ダンボール箱に入っていた。
ひろってください、などと紙が張ってあった。
あまつさえ、「みゅう、みゅう」と保護欲を刺激されること甚だしい鳴き声を上げていた。
……つまるところ。
霧沙希藍浬は登校中に二匹の小動物を発見したのである。
時刻は、早朝。いまだに太陽の熱気が押し寄せる前。大半の人間はまだ眠っているか、目をこすりながら朝食を用意している時間帯。今日は期末試験の日なので、いつもよりさらに早めに教室に入って試験範囲をひととおりおさらいしておこうかと思ったのだが――
思わぬものに遭遇した。
「……」
藍浬は無言でしゃがみ込み、二匹を間近で見つめる。
それらは、同じ種族の二匹ではなかった。
一匹は子猫。さっきからしきりに鳴いているのはこちらである。白と黒の縞模様が目に鮮やかな、アメリカンショートヘアーであった。タレ目がちな目つきが何とも哀愁を誘う。
一匹は子兎。真っ白い体毛と、澄んだ漆黒の瞳が、印象的なコントラストを奏でている。「ちぃ」とも「みぃ」とも「ひでぶ」とも鳴かず、じっと藍浬を見据えている。
二匹は寄り添うようにして体を丸くしていた。早朝とはいえ七月の中ごろだ。寒いということではないだろう。
心細さゆえか。
世界という名の茫漠たる荒野を前に、途方に暮れているのか。
そして何より――
彼らは愛くるしかった。可愛い盛りであった。おそらく毛が生え揃ったばかりの赤ん坊なのだろう。手足は短くぶっとく、目はつぶらで、毛並みは綿菓子のようだった。
大抵のことには動じない広大な精神を持つ藍浬だが、この二匹を前にするとさすがに頬がほんのり桜色に染まる。
「うーん、凶悪……」
二匹を驚かさないよう、ゆっくりと手を伸ばした。
右手に子猫を。左手に子兎を。お腹の下にそっと手を差し込んで、持ち上げた。
掌に胴体が収まってしまう小ささを、実感する。
「うわぁ……うわぁ」
思わず華やいだ声も出てしまう。
「……っと、いけない」
我にかえって首をふるふるふる。漆黒のセミロングが滑らかに波打つ。
可愛いからと言って深く考えもせずに拾うのは無責任と言わざるを得ない。
藍浬は自分の家庭環境を思い出す。
――住居。
山奥の一戸建て。広さは十二分。しかも持家だからペットに関する規制は特にない。
――経済状況。
出所は藍浬にも不明だが資産家。猫と兎ごとき楽勝で養育可能。
――家族。
姉が一人だけ。別段動物嫌いではないしアレルギーも持っていない。
――そして、自分。
わたしは、この子たちのお母さんに、なれるだろうか?
正直わからないが、とりあえず学校が終わったら本屋に寄って兎と猫の飼い方について調べてみよう。
藍浬はひとつ頷くと、目の前に二匹の顔を持ってくる。
「……ね、わたしの家族になってくれる?」
子猫は「たーくん」、子兎は「あっくん」と名づけられた。
●
ある朝、諏訪原篤が異様なる夢より目覚めると、彼は己の頭からウサ耳が生えていることを発見した。
「ふむ……?」
鏡の前で己の姿をしげしげと眺めながら、彼はしばし黙考する。
――これは何だろう?
頭の上でピョコピョコと可愛らしく動く、白くて細長い耳。
「んんー……」
寝ぼけた頭で昨日のことを思い出してみるも、特に変わったことはなかったような気がする。
――はて、なぜこんなものが?
おもむろにウサ耳を掴んでみる。驚いたことに、掴まれた感触があった。
引っ張ってみる。
けっこう痛い。
少なくとも髪の毛を引っ張られるのよりは痛い。
つまり、これは付け耳でもなんでもなく、本当に己の頭から生えているのだ。
「不思議なこともあるものだ」
ぽつりと呟くと、篤はいつものように歯磨きと洗顔を済ませ、制服に着替えた。
今日から一学期の期末試験が始まる。
気を引き締めねばなるまい。一ヶ月の入院生活が得点に響かなければよいが。
洗面所から出ると、ちょうど霧華が寝ぼけ眼を擦りながら階段を下りてくるところに出くわした。
「ふぁ……おはよ〜、兄、き……!?」
足を止める霧華。
「うむ、おはよう」
その前を悠々と横切る篤。歩行に合わせてウサ耳がピョコピョコ揺れるので大変かわいらしい。
「えっ、ちょっ……えぇ!?」
階段を三段飛ばしで下り、篤の背後へ駆けつける霧華。
「あ、兄貴!? ちょっ、それ、何の冗談よ!?」
「うむ、眼が覚めたら生えていた。原因は不明だが、日ごろの行いが良かったためだろう」
「兄貴的にはうれしいことなわけ!?」
「やらんぞ?」
「いらんわ! 何の罰ゲームよ!」
篤は目を伏せて、ほんのわずかに微笑んだ。
「フ……霧華にはまだちょっとわからない世界かもな」
「いやいや! 何その大人になればわかるよみたいな言い方! わかんないよ! いくつになってもわかんないよ!」
そこで霧華は何かに気づいたのか、さっと顔色を青くさせる。
「……っていうか、あのー、兄貴? まさかその格好で学校に行くつもりじゃあ……?」
「何を言っている。行くに決まっておろう」
「やめて! お願いだからやめて!」
なぜか涙目で腰にしがみついてくる霧華をとりあえずスルーしつつ、篤は朝食を作るために台所に向かった。
●
ある朝、タグトゥマダークが異様なる夢より目覚めると、彼は己の頭からネコ耳が生えていることを発見した。
「ひぎぃっ!」
彼は鏡を見た瞬間、変な叫びを上げてひっくり返った。
風呂場のタイルに頭を打ちつけ、のたうち回る。
「お、お、おおお落ち着け僕! おち、おちおちつくんだゴハァッ!」
言ってる間に足を滑らせ、泡を吹いて尻餅をつく。
「寝ぼけてるんだ! 僕は寝ぼけてるんだッ!」
寝ぼけてる、寝ぼけてる、と自己暗示を幾度もかけてから、恐る恐る起き上がり、再び鏡を覗き込む。
若干タレ眼気味なものの、整った青年の顔。
――いつも通り。
色素の薄いブラウンの髪。
――今日も決まってる。
髪の毛の中から生えている、ピンと伸びた縞々のネコ耳。
――超ラブリー。
「こ、こ、こ、コアアアアアアァァァァァっ!」
鶏の断末魔みたいな叫びを上げながら泡を吹いてぶっ倒れた。風呂場のタイルに頭をぶつけてのたうち回った。
「お兄さま? どうかなさいましたか? 自分が実はハゲだったことにようやく気づかれたんですか?」
風呂場の外から、小さな鈴のような声が聞こえてくる。
っていうかいきなりひどいな。
「ななななんでもないよ
むしろ余計なものが生えちゃったから困っている。
「ならいいのですけれど……もうちょっとで皆様が起きてこられます。朝ごはんの支度を急いだほうが良いかと。お兄さまの存在価値なんてそれだけなんですから、きちんとしませんと」
それにしてもひどいことを言う。
タグトゥマダークは、自分の妹がいつからこんなマルキ・ド・サドな性格になってしまったのかよくわからない。
人形のようにちんまい女の子で、御歳は十歳。常に赤い着物姿で生活するという古風な趣味を持ち、それがまた抜群に似合う。座敷わらし的な可愛らしさとでも言えばいいか。タグトゥマダークは控えめに言ってシスコンじみた愛情を注いできた。
……のだが、どこで何をどう間違えてしまったのだろうか。
しかし、今はそんなことを思い煩っている場合ではない。
「わ、わ、わわわわかってるよ夢月ちゃん! もうちょっと待ってもうちょっと! 冷蔵庫からタマゴ五つ出してボウルに割っといて!」
「あらあら……この私を使おうなんて、お兄さまは何さまかしら? 神?」
「どれだけ自分を高く見てるんだキミは!」
しずしずと歩み去ってゆく足音を尻目に、タグトゥマダークは青ざめた顔で鏡に向き直った。
相変わらず、そこには「猫耳の生えた男」という存在価値が微塵も見出せない生き物が映っていた。
「……どうしよう……!」
……数分後、タグトゥマダークはターバンのごとく頭にタオルを巻き、恐る恐る風呂場から出てきた。
歩くたびにギシギシ言うボロ借家の廊下をなんとなく抜き足差し足で通過しつつ、必死に思考を巡らせる。
――どうなってるんだ……! 昨日なんかあったっけ!?
しかし、別に肉体を変異させるケミカルX的なものを飲んだ覚えはなく、悪の組織に拉致られて脳改造の直前で脱出した覚えもない。
というか客観的に言って悪の組織は自分たちである。
では《ブレーズ・パスカルの使徒》にこのような肉体改造を施す技術があったのかと言うと…………正直あったかもしれないが、少なくとも男をネコ耳化させて喜ぶような特殊すぎる趣味の輩はいない。
「…………はずだけど」
十二傑の濃すぎる面々を一人一人思い出すうちに、だんだん自信がなくなってゆくタグトゥマダーク。
現在、このボロ借家で寝泊りしている人間は、五名。
ヴェステルダーク、ディルギスダーク、セラキトハートこと鋼原射美、タグトゥマダークこと自分、それから夢月だ。
――それにしたってなぜ僕なんだ! どうせやるなら夢月ちゃんと射美ちゃんだろ!
射美と自分の妹がネコ耳化した姿を思い浮かべてみる。
思い浮かべてみる。
「……うわあエヘヘ」
頬がニヤついた。
「うんうん、いいよそれ、問題ないよ何の問題もない、むしろイエスだね! 超イエスだよそれ!! 本人も喜びそうだし!!」
「タグっち〜! 朝ごはんま〜だ〜?」
突如響いてきた射美の声にビクゥゥッ! と体を強張らせる。
――もう起きていたのか!
その衝撃で乱れたタオルを神経質に直すと、
「あ、うん! すぐいくから待ってて!」
――とりあえず、料理をして落ち着こう。
そう心に決めると、タオルの端をしっかりと結び固め、台所に急いだ。
●
どうあってもそりの合わない奴というのはいるもので、そういう輩は分かり合おうという努力を嘲笑うかのように背格好や立ち振る舞いのことごとくがこちらの神経を逆撫でしてくる。
しかもその者が半端に自分と似ていたりするともう最悪で、なにやらこの世のすべての対立概念を自分と相手が背負って立ち、対峙しているかのような錯覚にすら陥ってしまう。
似ているけれど違う。
違うけれど似ている。
自分の醜悪なパロディを見ているかのような気分。
やがて――
運命は、彼らを引き寄せる。
●
――あーだりー。
ハイパーミニマム高校生であるところの嶄廷寺攻牙は、その日いつにも増して沈鬱な気持ちを抱えて登校していた。別段、いくら牛乳を痛☆飲しようが一向に成長する気配のない我が身を儚んでいたわけではなく、もっと別の事情であった。
――期末試験!
それはあらゆる高校生の身の上へ平等に降りかかる、審判の儀式!
夏休みに補習などという懲役を食らわないためにも、死力を尽くして闘いに臨まねばならない!
のだが!
――ボクの夏休みは正直終わった。
攻牙は肩を落とす。
実はちっとも勉強してなかった。攻牙的にはやむにやまれぬ事情というやつで勉強の暇が取れなかっただけなのだが、学校側に認められるような理由ではなかった。
そこまでして攻牙を邁進させた用事にしても、意味があるかどうかはまったくの不明である。
――まさか戦闘準備にここまで手間取るとは思わなかったぜ。
攻牙は、来るべき悪の組織との戦いに向けて、とある作業を進めていたのであった。しかしその作業は想像以上に難航し、謦司郎を強引に手伝わせることでようやく完成の目処が立ったわけだが――
そのとき、日付はすでに試験の前日になっていた。
そりゃ気も重くなります。
――あー米軍が飛んできて学校を誤爆しねえかなー。
いくらアメリキャンが大雑把だからってそれはない。
とたたたたっ、と軽快な足音が聞こえてきたのは、そのときである。
なんとなーく、嫌な予感がする攻牙。
――この知性のカケラも感じられない足取りッ! 覚えがあるぜッ!
足取りに知性なんて宿るんだろうか。
「攻ちゃ〜ん! おっはよーうでごわす〜!」
「ぐぎゃああ!」
……普通の女子高生はいくら登校中に知り合いを見かけたからといっていきなり背後から飛びついて圧し掛かるようなことはしないのである。
つまり、そいつは普通ではなかった。
端的に言うとアホの女子高生だった。
背後から突如として抱きつかれた攻牙は、勢いに押されてorzの形に倒れ込んだ。
掌をちょっと擦り剥く。
「うふふ〜攻ちゃんは今日もぷにぷにでごわす〜」
「うっぜぇぇぇぇぇッ! 果てしなくうっぜぇぇぇぇッ!」
ほっぺつんつんしてくる指を振り払い、彼女の下から脱出すると、振り返って睨み付けた。
活発そうな少女が地べたに座り込んでいる。茶色のボブガットが、朝日を受けてきらきらと光を反射していた。
「あぁもう! 毎回毎回会うたびに飛びつくのやめろって言ってんだろうがァ! 明かりに群がる虫ですかお前は!」
「どちらかというと『エイリアン』のフェイスハガーでごわす〜飛びつかずにはいられないでごわす〜」
「ボクに寄生する気だったのかーッ!」
「そして数時間後チェストバスターに進化して攻ちゃんの可愛いハートはいただきでごわす♪」
「何も上手いこと言えてねえからなお前……」
「末端価格で八万ドルでごわす!」
「臓器的な意味かよ! 生々しいなオイ!」
セラキトハートこと鋼原射美。
約三週間ほど前に学校へ襲来したバス停使い。
こいつが悪の組織の尖兵らしいということは、攻牙自身嫌というほど思い知らされてはいるのだが、ここ最近はまったく敵意めいたものが感じられないので、正直扱いに困る。
自分ではスパイとか言ってるが、本当にこちらのことを偵察する気があるのかは果てしなく謎である。
勘違いするな、貴様を殺すのはこの俺だ! 系のポジションでも狙っているのだろうか。
「……プッ」
「なんでごわすかーっ! そのインケンな失笑はーっ!」
「いやいや別に無理とか言ってねえよ。諦めんなよ」
「なんかわかんないけどすごくムカつくでごわすーっ!」
そんなこんなで取っ組み合いの喧嘩をしつつ歩いていると、やがて学校前の坂道に到達する。
攻牙たちと同じく登校中の高校生および小学生の姿が、前にも後ろにも見られるようになってきた。
「……なんか騒がしいな」
前方の学生どもが、みな一様に同じ方向を見ている。
その上、瞠目している。
隣の奴と顔を合わせてヒソヒソ言ってる奴もいたが、すぐにまた視線が戻る。
中には泡を吹いて倒れている者までいる。
彼らの見る先には――なんかいた。
変なものがいた。
「……おい」
「……なんでごわすか」
気を落ち着かせるために射美に話しかけるが、こいつも同じものを見て動揺していることが確認できただけだった。
「ボクの眼には、頭からウサギの耳を生やした奇妙な生き物が歩いているように見えるんだが」
「いやいや、それは夢でごわすよ。攻ちゃんは今頃まだベッドの中でお眠でごわすよ。この射美も夢の産物でごわすよ」
あの光景を否定するためなら、自分の存在すら夢ということにしたいらしい。
「ハハハそうかぁ夢かぁそりゃそうだよなぁー常識的に考えてあんな光景があるわけが何やってんだコラァー篤ーッ!」
「あああ、攻ちゃん! 自分を騙すのあきらめちゃダメでごわすよ〜!」
後ろから射美が追いかけてくるのを感じ取りながら、攻牙は全速力で走った。
「む……」
そいつが振り返る。篤に似た背格好と篤に似た顔をしていた。
ていうか篤だった。
しかし振り向くのに合わせて頭のウサ耳が可愛らしく揺れるのは頂けなかった。
近くで見ると余計にヤバい。
いつも通り無表情の篤! しかしその頭にはウサ耳! 時空が歪むレベルの異様さだった。
攻牙と射美の背後にいた通行人たちは、その顔を正面から見るなり、一斉に叫びをあげた。
それはもはや殺傷力すら伴う違和感だった。謦司郎と並ぶ超イケメンとして定評のある二年三組の
「篤……お前……ちょっ……それ……お前っ! なんという……なんという!」
わなわなと全身を震わせる攻牙。
篤はその頭をつかんでぐりぐりする。
「攻牙か。相変わらずお前は小さいな。第一胃の食物をよく反芻してから第二胃に放り込めとあれほど言ったではないか」
「なんでいきなり家畜扱いなんだよ! 自分の発言がおかしいことに気づけ!」
「そして牛乳を体内で生成できるようになれば、さすがにその図体も改善されるだろう」
「なんなのお前! なんなの!」
後ろから追いついてカワイイを連呼しまくる射美と一緒に、ウサ耳の事情を問い詰める。
「いったいどんなピタゴラスイッチ的事件連鎖が降りかかればそんな状態になるんだよ! むしろどこの国の刑罰だよ!」
「三行以内で説明するでごわす〜♪」
「うむ、起きたら生えていた」
「一行もいらなかったーッ!」
射美は目を輝かせながら、前後左右あらゆる角度からウサ耳を眺めまわした。
「でもかわいいでごわす〜ラブリーでごわす〜ギャップ萌えでごわす〜」
「むっ!」
なぜか脂汗を滲ませながらウサ耳を手で隠す篤。
「や、やらんぞ……これはやらんぞ……やるものか! も、ものか!」
「全力でいらんわ!」「えぇ〜、ケチ!」
頬を膨らませる射美に、攻牙は唖然と振り返る。
「お前欲しいの!?」
攻牙が吠え、篤が思索に沈み、射美が妙なことを言い出す。
約一名の頭部および周囲の惨状を除けば、いつも通りの登校風景となっていた。
●
「……いいねえ……友達……いいねえ……」
カリカリカリカリカリ。
電柱の陰から、篤たちの姿を眺める者がいた。
タグトゥマダークである。
「……イジられキャラって楽だよねぇ……」
カリカリカリカリカリ。
親指の爪をかじっていた。
篤が、攻牙と射美に囲まれて問い詰められているさまを見ている。
「……自分は何もしなくていいんだもんねぇ……」
カリカリカリガギィッ!
噛み千切った。
「って、痛ぁーーー!?」
のたうち回って電柱に頭をぶつけた。
頭のネコ耳が、ぴくぴくと痙攣する。
しかし、そのさまは深々と被ったニット帽によって隠されていた。
●
そいつが物陰から現れたとき、篤は何か異様な感覚に囚われた。
例えるならば、歪んだ鏡を目の当たりにしているかのような。
妙な、気分だった。
「あいたたた……」
そいつが呻く。
道路に転がりながら、後頭部を押さえつけている。長い手足が絡まっていた。可動式フィギュアの頭を掴んで思いっきり振り回したのち地面に放り投げればこんな姿勢になるのかもしれない。
なぜかこの暑い中、黒のスーツに黒のニット帽を被っている。着こなしは、かなりだらしない。スーツはだぶつきまくりだし、ネクタイは結び目が歪んでいる。
年の頃は篤たちよりも少し上といったところ。容姿は爽やかイケメン。しかしタレ目な上に挙動が間抜けすぎるので、カッコイイという印象からは程遠かった。
周りの学生たちも、新たに現れたこの不審者を訝しそうに眺めては、しかしもう関わり合いになりたくないのが見え見えな態度で歩み去ってゆく。
「あっ、タグっち」
射美がそいつを見て声を上げた。
「うぅ……ぅ……」
青年は呻きながら篤たちのほうを見た。
射美、攻牙、篤の順に視線を巡らせる。
三人もまた、なんとも形容のしようがない視線で青年を見返す。
しばしの沈黙。
微妙なる沈黙。
痛々しい沈黙。
青年の顔が歪んだ。
「――死にたい! 死のう!」
「あぁ! ダメでごわすよタグっち! まだ何も言ってない! 何も言ってないでごわすよ〜!」
「いいもんいいもん! 言われなくてもわかってるもん! みんなどうせ僕のことをアホで間抜けで空気が読めない天才のイケメンだと思ってるんだ! それほどでもないよ!」
「……あ、あれ? 途中から言ってることが違う……?」
攻牙が頭をかきながら射美を見た。
「あーつまりなんだ? あの生き物はお前の仲間か?」
「ふっふっふ、そーでごわすよ? コードネームはタグトゥマダーク! 愛称はタグっち! めっさぽん強いでごわすよ〜?」
篤にはとてもそうは見えない。
――動作は隙だらけ、殺気も闘志も感じ取れない、体はなよなよしている、しかもタレ目。
タレ目は関係ない。
だが、それでも篤はタグトゥマダークから目を離すことができなかった。
何か――既視感を刺激された。
自分は毎日あの姿を見ていたのではないかという、錯覚。
もちろん錯覚は錯覚だ。あの男には今日はじめて会う。
そのはずだ。
「そのタグトゥマダークが何の用だ」
篤は静かに問いかける。
声に反応し、タグトゥマダークがこっちを見る。
眼が、合う。
なにか濁ったものが流れ込んでくる気がした。
「わくわく☆尋問タイム、はっじまっるよぉー!」
なんかいきなり叫びだした。
タグトゥマダークはずんずんとこちらに向かってくる。
「むっ」
篤は身構える。
タグトゥマダークは明らかに篤ひとりを見据えていた。
「問い1:あなたの名前はなんですか?」
頭にタンポポ咲いていそうな微笑みを浮かべつつ、そんなことを言った。
――問われたならば、応えるか。
第一印象はともかく、礼儀として。
「応えて曰く:諏訪原篤である」
「問い2:そのウサ耳はなんですか?」
「応えて曰く:俺にもわからぬ」
「問い3:心当たりもない?」
「応えて曰く:日ごろの鍛錬の成果だと考えている」
「問い4:どうして世界から争いはなくならないの?」
「応えて曰く:人には平和を求める心が確かにある。未開の時代に比べれば、確実に悲惨な出来事は少なくなった。俺たちはもっとそのことを誇ってよい」
「問い5:愛って何?」
「応えて曰く:この世を形作る引力のようなものだと俺は考える」
「問い6:今日のおパンツ何色?」
「応えて曰く:紺色のトランクスである」
「問い7:まさか答えるとは思わなかったよ」
「応えて曰く:そうか」
「問い8:ていうか黙秘してよ。この世の誰もそんな情報知りたくないよ」
「応えて曰く:そうか」
「問い9:まぁそれはそれとして死ね」
「応えて曰く:受けて立とう」
篤とタグトゥマダークは弾かれたように互いから間合いを取った。
「何なのこいつら!」
攻牙が頭を抱える。
「す、諏訪原センパイはトランクス派でごわすか……フンドシかと思ってたでごわす……」
「お前も何を赤くなってんだ!」
攻牙の叫びを背に、篤は右手を横に突き出した。
見えざる空間に突き込まれ、肘から先が切り落とされたかのように見えなくなっている。
「顎門を開け――『姫川病……!?」
バス停を取り出そうとする腕が、掴まれた。
制服の、袖口あたりを。
「なんていうかさぁ、バカみたいなんだよねぇ」
タグトゥマダークは溜息をついた。
篤の間近であった。息がかかりそうなほどの、至近距離。
瞠目する。
――いつの間に……
「ひゅーん、ばりばりばり〜、どっかーん! やめない? そういうの。カッコよくもなんともないっていうかぁ、ぶっちゃけうっとおしいんだよね」
やれやれ、と。
肩をすくめながら。
「こういうのは華々しかったり派手だったりしちゃダメなんだよ。もっとこう、静かで、惨めで、陰湿であるべきだ」
タグトゥマダークは、相変わらず虫も殺さない笑顔で。
そんな笑顔のままで。
「――殺し合いって、そういうものだろ?」
ささやかな風が吹いた。
髪をわずかに揺らす程度の、どうということもない空気の流れ。
だが――
ずぶり、と、異音。
篤だけが、その音を聴いた。思い知った。
二本の指が、三センチほどの間隔を置いて、篤の喉に突き入れられている。それはまるで、喉仏を掴み取ろうとしているような位置だった。
「いっ」
気道が圧迫される。呼吸不可能。
「簡単だよね。人間はこうすればすぐ死ぬんだ。バス停なんか非効率的だよ」
篤はバス停を引き抜いて振り払おうとしたが、界面下に突っ込んだ腕を掴まれて一切動かせない。
刀に例えるなら、柄頭を押さえられてしまったようなものだ。
「このまま喉を握り潰そうか? それとも窒息するまで待つ? 好きなほうを選びなよ。どうせしゃべれないだろうけど」
視界が黒く塗り潰されてゆく。肺の中に残った空気が、外に出ようと暴れまわる。
――どちらも断る。
篤は自由になっている左手を握り締め、敵の顔面に向けて打ち込んだ。
「ま、そうなるよね」
喉にめり込んでいた指が引き抜かれ、ほぼ同時に篤の拳が受け止められた。
咳き込みながら、その事実を識る。
「左手が自由なら、普通そうするよね。正しい判断だ」
退屈そうに、タグトゥマダークは呟いた。
「――じゃあ死ね」
左腕が、捻られる。
手首、肘、肩の関節が異様な方向へ捩じられ、みしみしと軋んだ。
「んっ」
たまらず、篤はつんのめるように体を曲げ、捩じれを逃がした。
頭が前に出る。
前に出る。
その先には、この世ならざる空間への出入り口がある。
見えないが、確かに存在する。
今しがた自分で開いたものだ。バス停『姫川病院前』を引き抜くために右腕を突っ込み、しかしタグトゥマダークに腕を掴まれて動かせなくなっているため、今も開きっぱなしだ。
次の瞬間、篤の頭部は、異空間へと没入した。させられた。
まるで、水中へ顔を浸したかのように。
視界一面に、混沌とした世界が広がった。無数の色彩が乱舞する万華鏡のごとき眺めだ。
無限の広がりを持つ空間に、さまざまな色や形が見え隠れしている。
それらは時に炎のようであり、時に水の流れのようであり、時に散りばめられた星屑のようでもあった。魚のような蒼い煌めきが群れを作って泳いだかと思えば、捻じくれた樹上組織が早回しで形作られ、その背景には山のような巨大な影が一瞬現れてはすぐに消えた。紫の炎が海草のように揺らめき、蛍光色の花火が乱れ飛んで次々と散華していた。
視覚化された〈BUS〉の流動。
バス停使いたちによって「界面下」と名づけられたこの空間は、通常の世界とは少しずれた位相に存在し、基本的に交わることはない。そこでは、すべてのバス停がエネルギーの波となって溶け合い、あらゆる場所に遍在している。熱と光のコーラスを奏でている。
物質世界に存在するバス停などは、この奔放な本質のごく一部の側面が現出しているに過ぎないのだ。
だが、篤はこの雄大な無秩序をゆっくり鑑賞する暇などなかった。
体が、動かない。
界面下空間の外で、右腕を掴まれ、左腕を捩じ上げられている。
「虚停流外殺――」
くぐもった声が、かすかに聞こえてくる。タグトゥマダークの声が、その振動が、篤の体を伝って耳まで届いたのだ。
「――〈次元断頭〉」
何をするつもりなのかは、なんとなく、わかった。
恐らくは――次元の出入り口を何らかの方法で閉じるつもりなのだ。
二つの世界に分かたれた頭と体は、これ以上ないほどきれいな断面を残して切断されることだろう。
篤は、敵の冷徹な戦闘感覚に皮膚を粟立たせた。
――恐るべき、技だ。
しかも技名を言い終わったということは、もうこの瞬間にでも界面は閉じられるということだ。
――実に、恐るべき、技だ。
それが不可能であるという点を除けば、である。
「――前』!」
篤は、叫んだ。それだけを聞いたらまるきり意味不明の言葉を。
瞬間、周囲の光彩が篤のそばへと集まり、収束し、バス停『姫川病院前』を形作った。
ただし、それは篤の手元にではない。
足元に出現したのだ。
腕を捩じられ、無理やり界面下へ顔を突っ込まされると同時に、篤は自分の足元にも異空間への出入り口を開いていたのだ。
左足を界面下へ突き入れ、出現した『姫川病院前』に引っ掛けると、前方に思い切り蹴り飛ばした。
物質界に吹っ飛ばされたバス停は、篤の体を天秤のように支えていた右足に当たって回転する運動を与えられ、タグトゥマダークの足元を薙ぎ払った。
「おっと」
篤の両腕に絡み付いていた拘束が解ける。
即座に頭と右手を界面下から引き抜き、敵へと向き直った。
タグトゥマダークは不審そうな顔でそこに立っていた。やや離れた間合いだ。
とっさにバック宙返りを決めて、足元への攻撃は回避したようだ。呆れた反射神経である。
「妙だね……どう考えても君の召喚文句が終わる前に、僕の〈次元断頭〉は完成していたはずだ」
「注意力の問題だな。解説などする気はない」
篤は足元の『姫川病院前』を蹴り上げた。空中で掴み取り、構える。
「さぁ、貴君もバス停を抜かれよ」
「ふぅん……」
タグトゥマダークは、バス停を召喚するそぶりも見せず、しげしげと篤を見ている。
「めずらしい扱い方をするね、キミ。普通、バス停使いって想定外の逆境には弱かったりするものなんだけどな。なまじ強すぎるから、苦戦という経験が不足しがちなんだね」
「……何が言いたい?」
「キミはそうじゃないってことさ。両手が使えないから、じゃあ足で――って、言葉にすれば簡単だけどさ、普通そんなことをあの一瞬では思いつかないよ。お兄さん感心しちゃったなぁ」
自らの顎に手を当て、不敵な微笑を湛えながら、
「ちょっと、苦手なタイプかもしれないニャン」
「…………」
空気が、なんか、微妙な雰囲気になった。
「ニャ、ニャン!?」
タグトゥマダークは口に手を当ててあたふたしていた。
篤は興味深そうに、己の顎を掴んだ。
――今度は「ニャン」か……
「《ブレーズ・パスカルの使徒》には、珍妙な語尾でしゃべらなければならない掟でもあるのか?」
「か、か、勘違いしニャいでくれ! 僕はこんな語尾ニャんか……あああ! 付けたくニャいのに! 付けたくニャいのに付けてしまうニャンッ!」
タグトゥマダークは、ニット帽に包まれた頭を抱えて天を仰いだ。
「タグっち……そんな人だったでごわすか……」
後ろで射美が半眼になって呆れていた。
「ちょっと頭が不自由だけど、優しくてカッコイイ人だと思ってたのに……」
「あああっ! ち、違うニャン! これはおかしいニャン! 僕の意思とは無関係に語尾がついてしまうニャン! っていうかさり気に前半部分ひどいニャン!」
「あー中学生のときこういう奴いたぜ。腕に危険なパワーが宿っているってな設定で授業中によく『ぐぁ…っ! 静まれっ!』とか言い出すんだ」
攻牙が耳の穴をほじりながらどーでもよさそうに言った。
「いくら目立ちたいからってそれはねえよ。みんなドン引きだったぜ」
「設定とかじゃないニャン! マジで止まらないニャン! あと思春期の想像力をバカにする奴は心が貧しいとお兄さんは思うニャン!」
三人の、そして周囲の通行人の冷めた視線が、タグトゥマダークを追い立てた。
「うっ、ううっ」
その顔が引き歪む。
「うにゃあぁぁぁぁぁんッ!」
泣きながら走り去っていった。
ナイーヴにもほどがあった。
●
――どこまでも、まっすぐな眼をしていたな。
タグトゥマダークは、泣きながら朱鷺沢町を駆け抜ける。
――諏訪原篤。一切の迷いもない信念に寄り添う、この上なく安定した佇まい。
泣きながら、駆け抜ける。心はズタボロに揺れ動く。
だが、その根底には、鏡面のようにさざ波一つない場所がある。
タグトゥマダークは、そこで思考する。
――諏訪原篤。直接相対してはじめてわかる、その存在の堅牢さ。
冷酷に、思考する。泣きながら、思考する。
――死に囚われているがために成立しうる魂。
泣きべそをかき、同時に心の根底で嗤う。
――僕とおんなじだ。そして、僕とは全然違う。
大声で咽びつつ、泣き叫びつつ、必死に走りつつ、タグトゥマダークは嗤う。
魂で、嗤う。
やがて、敷地面積だけは立派なボロ借家に帰り着いた。
すぐさま妹の部屋につづく襖をズガンと開ける。
そこでは、切りそろえた髪型の小さな女の子が、机に向かって勉強していた。
ゆっくりと椅子が回り、高級ピアノのような輝きをもつ瞳が、こちらを向く。
「うにゃあああぁぁぁぁん! 夢月ちゃあああぁぁぁぁぁん!」
タグトゥマダークは咽びながら自らの妹に泣きついた。
「あらあら、どこの不潔な変質者が入ってきたかと思ったらお兄さまではありませんか。どうかなさいましたか? またディルギスダークさまに苛められましたか? 後で文句を言っておかなければなりませんね。『手ぬる過ぎます。やる気あるんですか?』って」
相変わらずひどいことを言う。
しかし言葉とは裏腹に、突然乱入してきた自分をちゃんと受け止めてそっと撫でてくれるので、本当は優しい子なんだなぁ、こんな可愛い妹がいて僕は幸せだなぁ、と思う。
彼女は、赤い着物を着ている。今時珍しいことこの上ないが、夢月の普段着は着物である。そしてそんなチョイスが恐ろしく良く似合う容姿をしていた。
「それで? どうなさったんです? その頭の肉ヒダはなんですの?」
――肉ヒダって……
いやまぁそうなんだけど。
「あのね、あのね、僕ね、朝起きたらネコ耳が生えてたんだニャン」
「……」
夢月の表情が、急激に冷めてゆく。
「そんでね、そんでね、さっき諏訪原篤をブッ殺しに行ったらね、なんかね、語尾まで変になっちゃったんだニャン」
夢月は無言でタグトゥマダークに背を向ける。
そして机の引き出しに手を入れると、大きなハサミを取り出した。
「切り落としましょう」
「やめてえええぇぇぇぇっ! なんでそうなるニャ!? なんでそうなるニャ!?」
「あら、明白じゃありませんか。その世の中ナメてるとしか思えない軽薄な語尾は、明らかにお兄さまの貧相な頭についている汚らわしい肉ヒダが原因ですわ。ちゃっちゃと切除しちゃいましょう」
「夢月ちゃん! 夢月ちゃん落ち着いて! 落ち着くニャン! 気軽に切除とか切り落とすとか言わないでニャン! 怖いニャン!」
夢月はかすかにため息をついた。
「……わかりました。お兄さまの気持ちも考えず過激な言動に走ってしまいましたわ。反省します」
「う、うん! うん!」
「去勢しましょう」
「言い方の問題じゃニャいんだよ!? しかもさらにひどい言い方だニャン! 最悪のチョイスだニャン!」
重くため息をつく夢月。憂いを秘めた白皙の美貌が、遠くを見る。
「……どうしましょう。どこに埋めましょう」
「夢月ちゃん何を言ってるニャ!?」
「いえ、あまりにわがままでヘタレな身内を持ってしまった我が身を哀れんでちょっとした非合法的計画が頭をよぎっただけですわ。お兄さまにはまったく関係のない事柄ですの」
「明らかに僕に関係あるよね! むしろ僕は中心人物だよねその計画! やめて! 僕そこまでひどいこと言ってないニャン!」
「どうせこんなド田舎ですから天狗の仕業にでもしてしまえば万事解決ですわ」
「とんでもない偏見だニャン!」
その後、わりかしシャレにならない言葉責めを二、三回応酬させたのち、夢月はタグトゥマダークのネコ耳をいじりながら言った。
「ヴェステルダークさまに相談してみましょう」
「え!? あ、うん……えっと……え? なんでだニャ?」
「あの方は最強を誇る《王》の一人。〈BUS〉の特殊な作用については知悉しておられますわ。きっと良い知恵を貸してくださるはず」
「この耳と語尾は〈BUS〉の影響なのかニャ?」
「それ以外になにかありまして?」
「ふむーん」
というわけで、夢月の部屋を出る。
タグトゥマダーク一人で。
ついて来てはくれないのである。
「冷たいニャ〜ン……」
夢月はあまり自分の部屋から出てこない。そういうところは奥ゆかしくて超かわいいと思うが、兄の一大事の時ぐらい付き添ってくれてもいいと思う。
「ニャ?」
ふと、自分がハサミを持っていることに気づく。
夢月がネコ耳を切除しようと取り出したハサミだ。
「なんで僕が持ってるんだニャ?」
よくわからなかったが、多分無意識のうちに奪い取っていたのだろう。
夢月に持たせておくとなんか怖いし。
タグトゥマダークはハサミをとりあえずポケットに突っ込むと、ボロ借家の中心部に位置する居間へと足を運んだ。ヴェステルダークは普段そこで仕事をしている。
「……差し入れでも用意するかニャン」
途中で思い直し、台所へと立ち寄ることにした。
●
「ブリリアント☆おやつタイム、はっじまっるニャ〜ン!」
緑茶と大福をお盆に載せて、タグトゥマダークは居間に入っていった。
……とりあえず、ご機嫌を取っておけば相談しやすくなるかと思ったのであるが、内心ドキドキである。
居間には、ボロっちいちゃぶ台と丸みを帯びたテレビが置かれていた。黒のスーツをきっちりと着こなした男が、ちゃぶ台に肘を突きながら唸っている。
ヴェステルダーク。
この町に滞在する十二傑たちのリーダー。
いつもは自信と機知にあふれた数学教師っぽい風貌だが、今は何やらお疲れのご様子だった。ちゃぶ台の上には、ここ朱鷺沢町と近郊の地図が広げられており、縦横に赤い線が書き込まれている。その周りには、何らかのデータと計算式が書き込まれたノートが数冊ほど散乱していた。
ヴェステルダークは一瞬こちらに視線をめぐらせたのち、特に何事もなかったかのよう眼を戻した。
「《楔》が、見つからないのかもな……」
――うわノーリアクションだよこの人!
明らかにネコ耳も見えていたはずなのに。
なんか、人間としての格の違いを感じる。
「お、お疲れですニャン? 《楔》の探索はやっぱ難しいですかニャン?」
「〈BUS〉の流れが読めないのかもな。二ヶ月ぶっ続けで地脈を走査したにも関わらず《楔》の位置を特定できないのかもな……」
そして、憂いに満ちた表情で天井を仰ぎ、
「もらうのかもな」
ぽつりとつぶやいた。
「あ、は、はい」
慌てて大福と緑茶をちゃぶ台に並べる。
●
――あらゆるバス停は、その身に漲る〈BUS〉の強さによって、九つの階級に分けられる。
第九級バス停が最弱で、その基準は「コンクリートの壁を一撃で粉々にする程度の力」。
数字が小さくなるほど、その身に漲る〈BUS〉の出力は高くなる。
バス停ごとに固有の性質を持っている場合もあるので一概には言えないが、階級の高いバス停ほど強いのだ。
そして――
「天と地を斬り裂き、歴史を創るほどの力」
そんな冗談のような基準で語られるバス停が存在する。
第一級バス停――通称、《楔》。
最高位の神樹。
ひとつの国が収まるほどの範囲で、〈BUS〉の流動を制御し、管理し、自然や文明の(言い換えればあらゆる熱的活動の)守護者となるバス停。
そういうものが、全国に八柱ほど点在している。
淵停、枢停、殲停、聖停、終停、龍停、極停、皇停。
このうち四つは『神樹災害基金』が保有し、二つは《ブレーズ・パスカルの使徒》が確保、ひとつは所在不明で、最後のひとつはここ朱鷺沢町のどこかにあるという。
――皇停、『禁龍峡』。
ヴェステルダークほか四名の十二傑たちは、この最後のひとつを入手するべく動いているわけだが……
何故か、見つからなかった。
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