鈴虫も寝静まる涼夜。
スサリエ邸には二階にも露台があり、シトは島の海岸付近に広がる街を一望していた。
「ラーニちゃん、ちょっと内気なコね」
後ろから声がかかった。
ふりむくと、薄い夜着に肩掛けを羽織ったスサリエがそこに佇んでいた。
シトは実感を込めてうなずく。
「まだ固くなってるっていうか、心の底で『知らない人』を怖がってるっていうか」
シトは軽く首をかしげる。
ただそれだけで、彼女にはこちらの意志が伝わったようだ。
「うん、そうなんだけど、やっぱ少しさみしい、かな?」
シトは唇を動かし、何事かの意味を伝えた。
夜風で柔らかく揺れる前髪を、スサリエは手の甲で押さえる。
「うん、いいよ? ラーニちゃんは責任を持って保護させてもらうわ」
それから、にぱっ、と笑う。
「どうやって仲良くなろっかな〜。とりあえず二人でお買い物してぇ、いろいろお洋服も選んであげたいしぃ、一緒に甘いもの食べたりぃ、ちょっとお酒も飲ませちゃおっと。……その後はその後はぁ〜……んふふっ」
頬を両掌で覆って見せかけだけの恥じらいを演じながら、スサリエは腰をひねってしなを作る。
シトは半眼の視線を浴びせかけた。
「えー、何? せっかくできたかわいい彼女を同性愛の道に堕としたくない?」
スサリエは恋に関して異常に開放的だ。彼女は恋人を選ぶにあたって、性別にはまったく頓着しない。ついでに言うと人数にも頓着しない。
男性の恋人は四人。
女性の恋人は三人。
いいのかそれ、と思わないでもないが、彼女の恋人たちはそれぞれが好き勝手に睦み合って複雑な多角関係を形作っていて、その中心にいるスサリエもまるで嫉妬心にかられている様子がないので、少なくとも公平ではある。
当人たちが納得しているのなら、まぁ、よいのではないかな、とシトは思う。
小さくため息。肩を落す。
「……あぁもう、わかったわよ。シトとラーニちゃんは何でもないのね、はいはい」
スサリエは細い肩をすくめる。
「で、さ」
声色がわずかに低く落ち着く。
「ラーニちゃんって、〈ギセ・ムの右眼〉に命を狙われてるんだよね?」
シトはうなずく。
「こういうこと言うのは癪だけど、たぶん、わたし一人じゃ守れない。あいつら、半端じゃない」
シトは目をしばたき、首をかしげた。
確かにスサリエの実力はシトも認めるところではあるが、もちろん組織だって追ってくる相手には対処しきれないだろう。
ならば市参事会に掛け合って、援勢を要請すればよいのではないか。独立剣廷吏には、その権限があったはずだ。
「いや、わかってる。あんたがそれをアテにして来たこともね。でも多分、上はそういうことに人員を割いてはくれないと思う」
シトは眉をひそめる。
「ごめんね……今のところ、市参事会は〈ギセ・ムの右眼〉の存在を黙認しているの。奴ら滅茶苦茶強いわりに、あんまり派手な悪事をしていないから、無理に制圧しようとしても割に合わないって考えてるみたい。もちろん、表向きには組織撲滅に全力を挙げてるってことになってるけど、格好だけ」
唇を噛む。
「正直、屈辱だわ。国という理念の敗北ね。相手が強いってだけの理由で、法が曲がるなんて」
シトは心持ち視線を落とす。
失望はしたが、同時に理解もする。完全武装した錬度の高い兵士が数十人集まったとしても、下っ端の虚剣士ひとりすら止められないだろう。それほどまでに彼らは常識はずれの存在なのだ。
その上虚剣術の使い手たちは、分が悪いと感じれば虚相界に入り込むことで悠々と退却できる。
これでは、いくら大戦力を投入しても無意味に被害が増えるばかりだ。相手にしたくなくなる気持ちもわからないではない。
「あっ、もちろんわたし個人は全力全開で協力させてもらうわよ? シトの頼みだし、ラーニちゃんかあいいし、どんな理由だろうと子供を殺そうとするような奴らに頭下げるのなんて嫌だし、ラーニちゃんかあいいし、上の都合で正しいことができなくなるとかムカつくし、ラーニちゃんかあいいし!」
結局それか。
シトは苦笑を浮かべながら、古風な礼で謝意をしめした。
「お、大げさね。ただやりたいことやってるだけだって」
照れたような声。
シトとしては、最初からスサリエの性癖を見越してラーニを連れてきたところもあり、軽く罪悪を感じでいるくらいなので、頭を上げられない。
「あ、でも、ひとつだけ条件!」
スサエリ両掌を打ち合わせた。
「シトもウチに居て……ね? ラーニちゃんもそのほうが安心だろうし、戦力的にも心強いから」
もとよりそのつもりだった。力を込めてうなずく。
遠からず、絶望的なまでに苦しい戦いが起こるだろう。
気の置けぬ間とは言え、彼女を巻き込んでしまった責任は、しっかりと身に刻まねばなるまい。
だが、それでも。
シトは、誰に迷惑をかけようともラーニを護るつもりであった。
そうせねばならない理由があった。
「ん、よろしいっ」
かすかに甘い香りが漂ってくる。間近でスサエリの麗貌がこっちを見上げていた。一瞬、青い瞳の揺らめきに眼をとられる。すい、とその瞳が近づいてきて、唇に。
「おやすみっ」
してやったりの顔でスサエリは屋内へ引っ込んでいった。
●
ラーニは数ヶ月に一度、決まった夢を見る。ここ最近はルキスの討たれた情景ばかりが夢枕に立ち現れていたものだが、これでも落ち着いたということなのだろうか?
――かび臭い石造りの一室だった。
天井近くに開いた通気窓から、飴色の光が射し込んでいる。
そこへ、三、四歳の子どもがべそをかきながら入ってきた。
間違えようもなくそれは、ちいさい頃の自分だ。第三者的な視点で、ラーニはそれを確認する。
幼いラーニは眼をこすり、かすかな希望を込めて部屋を見回す。
だけどもちろん、そこもまた彼女の知らない部屋だった。
「ふぇ……っ」
ちいさな唇が震えた。心の堤防は決壊し、ラーニはうずくまって泣き出した。
「どうして、そんなに泣いている?」
不意に、そんな声が聞こえた。
「ひぐっ……?」
ぐしゃぐしゃの顔を上げる。しかし誰もいない。見えるのは、夕日によって寂しい陰影を付けられた、心細い光景だけであった。
「空耳ではないよ。ここにいる」
また、聞こえてきた。
落ち着いた女性の声だった。
「ど、こ……?」
「眼の前に扉があろう。その中だ」
たしかに、そこには扉があった。見ただけで頑丈なつくりであることがわかる。貧相で薄汚れた部屋の中では浮いていた。
真ん中に覗き窓のようなものがあったが、今は閉じている。幼いラーニには、それが囚人へ食事を与えるためのものであることがわからなかった。
こんこん、と窓が向こう側から叩かれる。
「開けてはもらえないか? こちらからでは無理なのでな」
おずおずと歩み寄る。背を伸ばし、留め金をつたない手つきで外す。
中から、予想外に若い顔が現れた。声の様子から、てっきり母ルキスと同じく妙齢の女かと思っていたけれど、実際はまだ幼さすら残る少女だ。十歳をいくらも過ぎていない。
「ありがとう。こんなところにいると暇で暇でしかたがなくてな」
落ち着いた、典雅な微笑。
こくり、とラーニはうなずく。
「それで、どうして泣いていた?」
かすかに首をかしげながら、穏やかに問うてくる。
「……まよったの」
ラーニは再びそのことを思い出し、大きな瞳に涙をためた。
「ふぇぇ……」
「あぁ、これこれ」
少女は困ったように頭をかく。
あごに指で触れながら少し思案し、「ふむ」彼女は窓から細い腕を伸ばした。
「うむ、まぁ、なんだ、そう泣くな」
「ぅ、ぁ……」
ぐしぐしと頭をなでられて、ラーニは顔を上げた。柔和な眼がそれを出迎えてくれた。
「君のようなちいさい子がこんなところに迷い込むとはな……心配しなくていい。もうすぐ迎えの人がやってくる」
「むかえ?」
聞き返すと、彼女の瞳に寂しげなあきらめの光が宿ったような気がした。
「もうそろそろだ。……ふむ、それまで話し相手になってはくれないか? もう、何日も人と喋っていないんだ。さみしくて、な」
困ったように微笑む。
それから、二人はさまざまなことを話し合った――というよりも、ラーニが一方的に喋り、相手は相槌を打つことがほとんどだった。
楽しかったこと、つらかったこと。
こないだザムロに街に連れて行ってもらったこと。ナシーヴはあんまり構ってくれないこと。ディザルはなんだかお父さんみたいだということ、かあさまとはほとんど会えないこと。
ラーニは眼を輝かせてしゃべった。〈ギ・セムの右眼〉にラーニと同性の子供などいなかったので、単純にうれしい。
いつしか夕日はすっかり沈み、部屋は暗闇に満たされていた。しかし少しも怖くない。
「ねえ、どうしてそんなところにいるの?」
「うむ、まぁ、いろいろあってな、閉じ込められているのだ。……そんなことよりも、ラーニの話を聞きたいな」
どうも、あまり自分のことは話したがらないようだ。しかし、幼少のラーニはそんなことには気づかない。
「どうして閉じ込められてるの?」
「……それは……」
言いよどむ。
ラーニはますます首をかしげる。
そこへ、足音が近づいてきた。異様に規則正しい歩調だった。
やがて角灯の光に先導されながら、ひとりの青年が入ってきた。匂い立つような美貌を穏やかに微笑ませている。
「あ、ゼノート」
ラーニは無邪気にその名を呼ぶ。
「おや、心配しましたよ。こんなところで何をなさっておいでで?」
ゼノートはしゃがみこんでラーニと目線を合わせた。
その様子のどこからともなく、ラーニは不吉な予感を感じとった。
「……おはなし」
「それはそれは。しかし夕食の時間に遅れてはいけませんよ」
ゼノートはそれきり興味を失ったのか、立ち上がった。錠前を取り出すと、牢の戸を開ける。
「出なさい。時間ですよ」
しかし、中から少女は出てこない。いかなる反応もない。
「さぁ、出てきてください」
ことさら声を荒げるでもなく、ゼノートは牢に入り、少女の腕をねじりあげながら出てきた。
「っ」
少女はよろめきながら引きずり出される。苦痛に顔が歪んでいる。身にまとう襤褸の破れ目からのぞく肢体は、あまりにもやせ細っていて、女性らしい丸みもなにも削げ落ちていた。
「……ぇ……?」
不吉な予感はさらに強くなる。理由のわからない焦りが体中で騒ぐ。
ゼノートはそのまま部屋の出入り口に向かう。
「ねぇ……まって……まって!」
「どうかしましたか?」
振り返り、柔らかく笑む。
「どうして、つれていくの……?」
「はぁ、〈ギセ・ムの右眼〉への反逆罪というやつでして、処刑する予定ですが」
すると、少女は瞳の熾火でゼノートを刺し貫く。
「こんな幼子に、教えることはないだろう……!」
ラーニは胸に打ち込まれてきた冷たい衝撃に、息を詰まらせていた。
どうして、そんな。
別段、何か考えがあったわけではない。
ただ、黙っていることはできなかった。
「だめ! ぜったいだめ! だめぇ!!」
力の限り。
はじめての反抗。
過去にあった、ひとつの情景。
しかし、夢は統一性をもたない。
ラーニ自身がそうと意識しないうちに、脈絡もなく場面は移り変わっていった。
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