日曜日。里美さんが訪ねて来たのは、一日の中で最も倦怠感を煽る時刻である昼下がりの事であった。
 十月半ばの中途半端な気候は、以外と作業効率を下げるものである。しかしそういう論理を間に受けると、春夏秋冬いずれのシーズンであろうとも全力を発揮できないという一受験生としてはいささか深刻な事態を誘発しかねないのであり……
 ……いや、現実を直視しよう。実際問題として僕の『真摯なる受験生的一日のノルマ』として設定された英語問題集10ページと日本史用語集5ページをデフォルトでこなさなければならない。しかし僕は天候とはまったく関係のない理由で勉学の手を止めざるを得ない状況に立たされているのだ。
 僕はとどのつまりはただの中学三年だったわけだが。
「洋司く〜ん」
 いつも考えるのだが。いくら家が隣同士とはいえ窓から部屋に入ってくる彼女という存在は、諸般 の男性諸君にとっていかなる意味を持つのだろうか。
「『牧師達の沈黙』借りて来たんだけど、一緒に見ない?」
 僕は英語問題集から顔を上げ、彼女の方を見た。ショートカットの活発そうな女の子がそこにいた。里美さんは高校生で、一年生で、美術部で、二年前に隣に越して来た人で、……ええと、少し前に僕とストルジュ的な信頼と思慕を相互確認した女性である。
「里美さん。僕がホラー映画は苦手であるという如何ともし難い前提を覆す手段をあなたは持っているのでしょうか」
 里美さんはほんの少し首を傾げた。
「よくわかんないけど、怖いのは私も苦手だよ。だから誘ったの」
 ……さいですか。
「お気持ちは嬉しいのですが、残念ながら僕は受験勉強の一環として、英文で記されたケンとジェシカのサブカルチャー談義を日本語に訳し、不明な単語を暗記しなければならないのです」
「いいからいいから。近頃勉強ばっかりだよ? 息抜きしよ、たまには」
 と言いつつ僕の手を引っ張る。
 ホラー映画で息抜き……その微妙な響きのフレーズに対して考察を巡らすという現実逃避に意識が及んでしまう直前、僕の部屋のドアが派手な音を立てて開いた。
 僕達は比喩表現として跳び上がって驚き、ドアへ首を巡らした。
 なんというか……変な男がいた。
「見つけたァ……」
 薄汚れたワイシャツに薄汚れたジーンズに薄汚れたニヤケ顔に薄汚れたナイフ。
 ……ナイフ?
 里美さんが小さな悲鳴を上げた。
 ついさっきまで空気を満たしていた昼下がりのトロリとした空気は瞬時に霧散し、氷結した。男の歪んだ表情からは、殺意がありありと感じられた。
 胃がきゅっと縮こまる。
 僕はローラー付きの椅子に座ったまま、咄嗟に里美さんと不法侵入者(ナイフ装備)を結ぶ線上に移動した。
 彼女は窓から僕の部屋に顔を出しているだけなので、この場は逃げて警察を呼んでもらおう。
「里美さん、そこから逃げて警さ……」
 言い切らないうちに、男が獣じみた叫びを上げた。ナイフを前に構え、突進してくる。
「洋司くん!」
 悲鳴を背後に聞きながら、僕は自分の意識が澄み渡るような感覚がしていた。それは今までにない感覚だった。まるで、何者かの意識を借りておるような……
 男が腕を伸ばし、ナイフを突き出して来る。ワシは直前に首を傾け、その腕を掴んで引き寄せた。
 男の姿勢が前に傾き、ワシはその懐に潜り込む。
 拳骨を突出させるように拳を握り、相手の鳩尾にめり込ませた。
 引き寄せた勢いと拳速が男の体内でぶつかり、暴れ回る。彼奴はたまらず、うずくまりよる。
 ワシは男の懐から抜け出しながら旋回。一瞬後の視界に現れた首筋に、遠心力を乗せた手刀を叩き込んでやった。
 うめき声もなく、男の体は崩れ落ちた。
 ワシは呼吸を整える。
 思ったより腕は落ちていなかったようじゃな……
「す、凄ぉい……洋司くん、いつのまにそんな?」
 傍のお嬢さんが感嘆混じりに言った。安堵半分、混乱半分、といった所かの。
「言ってませんでしたかな? ワs……あ、いや、僕は昔、護身術を習っていたのですよ」
「……ずいぶんアグレッシヴな護身術だね……」
 僕は適当に笑ってごまかす。
 と――
 背筋を嫌な痺れが撫で上げていった。それは勘で、予感で、第六感。この家を、殺意が取り囲んでいる。危機意識。僕は俺になる。
「やばっ!」
 叫ぶと、俺は里美の腕を引っ張った。
「ちょっ……痛いよ!」
「いいから早く中へ!」
 俺は窓から身を出していた里美を中に引き込むと、一緒に床に伏せた。
 直後。
 幾重もの炸裂音と破砕音が鼓膜を叩きのめす。俺達が一瞬前までいた空間を、無数の銃弾が雄叫びと共に通 過していった。壁に次々と弾痕が穿たれ、色々な物の破片が嵐のように降り掛かってくる。
 ……一人や二人じゃねぇ!
 俺はいつの間にか手の中にあったオートマグナムを握りしめ、窓から腕だけを出してところ構わずブッ放した。
 向こうはこっちを捕捉しているようだが、俺は敵の場所がわからない。今のは威嚇くらいにしかならないだろう。
 不意に、騒々しい着弾音が鳴りを潜める。装弾中か、様子見か。何にせよ、今のうちに対策を講じなければ……
「痛ぁ……」
 里美の声に俺は振り返った。
「っ! その傷……!」
 彼女はなんと、頬にかすり傷を負っていたのだ!!
「だ、大丈夫だよ。何かの破片がかすっただけ」
 でも涙眼。
 俺は襲撃者への怒りが沸き起こるのがわかった。
「洋司くんこそ、腕……」
 言われて自分の腕を見る。
 …………。
 赤く、染まっていた。かすかに震えた。
 ――俺に、戦場に戻れと言うのか……
「洋司くん? もしもーし」
「おもしれぇ……」
「ちょっと、キャラ変わってるよ……」
 ニヤリと笑うと、やっぱりいつの間にか傍にあった高射機関砲を抱えた。
「そこに伏せて耳ふさいどけぇ!」
 天井に向け、掃射。派手な音が連続する。
「ハッハーッ!」
 壁紙木屑壁紙木屑壁紙木屑壁紙木屑木屑木屑木屑木屑木屑木屑木屑木屑木屑木屑木屑。
 木製の天井は蜂の巣になり、蜂の巣は大きな穴と化す。
 俺は高射機関砲を両手で抱え、自分の脚部の油圧シリンダーを作動させた。
 大跳躍。わずかに残る天井の残骸を突き破り、屋上に出る。
 途端に、四方八方から機関銃と散弾銃の猛射が襲い掛かる。
「ずぁッッ!」
 俺は砲身を高速で旋回させて、弾丸をことごとく打ち払い、同時に掃射。全方位に20ミリ弾がまき散らされ、炸薬がある訳でもないのに大爆発を起こした。
 住宅街は大火災。
 ……えーと、えーと。
 この付近に住民はいない。今、そういう事になった。
 その時。
「《ジャッカル》ーッッ!!!!」
 野太い男の声が、上から。見上げると、音もないのに真上に滞空している謎のヘリを背景に、角刈り&マッチョの大男が高速で降下してきていた。
「久しぶりだな、《ハイエナ》ぁッッ!」
 俺は機関砲を乱射する。辺りを炎の海にしたはずの弾丸は、なぜが奴の皮膚に弾かれて効いてねぇ。
「ルラァッ!」
 大男は背中に背負っていた『バールのようなもの』を両手で握ると、壮絶な体重と落下のベクトルを乗せて打ち下ろしてきやがる!
 それを受け止めた機関砲の砲身が、ガラスみたいに粉々に砕け散った。ボロボロの屋根は俺達の格闘を支え切れずに瓦解する。再び部屋の中に逆戻りだ。里美が眼を丸くしていた。
 他を圧する男の咆哮が響き渡る。
 『バールのようなもの』がうなりを上げて振り上げられた。
 舌打ち。こういう時は――
 ――ワシの出番じゃなぁ!
 体をグンと沈める。
 突進。
 凶暴なまでの勢いで叩き込まれる鉄塊をかいくぐる。背後の床が無茶苦茶な破壊力によって爆砕しおった。ワシは埃の嵐の中を突っ切り、彼奴に肉迫する。
 全身に内勁を漲らせ、
「ジャラッ!」
 予備動作の存在しない右貫手を撃ち込んだ。
 呼応するように。
 後方に引き付けていた左鉤手を打ち振るう。
「まぁだまだぁ!!」
 可視速度を超えて連撃が叩き込まれる。身体の可動部分が幾重もの加速を生み出し、指先が音速を突破した。
 衝撃波が血飛沫を発生させる。衝撃波が血飛沫を吹き散らす。ワシは狂乱したかのごとく打撃を繰り出し続ける。より迅く、より強力に!
「どうじゃぁッ!」
 止めに一撃。低く重い打撃音と共に、男は腕を顔の前で交差した姿勢のまま壁に叩き付けられた。壁が蜘蛛の巣のように割れ、陥没した。
 じゃが――
「むぅ!?」
 赤く染まった両腕の奥で、奴の瞳が炯々と鬼相を浮かべた。
 彼奴がおもむろに鈍器を持ち上げると、いかなる業の所行か、急に視界が暗転した。
「それで――」
 絞り出すかのような声。
 巨大な力の流動が、鈍器の先端に集中するのが感じられる。
 ……これは……!
 ワシは私になる。
 私は危機感に突き動かされるように、里美嬢の腰を抱き寄せると、片手で印を切って突風を呼び出した。それは二人の体重を軽々と持ち上げ、窓から外へ吹き進んだ。
「――終わりかーッッ!!」
 直後、彼のカナテコ(のようなもの)が絶大な力を纏って打ち下ろされた。同心円状にまき散らされた凄まじい衝撃波が、轟音に乗って広範囲を蹂躙した。“爆心地”たる我が家は跡形もなく灰燼に帰し、周囲の家々も続々と破壊の嵐に飲み込まれてゆく。
 呆れた威力ですね……。
 呪的な意味を持つ歩法を行い、己の身を空中に張りつけながら、私は眼下の惨状を眺めた。
「ね、ねぇ」
 腕の中の里美嬢が言った。
「どう言う事? なんで私達って狙われてるの? そもそも洋司くん、なんでそんな……」
 緊張の尾が切れたためか、一気に捲し立てて来た。
「申し訳ありません。全ては私の過ちなのです」
 私はありし日の師を思った。かすかに眼を伏せた。
「あの日の確執に端を発する、因果の鎖という名の命題。その結論がこれなのです」
「いや、よくわかんないよ、それ」
「御安心下さい。絶対に、貴女だけは無事に守り抜いてみせます」
 彼女の頬がわずかに朱に染まった。
「だ、だから、よくわかんないって……」
「…………」
 ……和んでばかりもいられない。
「降りますよ」
 呪を解除し、落下が再開される。
 地表が迫ると、私――いや、俺は、脚部油圧シリンダーの機能で着地の衝撃を和らげる。里美を地面 に下ろし、前を見据える。
 十歩先に、奴がいた。
 全身から鬼気を立ち上らせ、ただそこにいるだけで威圧しやがる。
「タフネスぶりは変わってねえな、《ハイエナ》」
 俺は頬を歪めた。
「……なんで、組織を抜けたんだよ、《ジャッカル》」
 対照的に、奴は押し殺したような表情だ。
「なんで、だと? おまえがそれを言うのかよ」
「あれは! 事故だったんだよ!! てめえなら止められたってのか!?」
「何を言おうが、アイツは戻ってこねぇ……もう2度とな!」
「くっ」
 奴は歯を食いしばった。そして、恐ろしく低い声で言った。
「最後通告だ。組織に戻れ。今ならあのお方も許して下さる」
「はん、お断りだ」
「……そうか」
 男は『バールのようなもの』を力強く握りしめた。
「なら死ねッ!」
 ゴウ――ッ
 大質量の接近に大気が唸る。
 ワシは心を沈め、明鏡止水の境地で彼奴を待った。全身の気力を充実させる。この上なく平易な意識で、空間そのものを感じ取る。
 男の巨体はもう間近。ワシは腰を落とし、拳を後ろに引き絞る。
「こぉ――!」
 場の決壊。弾かれたように、爆発したように。
 鉄塊と、生身の拳がぶつかり合う。双方の技に込められた超絶的な勁力が激突し、発散。光と熱に変換され、男の凶貌が照らされる。周囲の地面 が派手な音を立てて円形に抉り取られた。
 そして――
 相手の凶器が、鈍い音を立てて。
「……っ!」
 彼奴の顔が驚愕に歪む。
 拳は勢いを減じぬまま、鳩尾にめりこんだ。
 吐血。
 瞳から意識の光が去る。
 巨漢は、ゆっくりと大地に崩れ落ちた。
「ふ」
 ワシは構えを解く。
「おぬしの師も、同じ方法で敗れていきおったよ……」
 組織云々は、なんかどうでもようなった。
「そこまでだよ、実験体000(トリプルオー)!」
 今度はなんじゃ。……000って僕の事かな。
 振り向くと、……ええと、いかにもマッドサイエンティストな白衣の男がいた。
 ……マッドサイエンティスト?
 それは――
 僕の記憶が確かなら、それは――
 どのような状況、展開においても『こんなこともあろうかと○○!』の一言で因果 律と物理法則をねじ曲げすべてを解決する、この地上における最強存在――
 ……と、いう事に今なった。
 彼は僕の傍らに倒れるマッチョな人を一瞥した。
「ふん、そこそこ骨のある奴だったが……所詮は失敗作か。下らん」
 ニヤリと嫌な笑いを頬に張り付かせる。
「だが、貴様の戦闘データを採集する役には立ったな! 超人格闘家の『ワシ』、先端兵器を使いこなす『俺』、呪術をマスターした『私』! もはやお前の裏の裏まで知り尽くしているのだよ!」
 長い講釈に、僕は思わず微笑んだ。
 マッドな博士は不快げに睨んでくる。
「なにがおかしい」
「あなたは見落としをしている……」
「なんだと!」
「僕にはそれ以外にも『オラ』、『おいどん』、『拙者』、『拙僧』、『おいら』、『神の寵愛を受け、いずれは万人の王となるべくして生を受けたこの私』、『まろ』、『自分』、『我』、『俺様』、『おで』、『予』、『朕』を持っている……!」
「すごいイロモノが混じってるな……」
 木枯らしが吹き抜けていった。気がつくと吐く息が白い。
 おかしいな、まだそんな季節では……
「とにかく! 僕はまだまだ底を見せてはいない!」
「ふん! それがどうした。こんなこともあろうかと、私は切り札というものを用意しておいたのだ! ――いでよ! 零式有機戦闘体《ベヒモット》!!」
 彼の呼び掛けに応えたのか、大地が振動し、うねり始めた。振動を加速度的に強くなり――博士っぽい男の足下の地面 が、轟音と共に盛り上がり始めた。
 何が出てくるんだ……!!
 身構える。
 と――
「洋司くん」
 いつのまにか、彼女がすぐ後ろに来ていた。
「里美さん……」
 振り返る。彼女は色々と言いたい事がありそうな顔をしていた。
 唐突に、僕は後悔の念に捕われた。なりゆきとはいえ、里美さんをこんな訳の分からない事態に巻き込んでしまったのは僕なのだ。この人の平穏に終わるはずだった日曜日を滅茶苦茶にしたのは、僕なのだ。
 気がついたら、地面を見ていた。
「里美さん。あの、すいませ――」
「頑張ってね」
 ちょっと苦笑いの混じった、けれども暖かな声。
 それだけで――
 それだけで、拙者の心は晴天のごとく澄み渡ったのであった!!
「ありがたきしあわせ!!」
 なぜか虚を突かれたような顔の里美殿に笑いかけると、拙者は威勢よく振り返った。討ち果 たすべき怨敵と相対する。いつのまにやら腰に佩いていた刀を抜き放つ。
「いざ尋常に――」
 土埃の中、面妖なる相手は、その全容をとうとう現わした。
 巨大な前肢を大地に打ち付け、“それ”は長い長い咆哮を上げた。
「――勝負ッッ!」


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