「……っ……?」
 藍浬の鳩尾に、射美の拳がめり込んでいた。藍浬はきょとんとした顔のまま、ゆっくりと崩れ落ちる。
「おっとっとぉ」
 射美は藍浬の体を支える。
「ごめんなさいでごわす〜。でも任務でごわす〜。あ、よっこいせっと♪」
 掛け声と同時に藍浬の体を背負った。
「さぁ〜てそれじゃあ……」
 唖然とする周囲の視線を意に介さず、射美は天に向けて手を伸ばした。
接続アクセス! 第七級バス停『夢塵原公園』、使用権限登録者プロヴィデンスユーザーセラキトハートが命ず! 界面下召喚!」
 幾筋もの光が、射美の頭上から降り注ぐ。空中のある一点から漏れ出しているそれらの光は、やがて一つに纏まりながら爆裂した。
 ――顕現する。
 神意の木霊。
 荒ぶる龍をつなぎとめる楔。
 射美の手の中に出現したソレは、荘厳な気配を纏いながら低い唸りを発した。
 全長は二メートル超。片方の先端には丸看板。もう片方には台形のコンクリート塊。始源にして究極のスタイル。青地に白の文字で『夢塵原公園』の文字が、清澄なる燐光を放っていた。
 あまりの神々しい姿に、図書室にいたすべての人間は息をするのもわすれて目を見張っていた。
「すっげー」
「なに、あれ」
「ていうか誰あの子」
「あれだよ、ちょっと前に転校してきた」
「ヒャッハー! 上玉だぜェーッ!」
「こっち向いて〜!」
 声に応え、射美は視線を巡らせると、ニコニコしながら出現したバス停を振り上げた。
「そ〜ぉれ♪」
 軽く振り下ろす。轟音。打ち据えられた床を中心に直径数メートルのクレーターが出現した。砕け散った床の木材が四散して生徒たちを襲う。
 あちこちで「ぎゃあ」「痛ぇ!」「うわらば!」「僕の美しい顔が!」悲鳴が上がった。
「え〜っとぉ、今のはホンキの十分の一でごわす♪ もっと痛い目に遭いたくなかったら地べたに這いつくばって大人しくしてるでごわす♪ 間違ってもケーサツに通報したり、ケータイで誰かに連絡したり、あまつさえ射美のジャマをしたりしないでほしいでごわす♪ そんなことする悪い子はプチッてつぶしちゃうでごわす♪」
 場が凍りついた。
 射美は満面の笑みを残して踵を返すと、そのまま壁から突っ込んできたバスの方へと歩いていった。
 耳が痛くなるほどの沈黙が、辺りを包み込んでいた。射美が瓦礫を踏みつける音だけが続いている。床板を粉砕しながら広がるクレーターは、人間をモザイクが必要な物体へと簡単に変えられることを証明していた。
 ……これ以上ない示威行為だった。
 誰ひとりとして動くことができず、固唾を呑んで射美が去ってゆくのを待つばかり。
 ――そのはずであった。
「おいコラてめえちょっと待てや」
 甲高い声がした。
 小学生みたいな声がした。
「えっと何? 今よく聞こえなかったんだけどよぉ何だって? え?」
 立ち上がった奴がいた。
 睨みつける奴がいた。
「痛い目に遭いたくなかったら? あ? なんか言ったよなその後なんだっけオイ」
 鋼原射美――否、セラキトハートがゆっくりと振り返った。無表情だった。
「あっれれぇ〜? 射美の声が聞こえなかったでごわすかぁ〜?」
 ドブに繁殖する細菌でも見るような眼で、身の程知らずなことを言い出した輩を見下した。
「ミドリゾウリムシと黄色ブドウ球菌くらいの戦力差があることを、今の一発でわからせたつもりだったんでごわすけどぉ〜」
 ――逆にわかんねえよ。
 攻牙はセラキトハートに指を突き付けた。
「お前は次に『おチビちゃんはつぶされちゃいたいんでごわすね?』と言う!」
「おチビちゃんはつぶされちゃいたいんでごわすね? ……ハッ!」
 ――やっべ一度やってみたかったんだこれ!
 地団駄を伴うガッツポーズで大喜びした。
 攻牙が最大の敬意を捧げる偉人(架空)の決め台詞なわけだが、ここでやる意味は特にない。
 しかし予想外にうまくいってしまい、なんとなく調子こいた攻牙はさらにでかい口を叩く。
「くっくっくジャマをするなら痛い目に遭わすだと? ナメてんのかてめえそりゃこっちのセリフだ! 痛い目に遭いたくなかったら霧沙希を置いていけコラ!」
「あらあらおチビちゃんはひょっとして射美をやっつけて霧沙希センパイを取り戻そうなんて身の程知らずなことを考えてるんでごわすかぁ?」
 攻牙はゆったりとした足取りでセラキトハートに歩み寄った。
「考えてるんでごわすよこの野郎っと」
 なんかダルそうに首をコキコキ鳴らすと、人をナメくさった眼でニヤリと嗤った。
「来な一年坊主。もう始まってるぜ」
 あまつさえ揃えた四指をくいくいっと曲げて『さっさとかかってこい』のジェスチャーをする。
 セラキトハートは不審そうにその様子を見ていた。
「な、なんでそんな自信満々なんでごわすか?」
「え? はぁ? 何お前ビビってんの?」
「むきぃー! ちょっとカチンと来たでごわす〜! ……でも射美は相手がお子ちゃまだからと言って油断するような噛ませ犬とは違うでごわす」
 警戒しつつもじりじりと攻牙に近寄った。
 バス停の中ほどを持ち、丸看板の先っちょを軽く突き出す。力はほとんど込めていない。せいぜい尻餅をつかせる程度である。
「それっ♪」
「ぐはァーッ!」
 ……攻牙は盛大にぶっ飛んで壁に激突した。
「って弱ッ!?」
 ずるずると床に崩れ落ちる。
 壊れた人形のように手足を投げ出し、ピクリとも動かなくなる。
「えっと、あの、まさか死んでないでごわすよね……?」
 やや青い顔になるセラキトハート。
 だが――
「へっへっへっへっへ……」
 押し殺した笑いが、攻牙の口から漏れ出た。
「すげーなオイ……昼に喰ったハムサンドとコーヒー牛乳を危うくグラシャラボラスするところだったぜ……」
 ソロモン王七十二柱の魔神が今の状況と何の関係があるのかは大いなる謎であるが、そんなことはともかく攻牙はくわっと顔を上げ、跳ね起きながら横に手を伸ばした。
「そ、それは……!」
 伸ばした手が触れたものの正体に気づいたセラキトハートは、両手で顔面を庇おうとした。しかし背中に藍浬を背負ったままだったことを思い出し、思いっきり顔が青くなった。
「喰らえやオラァッ!」
 セラキトハートに向けて、白い粉煙が凄まじい勢いで噴射された。

 ●

 紳相高校は木造校舎なので、火災に対する備えは万全を期している。校内のいたるところに消火器が設置されているのだ。それは図書室も例外ではない。
「ワザとぶっ飛んで消火器のところへ向かうとは、味なマネをしてくれるでごわす」
 鋼原射美は、白く閉ざされた視界の中で唇を噛んだ。
「っていうかぶっちゃけ危なかったでごわす。間一髪でごわす」
 粉煙は射美のところまでは届いていない。〈BUS〉を巧みに操作し、体表面にエネルギーフィールドを形成したのだ。体の一部にフィールドを張って攻撃に耐えるという程度ならどんなバス停使いも無意識にやっていることだが、それを体全体に隈なく展開させるとなると、なかなかできる芸当ではない。
「でもこんな小細工、射美には通用しないでごわすよー!」
 片手で無造作にバス停を振るう。巻き起こる豪風によって白い粉煙は横一文字に引き裂かれ、そこを中心に掻き消えていった。
 急激に晴れる視界。
「さぁ〜て、おチビちゃん。かーくーごーでーごーわーすー。ちょっと見た目が愛くるしいからってあんまり調子こいてると射美も怒っちゃうでごわすよ〜……って、あれ?」
 そこに攻牙はいなかった。
 左右を見回すも、物陰から恐る恐るこっちを見ている一般生徒たちの姿が見えるだけで、肝心の頬ずりしたくなる小学生ルックが見当たらない。
「ありゃりゃ? ひょっとして逃げちゃったでごわすか?」
 五秒ほど警戒していたが、何の反応もない。
 ――なぁ〜んだ。
 どうやら本当に逃げてしまったようだった。
「射美の買い被りだったでごわすかぁ。やれやれでごわす」
 肩をすくめつつ、壁に大穴を開けたバスへと向かう。
 バス停を軽く振ると、バスのドアが自動的に開き、射美と藍浬を中に迎え入れた。
「霧沙希センパ〜イ、ここで休んでてくださいでごわす♪」
 気を失ったままの藍浬を座席の一つに寝かせると、自分はドアから出て行って屋根の上に飛び乗った。ただの人間ではありえない跳躍力だった。
「出発進行でごわす♪」
 軽やかに『夢塵原公園』をひと振りすると、バスは崩れかけの壁を吹き飛ばしながら後退しはじめた。頭側を振り回すように方向転換し、爆発的に加速。地面に深い溝を刻みながら走り出す。
「気分ソーカイでごわす〜」
 物凄い速度でカッ飛んでゆく紳相高校の景色に目を細めつつ、セラキトハートは鼻歌交じりに携帯を取り出す。青いボタンを引っ張り出した。
「あ、もしもし? タグっちでごわすか〜? バッチリ成功でごわす〜拉致完了でごわす〜」
 ……その瞬間。
 がたん、と。
 物音がした。
「ごわっ!?」
 珍妙な驚きリアクションもそこそこに、セラキトハートは真下を見る。
『どうしたんだい射美ちゃん? 何か問題かい?』
「な、なんかバスの中から物音がしたでごわす」
『霧沙希藍浬が目を覚ましたんじゃないのかい?』
「たぶんそーだと思うんでごわすけど、ちょっと見てみるでごわす」
『あ、ちょっと待っ……』
 携帯を切ると、セラキトハートはバスの屋根のふちに手をかけて、音がしたあたりの窓から中の様子をのぞき込んだ。
 そして、息を詰まらせた。

 ●

 ――かかったなアホめ!
 最初から消火器の白煙に紛れて車内に潜んでいた・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・攻牙は、あらかじめ開けておいた・・・・・・・・・・・窓から両手を突き出した。
 上から窓を覗き込んでくるセラキトハートの両眼に、張り手をかました形だ。
 ちんまい掌には、消火器の粉――リン酸アンモニウムがべったりと付いている。
「ぎゃんっ!」
 いかに言っても不意打ちだったようだ。両眼に白粉をなすりつけられたセラキトハートは、悲鳴をあげて顔を覆った。
 バスが急停止する。
「おい、おい! 霧沙希! 起きろ!」
 座席で気を失っている藍浬の頬を手の甲でぺちぺち叩くが、目を開く気配はない。
「うぅぅぅ……ひどいでごわす……」
 地の底から響く呻きのような声が、車外から漂ってくる。
「射美がせっかくオンビンに済ませようと手加減してあげたのに……」
 攻牙のすぐ横を、鋭い閃光が走り抜けたと思った瞬間、バスの先頭部分が一瞬で斬り飛ばされた。
 断面から突風が吹きこんでくる。
「も〜許さないでごわす……つぶしちゃうでごわす〜!」
「ちっ! もう動けるのかよ……!」
 攻牙としては、さっきの眼潰しで数分は時間が稼げると思っていたのだが、あてが外れた。とっさに目を閉じていたのか――あるいは図書室での消火器噴射を防いだ力の応用で、粉を弾き飛ばしたのかもしれない。敵のスペックがわからない以上、そのあたりは想像するしかない。
 足音がする。ゆっくりとした足音が。
 断面の端から、セラキトハートが姿を現す。
 眼が、禍々しい血の色に染まっていた(要するに涙目)。
「めっさぽん痛いでごわす〜! 仕返しでごわす〜!」
 車内に足をかけ、バス停を振りかぶりながら、セラキトハートはこっちに踏み込んできた。
「くおぉっ!」
「ごわっ!?」
 攻牙が思いっきり横のシートベルトを引っ張ると同時に、バス停の柄が唸りをあげて脇腹を打ち据えた。
 ちっこい体は真横に吹っ飛び、ガラス窓を突き破って宙を舞った。
 たっぷり五メートルは滞空したのち、地面に叩きつけられ、二回転半ほどでんぐり返った末にようやく止まる。
「うぬぬぅ〜どこまでもコシャクなマネを〜……!」
 セラキトハートは脚に絡みつくネクタイを引き剥がした。攻牙はあらかじめ自分のネクタイを両側の座席のシートベルトと結びつけ、足を引っかける罠を作っていたのだ。
 おかげで踏み込みの脚が取られ、攻撃の威力が五割減である。
 しかし――
 攻牙は腹の中で暴れまわる衝撃を抱えながら呻いていた。
 威力半減だろうがなんだろうが、これは滅茶苦茶効いた。
 ガラスを突き破ったときにあちこち切り傷ができていたが、そんなものがどうでもよくなるくらいに効いた。
「コザカしいってこういうときに使う言葉なんでごわすね……むきぃーっ!」
 ――うるせえよ。
 地面に降り立って地団駄を踏んでいるセラキトハートを横目に、攻牙はしばらく耐えていたが、やがて限界が訪れた。
「「うぐっ!?」」
 二人同時に嗚咽。
 そして、
「「ごふぇぇぇぇぇッ!!」」

 グラシャラボラス:
 ソロモン王が従えたとされる七十二柱の魔神のひとつ。翼の生えた犬のような姿をしており、常に血に飢えている。人間を透明にしたり、仲違えや仲直りをさせる力を持つ。三十六の軍団を率いる虐殺者。

 見るも無残な光景がそこにはあった。
 攻牙とセラキトハートは地面にうずくまり、痙攣している。
「けほっ! けほっ!」
 セラキトハートは咳き込んでいる。
「げぼっ! がほっ!」
 攻牙はえずいている。
 詳細な描写は省くが、ハムサンドとコーヒー牛乳がラッピングされ店頭に並ぶまでに携わった様々な人々の思いはこの瞬間グランドにブチ撒けられ水泡に帰したとだけ記しておこう。
 無念なるかな、養豚場で生を受けたトムとマット。彼らのタンパク質は不毛なる校庭に散布され、新たな命を育むことは恐らくない。
「あぁ……畜生……効いた、ぜ……おい……」
 呻きながら、震えながら、攻牙は身を起こす。
 体に、力が入らない。それほどまでにさっきの一撃は凄まじかった。
 ――篤の野郎は、こんなとんでもない奴らと戦ってたんだなぁ……
 不良に絡まれてる奴を助けようとして逆にあっさりボコられるという経験には事欠かない攻牙だが、これほど重い打撃を受けたことはない。
「うぃ〜、またやっちゃったでごわすぅ〜」
 手の甲で乱暴に口元を拭きながら、セラキトハートが起き上がるのが見えた。
 そしてこちらの方を見て、にひひと笑う。
「痛いでごわすか? 苦しいでごわすか? 思い知ったでごわすか? ケホケホ」
 闘志が急速に萎えてゆく。
 ――いやいや、もう無理だろ。
 ――意味不明な超常能力を持つ謎組織の謎エージェント相手にここまで粘ったんだからボクはもう評価されるべき。
 ――なんか哀れっぽい声で命乞いすれば多分許して貰えるんじゃねーかな。こいつアホそうだし。うん、それが一番いい。そうしよう。
 などと理性的に主張してくる自らの怯懦を抑えつけ、
「……関係ねえな」
 右足を踏み出し、立ちあがろうとする。
 そのさまを見て、セラキトハートは慌てたような声を上げる。
「えっ、ちょっ、まだやるつもりなんでごわすか!? いや〜、射美は寝てたほうがいいと思うでごわすよ〜?」
「関係ねえよ!」
 勢いをつけ、左足も地面を踏ませる。体がぐらりと傾ぐが、どうにか踏みとどまる。
「ど、どーしてそこまでするんでごわすかー! 霧沙希センパイがそんなに大事なんでごわすか?」
 攻牙は、全身を覆うダルさと吐き気と痛みを吹き飛ばすように、天に向けて吠えた。
「ヒーロー願望ナメんなコラァァーッ!」
「えぇ〜!?」
「ボクはなぁ! 人助けがしたいとか世界を平和にしたいとか大切な誰かを命をかけて守りたいとかそんな動機は持ってねえぇぇぇぇぇぇぇんだよ! てめーの命が一番大事だコラァァァァァァッ!」
「なんかぶっちゃけだした!?」
「だけどなぁ! 野郎として生まれたからにはなりてーじゃんか! ヒーロー! 主人公! 英雄! ボクは図体がチビだからよー! ケンカじゃ誰にも勝てねーよ! 勝てたためしがねーよ! でもあきらめたくないじゃん! 体が強くなれねえからって心まで弱くなきゃならねえなんて認めたくねえじゃん!」
 鼻息も荒くそう叫ぶ。
 ――ヒーロー願望。
 それは薄っぺらな虚栄心。
 だがそれゆえに――
「ヒーローは見捨てない! ヒーローはあきらめない! ヒーローは現実に屈しない! だったらボクもそうするぞ! そうするかぎりヒーローへの道は閉ざされねえ! それだけだ! 男が立ち上がるのに見栄と意地以外の理由なんか必要ねえぇぇぇぇぇぇッ!」
 それゆえに、何よりも純真。
「うぅぅ……」
 セラキトハートが呻きながら後ずさる。
「来やがれごわす女! てめーの悪行はこの嶄廷寺攻牙がブッ潰す!」
 全力で吠える。
「し、知らないでごわす! どーしてもジャマする気なら、ええと、その……い、命の保障はしないでごわすよ〜!」
 敵がバス停を構えた。
 ――しかしまぁ、実際問題どうするよ。
 攻牙は身構えつつ思考を巡らせる。啖呵を切っている間も、この遮蔽物のないグランドでいかにして奴と渡り合うかを考えていた。結果、五つほど策めいたものは浮かんできたが、そのいずれも分の悪い読み合いを何度か切り抜けなければならない。
「……関係ねえ!」
 できるかどうかじゃない、やるかどうかだ。最悪、隙を突いて喉笛に噛み付いてやる。
 決意を固め、四肢に力を込めたその瞬間――
「うぅっ!?」
 セラキトハートの体を、漆黒の魔風が吹き抜けた。
 そんな錯覚をしてしまうほどに邪な気配を纏う人影が、彼女のすぐそばを駆け抜けて行ったのだ。
「あ、やんっ!」
 彼女は悲鳴を上げて自分の体を抱きしめた。
「――この身は瘴気。あらゆる防備を嘲笑う疫風……」
 セラキトハートの背後で、優雅なテノールが奏でられる。それは不純な興奮によって上擦っていた。なんかもうグヘグヘとか笑い出しそうなくらいに。
「ふ……今の一瞬で、君の体のあらゆる突起物けいらくひこうを触れるか触れないかという絶妙かついやらしい力加減で突いた……君はもう、お嫁にいけない」
「な、何者でごわすかぁーッ!」
 なんか涙目なセラキトハートが振り返る。
 そこにいたのは制服を着た長身の少年。スマートな佇まい。美麗な微笑みを浮かべる顔。しかしその目元は緑がかった漆黒の髪によって隠されていた。
 鉤状に曲げた指を拡げ、さらに顔を隠す。しかし邪に歪む口の端は隠しきれず、ぬらりとした舌が踊って言葉を紡ぎ出す。
「闇灯謦司郎、変態さ」
 うん、バーロー。
「う、ううぅぅぅ……!」
 セラキトハートは再び呻きながら後ずさる。
 行いはどうあれ、驚愕すべき身体能力であった。やや離れて見ていた攻牙にすら、謦司郎がどこから現れて具体的にナニをしたのか見えなかったのだ。理不尽すぎる。
「……っていうかセクハラやってる暇があったらバス停とか奪えよ!」
「残念、僕は女性の恋心より重いものは持てないんだ」
「何言ってんのお前!?」
「おっ、主賓が来たみたいだ」
 次の瞬間、謦司郎はその姿を消した。現れたときと同じく、動作はほとんど見えない。
 そして――

「攻牙よ、お前の決意は聞かせてもらった。俺はお前のことを侮っていたようだ」

 グランドに、朗々とした声が響き渡る。
「うぅっ!? その声は……!」
 セラキトハートのバスが巻き上げた砂煙――その向こうに、人影が浮かび上がる。
「へっ! 遅ぇんだよこの野郎……」
 攻牙が口の端を吊り上げた。会心の笑みだった。
「そんな! どーしてここにいるんでごわすか!?」
 今までで一番動揺しているセラキトハート。
 人影は、腕を天に向けて伸ばし、高らかにその名を叫んだ。
「顎門を開け――『姫川病院前』!」
 突風を伴い、蒼い稲妻が荒れ狂った。砂塵は一瞬にして払拭され、一人の少年の姿が現れる。
 普段は眠そうなその目が、今は研ぎ澄まされた光を湛えている。
 ――それはひと振りの魂を鍛え上げる決意の焔。
「鋼原射美よ。いろいろと有為曲折はあったが、今こそお前との宿命に決着をつけるとしよう」
 ヴン、と『姫川病院』を打ち振るい、強壮な風を引き起こす。
 ――あらゆる情念を越えた地平から撃ち放たれる、純然たる戦意。
「あわわわわ、ヤバいでごわす〜! こんなはずじゃあ……」
 四指を噛むセラキトハートをよそに、彼はどっしりと腰を落としてバス停を構えた。
 ――動かされることを拒否する佇まい。不撓にして不屈の不動。
 かくあれかしと。
 彼は自らに課する。
 その名は。

「我流、諏訪原篤。推して参る――!」

 地面を蹴り砕き、肉薄。
 逆持ちの握りから、全身をひねって横薙ぎの一撃を繰り出す。
「せいッ!」
「きゃんっ!」
 激突。伴って閃光と爆裂。
 衝撃が拡散し、突風となって周囲を荒れ狂う。
 セラキトハートは『夢塵原公園』で防御した姿勢のまま、十数メートルを吹き飛んだ。
 戦いが、はじまった。

 ●

「やー、手ひどくやられたねえ」
 二人のバス停使いの超絶的な戦いを眺める攻牙を、背後から優雅なテノールが労わった。
「謦司郎! てんめえ……やけに遅いじゃねえかよ!」
 攻牙はガバッと振り返り、肩を怒らせる。
「いやいや、そう言わないでくれよ。僕は長距離走は苦手なんだ。もうヘトヘトさ」
 セリフのわりに息ひとつ乱していないのがなんかムカつく。
 ……すべては攻牙の考えである。
 図書室でセラキトハートにバス停の力を見せ付けられた瞬間から、攻牙は思った。
 ――こりゃやべえ。
 衝撃を受けた。こいつ強すぎる。
 今の・・今の自分ではこいつを止められず、霧沙希は拉致されてしまう。こいつはいわゆる「イベント戦闘」だ。物語の序盤で敵の強大さを表現するために仕込まれる、絶対勝てない戦闘なのだ。そうに違いない。いずれ自分自身も数々の強化イベントを経てハイパーな戦闘能力を獲得してやるつもりではあるが、今は勝てない。
 冷静に(?)そう認めた攻牙は、裏山にいるであろう篤にメールして呼び戻すことを考える。
 ポケットから携帯に手をかけた瞬間、はたと思いだす。
 そういえば篤は携帯を持っていなかった。
 ――あんのアナログ野郎が……!
 そこで次善の手として、謦司郎をパシらせることにした。
 普段から篤の視界を避けつつ接近するという恐るべき機動力の持ち主であれば、裏山までそう時間はかからないだろうという目論見である。
「あ、そういえば僕も最近携帯をトイレに落としてオシャカにしちゃったから、そこんとこよろしく。ちなみにその日はちょっとお腹の調子が悪くてね……優しいブラウンに染まった僕の愛機は、まるでミルクチョコレートのごとき素朴な美を宿していたよ……」
 おいィィーーッ!
 大声で突っ込みたかったが、セラキトハートの手前、それは自粛する。
 ともかくそういうわけだから、篤とも謦司郎とも連絡できなくなる以上、彼らが戻ってくるまでは是が非でも敵を学校に足止めする必要があったのだ。
 ――死ぬかと思ったが、どーにかなったぜ。
 へへん、と攻牙は上機嫌。
 ――篤、今回はヒーローは譲ってやる。
 そして、叫ぶ。
「だから、勝て! 勝って霧沙希を救え!」
 
 ●

「――ええいっ!」
 おざなりに振るわれるセラキトハートのバス停を、篤は無造作に打ち払った。
 ――これはどうしたことだ?
 相手の攻撃に、気迫がまったく込もっていないのだ。
 それどころか、なにやらひどく動揺している様子である。
「どうした、お前の力を見せてみろ!」
「ふ、ふんだ! いまのうちせいぜい勝ち誇っているがいいでごわす!」
 ――なにやら策はあるようだが、はて?
 そこまで考えて、篤は愕然と顔を強張らせる。
 裏山で彼女を待っていたときに、謦司郎からことのあらましは聞いている。
 ――この一見どこにでもいる娘は、驚愕すべきことに俺を謀り、自分だけ学校に向かって霧沙希を拉致しようとしたのだという。
 篤は苛烈にバス停を振るいながら、唸る。
 ――恐るべき神算鬼謀と言わざるを得まい。人類は、知性を極めることによりこれほどの権謀術数を駆使することができるというのか……人が持つ無限の可能性、その重みを、俺は甘く見すぎていたようだ……
 間違ってもそれほどのものではないのだが、ただひたすらに感心する。
 篤は、ウソが壊滅的にヘタクソだ。支離滅裂というかシュールというか、とにかく脈絡のない妄言を吐き散らして、それで騙し通せると思い込んでいる。本当に騙す気があるのか! とよく霧華や攻牙から突っ込まれるのだが、本人はいたって真面目である。
 だからこそ、他人から騙されると心底から驚嘆してしまうのだ。自分には絶対にできないことだから。
 ――俺の周囲には、なぜこうも天才ばかり集うのだろう。
 お前から見れば誰でも天才だよ! と突っ込んでくれそうな者は、今観戦モードで座っている。
 とにかく、そんな超絶すごい大策士(※篤の主観)であるこの少女が、なにやら奥の手を隠していそうな気配を出しているのだ。最大限に警戒すべきだろう――と、篤は考えた。
 掌に、汗がにじむ。
 ――恐怖、だと……? この俺が……?
 だからそんな大層な奴ではないのだが、焦燥に駆られた篤は逆持ちがもたらす超重量の打撃を立て続けに叩き込み、セラキトハートを押しまくった。


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