首のない人間が立っていた。
 一体いかなる刃物で切り落とされたのか、断面は完璧な平面を成しており、赤い肉や白い脊髄が見える。どういうわけか血は一滴も出てこない。
 丸い胴。長い腕。大きな拳。短い脚。まるで戯画を思わせる異相の体躯。
 場所は、特にどうということのない安宿の一室だ。
 首なしのほかに、二人の人物がいる。美貌の青年と、荒んだ眼をした少年。
 咆剣のゼノート≠ノ、徨剣のスラファ≠セ。
 スラファは退屈そうに首なし人へ眼を向けている。
 すると、ふいにその体が動いた。首の断面が震えるように動きを見せ、急に面積が拡大する。同時に顎や歯や舌の断面が一瞬現れたかと思えば、すぐに薄く赤みがかった黄色の塊が断面のほとんどをおおいつくす。最後に面積がすぼまり、口を閉じた。
 そこには、脚を折り、手を床につけた姿勢で、禿頭の小男が佇んでいた。
 けは、と笑った。
 妄剣のクロンル≠ナある。
「あ、あにぎぃ、合図、きたぞ。ぶわぁーって、すげえぞ、ぶわぁーって」
「うっせグズ。場所を言え」
 耳の穴をほじりながら、スラファは気のない調子で応える。
「けはは、ここだぞ。じゅるぺーる街」
「おや、こっちに来ますか。好都合といえば好都合ですね」
 横でゼノートが穏やかに笑みを浮かべた。
 クロンルも、えはは、と品なく笑った。
 感情のうねりに首を突っ込みながら、この男は今までずっとディザルからの合図を待っていたのだ。
 ――ディザルの部隊がスサリエ邸に襲撃をかけてラーニを外に燻り出し、逃げた先に他の面々が網を張って殲滅する。
 そういう筋書きであった。
 虚相界においては、人物の感情がそのまま情景を決定する。ディザルが放った圧倒的な精神圧がシルドミラ島を覆いつくし、それが合図となった。
 もちろん、ただそれだけの合図では場所まで特定できない。しかし、極限の虚剣士たるディザルは、精神圧の形状や色を自在に変化させることができる。それを街の各区画と対応させるよう、事前に取り決めていたのだ。
 禿頭の小男――序列第七位妄剣のクロンル≠ノは、彼特有の能力があった。
 普通、虚剣士はあまり長く虚相界に留まっていられない。本来物質が存在しえない理の世界に無理やり入り込んでいるのだから当然である。並みの者では数分程度で精神が溶け出し、人格の劣化が始まってしまう。『自分』と『それ以外』の境界が曖昧な虚相界ならではの現象であった。
 だが、より強固に自我を保ち続ける精神力の持ち主であれば、人格劣化の始まりを遅らせることもできる。
 虚相界に留まっていられる時間の長さが、実力のひとつの目安となっているのだ。
 そして――
 クロンル・アブソカルは、確認されるどの虚剣士よりも長く虚相界に潜っていることができた。
 ほとんど半永久的に。
 ありえざることであった。
 その才能が、一体何に起因しているのか。
 この場にいる三人のうち、二人は知っていた。
 ――ともかく。
「じゃ、行きましょーぜ。小娘とそのおまけ、今のうち後腐れなくブッ殺しましょーぜ」
「ぶっころ! ぶっころ!」
 ゼノートは首を振る。流麗な金髪が揺れる。
「残念ながら、私はまだ出るつもりはありません。あなたがたは葬剣≠ニ玄剣≠呼んでください」
 眉をひそめるスラファ。
「そこまで界剣≠フ旦那に義理を立てるこたァないと思うんですがね」
「ですがねー」
「キオル・ザリトゥの『茶番劇』とやらが成就すれば、労せずして我々の目的も達せられます。それまでに彼のご機嫌を損ねることは得策ではありませんよ。今はせいぜい真実味のある演技を心がけることです」
「そりゃま、そう言うんなら従いますが……」
「ますがー」
「くれぐれも慎重にお願いしますね。ラーニ・ザリトゥに不審を抱かれてはいけません」
 スラファは立ち上がった。
「りょーかいであります、閣下(・・)
「かっかー」
 似てない兄弟は二本立てた指を振り、くだけた敬礼をした。
 唐突に、スラファは弟へ殺意の込もった眼光を送る。
「うっせハゲ。黙ってろ」
「けははは」

 

 ●

 

 森の中に潜伏するという選択肢はありえなかった。
 ラーニたちが逃げている相手とは虚剣士の集団である。虚相界に潜り込めば、不自然に孤立した三つの人影を見つけるのは簡単なことだ。
 戦いを避けたいのであれば、人の中に紛れ込むしかない。
 ただ、そのことは向こうも承知しているだろう。むしろ街にこそ重点的に手駒を置いているかもしれない。決して油断はできなかった。
「夜が明けたら、港の知り合いに掛け合ってみる。ひとまず島から逃げましょ」
 スサリエの言葉が、とりあえずの行動指針となった。
 瞬間に、ラーニは今最も出会いたくない相手を見つけた。
「……どしたの?」
 突然立ち止まったラーニに、スサリエとシトは眼を向ける。
 ラーニは前を凝視する。建物の影の暗がりで、人影がわだかまっていた。
 遅れてスサリエとシトもそれに気づく。
 その人物は歩き出し、月明かりのもとに出てきた。
 無機質な相貌が、青い光を反射して白く浮かんでいる。
 ナシーヴだった。
「来たぞ、黒犬」
 その声が夜気に溶けた瞬間、やっとその男の存在を認知したかのように、空気の質が変わった。
 ぞくり、と。
 その眼に、ラーニは以前までは感じなかった類の悪寒を覚える。
 なに。
 この、体内を幽霊の手にまさぐられているかのような。
 まるで、魂の底まで見透かされそうな。
 ――覚えが、ある。
 いつか、わたしはこれを受けたことがある。
 どこで?
 誰に?
 わからない。頭のどこかで、思い出すことを拒む動きがある。
 月光が翳った。
 シトが、ラーニの前に立ち、ナシーヴと対峙していた。
 その背中から、絶対に通さぬという意志が漂ってくる。
 嘲笑うかのように、ナシーヴの声が突き刺さってきた。
「……ふん。お前はいつもそうだったな、ラーニ・ザリトゥ。誰かの陰にかくれ、守ってもらうだけ。あの方の血を引いているという事実に伴う責任を、一度も考えたことがないと見える」
 実体のない手に喉をしめつけられる。
 何も言い返せなかった。
「冗談じゃない。弱いことが罪だった時代なんてとっくに終わったの!」
 後ろから、抱きしめられた。
 柔らかな肉の温かみが、衣服越しにラーニを包み込んだ。
「すくなくとも、女の子ひとりに群がって剣を振りかざすあんたたちよりはよっぽど強いですよーだ!」
 思わず、自分の前に回された腕に、手を重ねていた。
 だが、ナシーヴの声は冷然と飛来してくる。
「空疎な一般論だな。ほかの娘ならともかく、ラーニ・ザリトゥだけは強くあらねばならない。その義務がある」
「わけわかんないことを……」
「んなこたァどうでもいいからよ、さっさとはじめよーぜ?」
 きんきんと高い声が、耳に刺さった。
 スサリエはラーニから離れ、即座に後ろを振り返る。
 ラーニもそちらを向く。
 ――生首が浮かんでいた。
「……首っ?」
 一瞬、その光景の意味するところがわからなかったのか、頓狂な声を出すスサリエ。
 不遜な笑みを宿す、少年の首級。
 それが、こっちに向かって移動してくるのに伴って、首、肩、胸、腹、と水面から出てくるかのように姿を現した。
「……ははぁ、それが虚剣術ってやつね。はじめて見たけど、面白い手品じゃない?」
「単なる手品かどうかは、やってみりゃァわからァな」
 スラファの笑みが深くなった。口元の醜怪な皺もひきつれる。
 その眼に宿る生々しい光が、スサリエの体を舐めるように往復している。
 衣服を豊かに押し上げる胸元、しなやかな腰のくびれ、丸みを帯びた腰。
「――何よ」
 一歩身を引きながら、自分の体を庇うように抱きしめる。重く張ったふくらみが、圧迫されて柔らかく形を変え、腕の間からこぼれ出そうになる。
 スラファは渇、と眼を真円に開いた。目頭と目尻に赤い網が絡みついていた。
「うわァもうスゲェなおい辛抱たまらん超犯す!」
 骨のような両腕を背に回した。複雑な構造を持った金属塊を二手に握り、腕を打ち広げる。ばしゅっ、と発条の弾ける音。金属塊が展開し、握りの両端に点対称の曲刃がついた奇妙な武具となる。
「歯に衣着せろっ!」
 スサリエはこんな状況でもかすかに頬を赤らめながら、両腰に下げた弩を抜き放ち、敵手の額を正確に照準した。
「ラーニちゃん」
「は、はい」
「ちょっと隠れてて。すぐに片付けるから」
「でも……でも、わたしも!」
「大丈夫。虚剣術についてはちゃんと手を考えてあるから。さ、早く」
「……はい……」
 あとずさる。
 スラファがちらとこちらに眼をやったが、スサリエを退けるほうが先だと判断したのか、邪魔はしてこなかった。
「スサリエさん」
「うん?」
「あの剣、飛びますよ」
「わぁ、楽しみ」
 笑った。
 敵手から眼をそらさぬまま、気負いもなく。
 それで、少し安心した。
 その場から身を引いた。

 

 ●

 

 超常の剣士集団〈ギセ・ムの右眼〉。その中においてなお、隔絶した実力を持つ修羅の群影。彼らを剣名持ち≠ニ号する。
 界剣のキオル=B
 咆剣のゼノート=B
 絶剣のディザル=B
 葬剣のザムロ=B
 玄剣のナシーヴ=B
 徨剣のスラファ=B
 妄剣のクロンル=B
 これに開祖である熾剣のルキス≠加え、総勢八名の剣名持ち≠ェかつて存在していた。伊達や酔狂でつけられた名ではあるが、無意味ではない。
 剣質や気性、敵手を討つさまなどから、一言でその虚剣士を言い表す名である。
 キオルは思う。
 苛烈で硬質で、しかしどこか少年のような稚気を持ち合わせていたルキスの、それはひょっとしたら諧謔だったのかもしれない。
 さて――
 自分を除く全員が、ルキスとの立会いに破れて組織に引き入れられた者たちである。
 この中で、ルキスが最も苦戦したのは、誰か。
 したたかにルキスを追い詰め、この上なく配下にしにくいと感じさせたのは、誰であったか。
 そもそも刃を交えるまでもなく付き従っていた自分は除外するとして――
 常識的に考えるなら、ディザルか、ゼノートか。
 そのどちらかであるはずだった。
 現在の実力的に見ても、疑いようのない答えである。
 だが。
 実際には、そのどちらでもなかった。
 ディザルも、ゼノートも、凡百の剣士たちと同じく、はじめて見る虚剣術にまともな対処ができず、本来の力を発揮せぬまま敗れていったのだ。
 であるならば?
 ――誰が?

 

 ●

 

 じっとりと、重い風が動いた。
 闇を含んだ、瘴気のごとき風。
 ラーニの腹の底から頭頂にかけて、冷えたこわばりが伸びてゆく。
 それは体の機能を蝕んでゆくかのように全身に染みてゆく。
 確信が、あった。
 後ろに、誰かいる。
 全身の肉の一筋一筋が、振り向くことを拒んでいた。それを直視することで、確信が現実になるような気がしたから。
 唇を噛む。
 ――逃げるなっ!
 眼を見開く。
 意識して勢いよく旋回、後ろを見据える。
「ッ!」
 いた。
 黝い巨躯が、うっそりとそびえたっていた。
 遥か上の方から、碧眼が陰鬱な色を湛えてこちらを見下ろしている。
「ずいぶんと……久しく会っていなかった気がする」
 口をついて、その男の名が出てくる。
「ザムロ……」
「達者で何よりと言える再会であれば、よかったのだが」
 その額には、苦悩の皺が深く深く刻み込まれていた。
「無理なのだ」
「え……?」
「せめて君が巧く逃げおおせ、我々の前に二度と姿を現さぬのであれば、こんなことをせずに済んだのだが……」
 一拍の間。何かを絶つように、小さな眼を閉じ――
「済まぬ。恨んでくれて構わぬ」
 再び開いたとき、もはや迷いの色はなかった。
 動かすたびにごりごりと音を立てそうな、巌のごとき腕が、外套の間から伸びた。腰間の得物を掴む。
 引き抜かれたそれは、重心が剣先に寄った形状の、曲刀であった。

 

 ●

 

 葬剣のザムロ=B
 彼をねじ伏せ、軍門に下したルキスが、「殺されるかと思った」とつぶやいたことを知る人間は極めて少ない。
 というよりキオルただひとりである。
 その麗貌に表情はなく、いつものように冗談めかして言っているようにも見えなかった。
 無論、油断もあったのだろう。
 虚剣術の優位に安住しすぎたルキスが、存外の苦戦を強いられた――
 言ってみればただそれだけのことだったのかもしれない。
 ――だが。
 キオルは思う。
 断じてそれだけではない。
 両者が刃を交えたあのとき、ザムロは初見にて虚剣術の何たるかを看破し、あまつさえその構造上の弱点を突くような動きすら見せたのだ。
 そんなことのできる人間が、はたして他にいるのだろうか。
 少なくとも、自分には真似できぬ。
 虚剣術の裏の裏まで知り尽くした今ならばともかく、そんなものなどまったく知りもしない時分に突然見せ付けられて、まともな対処ができただけで驚愕に値する。
 ザムロという男は、当時からすでに並の虚剣士を凌駕する力を持っていたというのか。
 そして、今では虚剣術それ自体を自らのものとしている。
 剣名の意味など、考えるまでもなかった。


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