さっきのは寝室として、ここは居間、か。
 大量の書物が雑多に積み重なっていて、足の踏み場は、あんまり、ない。
 くぅ…というかすかな呼吸音にぎょっとして振り返ると、人が革張りの長椅子で眠っていた。
 端の手すりに頭を乗せ、もう一方の手すりには太腿を投げ出している。かなりの長身だった。黒衣から浮き出る肉体は痩身だが、貧弱さよりは鋭利さを発散している。
 そして……何のまじないか、顔面に大きな枕を乗せていた。頭全体が布と綿の塊にのしかかられて完全に見えなくなっている。よくよく耳を澄ませてみれば寝息がなんだか苦しそうに聞こえなくもない。
 ……取ってあげたほうが、いいのかな。
 しばらくためらっているうちに、窓の木戸の隙間から漏れてくる陽光が眼に入ってきた。
 すでに日は高い。息を吐いて決心を固める。
 寝ている彼に向き直る。手を伸ばして、恐る恐る巨大な枕を持ち上げた。
 その下から、世界中の苦悶を一心に受けているかのような顔が出てきた。なにもそこまで、と諌めたくなるほど苦しそうだった。
 だが、すぐに呼吸が楽になったのか、寄せられていた眉は安らかに定位置へと戻っていった。
 案の定、浜辺でラーニを拾った、あの人だ。身体のほうを見ると男性なのだろうが、白く線の細い体格は性別を感じさせない。それに、疑問とか警戒とかそういうものを根こそぎ溶かしてしまいそうな造形だ。見ているだけで気持ちが落ち着いてくる。
  典型的なアレンシエの民だった。彼らは一征紀ほど前に初めてこの文化圏と接触した人種である。深い樹海の深奥でまばらに生活しており、自然や芸術、哲学を愛する精神文化を発達させてきた、静かなる賢者たちだ。
 肩を揺すってみた。
 しゅぅ、と気持ち良さそうな寝息がそれに応えた。
 もうすこし強く揺すってみる。
 肩から一瞬遅れて顔と髪が揺れる。
 が、それだけだった。
 脱力して溜め息をつく。
 こうなれば実力行使。
「……ぇぃ」
 鼻をつまんでやる。こんな時間まで寝てるほうが悪いのだ。
 一瞬にして、まるで砂漠を長い間さまよってやっとたどりついた楽園から再び砂漠へと追い出された人のような感じで、表情は苦渋に沈む。
 ぴすぴすと、つまんだ鼻の奥から空気が出口を探して右往左往しているさまがわかったが、離してやらない。
「息、したかったら起きて」
 耳元で言ってみる。
 ぴくっと彼の目元が震え、薄く瞼が開いた。
 お。
 手を離し、そのさまを見守る。
 ゆらゆらと不安定に瞼は揺れ、瞳が現れたり隠れたりする。
 じぃ、と見守る。
 ゆらゆら。
 じぃ。
 ゆらゆら。
 ……いらいら。
 しばらく見ていると、再び眼が閉じかけた。
「おきろっ」
 くぅ、とか、うぅ、とかいう呻きを上げて、ついに彼は動き始めた。ごろんと転がって長椅子から落下。うつぶせの姿勢から背を逸らして上半身を持ち上げ、こちらを見る。
 ――かと思った瞬間、すごい勢いで額を床に打ち付けた。
 ごん。
 思わず、ちょっと身を引く。
 どんな業苦を受けているのかと思うような苦悶の呻きを上げながら、とうとう彼は身を起こした。
 茫漠とした眼で、こちらを眺めている。
「あ……」
 こちらが何か言いかけると、彼は手振りでそれを押しとどめ、立ち上がった。つられてこちらも立ち上がる。
 立ち向き合ってみると、本当に背が高い。ラーニの頭のてっぺんが、彼の鳩尾と同じ位置なのだ。
 青年は、その長い躯を折って古い略式礼をした。
「……ど、ども……」
 思わずこっちもぺこりと頭を下げる。
 すると彼は自分の喉を指差して少し口を開き、息を吸ったり吐いたりした。
 最初は何の仕草かと思ったが、
「しゃ、しゃべれない……の?」
 ためらいがちに聞いてみると、穏やかに眼を細めてひとつうなずいた。
 そういえば今まで彼の無声音しか聞いたことがない。たぶん、声帯を震わせることができないのだろう。
「そう、なんだ……」
 彼は気にするなというようにかぶりを振り振り、柔らかく微笑んだ。
 その様子にちょっと救われる。ラーニは少し息を吸ってから、口を開いた。
「わ、わたし、ラーニ。その、たすけてくれて、あ、ありがとう……」
 やっぱりダメだった。初対面の人と向き合うと、どうしても緊張でどもってしまう。
 彼は気にした風もなくうなずくと、ラーニの持ち物が置かれている机の引き出しから羊皮紙を一枚取り出した。インク瓶の中に立っている羽筆で、そこに流麗かつ格調高い文字をしたためた。

『俺の名はシト。君という客人の相手もせずに眠りこけていた無作法はお許しあれ。朝は弱いのだ。怪我の調子はいかに? 君は二週間昏睡していたが、それしきの安静で完治する傷でもないとお見受けいたすが』

 それが、出会いだった。

 ●

 結局、ふたたび寝台へ連れ戻されてしまった。
『まだまだ動いてよい状態にあらず。怪我人は安静にて回復を待つが務め』
 そんな書き置き。
 どうでもいいけどこのやたら古めかしい言葉遣いは何なんだろう。
 まぁ、でも、よかった。いいひとみたい。
 でもいつまでも迷惑かけられない。はやく怪我を治さなくては。
 ――治して、そのあと、どうするの?
 冷ややかな問いかけが、心の虚ろから反響してくる。
 ラーニは思わず自分の肩を抱きしめた。
 かあさまは、死んでしまった。〈ギセ・ムの右眼〉はあの三人≠フものになった。
 わたし、これから、どうすれば。
 そう思い立って、はじめて自分が世界のことを何も知らないことに気付く。
 どうすれば、いいんだろう。
 腕に力が込もる。震える。
 ――扉の開く音がした。
 毛布のなかから顔を出して眼を向けると、シトがお盆を持って立っていた。上の椀からは湯気が立ち上っている。
「あ……」
 青年はお盆を捧げ持ち、首をかしげた。
「う、うん、食べる。……ありが、とう」
 ラーニがそう応えると、シトは眼で微笑んで歩み寄ってきた。もちろん表情に明確な意味が込められているわけはない。だが、ラーニには口に合えばいいのだけれど≠ニ言っているように思えた。なんとなく。
 そして、そんな彼の細面を見ていると、なぜか胸の中にむずむずとしたものが燻るのだ。なつかしいような、せつないような、よくわからない愁い。

 ●

 幾日かが経った。
 シトは、こちらの身の上や負傷の原因などについては聞いてこなかった。
 実際にラーニの怪我の手当をした彼には、それが斬られてできたものであることは明白だったというのに。
 単に聞けなかったという以上に、気を使っているのだと思う。
 地監府公営の施療院に運ばなかったのも、その可能性を鑑みたのだ。
 ラーニがまだ命を狙われているという可能性を。

 ●

 ラーニはすでに歩いても問題ない程度には回復していた。
「シト?」
 長椅子で寝ている青年。
 相変わらず顔面に枕をのせている。以前聞いたところによると、『こうしないと寝付けない』んだそうな。
「おきて……くれない?」
 枕を取り上げ、耳元で言う。しかし彼は呼吸事情がよくなったせいで、より深い眠りの大海へ漕ぎ出そうとしていた。
「むぅ」
 腕を組んで見下ろす。
 ひょろりと長い身体は弛緩しきっていて、熟睡の極みとも言うべき様子だった。
 引き寄せられるように膝をつき、間近でシトの寝姿を観察する。
 なんだか、またしても胸の中にむずむずとよくわからないものが生じ始める。
 ……なんだろう。
 流れるような肢体。ゆるやかに上下する胸。無防備に閉じられた眼。
 長い睫毛と、ほんのり朱色の薄い唇は、性別を曖昧に見せている。
「だれかに、似てる……?」
 手が伸びる。青年の腕に触れる。やわらかいが、芯には硬い弾力がある。見かけによらず、かなり鍛えている。暖かい。
 胸中のむずむずは、さらに強くなっている。今やラーニは、それがある欲求であることを自覚していた。それはちょっとどうだろう、と自分の中の冷静な部分が諌める。
 だけど。
 ――どうせシトは昼ごろまで起きてこないし、ね。
 自らへの言い訳を終えると、身を屈めてさらにすり寄ってゆく。
 シトの腕に頬を寄せる。
 年頃の娘ならば、こういう時は鼓動が早くなったり頬が熱くなったりするものだということくらいは知っていた。だけれども、今ラーニの胸の裡にあるのは、暖かいものに包み込まれているかのような安堵感と、眠気であった。
「んぅ…」
 吐息。
 自分の両腕を回して、シトの右腕を胸に抱え込む。少し姿勢がつらいので腰を長椅子の上に乗せる。頬をより強く押し付ける。
 思わず、眼が細くなった。
 それは今まで感じたことのない、穏やかで静かな感動だった。体中から熱いものが集まってきて、細めた目尻で雫となった。
 いきなり出てきた涙に戸惑ったのも一瞬のこと、この理由のわからない感激を、いつまでも離したくないという思いで一杯になる。
 どうしてなのかは知らない。確かに言えるのは、自分はこれをずっと求め続けていたということだけであった。気怠い眠りの中へと、
「……ぅ、ん……」
 誘われてゆく。
 ぴく、とシトの腕がみじろきをし、心底つらそうな覚醒のうめきが漂ってきたのは、そんな瞬間のことであった。
 危機感が盛大に胸を打つ。ぱっと腕を放して立ち上がる。数歩下がる。
 ばくばくと心臓が暴れ回っている。
 シトはいつものようにうめきながら、いつものように長椅子から落下し、いつものように床へ額を打ち付けた。ごん。
 彼はぎこちない動作で立ち上がると、手を伸ばして机から羊皮紙と羽筆を取り、
『今、何かが
「シトっ」
 皆まで書かせず、腕をつかんでこっちに向かせる。
「その、あ、朝ごはん、つくってみた……んだけど」
 元々起こしにきた目的はそれだ。
 青年は一瞬眼を丸くし、つづいてふっと微笑んだ。唇で『いただこう』の言を象る。
 ラーニは心中で安堵の息をつく。
  頭の上にシトの掌が乗せられた。
 思わず眼が細まった。


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