手に力を込めた。ほのかに、熱をもっているような気がした。

 レンシルも勝ち上がってはいたが、こちらは順調とは言いがたい。新たな対戦相手にあたるたびに苦戦を強いられ、翻弄され、咄嗟の機転や偶然でなんとか勝利にこぎ着ける、といった有様だった。しかし、いかなる苦境に陥っても必ず危機を脱して逆転を飾る劇的さに、誰もが「ひょっとしたら」という予感を彼女に抱いた。
「レンシル導師の対戦相手、“結び閉ざす者”ベルクァート・パニエジ……だって」
「前大会は出場しなかったが……かなりの強豪じゃねぇか、そいつ、確か」
「……大丈夫かな……」
「爺さんと当たる前に負けちまったら眼も当てられねぇぞ……」
 銅鑼の音が、沸き立つ闘技場の端々に共鳴し、反響した。六角形の舞台の端と端にある出入り口から、同時に二人の魔導師が現れる。観声がどっと大きくなる。レンシルは笑顔で声に答えながら舞台中央に歩み寄った。相対する小柄な男――“結び閉ざす者”ベルクァートも、同じように中央に移動した。
 そこへ三人目、大会側が用意した運営員の魔術士がやってくる。レンシルとベルクァートは、彼に向かって一礼。魔術士が両掌をそれぞれ選手に向け、魔導構文を詠唱する。ほどなく、粘度のある液体のような防護術法が両者に薄く密着した。これは本来極めて危険な事象である魔法戦闘から選手の命を守る保険である。運営員が下がると、二人は再び対峙し、今度は各々が詠唱を始めた。
 規定では、最初に両名にかけられた汎魔術防護術法の上に、選手が自分で防護術法をかぶせる事になっている。二重の障壁で守られる形だ。戦術的に意味を持つのは外側の方で、これを破られるといくら戦闘続行が可能でも負けと見なされる。障壁の性質や強度は自由に決める事ができるので、しっかりと守りを固める者もいれば、攻撃にほとんど全力を注ぎ込む者もおり、千差万別だ。
 仮想質量障壁が薄紅に煌めき、レンシルの麗姿をふちどる。
 論理否定力場が滅紫に渦巻き、ベルクァートの矮躯を包む。
 六角形に設置された呪化極針が低い唸りとともに起動。無色透明の絶縁障壁が揺らぎながら立ち現れる。試合の準備が、すべて整った。にぎやかな歓声が、誰からともなく収まってゆく。
 闘争の予感。空間が凝固する。レンシルは腰を落とし、両手を隠すように抜剣の構え。ベルクァートは相手を見据えながら不動の姿勢。
 試合開始を告げる巨大な銅鑼の音が、固まった空間を粉々に打ち砕いた。
 途端、レンシルの姿が掻き消えるように消失――したかに見えた次の瞬間には、ベルクァートが錐揉み状に回転しながら上空に吹き飛ばされていた。それを追い越した位置に“剣”を振り抜いた姿勢のレンシルがいる。強力な踏み込みが生み出す甲高い床の悲鳴と、爆風のような斬撃音が、遅れて観客の耳に届く。
 誰もが息を呑んだ。
 ベルクァートはまだ空中にいる。
 割れるような拍手が上がった。究極の秒殺試合だ。さすがは最年少の導師級魔術士。さすがは前魔法大会優勝者。
 ベルクァートはまだ空中にいる。
 かつて魔術士の身で、これほどの剣技をものにした者がいただろうか。誰もがレンシルに惜しみない賛辞を送った。
 ベルクァートはまだ空中にいる。
 拍手の音が、だんだんとすぼまっていった。やがて困惑が沈黙を生み出した。
 ベルクァートは、まだ空中にいるのだ。
 何かがおかしい。何だあれは。何が起こっている。
「驚きました。よもやこれほどの実力者だとは」
 静謐そのもののが結晶したような声が、さほど大きくないにも関わらずその場にいた全員の鼓膜をふるわせた。
 吹き飛ばされたままの高度で、ベルクァートは宙に浮いていた。否、最初から斬撃の威力を逃すためにわざと派手に吹き飛んだのだ。
「あなたは……晶魔術士!?」
「その通り」
 彼の足下の空間にうっすらとしたひずみが見える。向こう側の景色が歪んでいる。大気を結晶させて足場を作っているのだ。本来数えることのできないはずの流体を一個の存在と捉えて意味付け、固定させる――晶魔術とは、おおまかに言えばそのような技術体系だ。
「我が晶魔術戦闘、そろそろ披露させていただきましょう」
 両腕をかざす。それぞれの手の先で大気が収斂し、高い密度を与えられて安定した。唐突に激減した体積を埋めるべく、周囲の空気がそこへ殺到する。渦を巻く。
「――《驕慢なる面心立方》よ」
 腕を軽く引き、強く突き出す。二つの立方晶体はレンシルへ向けて射出された。とはいえ、その速度はあまり速くない。不可解に思いながらも半身になって回避する。
 紙一重で体をかすめていった瞬間、結晶は急激に膨張――いや爆裂した。吹き飛ばされ、床に叩き付けられるレンシル。受け身を取って体制を立て直したと同時に再び大気の結晶を撃ち込まれた。着弾の衝撃で気体を結晶させていた術式単位格子が崩壊、拘束から解き放たれた気体が、通常の体積を回復するために裂散する。それは焔の伴わぬ爆発。
「くぅ……ッ」
 全速離脱。どうにかやりすごす。しかし高所からの一方的な攻撃になす術がない。
「まだまだいきますよ」
 矮躯の晶魔術士の周囲で、空気の結晶化がいくつも次々と巻き起こった。大気の体積が大幅に減じ、突風が幾重にも荒れ狂う。長衣がはためく。結晶の数は、無数。
 剣魔術士の顔が遠目にもわかるほど青ざめた。
 一斉射。轟音爆音破砕音。粉塵が爆撃に吹き散らされ、別の爆撃が粉塵を巻き上げる。舞台全域を爆圧が覆い尽くす。衝撃が舐め尽くす。花崗岩の舞台が粉々に徹底的に完膚なきまでに破壊された。跡には砕かれ抉られた地面の凹凸が広がるのみ。
 これほどの攻撃に晒されて、レンシルの仮想質量障壁が保つとは考えにくい。ベルクァートは、細い眼に静かな笑みをやどす。
 眼が、見開かれた。

 レンシルが。
 空中で。
 抜剣の構えを。

 剣魔術士が、吠えた。満身の力で跳躍し、爆発を逃れ、爆風に後押しされながら、やっとのことでこの高度までたどり着いた。敵対者と同じ高みへたどり着いた。
「――ッ! 《玲瓏たる底心斜方》よ!」
 ベルクァートは即座に反応。懐に持参していた珪素と空気中の酸素を結晶させ、細い三角錐が二つ底をくっつけた形の近接戦用結晶を抜き放つ。
 双方の武器が同時に翻り、激突。硬質の凄惨な悲鳴と魔力の発光現象が重なり合った。
 相殺。
 二人はぶつかり合った衝撃で足場から落下。結晶と魔導構造の破片が舞い狂う空中で、同時に体制を立て直し、各々第二撃の予備動作を開始する。
 より速く一撃を叩き込むのは――
 再びの激突。二つの影が交錯する。
 撃発する魔力光。撃ち交わされる得物達の金切り声が、闘技場を震わせた。
 ――地面に降り立つ両雄。
「むぅ……ッ」
 晶魔術士が膝を突く。滅紫の論理否定力場が、砕け散っていた。ベルクァートは器用に肩をすくめて苦笑した。
「やれやれ、接近を許した時点で敗北していましたか」
 レンシルは薄紅に輝く仮想質量障壁を解除しながら、矮躯の晶魔術士に歩み寄った。
「いい試合でしたね」
 屈託ない微笑で手を伸ばす。
「えぇ、おたがいに」
 晶魔術士は照れくさそうにそれを取って立ち上がった。
 試合終了を告げる銅鑼の音が響き渡る。空間の割れんばかりの拍手と歓声が闘技場を満たした。

 13
 レンシルとベルクァートの撃戦が歓呼と共に終わり、次の試合が始まる段になってもなお、フィーエンの意識はうつつから少しずれた所を抜け出せずにいた。体全体が気体のように希薄になって、拡散してしまう気がしていた。視界が白みがかり、肌に触れる衣服や座席や空気の感触も遠く、周囲を満たす歓声の流動が自分だけを避けて通り過ぎている。
 薄れる世界。
 漸近的に無に近づいてゆく自分。
 ただ、首からぶら下がっている呪媒石だけが、体を溶かすような暖かさと共に確固とした存在感を発していた。それは違和感だった。このまま意識と認識の融解が続けば、恐らく世界にはこの呪媒石しかなくなってしまうだろう。そして? それから?
「――い! おい! フィーエン? どうしたよオイ?」
 肩を揺さぶられる感触が、世界と自分との接点を強引に意識させ、繋げた。途端に周囲の喧噪がどっと押し寄せて来た。
「……う?」
「うじゃねぇよ」
 エイレオが呆れていた。
「なんだ? 日射病か? 熱射病か? それとも貧血? 低血圧?」
「……うぅ……ちがう。なんか、変な感じ」
 数回眼を瞬かせ、両手で軽く頬を叩いてみると、脳裏に満たされつつあった白い虚無は嘘のように消えてなくなった。
「うん、大丈夫。心配ないよ。ありがと」
 エイレオは少しの間怪訝そうにこちらを見ていたが、すぐに表情を和らげる。
「無理はすんなよ」
「してないよ。それに、お爺ちゃんの試合、今回ばかりは絶対見なきゃならないから」
「……そうだな」
 二人は眼を転じ、今もかしりが飛び交う六角形の舞台に意識を戻した。弓魔術士と鏡魔術士の試合は、開始直後から激しい攻防が繰り広げられていた。
 精妙な機械の駆動音のような魔力発振の唸りと、爆音、閃光、光条、偏心滑車式長弓の形相、魔導構文の方陣が幾重にも多重展開され、撃発音が砲火が粉塵が、切り裂いて、鉄壁の防御機構、発光体、光弾、乱れ飛び、怒号、咆哮、交錯する黒影、三重の呪的知覚誘導体、後ろに回り込みさえすれば

 明滅。

 唐突に、全身が大きく引き攣った。視界は揺るがない。眼をそらすことができなかった。すべてが急速に目まぐるしく展開する戦況を見やりながら、フィーエンは三年前に同じ場所で見た情景が意識に立ち現れるのを

 明滅。

 気がつくと、自分の肉体はなかった。
 前を見ると、対峙していた。
 今よりずっと精悍で大きく見える祖父と。今よりさらに子供っぽく見えるレンシルが。歓声に包み込まれていた。銅鑼が鳴っていた。レンシルはすぐに前に飛び出していた。輝く刃が閃く度に呪弾式が破裂し、光の飛沫を撒き散らしていた。我武者らに前進するレンシルに対し、ウィバロは泰然と立ち、砲撃を続けていた。弾幕は少女の足を止めていた。呪弾式の連射はさらに加速していた。レンシルは歯噛みしてい

 明滅。

 魔力視覚変換による全方位探査、叩き込んだ、腕を限界まで引き絞り、打ち砕く、激突して烈光が飛び散り、僅かな綻び、吹き飛ばされる粉塵と共に、半壊、飛び退るとすでに、鬨の声、一撃二撃三撃、破片、舞い散る、瓦解する均衡、前へ前へ前へ、魔力反応、砕け散る障壁、銅鑼の音、歓声、歓声、喝采。
 再び、揺さぶられる感触。
「おい? ひょっとして何かキメてらっしゃる?」
「……う?」
「いや、うじゃなくてさ」
 エイレオがこちらの顔をのぞき込んでいる。
 すでに試合は終わっている。気絶し、運ばれてゆく弓魔術士を尻目に、鏡魔術士は悠々と退場している所であった。
 何がなんだかよくわからなくなっていた。
「今、三年前だった。導師レンシル様とお爺ちゃんが戦ってた」
「……マジで大丈夫か?」
「多分大丈夫、だとは思うけど」
 フィーエンは考え込む。今一瞬だけ現れた情景は、確かに前魔法大会準決勝戦――ウィバロとレンシルの試合の様子だ。フィーエンはその試合を当時実際に両の眼で見ていた。記憶とも合致する。あの後の展開も覚えている。しっかりと覚えている。
 何故、さっきその光景が意識に現れたのか。自分が本格的におかしくなっているのでもない限り、心当たりはただ一つ。
 着ている服の襟に急いで手を突っ込み、すっかり手に馴染んだソレを取り出す。
 白い半円形の呪媒石。わずかに熱を持っていた。
「きっと、これだ」
「何がだよ」
「呪媒石には記録と演算の力がある。お爺ちゃんが僕に託したんだったら、何かの伝言が入っているはず。今の幻覚は、多分、それ」
 表面に彫り込まれた、途方もなく細密な紋章をじっと見つめた。そこから何かを読み取れないかと。しかし、あまりにも複雑に過ぎる。とてもフィーエンの手に負えるものではない。
「また何かの光景が現れるかもしれない……」

 14
 来た。
 時が来た。
 ついに、この時が。
 選手控え室の壁際で、レンシルは片膝を抱えながら踞っていた。緊張と高揚でざわめく胸を持て余すように、腕に力を込める。
 ウィバロは準決勝で一方的勝利を飾り、自分もさっき準決勝を切り抜けた。つまり決戦の場は決勝戦、と。
 笑ってしまうくらいに劇的な偶然だ。
 あとは、ぶつかるだけ。泣いても笑ってもこれが最後。ウィバロが死にたがっている理由などわからないけれど、自分は自分ができることを、妥協なくやりとげるまで。
 眼を閉じ、息を吐き、気持ちを落ち着ける。とりあえず、今はウィバロの戦術をよく反芻して対策を考えるのが前向きかつ建設的な時間つぶしと言えよう。
 ――あの回転儀、前魔法大会の試合では見せなかった術法だ。
 この三年間、ウィバロは魔法を忌避し、フィーエンがそういう事物に関わるのすら良しとしなかった。当然、修練などまったくしていなかったのだろう。新たに編み出した技などではないはずだ。
 つまり、かつての自分ではあの男の本気すら引き出せていなかったという事実。
 思わず唇を噛む。
 ……私だって、三年前のままじゃない。
 秘策は、ある。以前からエイレオを実験台に、色々と剣魔術の応用を試してみていた。
 単純な魔力の量も、あの時より飛躍的に伸びている。
 でもそれだけじゃ足りない。何かが引っかかる。あの時――ウィバロに路地裏で襲撃されたあの時、連続して呪弾式を撃ち込まれたあの時。
 絶妙な角度で飛来する攻撃は、こちらの動きを巧妙に牽制し、あまつさえ回避した先に呪弾式を“置いておく”――高度な偏差射撃までやってのけている。
 いくらウィバロが歴戦の“魔王”とは言え、そこまで完全無欠な先読みができるものなのだろうか? レンシル自身ですらあの時“次にどこへ避けるか”を考えもせずに、体の赴くまま無我夢中に動き回っていただけだというのに。
 釈然としない。
 だいたい、呪弾式は視認できないほどの超高速ではない。撃ち出されてからレンシルのいる所へ到達するまでに、若干の時間差はある。つまり、ウィバロが攻撃を放つのは、レンシルが回避方向を定めるより前、なのである。どう考えても。
 因果が逆転している。今まで深く考えたこともなかったが、ひどく奇妙に思える。
 この詐術を見破れない以上、勝利は遠い。
「でも、絶対、負けらんない」
 外気で少し冷えた手の甲を額に当て、気休めに知恵熱を抑えた。

 レンシル・アーウィンクロゥもまた、準決勝を勝ち上がったらしい。
 ウィバロがその報せを受けたのは、ついさっきだ。別に何の感慨も湧かなかった。ひどく、虚しい。
 約束を破るほど子供なつもりもないので、一応出場しはしたが、試合に勝つことよりも落胆を隠すことのほうが難しかった。
 誰も彼も、まるで相手にならぬ。
 驕るでもなくそう悟っていた。だからこそ余計に気が重くなる。この世に執着する理由がまた一つなくなったと言って良い。自分と戦った者は、ほとんど全員が抵抗もできなかった。
 ここにはもう、何もない。
 魔法への憎しみと頂点に立つことへの虚無感、イシェラへの執着が、悔恨の中で渾然と煮られていた。何の生産性もない昏情の燃焼だった。
 だが、その中でただ一つ。鮮烈に輝くものがある。
 ――フィーエン。
 気がかりではないと言えば嘘になる。自分が現世から去った後、あれはどうなるのだろう。
 一瞬、孫のために生き続ける選択肢が意識に立ち現れた。が、即座に否定する。大丈夫だろうか、という心配が傲慢であることはわかっている。フィーエンはもはや、この飲んだくれの魔導師崩れなど必要としてはいない。泣きもするし叫びも嘆きもするだろうが、自分のように何もかもを投げ捨てて逃げるようなことはない。それは靭性に富んだ、しなやかな勁さだ。曲がりはしても、決して折れぬ。なにしろ、イシェラが育てた子なのだから。
 それに、ウィバロは今まで無為に魔法大会の賞金をふんだぐってきた訳ではない。フィーエンが自分の道を見つけ、歩いて行けるようになるまでは、楽に生活していけるだけの金銭は遺してやれる。もう、それで良い。
 試合の時間が近づいていた。
 ゆっくりと立ち上がる。
 ひとまず、約束を果たしに征くとしよう。アーウィンクロゥが完膚なきまでに叩きのめされないと納得できない質の人間なのなら、それなりの対応をしよう。後のことなど知るものか。
 とっくの昔に枯れ果てた闘争本能の残りかすを、無理に燃え上がらせる。
「……さぁ来い、剣魔術士。望み通り、貴様のつるぎを二度と振るえぬようになるまで徹底的に砕き殺してくれる」
 瘴気と共に呪詛を。
 これで、最後だ。今度こそ“魔王”は終わる。
 永い永い苦悩の生もまた。
 終わる。

 15
 決勝戦にも関わらず、闘技場には不穏なまでの静寂がのしかかっていた。誰も声を発しようとしない。物音を立てることすら罪であるかのように。
 誰もが、その二人の動作を一挙動も見逃さぬように凝視している。
 二人の魔導師を。
 レンシル・アーウィンクロゥ。
 ウィバロ・ダヴォーゲン。
 最年少の導師級魔術士にして前大会優勝者の天才剣魔術士。
 誰もが最強である事を信じて疑わない歴程不敗の砲魔術士。
 彼らは向かい合っていた。睨み合っていた。

 ――いまさら。
 レンシルは苦笑した。誰にもそうとはわからないほど微かに。
 いまさら、何を躊躇っているのだろう。すぐにでも踏み込むべきだ。踏み込み、酷烈の一撃を叩き込むべきだ。これまでそうしてきたように。
 意に反して、体は抜剣の構えのまま凝り固まっている。踏み出せない。眉目が険しく寄せられる。
 ウィバロは、些かも動かない。両腕は構えられるでもなく下げられ、圧力をもった眼光だけがこちらに射かけられていた。引きつけてから必中の砲撃を放つつもりだろうか。
 動けない。ここから先、いかなる挙動をとろうとも――直進しようと回り込もうと――例の不可解なまでに完全な先読みが紡ぐ弾幕によって、見えない袋小路に追い込まれる。そんな気がする。
 ぬるく冷たい汗が、頬を伝った。
 動かなければならない。
 焦燥ばかりが空回りする。
 全身が緊張に強張り、みじろき一つできない。二日前に戦った時とは比べ物にならぬ圧迫感。口の中が渇く。
 動かなければならない。
「……ッ……」
 ウィバロを睨みつけると、歪に彎曲した捕食者の牙のような眼が出迎えてくれた。それだけで、つばも飲み込めなくなった。
 不意に、彼の指先がわずかに動く。なんら意味のない些細な動きに危機感が反応する。
 闘技場を揺らす轟音が聞こえたような気がした。
 突き動かされるように床を蹴り砕き、踏み込んだのだ。瞬発的な加速によって視界外周部が放射線状に掻き消える。
 何の策もありはしなかい。ただ、あの微動だにできない状況から生まれた強迫観念が、冷静な思考力を奪っていた。
 魔力の迸りが瞬いたかと見えた瞬間、全身を突き抜ける衝撃が視界を撹拌する。体が冗談のように高く宙を舞う。呪弾式の直撃を受けたらしい。
 ――当たり前だ。なんにも考えずに直進したんだから。
 そして、自分が地面に叩き付けられるまで待っていてくれるほど悠長な相手でもない。
 レンシルは空中で不格好に抜剣の形相を組むと、紅刃を抜きざまに打ち下ろした。追撃の呪弾式が斬り散らされる。
 それで終わりではなかった。
 下方から間断なく飛来する連撃。魔導剣を縦横に閃かせて迎撃する。強烈な手応えと反動に腕が軋む。次々と斬裂する術式の向こうで、ウィバロが腕を悠然とこちらに向けていた。体がゆるやかに落下を開始する。
 ひときわ力を込めて剣を振るうと同時に、ようやく到来した着地の衝撃が体勢の均衡を崩した。
「くっ」
 間髪入れずに撃ち込まれてきた弾が障壁に直撃する。後ろに押し倒しにかかる慣性を後転で逃がし、そこへ狙い澄ましたかのように急襲する砲撃を、起き上がりざまに斬り上げて破壊した。
 息が上がる。
 一瞬の攻防でニ発もまともにもらってしまった。仮想質量障壁の強度を単純に数値化するなら、半分ももっていかれたことになる。あきれた威力だ。
 レンシルが対応策をひねり出す前に、容赦のない連射が再開された。慌てて横に跳ぶ。
 しかし、そこには先読みして撃ち放たれていた呪弾式が待っている。
 きた。
 レンシルは確信を持った。
 砲弾に光刃を叩き付け、爆ぜる魔術弾の余波を浴びながら。
 ――やっぱり、わたしが回避を始めるより前に射出されている。
 どういうわけだか。
 一瞬にして考えをまとめる。最も単純な対応策を採ることにした。

 16
 それゆえフィーエンは、五感の希薄化が起こった時、抗わなかった。
 視覚が薄れ、聴覚が薄れ、触覚が薄れ、嗅覚が薄れ、味覚が薄れ、世界が漂白される。
 視覚が消え、聴覚が消え、触覚が消え、嗅覚が消え、味覚が消え、世界は消える。
 ――さぁ。
 記憶の石よ。滅んでしまった竜よ。
 僕に。
 何を?

 明滅。

 フィーエンの意識を壮大な情報の大瀑布が打ちのめす。それは誰かの見た光景であり、誰にも聴かれなかった音であり、多くの者が触れた感触であった。胸の締め付けられるような情動のうねりがあり、ひどく機械的な事実の羅列があった。そして、まったく意味の把握できない不可解な要素が大多数を占めている。やがてそれら無数の情報達は相互に作用し合いながら、ひとつの情景へと統合されてゆく。ひとつの意味を形成してゆく。
 そこは、林立する建造物の合間に存在する袋小路の一つであった。陽光はほとんど届かず、ひんやりと薄暗かった。工業地区らしく、かすかに油の匂いが漂っていた。路の片隅には、工業用魔導作業機械がその鈍重な輪郭を崩してうずくまっていた。それらは感覚を通じてではなく、客観的な情報群としてフィーエンの意識に与えられていた。その証拠に、五感では知りようもない事実――この裏路地がフィーエンの住む都市の一部であることや、この情景が過去に実際に在ったものであることなども、フィーエンは知っていた。少年は肉体を持たず、極めて明確に明晰にその情景を解釈できた。
 男が立っていた。魔術士が好んで使う長衣に身を包んだ、三十がらみの男であった。見たことのない人物であったが、どこか覚えのある顔立ちだ、と思えた瞬間、その男がフィーエンの父親であるという情報が少年に与えられた。
 ――そうか、この人が。
 彼は、奇妙な存在と対峙していた。子供の背丈。合成樹脂の体躯。球体関節。感情なき貌。一見して玩具のように見える影。しかしその正体は、見た目とはかけ離れたものであった。それは、ある魔導学者が記述した魔導構文であった。二種類の複合呪紋――『情報の取捨選択』と『結果の原因への帰結』――を相互に関連づけることによって自動的に情報を流動させようとする試みの、ゆきすぎた成功例であった。付与された効果は“彼”に己自身を認識させていた。彼は思考する文章であった。
 「当然ながら」というべきか、「奇妙なことに」というべきか、彼は自由を望んだ。魔導学者の実験室にあった魔力式人形の駆動構文に割り込み、その機能を掌握して逃走しようとしたのだ。それを阻んだ人間を、人形の性能限界を超えた運動能力で打ち倒し、窓を破って広い外へと飛び出していった。
 捕らえて欲しい、という依頼が、役所を通じた正式な形でフィーエンの父親の元へと届けられたのは、その数時間後だった。
 今、彼は意志持つ構文の宿る人形を袋小路へと追いつめていた。
 魔術士は人形へ向けて両手の拳を突き出した。詠唱と共に、くっつけていた拳と拳を徐々に離してゆくと、間に青く光る半透明の棒が顕れた。腕を開いてゆくにつれてその棒は長くなり、ついには穂先と石突を両端に備えた魔導槍と化した。
 槍が頭上で翻り、閃光のような打突となった。
 白い壁に激突した。魔力が炸裂し、漆喰の破片が飛び散った。が、そこにはもはや人形の姿はなかった。彼の視界のどこにもいなかった。しかし慌てもせずに得物を腕に添うように引き戻すと、舞うような体の捻りから槍を反転させ、石突を斜上へ突き出した。上から飛び掛かって来ていた人形がちょうど鳩尾の部分を打ちのめされた。
 こんな狭い行き止まりでは、上に跳躍する以外に槍撃を逃れる手がないことを、魔術士は把握していたのだった。
 魔導槍の石突に刻まれていた『解呪』の呪紋が青く輝き、人形を動かす熱量の揺らぎ――魔力を凪状態に戻してその活動を停止させた。
 空中で人形は力を失い、着地もできないまま地面に叩き付けられた。
 魔術士は構えていた槍を下げた。「簡単だったな」と嘆息した。
 ごそり、と右方で何かが動く気配がした。
 次の刹那、魔術士は輝く槍を横合いへ突き出していた。鋭利な穂先は今まさに襲いかからんと突進していた影を正確に貫いた。それは、袋小路の一角で廃物同然に打ち捨てられていた工業用魔導作業機械であった。配線が剥き出しの作業腕を振りかざし、やはり性能限界を超えた瞬発力をもって剣呑な意志を行動に移していた。
「“乗り換えた”というのか!」
 魔術士にとって誤算だったのは、咄嗟に石突ではなく穂先を敵に撃ち込んでいたことであった。穂先には『解呪』の呪紋が刻まれていなかったのだ。
 槍は見る間に鋼の中へ埋没してゆくが、それは彼が得物を敵に突き入れているからではなかった。魔導槍は鋭利であった。それゆえ敵の歩みを止める役には立たなかった。
 一瞬のことだ。
 鋼鉄の巨大な腕が男の体へ撃ち込まれ、赤い華が咲いた。

 フィーエンの父が死んだ真相であった。

 17
 避けなければ良い。
 それだけのことだ。
 単純に過ぎる。解決策とすら言えない。
 だけど、これ以上のことはちょっと思いつかない。
 被弾が怖いからといって逃げ回るのはもうやめる。脚を止め、腰を落とす。
 嵐のように間隙なく撃ち込まれてくる呪弾式を片端から斬り捨てながら、レンシルは痙攣する鼓動を抑えた。
 剣と砲弾の接触点から伝わる非常な圧力が、脚を地面につなぎ止めている。
 前大会の時も、似たような展開だった。同じようにレンシルは脚を止め、ウィバロは撃ち続けていた。
 だが、その意味は違う。どうしたら良いかまるでわからず、じり貧の袋小路に追い込まれ、精神力で押し負け、戦う意志と手段を根こそぎ奪われていたあの時とは。
 力を絞って、振るい、突き、薙ぐ。しかし、ただ攻撃を打ち消しているだけではない。
 慣れて来たら、剣を振る動作に少しずつ一定の傾向を与える。
 振り下ろしたら右斜上に。
 振り上げたら左斜下に。
 右へ薙いだら左斜上に。
 左へ薙いだら右斜下に。
 余裕があれば定点に刺突を穿つ。
 魔導剣の描く紅い軌跡に、傾向を与える。法則を――意味を与える。
 点。線。角。弦。弧。円。相似。厚み。歪み。捩じれ。
 描く。魔弾を斬り散らすかたわらに。気付かれぬように。
 結果を導き出すための過程。解を求めるための式。魔術を喚起するための紋様。術式を構成する線は細く薄く、遠目にはほとんどわからない。増してや、斬り砕かれた呪弾式の構文と魔力が爆ぜて光るこの状況では。
 ――あともう一太刀!
 閃く。砲撃を叩き斬りながら、完全なる角度で閃く。最後の線が加えられ、魔法陣が完成する。式と解が等符号で結ばれる。魔力が整然と流動を始める。
 発動。
 意に介さず猛進を続ける呪弾式は、続々と法陣の中央を通過し――
 瞬間、向きが反転した。
 まるで最初からそうであったかのように、破壊の呪文はウィバロへ向けて殺到する。
 砲魔術師は、顔色も変えなかった。淡々と、己に反逆した呪弾式群を迎撃する。
 同種、同威力の攻撃術法が激突し、行き場を失った呪力が光と衝撃に変じて爆発した。
 ――それでいい!
 レンシルは強力に疾走していた。交互に撃ち込まれる脚の下で床が連続して砕け散り、反発力が瞬時に体を最高速度の領域に押し上げる。大気の抵抗を力任せに跳ね飛ばす。視界を灼く爆光の中に飛び込んで、突っ切った。
 目の前にウィバロがいた。ここへきてやっと、彼の眼がわずかに見開かれていた。
 即座に飛んで来た呪弾式を無造作に斬り捨てると、強烈に踏み込む。
 すでに剣の間合い。
 風を巻き込む閃撃が、掲げられていた魔導旋条砲を一撃のもとに葬り去った。凄まじい剣勢のあおりを食らい、ウィバロは姿勢を崩して倒れかかった。
 ――終局だ! 一瞬で片を付ける!
 更に踏み込む。返す刃を撃ち込む。
 だがウィバロは倒れる寸前に床に掌打を叩き付けた。反動で斬撃から逃れると同時に姿勢を整える。魔導旋条砲を構築し直す。床を蹴って後退する。
 レンシルは怯まない。床を爆裂させながら襲いかかる。この勝機を逃したら、あとは嬲り殺されるだけだから。
 刃の驟雨が無数の赫い尾を引いて迸る。一撃ごとに空間が断裂し、眩い軌跡が網の目のように重なりあう。踏み込み、身を捻り、可動部分を最大限に活用する。すべての動作は次の斬撃のために、次の次の斬撃のために。切れ目なく、流れるように、あらゆる角度から攻撃意志の具現を浴びせ続ける。
 ウィバロは――全て避けた。身を屈め、半身になり、最小限の動作と最低限の速さで。
「なっ!?」
 剣を振り抜いた姿勢で、愕然と眼を剥いた。ありえない。この男は本当に魔術士なのか。剣技を積んだ自分の全てを注ぎ込んだあの連撃を――
 例え彼が本職の剣士であったとしても信じがたい、人智を超えた身体能力と反射神経。
 徒労感に押しつぶされそうになる。
「……まだッ!」
 そう、まだだ。今の猛攻によって、彼我の間に魔法陣をひそかに描いておいたのだ。
 避けられるというのならば、避けられない状況を作り出せばいい。
 振り抜いた慣性に剣を乗せて後ろに引き、全身の筋肉を瞬発させて魔術円の中心に切っ先を突き込んだ。
 己の魔術を剣の形に凝縮していた結界、その先端部分がほどけ、内圧に押し出された攻撃意志が魔法陣によって衝撃波としての意味を彫り込まれる。
 炸裂音と共に、魔王の体が宙を舞った。
 ……少なくとも、自分ではそう思っていたのだが。
 突如として視界が激しく回転し、三半規管が鈍く呻いた。臓腑がひっくりかえるような浮遊感。次の瞬間、床に打ち付けた痛みが骨格に軋みを上げさせる。事態についていけない。
「か……ひ……」
 肺が引き攣り、次の瞬間激しく咳き込んだ。
 ウィバロとの距離が離れている状況を見るに、どうやら吹き飛ばされたのは自分の方らしい。
 萎えかかる闘志を無視し、手をついて跳ね起きる。
 見ると、ウィバロは魔法陣の中央部を無造作に掴み握っていた。描画的に表現される魔導構文であるところの魔法陣に割り込みをかけ、描かれた意味を強制的に書き換えてしまったのだ。ちょうど、主語と目的語が逆転する形で。
 一応、理論的には可能なことである。が、それを瞬間的に攻撃手段として使うことがいかに不可能めいているかは、少しでも魔術の理論をかじった者ならばすぐにわかる。
 節くれだった拳がぱっと開かれると、魔術円は消えた。
 剣を再構築するのも忘れて、レンシルはただ呆然としていた。
「導師アーウィンクロゥ。貴女は強力な魔術士だ。我が生涯において最速の敵手だ」
 彼は、圧倒的な理不尽の権化としてそこに在った。そしてこちらの様子には一顧だにせず、手の甲を地面に向ける形で握り拳を突き出した。低く魔導構文を詠唱する。続いて五指の第三関節だけをまっすぐ伸ばして鉤爪状にすると、掌の中にあの忌まわしき魔導回転儀が顕われた。
「貴女との討ち合いは実に有意義で刺激的な時間であった」
 ウィバロはそれを保持したまま腕を伸ばし、曲げていた指を完全に解放した。宙空に放たれた環状構造体は回転軸を回転させながら回転し始めた。
「だが、それをいつまでも続けるわけにはいかぬ。これから外せぬ予定があるゆえにな」
 円環は急激に回転速度を速めると、己の発する遠心力に耐えきれなくなったかのように弾けた。するとそこには二つの円環があった。
「終わりにしよう。もう十分であろう」
 二個の輪もまた回転速度を上げて弾けた。後には四個の輪があった。
 四個が弾けて八個に。八個が弾けて十六個に。そこで鼠算は止まる。
 十六のうち十三は稲妻のように不規則な軌道で宙を迅り、レンシルを全方位から取り囲んだ。残る三つの回転儀はウィバロの頭上を漂っている。
 わざわざ考えずとも、その意図は明白であった。

 18
 フィーエンは、ここではないどこかを見据えながら静かに涙を流している。
 何を見ているのか。エイレオにはそこまではわからない。
 ただ、胸元で握りしめられる呪媒石が、フィーエンに決定的な意味を突きつけていることだけは感じられた。底知れぬ情報量を湛えた石。その内部に存在しているものの正体を知りたいと思うには、好奇心という言葉はあまりに弱すぎた。
 ――なんだか知らんが、乗り越えろよ。
 祈るような一瞥を親友に残すと、レンシルとウィバロの戦いに眼を戻した。
 そこには、桁違いに複雑精妙な魔導構造体が現れていた。
 半球状の巨大な結界が舞台の中央に顕現している。レンシルの姿はその内部だ。薄く輝く呪紋の骨格が無数に重なることで、結界は形を成していた。十三の回転円環が半球の表面を滑動しており、ひとつひとつの輪と連結している魔導的骨格はその動きを妨げぬために座標軸線の変動のような滑らかな変形と移動を行っていた。それ自体が非常に高度な術法である回転儀を十六個同時に展開し、うち十三を単なる部品としてより甚大なる構造結界に組み込む。もはや、導師級魔術士の中でも使いこなせる者はほとんど存在しないであろうそれは、超大規模敵性体封入式魔導砲撃支援機構。のちに“魔王の処刑場”と呼称されるこの複合呪式は、一度仕掛ければ確実に相手を撃滅する凶悪な使い勝手と、対戦相手が負う危険の大きさによって、数年後に魔法大会の規定で正式に禁止されてしまうこととなる。“魔王”の切り札の一つであった。
 ウィバロが腕を持ち上げ、掌から伸びる魔導旋条砲を半球へ向けた。
 撃発の光が瞬く。
 “処刑場”に組み込まれずに漂っていた三つの回転儀が、唐突に機敏かつ鋭角的な動きを見せる。ひとつは直後に呪弾式が通過するであろう位置に。残りふたつは結界の上の方に。
 破壊の光弾が宙を疾り、最初の輪の中に取り込まれた。円環は回転運動によってこれを保持し、“処刑場”へ投げ込んだ。魔導的骨格が柔軟に形を変え、半球の表面に開いた穴のような回転儀によって呪弾式は受け止められる。
 直後、半球結界内部を跳弾のように暴れ回った。十三の魔導円環がせわしなく動き、砲弾を受け取り、投げ返しているのだ。
 レンシルはそれを冷静にかわす。最小限の動きで。
 だが、ウィバロは断続的に呪弾式を撃ち続ける。魔王の目の前で浮遊する回転儀はそれらを“処刑場”放り込み続ける。そのたびに半球結界内部を飛び交う光弾の数は増してゆく。少しずつ、少しずつ。
 レンシルは結界内部を駆け回り、右に左に剣を閃かせる。回避が不可能な密度になる前に、ひとつひとつ潰してゆこうとしているのだろう。紅い軌跡が彼女の周りで踊る度に、魔術砲撃は斬り散らされ、魔力が爆発した。
 だが、根本的な解決になっていない。遠目にも、レンシルの麗貌で徐々に焦りが台頭してきているさまが見える。
「さっさとあそこから脱出しねえと……」
「えぇ、あの結界は非常に危険ですね」
「どぁっ!?」
 いきなり隣から応えがあった。一瞬フィーエンかと思ったが、声が違う。見ると、隣の席で小柄で痩身の男がこっちに微笑みかけている。
「やぁやぁどうも。レンシルさんの弟くん?」
「ベ、ベルクァート・パニエジ……!」
 晶魔術師ベルクァート。“結び閉ざす者”ベルクァート。
「そう警戒しないでくださいよ、弟くん」
「……エイレオだ。なにやってんだよこんなところで」
「いえね、我が愛しき人の勇姿を目に焼き付けておこうと思いまして」
 能天気とすら思える顔で、そんなことを言い放つ。
「……はい?」
「やはり魔術はね、人物のひとなりをも表しますし」
「あー、えー、え? つまり、なに?」
「いやぁー私はね、愛の誓いを交わすなら絶対に自分より背か高くて自分より強い人にしようと思ってましたし」
「いやいやいやいやそれはどっちかっつーと女の方が吐く台詞じゃないのかっていうか愛しき人ってひょっとしてまさか」
 まさかウィバロではないだろう。だとしたらあまりにもあんまりだ。
 となればもう一人の当事者であるところの……
「……あれを?」
 演舞のような立ち回りを見せるレンシルを、震える指で示す。全方位から撃ち込まれてくる呪弾式を迎撃するたびに、魔力の光沫が彼女を彩っている。
「あぁ……強く、気高く、美しい方です。理想の女性です」
 その顔は、その表情は、その眼は、心酔しきっていた。崇拝すらしていそうだった。
 エイレオは絶句する。あの精神年齢一桁な姉を、そういう風に見れる人間がいること自体に驚愕する。
「ええと、その、なんだ、ちょっと待て」
 眉間を揉みほぐしながら、掌をベルクァートに向ける。
「おや、大丈夫ですか?」
 取り乱したのは一瞬だ。おもむろに強張る顔を上げ、ベルクァートの肩をつかむ。
「悪いことは言わん」
 かつてなく真剣かつ切実な眼で、首を横に振りながら。
「あれだけはやめておけ」

 19
 飛来する。飛来する。飛来する。
 呪弾式が襲い来る。
 振るう。振るう。振るう。
 魔導構造剣を振り回す。間断なく。間隙なく。
 風を斬る音が連続する。砲弾を打ち砕く音が連続する。刃の軌跡が重なり合い、球体を形成する。斬り砕かれた呪弾式が爆裂する爆裂する爆裂する。
 まずい、とは思っている。
 半球結界内部に投げ込まれる魔導砲弾の数は、ざっと見た限りではすでに二十を超えている。にもかかわらず、いまだに飛来する攻撃に対処しきれているのは、レンシルを狙ってくる数が異様に少ないためだ。砲撃の大部分は半球の内壁を駆け巡るばかりで、一向に撃ち込まれて来ない。
 これは、何を意味するのか。
 これまで断続的に襲いかかってきていた攻撃は、恐らくはただレンシルをこの場につなぎ止めておくための虚構なのだ。そして、結界内に刻々と数を増してゆく呪弾式の群れ。
 剣では対処しきれぬほどの数が溜まったその時。無数の攻撃意志の固体的な顕われは、一斉に牙を剥くのだろう。あらゆる角度から一息で襲来するのだろう。そのときは、もはや遠くない。レンシルの仮想質量障壁など一瞬たりとも持ちこたえられまい。
「く……ッ」
 球殻結界を斬り崩して脱出するよりないのか――?
 そう思い、一歩踏み出そうと脚を動かした、その瞬間。
 靴裏が直後に踏むであろう位置を呪弾式が打ち砕いた。あまりにも正確に。『出ることは許さぬ』。ウィバロのあからさまで勁烈な意思表示だ。
 喉が詰まり、小さなうめきが出てきた。不可解にもほどがある。
 何なの、これは。
 なぜ私の一挙動にいたるまで、精密に予測ができるのだろう。
 明らかにおかしい。
 だが、そのことについて考え込む余裕などなかった。呪弾式の飛来の間隔がやや短くなったのだ。冷静な思考すらも許さず、嬲り殺す――
 ――ここは、処刑場だ。魔王が絶対権威をもって罪人を裁く、暴威の法廷。
 逃走は許されない。抵抗は許されない。叛意は許されない。ただ、“そのとき”を待つことのみが、こちらに認められた権利。
 不意に、結界の外にいるウィバロの姿が眼に入った。その口が動いた。何かを言っていた。音は伝播しなかったが、意味は判ぜられた。
 ――あぁ。
 闘志が。覇気が。気概が。吹き散らされてゆく。諦めがレンシルを蝕み始める。
 フィーエン君……ごめん。
 空気が、変わる。
 より一層、剣呑な意志を内包する魔力の流動が、周囲に満ち満ちる。抑えられていたウィバロの殺意が跳ね起きたのだ。極限まで結界内部に溜め込まれた無数の死刑執行者たちが飛び交っている。歓喜の唸りを上げながら、間もなく訪れる解放の刻に焦がれて。
 来る。
 破滅の暴雨が。私を屈服させるために。
 体中の血液が逆流するかのような気分だった。
 またなのか。また私は、この男に一方的に打ち砕かれるのか。一矢たりとも報いることなく、剣とともに意志をへし折られるのか。もうできることはないのか。
 ――本当に?
 思い出せ。
 私はなんのために三年間も引きこもっていたのか。なんのために昼夜剣を振り続けたのか。そしてこの男は三年間なにをしていたか。
 ――縮まっていないはずはない。三年前とは違う。確実に、できることは増えたはず。まだ手を尽くしたわけではない。すべてを出し尽くしたわけではない。
 冴え冴えと冷たい刃が己の頭の中を通過し、よけいな感情のみを叩き斬っていったような気がした。人間はこれほど明敏な意識を持てるのかと、静かな驚きがあった。五つの感覚が受容する世界の情報がいっそう精度を増し、より明確に感得され、あたかも闘技場が狭くなったかのようだった。
 突き動かされるように、口が動く。世界を意味付ける言語を発する。魔王を睨む。
 ウィバロは両の腕を大きく広げていた。抱擁してくれる、というわけではないようだ。上下の口唇が不吉に歪み踊っている。魔導構文の詠唱。
 負けじとレンシルも韻律の楽調を上げる。
 二人の喉から発せられる唸りにも似た音階が、ひとつの独立した力学系を紡ぎ上げているかのようであった。
 ――はやく。
 レンシルは疾走する思考の中で、それだけを意識した。
 ――どこまでも、はやく。
 知覚加速。大気が粘度を帯び始める。薄い唇だけが別の生き物のように呪文を踊る。意味を構築してゆく。眼は強く強くウィバロに固定したまま。
 ――駆けろ。
 難しいことなんてわからない。
 ――回れ。
 そもそも、やり過ごすとか防ぐとか避けるとか。
 ――巡れ。
 そういう考え方自体が駄目なのだ。
 ――無窮なる循環よ。
 守りに入っていてこの男に勝てるものか。
 ――異なる系の落差により現出する熱量の揺らぎよ。
 論理を。強力な論理を。魔王が定めた摂理を根底から破壊し尽くす説得力を!
 ――顕現せよ!
 ウィバロが広げた両腕を勢い良く閉じた。無数の光が殺到してきた。そのひとつひとつがレンシルを完膚なきまでに打倒し、否定しうる威を秘めている。
 視界がそれらに覆い尽くされた、まさにその瞬間。
 レンシルは、華開いた。

 20
 いくつもの現象が同時に起こった。無数の爆光がエイレオの網膜を灼き、内側から斬り裂かれた“処刑場”が轟音を伴いながら崩壊した。紅く長大な剣閃は、鮮やにうねる紗幕のように――あるいは巨大な合弁花のように、幾重にも層を形作りながら舞台のほぼ全域を薙ぎ払っている。
 開花。まさにそう呼ぶべき光景であった。
 一瞬にして、ウィバロが組み立てた絶対の秩序は瓦解していた。
「こいつは……!?」
 眼を見開いた。
 何が起こったのか、エイレオにはわからなかった。突如として盛り咲いた紅い合弁花の中央、花柱の位置すべき場所には、両腕をだらりと投げ出したレンシルが佇んでいる。その両手には
 ――信じがたい長さの剣が二本握られていた。
 赫く紅く周囲を灼いていた。
 もはや剣と呼んでも良いのかすらわからない、あまりにもな刃寸。少なくともレンシルの身の丈は優に越している。巨竜を斬り殺すために鍛えられたのではないのかと思わせる規格外の魔剣であった。
 それが、両腕に二振り。
「至ったのですね……」
 横でベルクァートが、興奮を内包した冷静さで喋り始めた。
「彼女は魔術師としてだけでなく、剣士としても一流の域に到達したようです。極限まで追いつめられた精神が、死にものぐるいで新たな思考体系を確立させ、最適化を行ったのでしょう。意味を構築する際の無駄をなくし、剣技の形相と魔術の間で効率よく力を循環させる論理的な仕組みを築き上げたのです。生きるために。より強力な剣撃を放つために」
「……つまり、なんだ、強くなったと?」
「段違いです」
 鋭利に細められた眼をこちらにむけ、薄らと笑みを浮かべた。
 ……かと、思えた直後、その顔容はだらしなく弛緩した。
「あぁ……やはり凄い女性だ。私とは比べ物にならない」
 だが、エイレオはさっきほど無警戒にその言葉を受け入れことはなかった。
「本当に、そうかな」
「……おや? なぜ?」
 ベルクァートは、さも意外そうに眉を持ち上げる。
「あんた以外で、魔法大会に晶魔術士は一人も出場してないってこと、知ってたかい?」
「えぇ、存じてますよ。私は変わり者ですからね」
「それだけじゃ、ねえだろ」
 確信を込めた口調。
「晶魔術士の十八番の攻撃手段は、結晶の中に相手を閉じ込めて圧殺するものだ。だが、これは試合では使えない。相手を殺しちまうからな。どれほど強力な晶魔術士も、試合の上ではその最大の攻撃を最初から封じられてるってことになる。ちがうか?」
 “試し合い”ではレンシルに敗北したが、“殺し合い”であった場合、どうなっていたか。エイレオは、そう問うている。
「ほう……」
 エイレオを見ていた晶魔術士は、やがて面白そうに目元を緩める。
「面白い考え方ですね」
「そう的外れとも思わねえがな」
 エイレオは不敵な笑みを作った。そうしながらも背筋は硬直していた。
 殺気……とでも言えば良いのか。肌をチリチリと刺してゆく空気が周囲に満ちている。汗が浮かび上がってくる感触が冷たく、熱い。
 無論、そんな物理現象などありえない。単に気のせいでしかないはずだ。
 だが――少なくとも、ベルクァートの顔つきが微妙に変わっていることだけは確かだった。細められた眼の奥で、巨大な何かを隠している。そんな気がする。
「まぁ、今更何を言っても敗者の負け惜しみでしかありません」
 ベルクァートはそう言った。口では。
 だから、エイレオは瞬間的に思った。こいつは、自分でも気付かないような心の深奥では、まったく敗北を見ていないのではないか。雪辱の刃を今も研いでいるのではないか。
「それに」
 “結び閉ざす者”は、元の柔らかな微笑を繕う。
「私と彼女が殺し合うなんて、冗談にしても笑えませんよ」
 それは完璧な演技で、しかし半ば以上は本心のようであった。エイレオは推察する。自らの姉に対するベルクァートの微妙な心境を。
 恐らくは一部だけにしろ。

 21
 精神が受けた衝撃も覚めやらぬまま、世界が明滅する。新たな情景が立ち顕われる。
 フィーエンは眼をそらすこともできず、人格の態相を打ち潰す情報の火砕流をまともに浴びた。

 明滅。

 ――そこは広葉樹林であった。
 深夜。海の底のような闇であった。
 深い森の中で小さく開けている広場があり、そこにだけ仄白い月光が降り注いでいた。人影があった。幽鬼じみた陰陽の目立つ貌は、ウィバロのそれであった。その眼には、夜であることだけでは説明がつかぬ不吉な陰りが染み込んでいた。
 足元に何かが転がっていた。
 人影に、見えた。
 フィーエンは、今は存在しない瞼を見開く。撃ち込まれてきた衝撃を愕然と胸で受け止める。喉で黒い塊がふくれ上がり、気管が強引に押し広げられるような心地。この情景が過去に実際に起きた出来事なのは、フィーエンにはわかっていた。すでに感得されていた。それだけに、この衝撃を逃す場所がどこにもない。
 ウィバロは、人を殺していたのか。
 あまりに重いその事実は、しかし直後に覆される。
 地面に転がっている人影は、人間ではなかった。生き物ですらなかった。子供の背丈。合成樹脂の体躯。球体関節。感情なき貌。一見して玩具のように見える影。
 意志持つ構文が取り憑いた魔導人形。
 半壊し、横たわっていた。
 ウィバロの昏い眼がそれを見下していた。億劫げな所作で掌を人形に向け、詠唱とともに魔導旋条砲を構築した。
 人形はなんとか逃げ出そうと、体を軋ませた。だが、もはやこの器体にまともな運動能力は残ってはいなかった。そして周囲に乗り換えられそうな器械は一切存在しなかった。
 魔力の撃発する光が、木々の間にわだかまる闇を、一瞬だけ追い散らした。

 明滅。

 次にフィーエンに認識されたのは、打って変わって暖かい場所であった。
 寝室だ。
 中央にある寝台の上には、柔和な顔つきの女性が横たわっていた。イシェラ・ダヴォーゲン。フィーエンの祖母。血色は良くなく、傍目にも衰弱していることが判ぜられた。しかし、表情は不思議に穏やかだった。強かに自らの死を受け入れた者の貌であった。
 ふいに、部屋の扉が軋みながら開いた。
 入ってきたのはウィバロだった。
「泣き止みました?」
 柔らかく微笑みながら、イシェラは尋ねた。
「あぁ、ようやく寝てくれた」
 ウィバロはほんのわずかに苦笑を宿した。
 二人とも、息子夫婦の遺していった赤子が可愛らしくてしょうがなかった。少なくとも、つかのまに悲しみを忘れさせてくれるほどには。
「そう……」
 どこか寂しげに、イシェラは孫の部屋の方へ眼を向けた。
「イシェラ。話がある」
「なに?」
 つとめて感情を殺し、思い詰めた様子のウィバロ。対して、イシェラはからかうように首を傾げていた。
「正直に言おう。君の体はもう持たない」
「えぇ……そうでしょうね」
「今までの第一医学的治療には限界があった。ゆえに、まったく新たな方法で延命措置を図ることにしたい」
「どんな?」
 問いながらも、イシェラの顔には理解と非難の色があった。
 気付かないふりをしながら、ウィバロは懐から円盤状の白い石を取り出した。表面には円形に添うように魔法円が三重に刻まれ、簡素な呪紋がまばらに彫り込まれていた。
「呪媒石。最高位の魔導具だ」
 言いながら、ウィバロは人差し指に『断絶』の呪紋を浮かべて石に近づけた。
「まって」
 イシェラの青白い手がそれを止めた。
「あなたが何をしようとしているのかはわかる。けど、本当に、それでいいの?」
「すでに決めたことだ。覚悟などとうの昔に」
「だけど私は…………」
 イシェラは抗議の声を上げかけた。だが、思い直したのか、駄々をこねる子供に見せるような苦笑を浮かべた。
「私が死んだら、あなたやフィーエンがつらく思ってくれるって、自惚れてもいいのかしら?」
「当たり前だろう。自惚れでもなんでもない」
「そう……」
 伸びた手が、ウィバロの掌中から呪媒石をするりと抜き取った。
「わかった。あなたの言う通りにする。だから、一晩だけこれを私に預けてくれない?」

 一晩明けて、再び呪媒石がウィバロの手に戻った。ウィバロが書き込んでいた単純な魔法陣の上に、信じがたい精度の微細で緻密な魔導構文がびっしりと刻まれていた。
「これは……」
「心配しないで。本来の機能を殺すものじゃないわ」
「では、なんなのだ?」
「私の道楽。その結果よ」
 イシェラは青ざめた顔で、楽しげに笑みを浮かべた。
「時が来れば、わかるわ」
 疲れたように吐息をつき、遠くを見た。
「さぁ、やってちょうだい。さすがに疲れたから」
「……うむ……」
 ウィバロは白い円盤を持った。淡く光る人差し指を表面に当て、すっとなぞり下ろした。指先に輝く顔料が塗られていたかのように、中心に一本の線が引かれた。すると円は音もなく二つに別れ、半円形となった。
 その片割れをイシェラに渡すと、
「片時も、肌身離さず持っておけ」
 噛んで含めるように言った。自らも、半円の呪媒石を握りしめながら。

 生命とは、維持されていることそれ自体が、ある種の魔術である――
 そんな観念を最初に提唱したのは、百年近く前に没した一人の内科医であった。
 動植物の生命活動は、さまざまな酵素反応の連続によって成り立っている純粋な第一物理現象なのだが、より巨視的に観察すると、熱量の循環という過程によって組み立てられていることがわかる。これは一般的な魔術の仕組みと同質のものであり、定義付けによっては生命も魔術の一項目である、とする捉え方も可能なのだ。
 仮にまったく同じものではなかったにせよ、両者の間には応用可能な要素が無数にあり、革新的な医療技術の確立に大きな役割を果たすであろう、と。
 ウィバロが行ったこととは、つまり。

22
 ――今ならわかる。
 レンシルは自分に向けて密集してくる世界の情報の直中で、さまざまなことを一度に悟った。
 ――わたしは今まで、なんて狭い視野しかもっていなかったんだろう。
 識った。高速で回転する意識が、答えを導き出していた。
 なぜウィバロが、こちらの行動を完全に先読みできたのか。
 ――あるじゃないか。思い当たるふしが。
 一挙一動、間違いなく敵の動作を予測するなんて、そんなことができるわけがない。それはもはや予知の領域だ。将来を完璧に知る術法などは今まで誰も構築できなかったし、これからもないだろう。可能性の枝は現在に至ってはじめて収束する。未来は、不確定だからこそ未来なのだ。
 ウィバロは予測も予知もしていない。
 ただ、知っていたのだ。そう仕向けた、とも。
 ――まったく、こんなことにも気付けなかったなんて。
『他人の意思決定に干渉し』
『立ち去らせる』
『無意識のうちに』
 誰でもわかる。誰でも理解できる。
 ――ずっとだ! 試合が始まってからずっと!
 ぞっとする。己が自由意志の存在を疑うほど。
 呪わしい魔術の力場が試合開始と同時に展開され、レンシルの意思決定を支配していたのだ。もちろん、完全に思いのままに操られていたわけではない。そんなことをすれば、レンシル自身が干渉に気付いてしまう。対象の本来の意志をねじ伏せてまでウィバロの命令を押し通すようなことはできないのだ。
 撃発音とともに、呪弾式の群れが飛来してくる。
 『右に避けよう』と反射的に思考し――しかしすぐに考えを改める。
 ――左だ!
 体の位置をずらす。右体側を旋風が吹き付けてゆく。
 素早く視界を右にめぐらすと、今そばをかすめていった呪弾式のさらに向こう側、ちょうど“レンシルが右に避けていた場合”の予定位置を、別の一撃が通過しているところであった。
 ――ほーら、やっぱり。
 眼を正面に戻すと、ウィバロは笑みを浮かべていた。鬼相の笑みだった。
「気付いたか」
 必殺の砲撃機構を破られ、意志干渉の詐術をも暴かれて、なのに泰然盤石なこの態度。
 これも予定のうち……?
 いやいや。レンシルは内心で首を振る。
 ウィバロは、ここまで追いつめられたことが逆にうれしいのだ。今大会でのウィバロの圧倒的強さは伝え聞いている。なにひとつ抵抗らしい抵抗もできないまま吹き飛ばされてゆく対戦者たちに、彼がどんな感想を抱いたかは想像に難くない。
 ――そうだ、それでいい。
 今度はこっちの思惑通りだ。やたらと苦労したけど、状況はあのときに決意していた結果へと進みつつある。ウィバロに大会出場を求めたあのときに。
 両腕の大剣を撃ち合わせた。光の粒子が飛び散る。唇が勝手に弧を描くのがわかった。
「見抜きました。ぜんぶ」
 言葉は後ろに置き去りにされる。
 爆音とともに踏み込んだのだ。疾走でも突進でもなく、ただ一歩の踏み込み。十歩の間合いを一息で消失させる踏み込み。数学的理屈では捉えきれぬ、極みに達した剣士の怪異。頭の高さはまったく変わらず、全体としては滑るような動作だった。ウィバロの姿が脈絡なく視界の大半を占めるようになる。そこは剣舞の世界。
 光が疾り抜けた。
 光だけが疾り抜けた。
 斬風も、空気の悲鳴もなかった。
 あまりに鋭利な斬撃が、触れた大気をほぼ動かすことなく振り抜かれたのだ。
 障壁が深々と砕ける。散った破片たちは、直後に意味を失って無為な光へと相を転じてゆく。それでも殺しきれなかった衝撃が、今度こそ魔王の体を宙に打ち飛ばした。
 一撃のもとに、形勢は逆転する。
 そして、レンシルの武装は今や一振りだけではなかった。
 二撃目。
 極端に屈した両膝が、極限まで高められた力を解放。ウィバロを追って、レンシルは飛翔し、全膂力を無駄なく作用させる。跳躍と斬り上げ。二段の加速。剣尖の速度を、音速の領域まで押し上げる。
 それは天地を貫く一条の雷光のごとき刺突。
 しかしレンシルの加速された意識は、それすら低速と認識した。水の中で動いているかのようだ。もどかしい。
 ウィバロへと眼を転ずる。彼は空中で手足を振り、体に勢いを付けてこちらを振り向いているところだった。彼我の眼があわさった。鬼相は、消えていない。旋回に乗せるように、掌から伸びる魔導旋条砲を突き下ろしてきた。
 剣と砲が、正面から打ち当たった。
 近接戦闘の意味の具象である剣魔術が、ここで打ち負ける道理などない。
 ほとんど抵抗もなく切っ先は砲口より突入し、螺旋状の論理構造を根こそぎ破壊してゆく。魔導旋条砲は一瞬膨れ上がる様子を見せ、直後に壊裂した。
 罠だった。案の定。
 ウィバロの鉤状に曲げられた五指の間に、奇妙に歪んだ空間がわだかまっている。直前まで魔導旋条砲の内部に隠されていたのだ。そこに大剣が突き込まれると、中程まで進んだところで唐突に止まった。どれだけ力を込めても、それ以上の侵入ができない。頑丈な壁に突き当たったという感じではなく、前に進もうとする力が歪空間によって吸い取られてゆくような――
 そこまで思い当たった時点で、レンシルは悪寒に襲われた。危機感の赴くままに剣を引こうとするが、押しても引いてもそこから動けない。
 ――力学的仕事量を転化する呪的力場!
 本来なら命中した時点でウィバロの障壁を完膚なきまでに粉砕するであろう剣撃の衝撃力を、別の場所に逃がすことによって敗北から逃れた――のみならず、雷速で振るわれる剣を一瞬だけひとところに固定したのだ。
 ウィバロの口の端から血が溢れた。障壁が受けるべき破壊力を己の肉体に転化しているのだ。規定上、敗北にはならない。斬撃の意味合いを離れた力は、単に斬りつけるほどの殺傷力はない。しかし衝撃の力積そのものが少なくわけでもない。人体には、あまりに過酷な負荷だ。
 魔王はしかし、凄絶な笑みを浮かべる。深刻な打撃を身体に叩き込まれてなお、その眼は爛と生気を放っていた。無造作に、逆の手で剣身を掴んでくる。魔導構造剣は峻烈な攻撃意志の顕現だが、刃という性質上、“運動”が伴わなければほとんど危険がない。
「もらうぞ」
 瞬間、レンシルは、己の手足に他者の意志が侵入し、もぎとられてゆくような感覚を覚えた。極限の剣魔術師は、己の魔剣を肉体の延長と捉えているゆえに。
 強烈な不快感に苦鳴を漏らす。集中が乱れる。その隙に乗じられた。
 術式への割り込み。所有者の書き換え。剣が己の手を離れる、絶望的喪失感。
「……ぅ、あっ!」
 両者の体が落下を開始する。引き延ばされた時間が終わる。
「ぐぅ!」
 レンシルは残された一本の魔導構造剣を撃ち込む。ウィバロも奪い取った一本の魔導構造剣を撃ち込む。凄まじい剣勢が激突し、撃ち交わされた魔力が炸裂した。
 闘技場の外からでも見られるであろう、激烈な光爆。そして轟音。
 二人は“爆心”を中心に吹き飛ばされ、離れた位置に着地。間髪入れずににレンシルは颶風と化して十歩の距離を零にした。
 二人は獣性の赴くままに顎門を開いた。
 彼女が吼えた。彼が吼えた。
 撃剣が始まった。

23
 極めて高い魔力伝導性をもつ呪媒石を円形に削り出し、魔法陣を書き込むことによってそれを一個の物質として再定義する。しかるのちにそれを半分に剪断すると、まったく同じ半円が二つ出来上がるわけだが、これらはまったく同じ形相・まったく同じ色相・まったく同じ質料を有し、さらにはかつて同一の物質として定義されていたために、感染魔術的なつながりが非常に強いものとなるのだ。
 二つの半円をそれぞれ二人の人物が身につけた場合、結果として両者の間に熱量を行き来させる径が出来上がる。片方の人物が、例えば病などによって死――熱量の永続的停滞――に瀕していても、もう片方の人物が恒常的に魔力を送り込むことによって、熱量を再び循環させられれば、最初の人物はかなり長い期間を生きることができる。
 つまり、一人が負うと死んでしまうような負担を二人掛かりで支えることによって、両方とも生きながらえようという療法であった。

「少し早くなったが、まぁ、ちょうどいい時期ではあるな」
「あら、なにが?」
 首のすわりはじめたフィーエンを抱いてあやしていたイシェラが振り向いた。顔色は眼に見えて良くなっていた。
 ウィバロは努めて表情を殺しながら言葉を続けた。
「引退する。もはや魔法大会には出ぬ。なるべく魔法も使うまい」
「どうして?」
「……なんだと」
「どうしてあなたが引退するの?」
「知れたこと」
 ウィバロは懐から半円形の石を取り出した。
「イシェラ・ダヴォーゲンの足りぬ生命力を、ウィバロ・ダヴォーゲンの魔力が補っている。魔力を消費し過ぎれば、君の体を巡回する熱量の環は断たれてしまう。自明の理だ」
 なにかを振り切るように、そう説明する。ほとんど自らに言い聞かせるために。
「……ウィバロ。あのね」
 小さな子供を諭すような口調でイシェラは語りかけてきた。ウィバロは心の鎧の留め金を締め直した。昔から、どうもこの口ぶりには逆らいがたかった。
「三十年以上一緒にいたからわかるけれど、我慢しているときに下を向く癖は治したほうがいいわよ。損だから。いろいろと」
 ウィバロは憮然と口を引き結んだ。
「で、それでいいの? あなたの気持ちは?」
「……気持ちの問題ではない」
「気持ちの問題よ。ウィバロ・ダヴォーゲンが、最後の一滴まで魔力を使い切らないと試合に勝てないほど戦術構築の下手な人なら話は別だけど。……ねぇ?」
 と、腕の中のフィーエンに笑いかけた。赤子も小さな手を伸ばして無垢に笑っていた。
 不意に、彼女はウィバロに眼を戻した。
「あなたの眼は」
 静かな声だった。
「まだ戦いたがっている」

 確かに、十分な余裕をもったまま試合に勝つのは、あまり難しいことではなかった。
 四方から浴びせられる歓声を聞き、前方で失神している対戦相手を見ながら、ウィバロはそう思った。
 戦術にある程度の枷ができはしたが、それでもウィバロはほとんどの魔導師達を寄せ付けなかった。むしろ魔力消費に制約があることで、より効率的な魔術運用を修得しはじめていた。
 むろん、ごくたまにウィバロを負かしうる実力者が現れないこともなかったが、そのことごとくを退けてきた。逆境でこそ己の実力が真に発揮されることに、はじめて気付いたのだった。いつしか、ウィバロは“魔王”と呼ばれるようになっていた。
 そのまま、年月は過ぎていった。
 魔法大会では相変わらず不敗で、しかしそれに驕ることもなく魔力消費には神経質なまでに気を使った。
 フィーエンは伸びやかに成長し、五歳を数えるころには魔術への興味を示し始めた。イシェラの健康状態も良好で、呪媒石は効果的に作用しているようだった。
 ウィバロは穏やかな充足感を味わっていた。

24
 星海が瞬いているただなかを泳いでいるような、どこかうつつを抜けた心地で、レンシルは剣戟を舞っていた。光が現れ弾け消え現れ現れ消え消え刃を通し現れ弾け現れ現れ弾け弾け現れ弾け現れ弾け弾け弾けお互いの攻撃意志をぶつけ合う現れ現れ現れ消え消え消え弾け現れ消え現れ現れ弾け弾け角度と剣勢が弾け弾け弾け現れ現れ現れ消え現れ現れ弾け消え消え弾け複雑な音色を奏でる弾け現れ現れ消え消え消え消え消え現れ現れ消えそれは弾け現れ現れ弾け現れ消え現れ現れ撃剣の複合打楽弾け弾け現れ現れ弾け現れ消え現れ現れ弾け消えた。
 すくなくとも剣技においてウィバロがレンシルに勝るはずはないのだが、意志干渉力場の力はいまだに闘争の趨勢を揺り動かしていた。もちろん、剣をもってウィバロを打倒しようという意志そのものを曲げることはできない。だが、突くか薙ぐか振り下ろすかといった、どれを選んでもレンシル本人が違和感を覚えない選択肢からであれば、魔王の思うがままに操ることができる。
 全霊を込めた連斬をことごとくかわされたのも、そのせいだ。
 それがわかっていながら、レンシルには剣を振り続けるしかなかった。すくなくとも手数と剣勢においてはこちらが上回っている。押して押して押しまくれば、いつか力場の処理力を超えることができるかもしれない。
 一層の力を込め、撃剣の回転率を上げる。
 だが、まるで壁でもあるかのように攻撃が通らない。すべてを叩き落とされてしまう。魔王がレンシルの太刀筋を自由に操れてしまうのだからそれも当たり前。ならばと、あえて自分の思いに反した軌道で剣を叩き込んでみる。すると、どうしても思考から行動までの過程に遅滞が生じ、結局やすやすと受け止められてしまう。
 さらに、ウィバロとてただ防いでいるばかりではない。普段はこちらの攻勢を押しとどめるだけだが、たまに不意打ちのごとき一撃を送り込んでくるので、まるで油断を許さない。彼の戦況適応能力には舌をまくばかりだ。
 だが――
 剣を後ろに振りかぶると同時に一歩退き、魔導構造剣の論理構造に改竄を加える。
 直後、吶喊。
 これまでで最速の踏み込み。衝撃波が後ろを追従している。自分ですら、剣間に入ったその瞬間を知覚しそこねた。ウィバロは明らかにこちらの動きを捉えきれていない。
 そして、ただ撃ち下ろす。全体重を乗せて。全筋力を乗せて。
 接触。天文学的衝撃。刹那、魔剣に施された術式が起動。刀身の全仮想質量を光学変換。剣が一瞬で分解され、圧倒的な光が膨張する。それはウィバロのみならず、大勢の観客の眼をも灼いた。事前に眼を閉じていたレンシルだけがその難を逃れた。即座に両腕を胸の前で組むようにする。一瞬ののちに腕を打ち広げ、二振りの大剣を抜き放った。
 眼を開けると、そこには眼を押さえて呻くウィバロの姿が、

 なかった。

 舌打ち。全速離脱。
 直後、目の前の光景を、極限の熱量が奔流となって押し流し、叩き潰した。同時に空間が激震する。
「なに……!?」
 レンシルの目くらましをさらに上回る、壮絶な爆光。それは光だけではなく、実質的な破壊を伴っていた。とても現実とは思えないような、極大破壊を。
 一瞬前までレンシルが立っていた地点を中心に、小さな家屋ならまるごと呑み込めそうな縦穴が開いていた。それは隕石の落下によって発生するすり鉢状の地形ですらなく、いくら眼をこらしても底が見えなかった。そして、熱い異臭。人智を超えた超高熱によって溶解した地盤が、硝子と化している。
 何の脈絡もなく現出した、焦熱の地獄。
 思わず、口を押さえる。熱風があまりに熱い。
 視線を流す。
 熱気に歪む空間の中で、魔王が佇んでいた。彼は片腕を上げ、レンシルから奪い取った剣を天に突き上げていた。
 ……いや。
 剣ではない。確かにさきほどまで間違いなく剣であったものが、その形相を微妙に変えている。格子状の魔導構造が刀身を包み込み、その切っ先と柄元に円環術法が固定されている。さらに、刃の内部には極小の魔法陣が浮いていた。
 ウィバロがわざわざ不利な近接戦闘を行った意味を、レンシルは理解した。
 あの何だかよくわからない魔導構造体を構築するためには、おそらく最高精度の魔導構造剣が必要であったこと。そして、高速で振り回していれば剣が徐々に変化していっている事実を直前までこちらに悟られずにすむこと。さらには、剣劇を演じることによって飛散した余剰魔力を自らの剣に取り込めること。
 ……すべてこちらの思惑通りって? いつからそんなことを?
 あぁもう、うだうだ考えるのやめ!
 この程度の距離なら一瞬で肉薄できる。考えるな。
 動け。今動け。すぐ動け。
 踏み込もうと重心を前に移した瞬間、反射的に振るわれた刃が呪弾式を斬り捨てた。見れば、ウィバロの掲げられていないほうの腕に魔導旋条砲が収まっている。
 砲火が激しく瞬いた。

25
 もう十分だった。
 フィーエンには、世界の偶像がこれから映し出すであろう展開を予想できた。
 あのあと、前魔法大会のウィバロとレンシルの戦いでなにが起きたのか。
 その結果どうなったか。
 手に取るようにわかってしまった。
 とても最後まで見てはいられなかった。

 意識を取り戻した瞬間、五感が過負荷に悲鳴を上げる。いままで世界とのつながりを断たれていた意識が、急に舞い戻ったのだ。闘技場の熱気が、騒然としたざわめきが、空気と衣服の感触が、肉体の重みが、そして眩い陽光が。フィーエンは世界にこれほどの情報が溢れかえっていた事実に縮み上がる。
 目の前の現実から現実感を汲み取れない。さっきまでの過去の世界こそが真実で、こちらは夢なのではないかという錯覚。
「冗談じゃねぇぞ! なんだよあれ!」
 切迫した声のほうをぼんやりと向くと、エイレオとベルクァートがそろって眼を見開き、舞台を凝視していた。彼らの視線の先では、レンシルとウィバロの試合がすでに展開していた。
 舞台に大穴が開いている。蒸気が立ちこめている。尋常ならざる熱がここまで伝わってくる。いかなる魔術がこれほどの破壊をなしうるのか。
 その答えは、ウィバロの掲げられた手に収まっていた。それは剣の周囲に複雑な魔導構造が固定されている、未知の魔術であった。
「私もあんな特異な魔導構造は見たことがありません。しかし……おそらくは呪力をなんらかの形で増幅して射出するものではないかと……」
「限度があるわ! どんな増幅術法を使ったとしても、あんな滅茶苦茶な威力は出せねぇだろ! 普通! 個人で発動できる魔術の限界をブッ千切ってやがる……!」
 撃発音が連続した。かまわず突進しようとするレンシルを、魔導旋条砲の弾幕が牽制する。その間、天に突き上げられている剣身には光が漲りはじめていた。激しく鋭い、攻撃意志の具現のごとき烈光が。
 しかしレンシルも、流れる水のような動作で呪弾式をかわしつつ間合いを詰めてゆく。その動きは異様なまでに力みも遅滞もなく、見る者に氷上を滑っているのかと錯覚させるものだった。
 だが、一歩間に合わない。
 ウィバロの顔に一種異様な生気が宿る。黒く、陰鬱な闘争心が見え隠れする。その感情の理由を、フィーエンは知っている。呪媒石の幻影の中で、知っている。
 頂点にまで達した光が爆裂し、先端から固体のような密度の光条が撃ち放たれた。大気が慄いたかのように震え、魔王を中心に押し広げられた。圧倒的な風圧がここまで襲いかかってきた。
 天に向かって伸びる光の柱。
 その進行方向に浮かぶものがある。『断絶』の呪紋を刻印された輪型の魔導構造がいくつも連なって、ひとつの巨大な円環を形成しているのだ。巨大な光条は輪の中に到達すると同時に進路を鋭く曲げ、レンシルを天から叩きのめさんとした。荘厳ですらある光景。神の裁きがあるとするなら、それはおそらくこんな形で成されるのではないか。
 大爆発を起こす蒸気。熱風が吹き抜ける観客席。灼熱に包まれる舞台。一切合切を撹拌する震動。そこに出現する、天地創造の再現。
「あれは……そうか!」
 ベルクァートが腕で顔を庇いながらも、強い視線を舞台に向けている。
「納得してねえで説明しろ!」
「刀身の中に小さな魔法陣が設陣されているのを確認しました。あれは本来、不規則に運動する魔力の流れに法則を加えて運用しやすくするために、魔導機械の動力路に刻印されているものです。この魔法陣をはさむ形で剣尖と柄元に円環術法が配されている事実を鑑みるに、魔力を高速で往復させることによって何度も魔法陣に通し、信じがたい精度で熱量の揺らぎを整流、収束、射出する砲撃術法――魔導光学整流発振砲ともいうべきものです! レンシルさんの剣を奪い取って魔導光学整流発振砲の中枢に据えた理由もここにあります。並の結界では魔導光学整流発振砲の凄まじい熱量に耐えられず、魔導構造を維持できませんし、剣身内部にある高濃度の攻撃意志は魔力の誘導放射を助ける反転分布帯としての機能を担っているのです。空恐ろしい……この理論であれば魔術の構築による熱量の損耗はほぼ絶無! 術式の複雑さと出力が反比例する魔術の基本法則を、導師ウィバロは凌駕してしまった……」
「うわーい異様に懇切丁寧な解説すっげぇありがとう言ってることが半分以上わかんねえんだよこの野郎!」
「無茶言わないでくださいよこれ以上端折ったら説明したことになりませんって」
 言い争う二人を尻目に、フィーエンは床を蹴って立ち上がった。
「じゃぁ……レンシル様は!?」
 その声に、エイレオとベルクァートはぎょっとしてこっちを見た。すぐに顔色が変わった。
「そうだ……いくらなんでもあれは……!」
「いけない、すぐに試合を中止させなければ!」
 だが、フィーエンはすでにその言葉を聞いていなかった。
 眼を奪われていた。
 低い弾道で、舞台を滑る影。
 重心を完全に前に投げ出した、鋭角的な姿勢にて。
 両腕は勢いについていけないのか、後ろに流されている。その先に伸びる二振りの大剣が、寝かせられた翼を思わせた。
 究極的に洗練された、継ぎ目のまったく見当たらない動作。フィーエンは、それを美しい、と思った。しなやかで強かな美だった。
 そして、二つの翼は起こされる。羽撃かれる。振るわれる。
 二つの弧月が交差する。

26
 楽しかった。とても。
 停止寸前まで引き延ばされた時間の中で、レンシルは微笑する。
 体中の血液が沸騰している。心臓が奏でる活発な拍子が心地よい。風を切る感触も、床を踏みしめる感触も、降り注ぐ陽の光も、なにもかも快く受け入れられた。自分の存在を強く強く実感した。この世界に在ることそのものが、とても幸福なように思われた。
 いま、自分はすべてを出し尽くしている。
 動け。
 目的を果たすために。
 わたしはウィバロ・ダヴォーゲンを打倒する。
 勝つのではなく、打倒する。
 乗り越える。
 三年前、この場所で粉々に砕かれた誇りのかけら。
 そのひとつひとつを、もう一度見つけるために。
 研ぎ澄まされ、雷速となった体さばきに、今、ようやく意識が追いついた。心技体がひとつになり、回り始める。押し寄せてくる世界を余さず処理し、分析し、感得し、識る。ウィバロを観る。ウィバロに迫る。ウィバロの眼を識る。
 その眼は、陰っている。内部の黒い澱を、闘争心と理性で覆い尽くしている。
「どうして」
 思わず、言葉が口を突いて出た。下から吹き上がる二つの斬撃と同時だった。
 交差する斬跡をかいくぐったウィバロが、魔導旋条砲を突き出して零距離砲撃。
「あなたは」
 しかし最初の撃発光が閃いた時点で、レンシルは敵の頭上を宙返っていた。空中で優美な曲線を描きながらウィバロの背後に着地する。
「そんなに」
 ウィバロは振り向かず、背中に手を伸ばすような動作で肩越しに魔導旋条砲を撃ち込んできた。あわてず、横向きの旋風のなか、最小の回避幅で弾幕をすり抜ける。
「眼が」
 踏み込んだ軸足をねじり、体全体に回転運動を与えながら横薙ぎを繰り出した。硬質の手応えとともに激烈な魔力光が爆散した。魔王は変質した剣で受け止めたのだ。
「死んでるんですか!」
 レンシルは吹き飛ばされながら、爆光の帳を突き破ってきた呪弾式群を片端から叩きのめした。すると、眼を灼く光が唐突に消え去った。すぐに、ウィバロの剣が魔力の爆発を吸収したことに気付く。
 前方を見る。最強の敵が、両腕をこちらに向けていた。
 右腕には魔導旋条砲。そして左腕には魔剣を核とする未知の砲撃術法。双方の攻撃意志の激突から発生した爆発的な魔力の燃焼をその身に納め、“溜め”は完了していた。
「どうして、だと?」
 低い、どこまでも沈んだ声。
 そして毒液が煮えたぎるような含み笑いが漏れ出る。
「お前は知らずともよいことだ、小娘」
 その言い草にむっとしながら、どこか違和感を感じる。
 お前? 小娘?
 さっきと言葉遣いが違うような気がする。
 いままでも、もちろん敵意はあった。が、こちらに敬意は払っているのか、『貴女』とか『導師アーウィンクロゥ』とか、一応丁寧な呼びかけだったはずだ。
 そこまで考えて、はたと思い当たる。
 わたし、あの口調に、覚えがある……?
 記憶の底から、細切れの情景をすくいあげる。
 三年前の情景を。
 そして、理解する。
 ――このひと、あのころに戻りつつある。
 そう、前魔法大会で相見えたとき、ウィバロは確かにこんな喋り方をしていた。気力と自信にあふれ、出場者というよりは会場に迷い込んだ子供みたいなものだった自分を苦笑しながら相手していた、あのころのウィバロ・ダヴォーゲン。
 だが、その感情の方向は、今ではまったく逆になっている。
「わたし、驚いてるんです。この前あなたに会ったときから。……このうらぶれた老人が、本当にウィバロ・ダヴォーゲンなのか、って」
 睨みつけながら、言う。声がとがる。
「恐ろしいひとだと思ったけれど、それ以上に尊敬してました。ちょっと憧れてたかもしれない。それほど、三年前のあなたは鮮烈でした。誰より誇り高く、振る舞いに余裕があって、そして強かった」
 返答はない。ただ、沈んだ眼で見返してくるだけであった。
 レンシルは、歯を軋ませる。
「多分、そのひとは死んでしまったんですね。もうこの世のどこにもいない。あるのは、使い手を喪って暴走している力と技術だけ。抜け殻なんですよ。フィーエンくんが泣いていたのも頷けます」
 あえて辛辣に吹っかける。
「……わかるものかよ……」
 反応が、あった。
「えぇ、わかりません。恨まれる覚えもないのにいきなり撃たれたこちらとしては、全然納得してませんし、全然わかりませ」
「わかるものかよ!!」
 大喝。空間が慄く。
「死んでいた! 揺り椅子にうずもれて! 意味もなく! あっさりと! わかっているさアーウィンクロゥ、おまえに責任はない! だが、あれに引導を渡したのは誰か! おまえだ! 彼女はやつれ果てていた! 理不尽だと憤れ! 筋違いだと笑え! 涙の跡すらなかった! 俺を内から焼け爛れさせるこの憎悪が! イシェラの何が悪かった! 憎悪が! 何の罪があった! 憎悪が! それで鎮まるものなのならな!」
 止めどもなく噴出する、激情。いままでせき止められていた分、凄まじい内圧を伴っていたであろうそれは、混沌と煮崩され、細切れの言葉となっていた。ウィバロ自身、感情を整理できていないのだろう。
 ぐつぐつに溶けた怒りを吐き尽くしたウィバロは、不意にうつむいた。
「…そうだ…わかっていたのだ…魔術になど頼っていたところで…限界はある…」
 足元に眼を向けながら、足元を見ていない。
「愚かよな…ありえざる力…あの時点で気付いてもよかったものを…なにが魔王か…魔術は息子を殺し…フィーエンの母を救わず…わが伴侶には生き延びる幻想をあたえたのみ…恐ろしい…憎い…俺も、フィーエンも…いずれ取り殺される…」
 極みに達した超越者を、幾年も蝕み続けた妄執。
 委細は知らない。だが、この三年間魔法を忌避し、フィーエンがそれに関わることもよしとしなかった理由を、漠然と感得する。
 どうも、自分がそれに関わっていたらしいことも。
「…飽きた…いいかげん倦み果てた…生きろなどと言うてくれるな…もうこの老人の乱心に、フィーエンを巻き込むことはできん…」
「じゃあ、どうして私との約束は守ってくれたんですか。死ぬつもりだったのなら、どうして魔法大会に出てくれたんですか」
 自分でも驚くほど、落ち着いた声が出せた。軽く息を吸い込む。
「未練が、あったんでしょう?」
 ウィバロは下を向いたままだ。
「わたしに復讐したかったんでしょう? わたしを公然と殺したかったんでしょう? ……いえ、もっと正確に言うなら“復讐を遂げた”という事実を作ることによって、“俺の不幸は、あの小娘のせいだったのだ。俺は悪くない”という筋書きを完成させたかったんでしょう!?」
 うなだれていたウィバロの肩が、その瞬間大きく震えた。
「構えろ! ウィバロ・ダヴォーゲン! あなたの仇敵は目の前で生きている!!」
 砲魔術師の口からぞっとするほど恐るべき叫びが上がった。それは激怒の咆哮であり、同時に悲痛な悲鳴だった。両腕を跳ね上げ、二つの魔導砲を向けてきた。絶叫がすべてを包み込んでいた。
 発砲。世界が烈震する。圧倒的な。
 光。
 一切を押し流す。
 レンシルは脚の位置を組み替える。するとすでに身体が三歩ずれた位置にいた。まるで地面が縮まっているかのような移動。
 すぐそばを、究極の破滅が熱塊の形を帯びて通り過ぎていった。当たりはしなかったが、散布された余熱がレンシルの身体に火傷を刻む。
 直後、鋭絶な閃光が多重に奔り、先行して放たれていた無数の光弾を全滅させる。レンシルは振るった刃を引き戻しながら、高度に拡張された知覚を広げる。
 自分の後方に、円環術法が鎖のように連なった巨大な輪が配置されていることを識る。
 それも、二つ。今しがた避けた大光熱がその中に飛び込み、角度を変えた。
 二度の反射を経た熱光は、背後から殺到してくる。
 レンシルは前方に身を投げ出す。己の存在が拡散し、目標地点で再び結実するかのような心地で、数歩の距離を一瞬にして渡る。
 さらに、前方のウィバロが変異した剣をこっちに向けていた。
 視界が白く熱せられる。
 終滅の極光が、再度撃ち放たれたのだ。
 前後から迫る絶望的な亡びは、しかしレンシルを跡形もなく蒸発させる軌道にはなく、その左右を恐ろしい熱量で封鎖した。容赦のない熱風。耐えられず、眼を閉じる。
 これは――!
 殺意が膨れ上がる。回避機動の余地を完全に封じられた閉鎖空間の中で、冷たく熱い殺意が膨れ上がる。
 視覚を閉じた状態で、ウィバロの行動を認識する。高次に拡張された意識は五感の限界を突破する。
 彼は激情の色を帯びながら、左腕の魔剣にまとわりつく格子を解呪している。
 彼は恐怖の色を帯びながら、右腕の魔導旋条砲の螺旋構造をほどいている。花弁のねじれた蕾が開花してゆくように、『加速』と『牽引』の呪紋によって形作られる旋条がまっすぐ伸びてゆく。直線上に伸長した二種類七本の呪紋索をそれそれ砲身が覆ってゆく。同時に機構後部に開いた連結部へ、魔導構造剣を叩き込むように装填。
 瞬く間に構築される、魔王ウィバロ・ダヴォーゲン最後の切り札。
 外部動力式回転多銃身型魔導機関砲。
 レンシルから奪取した最強出力の魔導構造剣――その全存在を糧に、秒間百数十の死を撒き散らす、人造の天災。
 殺意の砲声が鎖のように連なり、ひと繋がりの絶叫となる。
 レンシルは、受けて立った。無限に引き延ばされた時のなかで、両翼は円舞される。
 怒濤の勢いで押し寄せる、悪夢じみた物量の呪弾式。それはもはや弾の雨というよりは、弾の海。そうとしか形容のしようがない、絶望的な密度の弾幕。
 一秒の数十分の一。常態では知覚することもできないような刹那の間ですら、もはやいくつの光弾を斬ったのか数えられない。
 そして――
 一秒の数分の一。常態では“一瞬”としか表されない短い時間で、レンシルは悟った。誰よりも早く悟った。
 敗北を。
 力負けしているのだ。じりじりと後退する脚を必死に踏みとどまらせようとするも、あっというまに限界が近づいていた。
 動揺をこらえられなかった。これまで、少なくとも正面きっての魔力のぶつけ合いにおいて、自分は常に優位に立ってきたはずだ。旋条砲の巧妙な弾幕や限定的な意志干渉、半球の砲撃結界などによって翻弄されてはいたが、それは真っ向勝負を避けたウィバロの戦術であって、単純な魔力の強さはこちらが上だと確信していた。当たりさえすれば決着できる、という大前提。
 それが、いま、覆された。
 歯を食いしばる。両腕が千切れそうなほどに振り回す。視界に赤い霧が広がる。それは軌跡の集積であり、眼の血管が破れた結果であった。口が咆哮の形をとるが、実際に発声されたかどうかはわからなかった。呪弾式がどう飛来するか、それだけしか考えられない。他のことに思考を割く余裕などどこにもない。
 だが。
 追いつかない。追いつかない。追いつかない――!
 しかも、逃げ場がない。体の両側では、いまだに最悪の白熱光がこちらの退路を完全に塞いでいる。ウィバロの組み立ては、恐ろしく容赦がなかった。
 崩れかけた堤防のような均衡であった。あとほんの一押しで、決壊は訪れる。
 ――駄目だ!
 意識が、遠くなった。紅く染まった世界が、今度は白く霞んでゆく。限界だ。肉体も精神も疲弊し尽くしている。
 死んだ。
 これは死んだ。
 完璧に死んだ。
 間違いなく死んだ。
 なにをどう間違おうと、レンシルの半壊した仮想質量障壁が、あの超絶連射に持ちこたえられる道理がない。大会運営側がかけてくれた汎魔術防護術法も恐らく耐えられない。
 笑えるほど確実な、おわり。
 ――わたしの死体、どんな状態になるのかな……
 まぁ、あまりきれいな様子でもないのだろう。
 いろいろと飛び散ってるんだろうなぁ……いやだなぁ、わたしも女の子なんだけど。
 そして、何より痛切に胸を締め付ける後悔。
 ゴメン、フィーエンくん……キミのお爺さん、人殺しにしちゃった……
 これからどうなるのかな。立ち直ってくれるといいけど。……エイレオ、あんたがしっかり支えてあげなさいよ、友達なんだから。あと、お父さんはともかくお母さんは導師ウィバロに復讐を誓いそうだから、そこんとこうまく言いくるめて納めてよね。
 あーあ、それにしても短い人生だったなー。まったく、ロクな恋もできなかったし。こんなことになるんならアイツを振る前にもっと優しくしてあげるんだった。でもまぁ、これはお互い様だよね。あー、そういえばあの時も贅沢なんか言わずに食事くらい付き合ってあげればよかったかも。今思えばあのひと、けっこうカッコ良かったよね。爽やか系?

 …………………………………………………………って、ちょっと待て!!

 いくらなんでも死に様に余裕がありすぎる。
 とっくに死んでいてもおかしくない時間が経っているはずだ。自慢じゃないけどわたしは唯物論を信じてる。霊だの魂だの、そんなものはないし、当然死んだ後に意識が存在するなんてこともないはずだ。
 ゆっくりと、眼を開けた。
 そこは闘技場だった。
 ……生きてる?
 相変わらず風景が熱で揺らいでいた。
 ……生きてる……
 徐々に感覚が戻ってくる。
 ……生きてる!
 眼を見開く。その先にはウィバロがいる。その手には、七つの銃身を回転させて破壊の洪水を吐き出す砲魔術がある。だが、銃身が虚しく回転するだけで、致命の呪弾式は一向に射出されない。
 弾切れ。正確には、“燃料”となっていた剣の高濃度攻撃意志をすべて使い切ってしまったために、なにもできなくなったのだ。
 だが、ウィバロはそれに気付いているのかいないのか。真円に開かれた眼のまま、無為に機関砲を作動させ続けていた。
 レンシルは、自らの肉体に尋ねる。
 ――動ける?
 応えが返ってくる。
 ――微妙。
 根性出しなさいよ、もうっ。
 一歩、踏み出した。途端に、酷使され続けていた全身が軋みとともに痛みを訴えた。かまわず、もう一歩。全身の火傷が熱を帯びる。痛い。すごい痛い。死にそう。泣きそう。
 でも、踏ん張らなきゃ。
 歩く。脚を速める。
 駆け出す。速く。疾く。
 術を紡ぐ。頭がぐらっときて、前に倒れかかる。
 辛うじて膝を突く。
 やっばい、もう限界なんだ。
 でも、駄目。まだ休ませてあげられない。
 軋む首をもたげ、ウィバロを睨みつける。もう余裕がない。勝機は今しかない。
 そう、あと少し。あと少しでいい。
 動け!
 起き上がりざまに地面を蹴り付ける。身体を前に押し出す。
 抜け!
 同時に形相を組み、刃を引き抜く。これまでの、身長に迫る長さの長大な剣とは比べるべくもない、包丁のような刃を。遠のく意識を必死に抱き寄せる。
 ウィバロは、目の前にいる。
 魔王はやっと我にかえったのか、銃身の回転が止まる。まだ余力を残しているようだが、もう遅い。どんな術式を紡ぐにせよ、こっちの一撃のほうが早い。それに、元々ウィバロは障壁にほとんど力を割いていない。もうわずかな魔力で吹き散らすことができる程度の耐久力しか残っていない。
 これで終わり!
 満身の力で腕を突き出す。ウィバロの顔からはすでに驚きの色が消えかけ、諦め、次いで自嘲の笑みが浮かび始める。惨めな敗者として自害するのも自分には似合いだ、とでも思っているのだろう。
 刃は、障壁に触れる直前の位置で止まった。
 止まったまま、数秒間が過ぎ去る。
 ウィバロの眼に、徐々に疑問が浮かび上がり始める。
 会心の笑みが浮かんでくるのを、レンシルはこらえられなかった。
 これだ。これがやりたくて、これのために今まで戦ってきたのだ。
「えへへ」
 さすがに、こんなことをするのはバツが悪いけど。
 でも、まぁ、仕方ないよね。
 レンシルは、ウィバロの喉元から、ゆっくりと刃を引き戻した。そして術式を解き、刃を消した。
 呆気にとられているウィバロに、にんまりと笑いかける。それから勢いよく振り返り、闘技場にいるすべての人間に向けて、大きな声で宣言した。
「すいませーん! 棄権しまーす!」

27
 会場中を怒号が飛び交った。フィーエンの聞こえた限りでそれらひとつひとつの意味を拾うなら、「ふざけるな」とか「真面目にやれ」とか「引っ込め」とか「何考えてんだ」とかまぁそういうようなものが大多数を占めていた。
 それもそのはず。剣魔術師レンシル・アーウィンクロゥは絶対に勝利の揺るがない状況にありながら、自ら試合を放棄してしまったのだから。
 隣の二人は口を閉じるのを忘れているようだった。
「何考えてんだあのバカタレは」
「……いえ、彼女のやることです。何か考えがあるのでしょう……多分」
 あからさまに憤慨しているエイレオと、戸惑いを隠せないベルクァート。
 だが。フィーエンだけは違った。まさか、と驚く気持ちもあったが、やっぱり、と納得する思いのほうが強かった。ウィバロの過去を呪媒石の中で知り、レンシルの人なりも知っているフィーエンは、ある意味で誰よりも真実に近いところにいた。
 不意に、低く押し殺した声がどこからともなく漂ってきた。誰も気付かぬ程度の声量でしかなかったが、フィーエンだけはそれを聞きわけた。あるものと予想していたために、周りの雑音を頭から排し、その音を抽出することができた。 
 舞台の中央にいるウィバロから発せられていた。
 すこしづつ、すこしづつ、それは大きくなってゆく。
 フィーエンの祖父はうつむいて、片掌を顔に当てて。肩が痙攣している。
 すこしづつ、すこしづつ、それは膨れ上がってゆく。
 やがて、フィーエン以外の観客たちも気付き始める。
 すこしづつ、すこしづつ、それは忍び笑いとして認知されてゆく。
 いつしかそれは堰を切る。洪笑となる。大音声が撒き散らされる。まるで質量を伴っているかのような、あらゆる他を圧する笑声の爆発。
 そこにいた全員が気圧され、レンシルに罵声を浴びせることを忘れた。
 しばらくして笑いを納めたウィバロが、威力を帯びた視線をレンシルへ叩き付ける。
「意趣返しか。三年前の意趣返しのつもりか」
 身を震わせ、くつくつと笑動を噛み殺す。
「まぁそんなところです。すこしはわたしの気持ちがわかりましたか?」
「“死ぬ気をなくす結果”……そういうことか……」
 こらえきれなくなったのか、ウィバロは再び天を振り仰ぎ、世界すべてを笑い飛ばす。
「アーウィンクロゥ! 敗北していながら相手の気まぐれで勝ちを譲られるということが、よもやこれほど気分の悪いものとは思わなんだ! この屈辱は忘れんよ! 絶対に!」
 灼熱の激情を横溢させた怒声。その貌には生命力が満ちていた。一気に十年は若返ったような相貌。……いや、若くなったというよりは、元に戻ったとするべきか。
「三年間! 賞杯は預かっておいてやる! 次の魔法大会で、この借りは返す! 叩き潰す! 完全に! 完璧に!」
「待ってますよ。ま、どうせわたしが勝つでしょうけどね!」
 剣呑な笑みを両者は交わす。
 そして次の瞬間――
 二人とも、唐突にくずおれた。力を根こそぎ失ったかのように。地面に倒れる。
「お爺ちゃん!?」
「姉貴!」
 声を上げながら、フィーエンとエイレオは立ち上がる。
 限界だったのだ。ウィバロは喀血しているし、レンシルは意識を保つのもやっとな状態だ。お互い言うべきことを言い終えて、気が緩んだのだろう。それほど、二人の戦いは激しく、憔悴を強いるものだった。そして命をも。
「お爺ちゃん!」
 嫌だ。
 フィーエンは観客席の手すりから前に乗り出した。
 嫌だよ!
 思いが突き動かすままに、手すりに脚をかける。
「バカ、あぶねえ!」
 エイレオに後ろから羽交い締めにされなければ、二階以上の落差も眼に入らなかっただろう。もどかしい。今すぐ祖父に駆け寄りたいのに!
 かたわらで、風の流れが急激に変わった。
 ベルクァートが手すりに手を当て、構文を呟いている。すぐに手の先の空気が収斂し、安定した。透き通る結晶は、ここから舞台までをつなぐ階段の形をしていた。
「お行きなさい」
 口の端を吊り上げるベルクァート。
「あ、ありがとうございます!」
「恩に着るぜ!」
 フィーエンとエイレオは、同時に階段へ身を乗り上げ、駆け出した。
 見ると、運営側の救護班も担架をかついで舞台に駆け込んできているところだった。
 舞台を囲む六つの呪化極針によって展開される絶縁障壁は、驚いたことに赤熱して融解していた。魔導光学整流発振砲の極大威力は、魔法大会千年の歴史において一度たりとも損なわれなかった古代魔法の叡智を突き破り、観客席下の壁面に大穴を穿っていたのだ。
 その穴の角度から、ウィバロが観客たちに危険がないように射角を調整していたことを知る。最初に極光を撃った時、一旦上空に配置した円環術法によって軌道を曲げ、上からレンシルを狙わせたのも、そういう配慮があってのことだったのだ。
 唸りとともに消失した絶縁障壁を乗り越えて、フィーエンとエイレオは倒れた二人に駆け寄った。
「お爺ちゃん!」
 抱き起こす。
 祖父は、微かに反応を返した。
「……む……」
 そこへ救護班が来た。迅速に魔導師たちを担架に乗せ、移動し始める。
「フィーエン……」
「うん、なにっ?」
 フィーエンは彼らに付いてゆく。
「見たのか」
 何を、とは聞かなかった。わかっていたから。
「うん……見た。見たよ。それで、わかったよ」
「そう……か。すまんな、お前にはイシェラのことは伏せていた。過ちを知られるのが、恐ろしかったからだ。それを、謝りたかった」
「うん……」
 彫りの深い顔からは張りつめていたものが抜け、穏やかに弛緩していた。
「俺はな」
 ウィバロはわずかに苦笑を浮かべ、横を見やる。並んで運ばれながら、弟とやかましく口論しているレンシルを見やる。
「アーウィンクロゥに、感謝している。彼女と討ち合っていると、己の小ささと弱さを照らし出され、笑い飛ばされたような気がする」
「うん……そうだね」
「まだまだ死ねん。この貸しと借りは、両方返さねば腹の虫が収まらん」
 不敵に、獰猛に、魔王は笑む。
「もう、過去の幻影に惑わされるのはやめだ。思えばあれのせいで、アーウィンクロゥにとんだ狼藉を働くところだった」
 そう言って、ウィバロはフィーエンの首に掛かる呪媒石を手に取った。
「もう、この石は捨てよう」
「それは、違うと思うっ」
 急に湧いてきた衝動のままに、そう言い放った。
 ウィバロは、怪訝そうにこっちを見る。
「呪媒石に過去の情景が保存されていたことの意味について、僕も、お爺ちゃんも、もっとよく考えたほうがよかったんだね」
 呪媒石には、確かに過去の一場面が三次元的に保存されていた。だが、呪媒石とは本来古生物の化石にすぎない。情景を記録するには、何者かの意志と呪式が必要なはずだ。
 何者かの。
 ウィバロの眼が、見開かれてゆく。
「では、イシェラが……」
「察していたんだと思う。こうなることを」
 イシェラはそのために、世界を余すことなく感得し、魔導構文として再構築する術式を彫り込んだ。つまり世界の偶像とは、イシェラの伝言。そして、自身の生涯をかけた研究の成果。夢の跡。
「そうか」
 万感を込めた吐息とともに。
「俺は」
 岩の間から清涼な水が湧き出てくるように。
「ずっと気付かなかったのか……」
 ウィバロの眼から。

 

「動けるようになったら、墓参りに行こう。ずっと……会いに行ってやれなかった」
「……うんっ」

 

「決めたっ! わたし、旅にでる!」
「何ィ!?」


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