視界の中で、眩い火花が散華した。
 連続する鋼の悲鳴は部屋の隅々に反響する。
 致命の刃が凄まじく応酬され、敵との間で小さな星空が激烈に明滅していた。振るい、撃ち合い、軸足を変え、かわし、突き、ひるがえって撃ち下ろす。踏み込みの応酬に、板張りの床がひっきりなしに悲鳴を上げる。
「どういうつもり? 今から這いつくばって詫びるのなら、命は助けてあげるけど?」
 ルキス・ザリトゥは、微笑めば大抵の男に好意を抱かせるであろう美貌を、険しい表情で覆っていた。手加減などするつもりはなかった。斬り掛かってきたのは向こうである。いくら双子の弟とはいえ、裏切り者に容赦はしない。
「あなたのやり方に、非常な危機感を感じるのですよ、姉上」
 剣を交えている相手は、ルキスとまったく同じ鳶色の瞳を険しく細めた。
 キオル・ザリトゥ。または界剣のキオル=Bこれまでよくルキスを支え、非凡な参謀役として全幅の信頼を寄せていたはずの弟。
「またその話」
 衝動のままに剣閃を放つ。頭蓋を撃砕しうる剣勢だった。
 突き出される切っ先をかいくぐったキオルは、床を這う姿勢から伸び上がるように剣を一閃させてきた。
 半身になって回避する。同時に意識を集中させ、背後の空間に平面を仮想する。床を蹴り、背中からそこへ身を投じる。
 平面を通過した瞬間、世界の様相が一変した。
 揺らめく蒼い炎の中にいるかのような光景が、視界全体に広がっていた。これまで自分がいた部屋とは明らかに異なる眺めだ。重力も消滅している。物質世界とは異なる秩序に律せられる虚相界。この世の裏側。
 蒼い炎は殺意の色。キオルが発する感情が、ここ虚相界では目視できる。
 ――こいつ、本気だ。
 氷の色に光る人型の輪郭が、視界の中心にあった。色彩が最も強く濃く顕れている場所こそ、敵の位置だ。
 ルキスは炎の中を泳ぎ、その後ろ側に回り込む。空間へ意識を集中し、二つの世界をつなぐ界面を形成する。そこに剣を持った腕だけを突き入れる。
 虚相界からの斬撃。相手にしてみれば、何もない空間からいきなり剣が飛び出してきたようにしか見えないだろう。
 だが、キオルは後方へ振り返りざまに刃を振るった。硬い衝撃がルキスの剣を虚相界に押し戻す。
 かまわず、現世とは少しずれた世界をルキスは疾駆する。あらゆる方向から斬り立てる。男はひとりで剣舞を演じているかのように身を捻り、剣を縦横に閃かせて対抗した。弾け飛ぶ火花が舞踏を彩った。
 現世にいない自分が見えているはずはない。相手はこちらの動きを研究しつくしているようだ。
 瞬間、いきなりキオルは虚相界に踏み込んできた。人の形に揺らめく光の塊が界面を超え、頭部、胴体、両脚と、順次人間に変わってゆくさまは、本当に水面から出てきているかのようだ。剣を構えたまま突進してくる。
 鮮やかな不意討ち。それでもルキスは受け止めた。
 鋼が鳴り響く。物質世界での撃剣とは異なる、奇妙に低い音色だ。
 虚相界において音を伝達しているのは、空気ではなく感情そのものである。それゆえ音質も違ったものになる。
 ルキスは再び背中側に界面を念成し、押し出されるように物質世界へ帰還した。追ってキオルも水面から飛び出てくる。勢いのまま激突し、火花とともに両者の間合いが開く。
 同時に動く。
 点対称の挙動。おのおのが斜め前に踏み込み、すれ違いざまに斬撃を交わす。そしてまったく同じ動作で旋回し、遠心力を乗せた横薙ぎを逆方向から見舞う。火花。弾かれ合った剣尖がそれぞれの頭上でひるがえり、落雷のような一撃を振り下ろす。寸分違わぬ軌道で激突。
 行き場を失った慣性が爆発し、金属音とは違った鳴動を撒き散らした。
 そのまま、鍔迫り合い。鋼の灼ける匂いが鼻を突く。
 ともに超絶の虚剣士であった。実力は伯仲している。それだけでなく、キオルの体裁きは鏡を見ているかのようにルキスとまったく同じものだ。
「あなたの熾剣≠ヘすべて受け継いだ。もはやあなたは必要ない」
 間近にあるキオルの顔が、そんなことを言った。
「そういう大言壮語は、私を斬ったあとで言うことね」
 ふたりは鍔元を押し付け合う。危うい均衡を自分に有利な形に崩そうと、すり足で動く。結果として円移動となり、ついには各々の位置が入れ替わった。
 キオルの背後に、部屋の出入り口が位置する。
「あいにく、あなたを斬るのは私の役目ではない」
 彼は口の端を吊り上げるや、気合いとともに得物を撃ち上げた。
 身体が突き飛ばされるが、ルキスは体勢を崩すことなく着地する。
 キオルは流麗な動作で剣を納めていた。そのまま踵を返し、悠々と出入り口へ向かう。
 すぐに斬りつければ、少なくとも彼だけは倒すことができただろう。
 だが、動けなかった。
 ――光差す戸口で、黒い影が、墓標のように佇んでいる。
 何者かが、そこに立っていた。
 キオルは影の横に並ぶと、
「彼女を討て。そして自由になれ」
 振り向きもせずにそれだけを命じ、去っていった。
 影は、黙礼をもって応えた。
 そして、部屋に一歩を踏み入れる。
 ただそれだけで、空気が変わった。
 ルキスの表情が凍り付く。
 世界がその者を中心に引き歪んでゆくかのような、異常な気配。
 煤けた灰色の法衣をゆらめかせ、懐の中から両腕を引き出した。ゆったりと広い袖口から、異形と化すまでに鍛え込まれた筋肉が覗く。
 手から伸びる指は、常人より一指多い。左右合わせて十二本。それぞれが独立した意志をもっているかのように、ゆらゆらと蠢いていた。
「このときを、待っていた」
 異様に低く、かすれた声。
 男は両腕を腹の前で交差させ、両側の腰に下がる二つの得物をずるりと引き抜いた。
「貴女を超える。それを証明する」
 得物は、手甲剣。どこか比率の狂った曲線を描く刃と、誰にも読むことのできない死文字が邪悪にのたくっている手甲部。異質な文化圏で鍛造された兇器であった。
「ディザル……あんたも……!」
 ディザル。姓のない、ただのディザル。
 絶剣≠フ名を冠する虚剣士。
 そして、あらゆる虚剣士の師であるルキスにすら、底知れぬ男。
「つかまつる」
 ディザルがぬるりと踏み込んでくる。
 両腕が鞭のようにしなり、世界が細切れに斬り裂かれた。鋼が連続してぶつかり合う。闘争の音色を奏でる。ディザルの肩から先が、残像すら見えなくなっている。
「ぐっ……!」
 ルキスとて虚剣術の創始者。実力によって虚剣士集団〈ギセ・ムの右眼〉をまとめ上げた女傑だ。ただでやられるはずもなく、精妙な剣さばきで迎え撃つ。
 だが、一振りの長剣と二刃一対の手甲剣では、斬撃の回転率が比較にならない。
 楽調を上げてゆく殺陣のただなかで、不利を悟ったルキスは床を蹴って間合いを開けた。
 開けようとした。

 

 ――ルキスには、懸念していたことがある。
 彼女に限らず、〈ギセ・ムの右眼〉に身を置く者のほとんどが、心の底でひた隠しにしていた思い。
 ルキスの弟子たる虚剣士たちのなかで、圧倒的な実力を誇る三人の高弟。その内でもさらに頭一つ抜きんでた絶技を持つ男こそが、ディザルだった。その不気味な風貌・言動。異相の指先。そして異常なまでの強さ。明らかに、他の虚剣士とは一線を隔していた。
 懸念とはまさにその点だ。
 〈ギセ・ムの右眼〉はルキスから虚剣術を授けられ、彼女の強さと美しさに心酔する集団だ。修得者には一騎当千の力を与える超常の戦闘技――虚剣術。それを若くして編み出したルキスに対する尊敬の念は、もはや崇拝の域に達している。
 それゆえに。
 誰もがわきまえていた、暗黙の禁忌。誰も口に出して言う者はいない。
 ――ディザルはすでにルキスを超えているのではないのか……などとは。

 

 鈍い音がした。
 つづいて、液体がぶちまけられる音。
 それが何を意味するのか、ルキスは考えなかった。
 身をもって思い知らされたから。
 己の喉に、二つの刃がめり込んでいる。
 女傑は血の塊を吐き出す。驚愕で何も考えられなかった。
 くびが、あつい。
 剣はきちんと身体の前面に構えられている。ルキスの技量をもってすれば、もうしばらくは凌げるはずだった。
 ――凄まじい速度で突き出されたディザルの両腕は、上腕部の中ほどから消失していたのだ。
 虚剣士ならばその程度のことは怪異でも何でもない。
 だが、消えた腕の延長線上、ルキスの剣を越えた先で、手甲剣を握る両拳が再び姿を現したのは驚嘆すべきことだった。
 二つの界面の同時展開。防御が不可能な刺突。
 簡単な原理だ。それが信じがたい技だというだけで。
 鋭い呼気とともにディザルは腕を勢いよく開いた。
 首の灼熱が爆発した。ひどくゆっくりと、視界が縦に回転する。あぁ、頸部を刎ね飛ばされたんだな、と妙に冷静な心地で思う。
 回転し、回転し、顔が天井のある一点を向いた。板と板の間にできた亀裂のような隙間から、一人の少女がこっちを見ていた。眼を見開いていた。顔はルキスに似ていたが、男どもを従わせるような覇気や凛々しさはなく、どこか幼い。
 名は、ラーニ。ルキスの一人娘。
 にげなさい、と最後の力で唇を動かした。
 引き延ばされた時間が終わり、美しい首級は床にごろりと転がった。
 事切れた。


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