「素晴らしい……」
 広大にして深遠なる蔵書の連なりを眺めながら、彼は口をぽかんと開けていた。何処までも続く、本棚の地平。遠近法の消失点すらも確認できる。
「無限の知識。アカシックレコード。全てを識る図書館……」
 うわごとのようにつぶやきながら、本を一つ引っぱり出す。
 そこには、ある男の生涯の全てが、余さず記されていた。本人の行動や心理のみならず、その日その日に男が認識したもの全てが、克明に描写 されていた。一日分の記録を読むだけでも、膨大な時間がかかる。当然、本の厚みも相当なものになるはずなのだが、どういうわけか実際の厚みは常識の範囲内である。
 夢中でのめり込んだ。文体、描写、技巧、台詞――全てが男の知的好奇心をくすぐった。ここの本は、読む者に合わせて内容を変ずる。どんな平凡な人生の記録であろうとも、人外の筆力で彩 られた一大叙事詩へとその本質を変える。あるいはそれは、読まれるべくして存在する本達の意志なのかもしれない。そして、今も生き続ける者の記録には、常に新たな頁が書き加えられている。ここには全ての知識がある。全人類の人生がある。宇宙の全てが言語に記述し直されている。
 あるいは、彼がこれまで見てきた世界は、コンピューターのモニターに映し出された計算結果 に過ぎず、その本質たるプログラムこそがここの無数の蔵書なのかもしれない。
 誰がここを創ったのか。
 何の目的で創ったのか。
 そんな事には関心がなかった。彼はここに来る事を望んだ。その望みは叶えられた。それだけでよかった。
 貪るように読み続けた。来る日も来る日も読み続けた。
 最初は一日分の記録を読み切るのにも数週間かかっていたが、本に合わせて彼の知性も、その機能を変え始めた。より早く、より深く読みすすめるために。徐々に読む速度は増し、速度が増える速度も増し始めた。
 より早く。より深く。
 読むための脳へと。
 洗練されてゆく。
 ともなって、本の記述もまた変わる。徐々に描写が削られていった。わざわざ文がなくとも、彼の脳が情景を察して再構築してくれる。徐々に台詞が削られていった。わざわざ文がなくとも、記された人生について膨大な知識を得た彼の脳が、台詞に頼らずとも話を理解できるようになったのだ。
 つまりは、それまで本が読者の脳内に世界を構築すべく行っていた様々な作業を、読者の脳自身が肩代わりしはじめたのだ。
 ついには彼は、一日のうちに数日分の記録を読了するに至った。その脳の中では僅かな示唆的な文だけをヒントに、膨大な演算が行われ、記された男が感じた世界を完璧に再現できるまでになっていた。
 読書への特化は止まらない。読書そのものも止まらない。食欲も睡欲も性欲も感じない。体力の衰えもない。読書以外は何もない。だが、読書はある。
 いつしか、彼の脳の演算能力は“ラプラスの魔”とすら言える程にまでなった。もはや世界のどのようなスーパーコンピューターも彼には太刀打ちできなかった。
 そんなある時。
 突如、全てが消滅した。図書館も、本棚も、蔵書も、無限の地平も。
 光はなかった。真空もなかった。
 彼の肉体もなかった。しかし“彼”は確かに在った。
 在って在る者となった。
 彼は――すでに彼とも彼女とも名状し難いその者は――突然の変化に慌てもしなかった。
 ついには達したのだ。洗練化の究極の段階に。
 既に何も教えられずとも全てを構築できるまでに“進化”していた。もはや描写も台詞も説明も必要なくなった。それゆえの消滅。それゆえの虚無。
 何をすべきかはわかっていた。
 ただ、こう言った。
「光、あれ」


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