前を歩くシトの黒い影を追いかけながら、ラーニはきょろきょろとあたりを見回した。
大勢の人々が行き交っている。水揚げされた大量の魚介類がちょっと生臭い。しかしあたりを包む喧騒は、そんなことには一顧だにせず、つづいている。
シルドミラ市は、今日も普段と変わりなく回っていた。
海上から突き出る古代の巨塔と、それを囲むように存在する環状群島シルドミラ。凄まじい勢いで隆起した塔に、海底の土が押し広げられたようにも見えるその特異な景観は、古来から宗教的な聖地として、最近は観光地として、シルドミラ市参事会の財政を助けている。また、東からくる海流に乗って微生物が豊かに生育し、それを食べに集まってくる魚類が大規模な漁業を支えていた。
総じて、シルドミラは平均以上には繁栄している。
「ねえ、シト。どこに行ってるの?」
少し足を速め、ようやくシトの横に追いついた。
手招きで連れられて外に出たのはいいけれど、ずんずん先に進むシトからはぐれないようにするだけで精一杯だった。
ラーニはあれから、すぱりと気持ちを切り替えることに成功していた。
シトとも、つかずはなれず適当な距離をおいて接することができている、と思う。喪失感と愁傷はいまだ埋めがたいけれど、それは自分の心が弱いから。いずれ、時間が痛みを癒してくれるはず。
しばらく歩くと、市街地を出た。こんもりと緑の生い茂る丘陵へとつづく道を進んでゆく。
ひとしきり登っていると、樹々の間から巨大な人工物を現れた。
「……すごい」
豪邸だった。
黒い鉄門が重厚な威圧感を出している。格子ごしに中を見ると、広葉樹で区切られた広大な庭が身を横たえていた。一面緑の芝生だ。
シトはためらいもせずに門を押し開いた。芝生とは鮮やかな対照をなす橙色の煉瓦道を進んでゆく。
ラーニもおっかなびっくりついていった。
長方形の庭園は、中央に長細い池が掘られていた。その周りを多彩な樹木と煉瓦道が縦横に埋めている。
そして庭園の最奥部には、淡い桃色の壁に薄紅色の屋根、真っ白な柱をもつ瀟洒な邸宅があった。
思わず感嘆のためいきをついた。
シトに手を引かれるままついてきたものの、この屋敷が誰のもので、なぜシトはここに来たのか、なにもわからないままだった。
そのとき、ひどく唐突に。
「え!?」
巨大な爆発音が轟いた。木々の梢頭を揺らす。
唖然とするラーニの前で、邸宅の裏手から煙がのぼりはじめる。
シトが黒い風のように駆け出した。
慌ててそれを追う。
建物の裏側に回りこむと、そこには女性がひとり、細い腰に手を当てながら立っていた。
しげしげと、倒壊してゆく豪邸の一部を眺めている。
「いまいちね。材料配分まちがえたわ」
わずかに残っていた柱や梁が地面に落ち、間抜けな音を立てる。
シトは大きな足音を立てて彼女に歩み寄っていった。
女性が振り返る。肩よりわずかに上までのびる金髪が揺れ、きらめく。
「あっ、シト! ひさしぶりー」
ぱっと輝く顔容がこっちを向いた。
「最近ちっとも会えなかったわね。換金場にも全然顔出さなかったって言うし、ひょっとしてなにかあった? ……って」
シトの反応を待つまでもなく、彼の横からひょっこり顔を出してこっちを見た。
「あら?」
好奇心を隠そうともしない笑み。
「あらあらあら?」
すすすすすっ、とラーニの方へ寄ってくる。
ぶつからんばかりにすぐそばで止まると、少し体をかがめて覗き込んでくる。
近くで見ると、息をのむほど綺麗な人だった。
美しさならルキスもかなりのものだったが、その貌はどこか鋭利でしなやかで思わず拝みたくなってくるような、性別を超えた至美であった。
一方この人はもっとわかりやすい。女性的な色香と一つになった、危うい優艶さがある。
いつまでも見つめられて困り果てるラーニ。こういうとき、どう反応すればいいのか、とても不安になる。
「……あ……あの……」
すると彼女は優美な眉を切なげに寄せ、祈るように両手を組んだ。
「きゅわいい……」
眼は潤み、口元は蕩けて綻んでいる。
そしていきなり、にぱっと笑うと、鼻がくっつきそうな至近まで擦り寄ってきた。
思わずのけぞるラーニ。
ほのかに甘い香りが漂う。
「ねっ、あなたの名前はなぁに? お姉さんはスサリエ・リフィナプスっていうのっ」
「ラ、ラーニ・ザリトゥ……です……」
「やぁん、ほんときゅわいぃ〜」
さらに抱きしめられて頬ずりまでされる。
――あ、シトとはやっぱりちがう……
抱きつかれて逆に落ち着いた。肌の質感や体の柔らかさ、力の入れ具合など、びっくりするほど差異がある。
シトはこちらを気づかって包み込んでくれる感触だったけれど、この人はぜんぜん遠慮なく密着してくる。なんだか人なりが現れているようで、ちょっとたのしい。
心身がわけもなく安らいで、目蓋が重くなる。
あぁ、また――
「わきゃっ!?」
――と思ったところで、スサリエの体が強引に引き剥がされる。
見ると、シトがあきれた顔で彼女の襟首をつかんでいた。
「あーん、なにすんのよもう! いまからあれやこれやといかがわしいことをば……!」
白皙の青年は、皺の寄った眉間を揉みほぐしている。
そして破壊された壁の穴から、屋敷の中へとスサリエを引きずってゆく。まだな何かわめいている彼女には一切の反応を返さない。
途中でシトはこっちを振り返った。目元を緩め、手招きした。
それでやっと許されたような気分になる。ラーニは二人に追いつくために駆け出した。
●
使用人たちがてきぱきと動き、謎の爆発の跡はひとまず綺麗に片付けられた。皆、まったく驚いていないどころか、ためいきをついている。
庭園にせり出た露台で、小さな茶会が開かれた。
硝子の器に注がれた茶が、白い石の円卓に薄紅の影を投げかけている。隣には、蜂蜜に漬け込んだ林檎が冷えた皿に盛り付けられていた。
事情が話し合われる。
地監府の下に存在する司法機関であるところの市参事会において、スサリエ・リフィナプスは独立剣廷吏という特殊な役職についている。
「独立剣廷吏っていうのは要するに、『お巡り』と『判事』と『首切り役人』の仕事を一人でこなす偉い偉い人なわけよ。えへん」
にんまり笑うと、ますます子供っぽく見える。
独立剣廷吏は、捜査、逮捕、裁判、刑罰などの諸権限が一個人に集中する役職だ。民主化が進むこの時世においては「前時代の因習」と批判されることも多かったが、あまりにも柔軟性に欠ける通常司法の不足を補うためには、今のところ必要なものだった。
「処刑も……やっちゃうんですか……?」
「うーん、正直に言うと、そういう判断をしたこともあるの。二度ほどね」
スサリエは少しだけ眼を伏せる。
「そうならないうちに罪人をふんじばるのが仕事なんだけど、ね」
ラーニが謝ろうと口を開ききらないうちに、スサリエは話題を切り替えた。
「さて! そういうわけで偉くて強い独立剣廷吏のお姉さんが何でも相談にのりましょう!」
「あ、はい、あの、えと……」
何から話したものやら。そして何を話したものやら。
そのとき、横合いからすっと羊皮紙が差し出された。
シトが、さっきからずっと何事かを羽根筆で記していたのだ。
スサリエはしげしげとそれを読む。
眼が鋭く細まっている。
横から覗いてみると、ラーニが拾われてから今までの顛末がまとめられていた。
彼女はしばらくそれを熟読した。
「……信じられない……」
低く抑えられた声。
いきなり顔を上げた。
「あ、あなたたち、二人っきりで数週間も過ごして何もなかったわけ!?」
いくばくか、無言の空白が生じる。どう反応したものかまるでわからないラーニは、ぽかんとスサリエを見上げながら、機械的に紅茶をかき混ぜつづけた。
シトの羽根筆が走るさらさらという音は、ほとんど意識されない。
庭園で小鳥がさえずっている。
やがて提出された羊皮紙には、こんなことが書かれていた。
『男女の間柄が色恋沙汰以外にありえぬのは、いささか不幸なことだと俺は思っている』
「うわ何そのつまんない反応。ちょっとは照れてよ、空しいから」
卓の上に両肘をあずけ、両手を組む。
「……で、それはともかく。あんたの家でラーニちゃんを匿っていたんだけど、どうも先方にそのことを知られちゃってるみたいなんで、ここで保護してもらいたいわけね、要するに」
シトはうなずいた。そして神妙に頭を下げる。
「うん、いいわよ? それくらい」
明朗に、簡潔に、スサリエは即答。ラーニのほうを向いた。
「ラーニちゃんはどうしたい? こいつのことだからどうせあなたには何も聞かせずに連れてきたんでしょうけど、わたしはあなたの意志が聞きたいな」
「わ、わたしは」
唐突に問われて、いささか答えに窮する。
そして、己に問う。
どうしたい?
冷たい眼。冷たい言葉。冷たい刃。
そして、ディザルという名の、人型の恐怖。
今でも忘れることのできないそれら。
答えはすぐに出た。
「わたしは……生きたいです。死ぬの、とても、怖い、から……」
つい、うつむいてしまう。
どう考えても、それ以外の思いなどなかった。
本当なら、かあさまの仇を討たなければいけない。あるいは、誰にも迷惑をかけないように一人で死を受け入れないといけない。そう思う。
思うけれど、結局そのどちらもできない自分が本当に嫌になる。
ちゃんと相手を見なければ。そうも思うけれど、不用意に動くと涙があふれてしまいそうだった。こんなことではいけないのに。情けなさがさらに涙を煽る。
頭に掌が置かれた。
「命が惜しいっていうのは、恥ずかしいことじゃないよ。むしろ、そこまで大事に思える人生を持てたことを、誇らなきゃ。わたしはそう思うな」
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