「そこにいるのは何者か?」
篤は不意に、鋼原射美から目を外した。
その視線の先には、掃除道具の入ったロッカーがある。
「ほぇ? どーしましたでごわすか?」
「俺たちの決闘領域に、想定外の者が入り込んでいる」
「いや決闘領域って……」
篤は視線を漂わせ、
「ふむ、そこか」
おもむろにロッカーへと歩み寄る。
そして躊躇いもなく扉を開けた。
……開けようとして、奇妙な手ごたえを感じた。まるでロッカーの扉がヒモでつながれているかのような抵抗があった。
篤は構わず腕に力を込め、扉を引き開けた。
ぱら、と、床に何かが落ちた音がする。見ると、制服のボタンが三つ、木目の上でフラフープみたいに踊っていた。
そして、ロッカーの中には、
「こ、こんにちはぁ……」
なんか、いた。いるはずのないものがいた。
あまつさえ困ったような笑顔で小さく手を振りだした。
思わず、まじまじと眺める。
そいつは少し頬を染め、篤から目をそらした。
「あのぅ、諏訪原くん……そんなに見つめないでもらえるとうれしい、かな?」
「…………」
無言で扉を閉める篤。
「ど、どーしたんでごわすか!? 中にいったい何が!?」
「いや、何もいなかった。モップと箒とバケツとチリトリと
「最後のキリサキアイリって何でごわすか!?」
「掃除道具だ」
「それでゴマカしているつもりでごわすかー! 誰か……っていうか霧沙希って人がいるんでごわすね? 今までずっとそこにいたんでごわすね!?」
うっ、と篤は息を詰まらせる。本当にそれでゴマカせると思っていたのだ。
鋼原射美は頭を抱えて宙を仰ぐ。
「うぬぬぅ……! 話をゼンブ聞かれていたでごわすかぁ〜!」
そして突然目を見開き、
「……うぐっ!?」
あわてて口を押さえ――
「ゴふェェッ!!」
いきなり血を吐いた。
「うおぉっ!?」
口を押さえる手の間から、赤い筋が垂れている。
――趣味は吐血とか言ってたけどホントに吐いたよこいつ!
「けほっ、けほっ」
「…………」
しばらく、鋼原射美の咳き込む音だけが教室に響いた。
「ああ、その、大丈夫か?」
篤、呆然としながら聞く。
射美は慌てた様子もなく手の甲でぐしぐしと血を拭い、息をつく。
「うぃ〜、ひさびさにやっちゃったでごわすぅ〜」
ゲロ吐く酔っ払いみたいに言うな。
夕闇忍び寄る教室で、口元を真っ赤に染めた少女が照れ笑いを浮かべている。見る人が見たら、恐怖のあまり全身の穴という穴から変な汁を出して気絶しそうな光景である。
「射美はコーフンするとつい血を吐いちゃう体質なんでごわす♪」
「いやそれどんな体質モガッ!」
「はいはい出歯亀中出歯亀中」
そして忍ばない二人。
なぜ彼女に気付かれないのだろう。不可解というほかない。
「うぅ〜、そんなことより射美は一世一代の告白を他の人に聞かれちゃったことがショックでごわす!」
「あ、こら」
篤が「実はもう二人ばかり隠れて聞いている奴がいるんだぞ」と止める間もなく、射美はずんずんと歩みを進め、血に塗れた手でロッカーに手をかけた。
「文句言ってやるでごわすぅ〜!」
がたん。
開けた。
「…………」
そして固まる。
「あら……?」
ロッカーの中から、ささやくような、典雅な声がした。
篤は目頭を押さえる。
今鋼原が見ているであろう光景が、手に取るようにわかった。
そこには、紳相高校の夏季制服に身を包んだ女子生徒が挟まっていることだろう。
ロッカーというものはそもそも人が入れるようには作られていないので、無理に入り込もうとすれば相応のしっぺ返しが付いてくるのが当然である。
――その女子生徒は、格子のように立つモップと箒によって身動きが取れなくなっているのだ。ロッカーを閉めた際、扉の裏側にあるチリトリを引っ掛ける金具に誤って箒の柄が引っ掛かり、固定されてしまったのである。体を屈めて引っ掛かりを外せば良いのだが、空間的余裕の問題で、屈み込むにはにはロッカーを開けねばならず、開けてしまっては篤と鋼原に気付かれてしまう。それゆえ、彼女は今まで身動き一つできなかったのだろう。
問題点はもうひとつある。
悲劇と言ってもいい。
たぶん、篤がロッカーを開けた時に起きたことだ。
ボタンが外れていた。
薄手のブラウスの第一から第三ボタンが、ちぎれて飛んでいったのだ。
そんでもってなんかこう、世界の半分を占めるある種の人間たちが、なんかある種の憧れというか興奮というか競り上がってくる情熱的なものの混じった視線を注ぐであろうある種の隆起というか膨らみというか白い二つの果実というようなある種神話的な表現をせざるをえないなんかこう、ある種のあれ、あれだよ、ホラあれ! ある種!
普通に言うと胸の谷間がチラリ。
「あわ……あわわ」
射美が目を白黒させている。状況が理解できないのだろう。
というかこの場の誰ひとりとして理解できていない。
「ええと、こんにちは。はじめまして」
あまつさえロッカーの少女はフツーに挨拶してきた。
「あ、は、えと、あぁ、はじめ…まして……?」
混乱中。
約二秒間の自失から立ち直った射美は、ロッカー少女をキッと睨みつけた。
「……じゃなくて! なんでそんなところに!?」
「ごめんなさい。あなたの大事な用事を台無しにしてしまって」
いきなり謝ってきた。
言い訳なり反論なりを予想していたのか、うろたえる射美。
「はぁ、いえ、その、まぁ、なんというか……」
「邪魔するつもりはなかったんだけど、いきなり始まっちゃったから、出るに出られなくて」
「はぁ、いえ、そういうことなら、なんともはや……ごわす」
思い出したように語尾。
「あら」
不意に、ロッカーの中から白い手が伸びてきて射美の頬に触れた。
「はわっ!?」
「血が……大丈夫?」
「いえあのっ、これは……」
「待ってて」
手が一瞬引っ込み、桜柄のハンカチを持って再び伸びてきた。
「あう」
「じっとしてて」
ふきふき。
「どこか怪我でもしたの?」
「いえ、あの、射美はそーいう体質なんでごわす」
「まぁ、大変ね」
驚愕のツッコミポイントをそれだけで終わらせるロッカー少女。
彼女は、名を
篤のクラスメートであり、同級生はおろか上級生にまで「お姉」と呼ばれるほど大人びた物腰の女子高生である。攻牙とは逆ベクトルで有名な人物といえるが、実際のところ容姿そのものは「超・高校生級ッッ!」みたいな隔絶した何かがあるわけではない。その顔容はすっきりと整ってはいたが、幼さも色濃く残っていたし、その頬にいつも湛えられている微笑はどちらかというと無邪気なものを感じさせる。星空を映す夜の湖のような漆黒の髪も、特に手を加えることなく自然に背中まで伸ばされていた。まぁ身体のある一部分の発育だけは、超高校生級と言ってもいい雄大な存在感を誇示していたが、何事にも例外はあるのだ。
彼女、霧沙希藍浬が「お姉」などと呼ばれる由縁は、主にその言動である。
――やはり、彼女は、器がでかい。
と、篤は思う。
普通、口元が血まみれな少女が目の前に現れたら、もう少しあたふたしても良いと思うのだが、彼女は一瞬でその事態を受け入れるのだ。ことによると「一瞬」というタイムラグすらないかもしれない。
浮世のよしなしごとをすべてあるがままに受け入れ、しかも別段無理をしている風には見えない少女。
その心の在り方は、篤にとっては妙にまぶしく映る。
「はい終わり。きれいになったわ」
ロッカーの中へ、手が引っ込んでゆく。
「あ……」
何故か名残惜しそうな声を出す射美。
「う……その、お礼なんて言わないでごわすよ〜!」
射美が慌てたように声を上げ、藍浬の手からハンカチをひったくった。
「で、でも借りっぱなしは気分が悪いのでハンカチは洗濯してきてやるでごわす」
以外に義理堅い性格なのか。
「あら、気にしなくていいのに」
「そーいうわけにはいかないのでごわす!」
「まあ……それじゃあお願いしようかしら、ふふ」
「ふ、ふん、明日持ってきてやるでごわす!」
ハンカチを胸に抱きながら、プイと顔をそむける射美。
「そ、それから! 諏訪原センパイ!」
急にこっちを振り向いた。
「むっ」
鋼原射美は目を細めた。
「どーも出会ったときからお話がかみ合わないと思ってたでごわすが、どーやら射美の正体がバレてたようでごわすね」
え?
「『ドキドキ☆夏の恋仕掛け大作戦〜吐血自重しろエディション〜』で油断したところをドクチャア! って行く予定でごわしたけど、そんな小細工は通用しないようでごわす」
聞いただけで頭が悪くなりそうな作戦名である。
ビシィ! と篤に指を突き付ける。
「ゾンちゃんの仇は、この射美が討つでごわす! 覚悟するでごわすよ〜!」
突き付けたまま走りだし、後ろ手で器用に扉を開け、そのまま廊下へと消えていった。
「ゾンちゃん……だと……?」
聞き覚えのある語感に、なにやら嫌な予感を抱く篤。
その時、廊下から声だけが聞こえてきた。
「いてっ!」
「あうっ」
「気をつけろよオイ前見て走れ!」
攻牙のちまっこい怒鳴り声が響いてくる。
「いてて……う〜ん、ごめんなさいでごわす…………って、あれ?」
「あぁ! やめろ! その眼はやめろ! なんでこんな所に小学生が? とかそんな感じの眼はやめろ!」
「なんでこんな所に小学生が?」
「口に出して言うなァァ!」
廊下で出歯亀っていた攻牙とぶつかったらしいが、なんかもうかなりどーでもいいと思ってる篤だった。
「可愛い娘ね」
背後で霧沙希藍浬の声がした。
「む……」
振り返ると、彼女はロッカーから顔だけ覗かせていた。
どこか、儚い思いを抱かせる微笑みを浮かべている。
「付き合うの?」
小首を傾げると、長い黒髪がさらりと揺れた。
誰と――とは聞くまでもない。
篤は深々と頷く。
「無論だ。彼女の気持ちには答える」
「ふふ、がんばってね」
「あぁ。……ありがとう」
篤は少し気持ちが軽くなり、口元にあるかなしかの笑みを灯す。
どうということのない言葉だが、霧沙希藍浬が言うと不思議に心が洗われる気がする。
「でも意外ね。諏訪原くんも男の子だったんだ」
「霧沙希は今まで俺を女だと思っていたのか」
「ふふ、そうかもね」
なぜかクスクス笑いはじめる。
なんだかよくわからないが、笑っているのでよしとする。
「ところで諏訪原くん」
「何だ」
「出るの、手伝ってくれない?」
●
――甘かった。
鋼原射美は、ひとり難しげな顔をして歩いている。
「うぬぬ、まさか射美のカンッペキな演技が見抜かれようとは……」
カバンをしょって下校中である。
「諏訪原篤……さすがはゾンちゃんを破っただけのことはあるでごわす」
あの眼力はただものではない。
甘ったるいアニメ声とか、なんか頭悪そうに見える容姿とか駆使して相手を骨抜きにし、背後からボコるのが鋼原射美のいつものパターンなわけであるが、世の中にはそーいうのが通用しない相手もいるらしい。
となれば、小細工なんか抜きにして正面からぶつかるか。
《ブレーズ・パスカルの使徒》地方制圧軍十二傑が一人、セラキトハート。
それが射美のコードネームであり、正体である。
まっとうに戦ったって勝てるのだ。
ゾンネルダークを破ったバス停使いがいると聞いたから、ちょっと無理して学校に潜入してみたけれど、実際に会ってみればさほど強力な〈BUS〉感応は感じ取れなかった。
要するに、諏訪原篤はスペックの低さを戦術で補うタイプの使い手なのだろう。
射美にとって、そういう相手は最も戦いやすい。
とはいえ――
「うーむ、とりあえずは報告でごわす」
カバンからストラップがじゃらじゃら付いた携帯を取り出した。
側面のカバーを外し、中の青いボタンをつまんで引っ張り出す。
間違ってボタンを押したりすると携帯が爆発するので、ちょっと緊張する射美であった。
何度かのコールののち、電話がつながった。
「あー、もしもし? タグっちでごわすかぁ〜?」
『ハイパー☆晩飯タイム、はっじまっるよぉー!!』
なんかいきなり叫び出した。
やや甲高い青年の声だった。
「……あぁ、今は躁モードでごわすか」
若干の頭痛を覚える射美。
――タグトゥマダーク。
それが電話の相手のコードネームだった。
『やあ射美ちゃん! いつもいい具合に脳みそ溶けそうなアニメ声だね!』
「ほめてるのかどうかよくわかんないでごわすけど、とりあえずありがとうごわします♪」
『今日の晩御飯は天ぷらスペシャルだヨ! 衣がフニャらないうちに帰っといで?』
「あ、りょーかいでごわす♪」
それは急がねば。
『それで、どうしたのかな! お兄さんに何か相談事かな! 今の僕は可愛い後輩のためなら実の妹を質に入れてもいいと思うくらい慈愛の心に満ち溢れているよ!!』
「ぜんっぜん慈愛にあふれてないでごわすよ♪ むしろ軽く最低でごわすよタグっち♪」
『死のう……』
いきなり沈んだ声でつぶやくタグトゥマダーク。
がさがさと神経質な手つきで周囲をさぐる音が、携帯を通じて聞こえてくる。
「はいはいすとぉ〜っぷ。刃物探すのストップでごわすよタグっち〜? 今のナシナシ。ウソ。ジョーク。ジョークでごわすよ〜?」
いつものことだけど、躁鬱の浮き沈みが激しすぎる。
『……ホント?』
捨てられた子犬みたいな声を出すな。
「ホントでごわすよ〜? 怒ってないでごわすよ〜? 怖くないでごわすよ〜?」
『ふふふ、良かった。ゴメンね、取り乱しちゃって』
「い、いえ、問題ないでごわす……」
内心超メンドくさい人だと思ってる射美であった。
『それで、どうしたのかな?』
「あ、はい。相談事っていうか、報告でごわす」
射美は今日あった悶着について一通りのことを話した。
諏訪原篤に接触したこと。
しかしこちらの演技は完璧に見抜かれていたこと。
あと廊下で小学生みたいな男子生徒を見かけて超カワイかったこと。
あとあと、なぜかロッカーの中に入っていた人に、なんかこう、独特のノリで丸めこまれてしまった感じなこと。
『ほへ〜』
なにやら感心したような声を上げるタグっち。
『すごいなぁ、射美ちゃんは』
「へ?」
『学校に潜入して早々に友達を作るなんてすごいことなんだよこれは! お兄さんの学生時代とは大違いだね! 死にたい! 死のう!』
「そっちでごわすか!」
トラウマスイッチを押してしまったみたいだった。
その後、どうにか言葉を尽くして自殺を思いとどまらせると、タグトゥマダークはため息をつきながら言った。
『で、えーと、つまり? 諏訪原篤は君の「真夏☆恋仕掛け急接近大作戦」を軽やかにスルーする精神と眼力を持ち、かつ《絶楔計画》の存在を知れば確実に邪魔立てをしてくるであろう人物だと、そう言いたいわけだね?』
いきなり冷静な口調。しかし☆のところで変な抑揚をつけているのがなんかムカつく。
「はぁ、えっと、急に話が進んだでごわすね……まぁそーゆーわけだから、普通に戦っていいでごわすか?」
射美の操停術は、絶大な破壊力を誇るものの、静殺傷能力は著しく低い。
超目立つ上に超やかましいので、使ったら即バレるのである。
政府のポートガーディアンたちと正面からぶつかるのは今は避けておきたいので、射美はあらかじめ上司に了解を得ていないと戦闘能力を解放できないのだ。
『ま、そうなるよね。いいよ、ヴェステルダークさんには僕から言っておく。隠蔽工作はまかせといて』
「ありがとうごわします♪ じゃ、切るでごわすよ〜」
『あ、そうそう! ちょっと待って。ヴェステルダークさんがさっき言ってたんだけど、諏訪原篤の抹殺の他にもうひとつ任務が追加されたみたいだよ』
「ヴェっさんが? どんな任務でごわすか?」
『人を一人、拉致ってきてほしいみたい』
「りょーかいでごわすよ。どこの誰でごわすか?」
『霧沙希藍浬だ』
「……へ?」
『霧沙希藍浬』
「…………それって」
『霧沙希藍浬』
「い、いや三回も言わなくていいでごわすよ!」
『あだ名はキリっぽ』
「変な設定付け加えないでほしいでごわす!」
『その様子だと、もう心当たりがあるみたいだね。さすがは射美ちゃんだ。その調子でたのむよ〜?』
「は、はぁ……」
電話を切ってから、射美はぼんやりと空を見上げた。
飴色の空が、どこまでも広がっていた。
スカートのポケットに手を突っ込んで、血まみれのハンカチに触れた。
霧沙希藍浬から預かったハンカチだ。
興奮すると血を吐くというホラーな体質を目の当たりにしても、ふんわり微笑んで口元を綺麗にしてくれたくれた人のものだ。
……ぎゅっと、握りしめた。
「作戦、変更でごわす」
●
「いっ」と、篤が声を上げた。
「せー」と、攻牙がつづけた。
「のー」と、響司郎が繋いだ。
「「「せッ!」」」
三人そろってシメ。
がたん! と音が鳴り、ロッカーの入り口からホウキとモップが外れた。
「ふふ、ありがとうね。三人とも」
中からゆっくりと霧沙希藍浬が抜け出てきた。
「うむ、無事でなによりだ」
篤は重々しく頷いた。
「別に大したことじゃねーよ」
攻牙は何故か目をそらす。
「女性のお役に立つのは男の本懐さ」
謦司郎は篤の後ろでフワサァ……っと前髪をかき上げた。
いや、後ろだから見えないのだが、篤には気配でなんとなくわかるのだ。
恐らく、薔薇などが周囲に舞っているのではないか。
見えないけれど、見えないから余計にそう感じられる。
「うー……んっ」
霧沙希は二の腕を掴んで伸びをした。
しだれ桜のような肢体が、しなやかに解放を謳歌する。
女子としてはやや長身の背中に、光沢を宿した黒髪が柔らかく散らばった。
「……帰ろっか」
こちらを振り返り、ふわりと微笑う。
同時に、千切れたボタンが引き起こす極限の狭間が幕を開け、白く神話的なある種のふくらみが二つ、窮屈そうに互いを押しあっている荘厳な光景が篤たちの視界に入った。
「いや待て霧沙希―!」
攻牙が叫んだ。
「お前ちょっと外に出る前にちょっとお前そのあれだ、ま、前を、前をな、お前、気にしろ、うん、気にしろ」
「え?」
言われて藍浬は自分を見る。
一瞬の沈黙。
「……きゅう」
妙な声をあげて、胸元を抑える藍浬。
「もう、先に言ってよ攻牙くん……」
そして目じりを押さえた。
「ちょっとショック」
謦司郎がやれやれとため息をつく。
「攻牙〜、泣かしちゃだめだよ。もうちょっと空気読むべきだったね」
「ちょ、ちょっと待てよボクが悪いのかよ!」
「キミが何も言わなければ、霧沙希さんは恥ずかしい思いをせずに済んだんだよ! そして僕は豊かな生命の神秘を存分に鑑賞することができたんだよ!」
「本音はそっちかよ!」
「僕が彼女の胸をなめるようにいやらしく上から下から眺めまわしてどこに星マークを付けるべきか慎重に見定めるという高度な思考活動を止める権利が君にあるとでもいうのかい!?」
「あるよ! ありまくるよ! なに本人の前で邪まな欲望をカミングアウトしてんだよ!」
「ち、違う! 僕はエロくない! 変態なだけだ!」
「うるせえよ黙れよ!」
藍浬はうつむきながら蚊の鳴くような声でしゃべる。
「そ、そうだよね。しょうがないことなのね。お、男の子だもんね……」
「おい霧沙希ィィーッ! こいつの妙に堂々とした弁舌に流されるな! 気を強く持て! 変態のたわごとに耳を貸すな!」
誰の前だろうと自分の変態ぶりを隠す気がまったくない謦司郎は、ある意味自らの道に殉ずる忠烈の士とも言える。ような気がする。
とはいえ、いつまでも霧沙希をこのままにしておくわけにもいかない。
篤は自分のカバンに手を突っ込み、中を探る。
中には教科書やノートに紛れて、手紙の入った便箋が二つあった。
……二つ……?
ひとつは下駄箱の中にあった桜柄の手紙だが、はて、もうひとつは……?
とてつもなく不可解だったが、今探しているのはそんなものではない。
さらにカバンを探り、ついに目的のもの見つけた。
「おい、霧沙希」
「え?」
しゅるりと衣擦れの音がして、霧沙希藍浬の首に何かが巻き付いた。
それは紳相高校制式のネクタイだった。
篤は無言でウィンザーノットの形に結びつける。
「うむ、これでよし」
作法に則ってきっちりと結ばれたネクタイは、うまい具合に霧沙希の胸元を隠していた。
謦司郎が愕然とした声を上げる。
「あぁ、篤、なんてことを……霧沙希藍浬はネクタイを装備した! 防御力が50上がった! エロさが20下がった! 具体的には装備前がR16相当だとしたら、今はR12くらいだ! あくびがでますな」
「お前の脳内ではネクタイどんだけ優秀な防具なんだよ!」
「えっと、ありがとうね、諏訪原くん。助かったわ」
「うむ、後は俺たちが周囲をガードしていれば、帰り路も安全だろう」
「可憐な女性を取り囲む三人の男……ゴクリ」
「息を荒げながら言うな!」
「ふふ、大丈夫よ。そこまでしてもらっちゃ悪いわ。私の家は山奥だし」
霧沙希は自分の席からカバンを掴むと、小走りで引き戸の前に向かった。
振り返ってはにかむような笑みを見せる。
「さすがにちょっと恥ずかしいから、一人で帰ります」
「お、おう、気を付けてな」
「またね〜霧沙希さん」
「さらばだ」
「はい、また明日ね」
つつましやかな足音が、遠ざかっていった。
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